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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「東国」と「吉備」

2025年04月13日 | 古代史
東国直接統治をもくろんだ倭国王権が諸国としての「近畿王権」に対して一種高圧的に出した詔が以下のものです。

「…皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。…」

 この「詔」については以前判断に苦しんだことがあります。それは「倭国」から「近畿王権」に対してのものなのか、それとも逆に没落した倭国に向かって近畿王権が財産をよこせといっているのかが当時不明だったからです。しかし現在では上に書いたように「倭国王権」から東方進出に伴い直接統治領域へ組み込まれた近畿王権に対して出されたものと理解しています。
 この「皇太子」なる人物への「現爲明神御八嶋國天皇」からの問が「其群臣連及伴造國造所有昔在天皇曰所置『子代入部』皇子等私有『御名入部』皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。猶如古代而置以不。」というものです。つまり現在『子代入部』『御名入部』『屯倉』などがその本来の所有者から離れているものをそのままでいいかという問いかけ、というよりほとんど「返却命令」であると思われますが、これが東国へ進出した時点の「筑紫日本国」の「倭国王」の命令であることを考えると、その返還命令とも言うべき言葉の中に「皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。」というものが含まれていることが注目されます。なぜならこれらは「吉備」勢力の資産であると考えられるからであり、「吉備」が「倭国」の統治範囲ではなく「近畿王権」の統治範囲にあったことを示すものだからです。
(以下は彦人大兄と吉備の関係を示す記事)

「舒明前紀」「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」

(六三〇年)「二年春正月丁卯朔戊寅。立寶皇女爲皇后。后生二男。一女一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子。更名大兄皇子。又『娶吉備國蚊屋釆女生蚊屋皇子。』」

「皇極前紀」「天豐財重日重日此云伊柯之比足姫天皇。渟中倉太珠敷天皇曾孫。押坂彦人大兄皇子孫。茅渟王女也。母曰吉備姫王。」

「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午。葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。
丁亥。吉備嶋皇祖母命薨。」

(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…

 上の推論は別の記事からも言えます。
 上の最後の記事では「大赦」が行われており「諸國流人及獄中囚一皆放捨」と「獄中」の囚人全員の解放を指示していますが、それと同時に「吉備嶋皇祖母處々貸稻」を含む「屯田」が廃止されており、これは「貸稲」つまり貸し付けられた「元本」を(当然「利子」も)「免ずる」としたと見るのが相当であり(「徳政令」と言うべきものとなります)そのような解放されるべき「貸稲」について「詔」の中で特に「吉備嶋姫王」の「貸稲」が挙げられているのは、彼女の「貸稲」が占める量と割合が相当程度多かったことを示すものであり、莫大な資産が形成されていたことを示すものですが、これが近畿王権に流入していたと見られ、これを近畿王権から切り離すことが近畿王権の財政的な基礎を切り崩すことに有効であると考えたからに他ならなく、東国支配の一環として近畿王権の弱体化が必要と倭国王権が考えていたことを示すものです。(ちなみにここでは「吉備嶋姫王」については「皇祖母」とはあるものの「命」という尊称がされていません。彼女に対する敬意が成されていないことととなりますがそれはこの指示を出した人間と彼女の関係が希薄だからだと思われます)
 そもそも「徳政令」は王権交代時にしばしば行われますが、民心の救済と同時に前王権の弱体化を狙ったものでもあります。借りた側は債権放棄により救済されますが、貸した側つまり旧王権側は回収ができずいわば焦げ付いたままになってしまいますから、損益の構造が崩壊してしまいます。
 この「吉備嶋姫王」の「貸稲」を行っていた「處々」の土地とはどこなのでしょうか。この「貸稲」は「吉備嶋皇祖母」つまり「皇極」の母の「吉備姫王」が所有する土地からのものであったものであり、上の「改新の詔」によりこれらの「詔」が本来「東国」に対して出されたという経緯を考えると「吉備」が「東国」の範囲に入っていたことを示すものであり、「吉備嶋皇祖母」という人物についても「東国」つまり「近畿王権」との関係が深かったことを示すものと思われます。
 彼女は「押坂彦人大兄」の息子の嫁であり、彼の『御名部入部』というのが「押坂部」を意味するものであるのは当然であり、それは「刑部」あるいは「忍壁」などと表記されますが『倭名類聚抄』によればそれが地名として濃密に分布しているのは「吉備」地方であるという事実につながります。つまり「皇祖大兄」の「御名部」つまり「御名」を戴いている部民がおそらく最も多数いたのが「吉備」であったことを示すものであり、「皇祖大兄」と「吉備」の関係が深かったことを示すものと思われます。そのことから「吉備」との関係は以前からあったものであり、決して「吉備嶋姫王」の時点からではなかったということがわかります。逆に言うと彼女との婚姻関係もそのような関係があったからこそ実現したとも言えるでしょう。そう考えると、その吉備と関係が深かったと思われる「彦人大兄」が「皇祖」とされているのは、彼が「近畿王権」に関わる人物であり、彼等の「祖」たる人物として彼が存在していたことを示すものです。当然その彼の子とされる「舒明天皇」が「近畿王権」の「王」であるのは当然であり、また「皇極」においても同様のことが言えるわけです。つまり彼等は「倭国王」ではなく、諸国としての「近畿王権」の「王」であったものであり、たまたま「倭国」の東方統治政策の中で「諸国」から「直接統治」される立場に変わる時点での「王」であったものです。当然彼等はいわゆる「天皇家」つまり「倭国王」との関係はかなり薄いものであり、そのため「舒明」「皇極」「斉明」について「大伴」「物部」などが「仕えた」という記録がないのも当然ということとなります。
 既に指摘されているように「大伴」「物部」については、「舒明」「皇極」(「斉明」についても)に「仕えた」という記録がありません。系図でも彼等の代だけがいわば「飛んでいる」状態となっています。
 また同様に既に指摘されていますが、彼等の両親は天皇ではないわけです。当時「父」も「母」も天皇でもなく皇后でもない彼等が天皇にまた皇后になることなどできたはずがないのです。その意味で「異例」と言われるわけですが、それも当然であり、彼等については無理に『書紀』の中に割り込ませたものであり、その意味で「倭国王」の系譜に並ぶことができないのです。そのことが「大伴」などの系図に反映されていない理由と言えます。では彼等は一体誰なのでしょうか。彼等と「吉備」とそして「百済」とはどのような関係にあるのでしょうか。それについては別途考えることとします。
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「天智」と国号変更について(改訂版)

2025年04月13日 | 古代史
以下は以前に書いたものですが、その後の研究の進捗から多少内容が変更されるべき点があり、ここに改訂版を提示します。

「国号変更」について
 朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。 この「国号変更」はこのとき変更したということではなく、それが「新羅」に正式に伝えられたのがこの時点であったと理解すべきこととなりました。なぜなら「国内」及び「唐」に向けては以前にすでに「国号」を「日本」とするという意思表示が成されていたものであり、それが「新羅」に対しては遅れたということではないでしょうか。そして既に指摘したように彼らは「筑紫日本国」とは別に「日本国」を名乗って「唐」には使者を派遣していたものであり、それを「唐」から「倭国」とは「別」という認定をされたという経緯があったことを示しました。ただし彼の朝廷以外にこの時期他に朝廷がなかったのなら、「国号変更」となりますが、他にあったならその朝廷とは並立していたことになり、「創号」となります。
 彼の朝廷(難波日本国)以外にこの時期「朝廷」は当然あったものであり、それは「壬申の乱」の実情がこれに示唆を与えているようです。
 この「壬申」の乱は「東国」の勢力が反乱軍の主体のように言われることがあります。しかし、この反乱に参加した豪族の内訳を見るとそうとも言えないことがわかります。
 この反乱で「近江朝廷」側(つまり「難波日本国」側)についたのは「蘇我」「物部」「大伴」など古代からの氏族が中心となっていますが、反近江朝廷側(つまり「反難波日本国」側)は「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の子供です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃の君」、さらに、吉備太宰という肩書きの「当摩の君」があり、伊勢国司という三宅連、上毛野君、丹比君、対馬国守、難波吉士、出雲臣、三輪君など、九州から瀬戸内、近畿、東国など広範囲に渡っていることがわかります。「宗像」の勢力と「安曇」の勢力が非常に友好的な関係にあるのは周知であり、当然これに「安曇勢力」が加わって、強固なものになったと考えられます。さらにこの勢力に「唐」軍に捕虜となっていた「筑紫の君薩夜麻」が合流したと考えられます。
 「筑紫の君薩夜麻」という人物は、「六六二年」の白村江の戦いで唐軍の捕虜になっていたものが(捕虜になった時点では記載がありません)、六七一年(実は六七〇年)に唐の軍隊の先兵として帰国したのが初出です。「筑紫の君薩夜麻」は数千人に及ぶ唐の軍の「先触れ」として筑紫に帰国してきたのです。そして「壬申の乱」という戦いは彼が帰国していくばくもなく発生することとなるわけですから、彼がこの乱に非常に関係が深いと思われるのは当然であり、「反難波日本国」側の有力人物であったことの証左と考えられます。
 彼が加わった結果としての「反難波日本国」勢力が、特に「西海道」に強い勢力範囲があったわけであり、このような広範囲の勢力をまとめることは短期間でははなはだ困難なことと考えられ、「以前から」これらは「一定の勢力範囲」に所属していたものと推測されるものであり、これは「別の朝廷」の存在が強く示唆されるものです。特に九州は「筑紫」「安曇」「宗像」「大分」等が反近江朝廷側に入っている形となり、これらの中心的位置を占めていたのではないかと思われます。それに関しては「近江朝廷」から派遣された「佐伯連男」と「樟使主磐手」は「筑紫」と「吉備」について以前から「大皇弟」に付き従っていたとされています。

「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。…」

 このようにそもそも西日本は「大皇弟」という人物の勢力範囲であったこととなりますが、そのことと「筑紫君薩夜麻」の勢力範囲が重なっているように見えるのは偶然ではないと思われます。
 これらのことから考えて天智天皇は「国号変更」と言うより「西日本」側の勢力とは「別に」「朝廷」を開き、「日本国」を「創始」した(彼等の意識では「継承」)と考えるべきでしょう、
 『書紀』では「大海人」対「大友」に構図が「矮小化」されていますが、実際は「天智」が独立して「別個の朝廷」を開き、「大友皇子」がそれを継承したものであり、彼と「薩夜麻」の間で行われた列島統治権を巡る戦い、ということであると推測されます。
 「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり高祖の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
 実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」に差し戻されていたものではないでしょうか。
 その後「唐朝」になり「高祖」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、その後「唐使」「高表仁」との「礼」を巡るトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになり、「白雉年間」に派遣された遣唐使時点(後の方)以降「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたもののようです。ただしこの時は「倭国」とは別という認識ではあったものです。
 この件に関しては、「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」は「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の「難波日本国」からの遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです。)、しかも「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは「難波日本国」からの遣唐使について「倭国」とは別の国という認識を持ったために、「倭国」とは別という意味において「日本国」という名称を認めたということと思われます。その結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われることとなります。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われ、これが「難波日本国」としての「天智」の末年まで続いていたと思われるわけです。
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『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

2025年04月06日 | 古代史
 以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」による派遣(外交権を取得したと自負したもの)と、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国として認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。「近畿王権」の当初の意図はあくまでも「倭国」の後継者というものであったものが、「唐」からも「さらには「筑紫」の勢力(これは旧倭国でありその後「筑紫日本国」として存在したと推定)からもそうとは見なされず、「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定し、また「筑紫日本国」からはあくまでも「副都」としての「難波」であるとの認識が継続していたと推定しています。
 その際「冠位制」について「近畿王権」にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令」として制定していたものが「薩夜麻帰国」からの「王権」の移動等により途絶していたものの復活としたものではなかったかという考えと合体し、そうであれば「評」から「郡」への切り替えというものが「制度」の切り替えであり、その「制度」が「近畿王権」の元で行われていたものの復活ではないのかという推論へとつながります。つまり「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至ったものです。
 従来から言われていて、私も同様に考えていましたが、「評制」と「郡制」は「評」と「郡」の名称の違いだけではなく「制度自体」の違いであるのは明白です。しかしではなぜ「郡制」になったのか、なぜ「近畿王権」主体の「新日本国」では「郡制」なのかという問いを持ち得ませんでした。つまり「新日本国」は全くの新しい王権ではなく以前からあったものの再構成であり、復活であったとみれば、「大宝令」「冠位制」「郡制」等の制度は以前の「近畿王権」つまり「難波日本国」の段階ですでに備わっていたものではなかったかという見地にはその時点では到達していなかったものです。

 すでに冠位制で述べたように「大華下」等の冠位制は「筑紫日本国」の制度であり、東国直接統治をもくろんだ段階でその統治範囲に入った近畿王権に対して適用された制度とみたわけですが、行政制度についても同様ではなかったでしょうか。すでに「近畿王権」による「郡制」が彼等の統治範囲に対して施行されていたものであり、そのような中で「倭国」の直接統治範囲に入ったことで「倭国」の行政制度である「評制」が施行されたものであり、さらにその下部の組織として「五十戸制」が施行されたものと思われるわけです。これらの「制度」のうち「評制」は部分的には(点的対象として)すでに施行されていたものであり、淵源は「半島」にあると思われます。ただしその下部組織としての「五十戸制」は「遣隋使」以降「隋」からの情報を元に制定されたものであり、これらが本来の「倭国領域」つまり九州島とその外部の近隣領域に対して施行されていたものであり、これを東国直接支配という段階に至って近畿王権の領域に対して適用したものと推定するわけです。
 ただし、これらは「百済を救う役」と「白村江の戦い」等により「倭国」つまり「筑紫日本国」が「政治的」「軍事的」な空白となって以降「難波日本国」が列島全体の統治を開始した時点「近畿王権」の制度に切り替わったかというとそうではなく、それらが継続していたと考えられるわけです。その意味で「庚午」つまり「六七〇年」に作成されたとされる「庚午年籍」も「郡制」ではなく「評制」の制度の元のものであったと思われます。それはすでに全国的な制度となっていた「評制」についてそれを切り替えるのに要する手続き等が膨大であり、よほど準備を入念に行う必要があったことから先延ばしされていたと思われます。「冠位制」などと違って「宣言」したらそれですむというわけにはいかないものであり、ある意味「物理的」な変更となるものですから、それ相応の「準備」及び「調査」というものが必要であり、必要なシステムと組織を事前に造っておくことが求められていたと思われます。しかしそれが完了する前に「薩夜麻帰国」という一種想定外の事案が発生し、その後旧王権であるところの「筑紫日本国」に列島支配の実態が移ったため、それらが行われないまま八世紀に至ったものと推測します。このあたりの事情に通じるものが『古事記』の「序」です。そこには以下の言葉があります。

「…大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上…」

 この太安万侶の言葉によると「小治田宮」までしか記憶あるいは記録されたものがなくそれ以降の「近畿王権」の王についての記録がないということとなります。上の「序」についてはすでに「天武」ではなく「天智」が王権を奪取する経緯について述べていると考えたわけであり、そうであれば彼に必要なものは「彼以前」の資料であったものであり、それ以降は書かれる必要がなかったということとなります。

「…於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣…」

 そしてこれによればその「推古紀」までの「諸家之所帝紀及本辭」を勘案し「削僞定實」して、「正統」となるべきもの決定してそれを残すという事業を「天智」が行おうとしたがその編纂事業が中断していたというわけであり、それをここに再開したいということを述べているわけです。

 古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
 『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が列島を「筑紫日本国」に代わって全面的に統治する「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。それを「書」として編纂するには彼の記憶を文章に落とし込む必要があります。それは「太安万侶」の以下の文にもあるように「漢字」をいかに駆使して日本語としての文を成立させるかがなかなか困難であったものであり、一通りにできるものではなく時間がかかる事業であったと思われるわけですが、それが事情により中断していたというわけです。

 「…然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改…」

 このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」(つまり「難波日本国」)が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会が失われたという「やむを得ない事情」によるものと思われます。それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。

「…然運移世異 未行其事矣…」

 ここでは「理由」も何も示されず、ただ時が経ち世の中が変わってしまったので「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。
  
 以上のように『古事記』の編纂の途絶と再開という流れはそのまま「郡」やそれを含む制度全体の再開と復活につながるものであり、それらは軌を一にして「新日本王権」の「天智王権」の復活として再現されたものと思われるわけです。
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