古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「此後遂絶」について

2014年10月30日 | 古代史

 「遣隋使と遣唐使」という記事の中で「扶余豊」の本来の来倭の年次がもっと遅かったという可能性について考察しました。それは「裴世清」の来倭とは直接関係しないという立場からの議論でしたが、その中でもこの「扶余豊」の来倭は確かに『書紀』にあるような時期ではなく多分十年程度遅かっただろうという指摘をしました。その補論ともなるものを別の観点から考えて見ます。

 『隋書俀国伝』の末尾に「此後遂絶」という文言があります。(「…其後清遣人謂其王曰:朝命既達,請即戒塗。於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。『此後遂絕』。)ここにいう「絶」とは『隋書』の中でも「通じる」という語と対で使用されている例(「…其後或絕或通…」)があり、明らかに国と国の間の通交に関するものですが、ここではそれが「途絶」したという意味ととられるわけです。しかし、同じ『隋書』の中の「帝紀」部分を見ると「大業六年」(六一〇年)に「倭国」から「朝貢」があったことが記されています。

「六年春正月癸亥朔…己丑,倭國遣使貢方物。」(煬帝紀大業六年記事)

また『書紀』においても「遣隋使」記事があり(以下の記事)普通に考えるとこれは明らかに「矛盾」といえるものです。

「廿二年(六一四年)六月丁卯朔己卯(十三日)。遣犬上君御田鍬。矢田部造闕名。於大唐。」(推古紀)

 これらの記事の存在は「此後遂絶」という表現にはふさわしくないものであり、この「矛盾」については色々議論があります。
 これについては注意すべきことは「遂絶」という表現がされているのは『隋書』では「帝紀」にはなく、全て「列伝(夷蛮伝を含む)」あるいは「志」の部分であると言うことです。
 『隋書』の中には「遂絶」という表現は計17箇所確認できますが、それらは全て「列伝」と「志」の中にあるものであり、「帝紀」にはただの一例も存在しません。
 そもそも「遂絶」という表現は「時」(年月や時間)の移り変わりを含んだ表現であり、歴史の流れの中で記述されるような内容ともいえます。このような表現は「帝紀」には似つかわしくなかったのではないでしょうか。
 「帝紀」は文字通り「帝」の「年紀」であり、「帝」の治世期間の中で起きたことを年次ごとにいわば「羅列」するという体裁ですから、「過去から現在」までと云うような記述の仕方は「列伝」や「夷蛮伝」など個人や国に焦点を当てた記載の中でこそ有効なものであったと思われます。
 また「帝紀」にはその年次に起きたことを書くという記事の性格上朝貢記事が網羅されていたとして不思議はありませんが、「夷蛮伝」における史料内容はその国との関係を記述する上である意味エポックメーキングなものに限られていたともいえるのではないでしょうか。つまり「列伝」は全ての朝貢記事を記載していないという可能性があることとなります。つまり『俀国伝』と「帝紀」のように「夷蛮伝」では「遂絶」と書かれた後の年次の「帝紀」ではまだ朝貢記事があるという様な矛盾が起きることもあり得ることとなるでしょう。たとえばその国(この場合は「俀国」)との関係に大きな変化などがあった時点の記事はあってもそのような「インパクト」がないような場合は記載されていないという可能性もあることとなります。
 「俀国」の場合は「国交」が始められた時点とその後「天子」を標榜して「宣諭」されるという、友好関係が破綻するような事件の後は(その後その関係を回復すべく「倭国」から「朝貢」があったとしても)『結局は』「遂絶」となったというわけであり、そう考えると、「遂絶」という表現はその前にある朝貢記事の後、つまり「時系列」として連続しているというわけではなく、その国との交渉が「最終的には」絶たれたという意味と捉えるべきこととなるでしょう。
 ではこの「最終」とはどの段階のことを言うのでしょうか。「隋末」でしょうか。そう考えるよりは『隋書』編纂時の段階のことと考える方が正しいといえるかも知れません。「此後」という表現には「今に至るまで」という意味が隠されているともいえ、その場合「今」とは『隋書』編纂時点であっただろうと推測されるからです。
 ではその『隋書』の編纂の実年代はいつ頃のことであったのでしょうか。
(以下『隋書』編纂に関する記事)

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武五年,起居舍人令狐棻奏請修五代史。十二月,詔中書令封彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。十五年,又詔左僕射于志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽同修五代史志。凡勒成十志三十卷。顯慶元年五月己卯,太尉長孫無忌等詣朝堂上進,詔藏秘閣。後又編第入隋書,其實別行,亦呼為五代史志。
 天聖二年五月十一日上。御藥供奉藍元用奉傳聖旨,齎禁中隋書一部,付崇文院。至六月五日,勑差官校勘,《時命臣綬、臣提點,右正言、直史館張觀等校勘。觀尋為度支判官,續命黃鑑代之。仍內出版式雕造。》(以上北宋の天聖年間に『隋書』が刊行された際の跋文)

「貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。」(『旧唐書』魏徵伝)

 これらを見ると『隋書』の編纂は難航を極めたらしい事が窺え、「武徳」年間に最初に「隋史」をまとめるよう「詔」が出されてから長年月に渡り完成されず、「皇帝」に上梓されたのは「貞観十年」(六三六年)のこととされています。
 つまり「貞観三年」段階で『隋書』を修めるよう詔がくだったと云うわけでが、それ以前の「武徳五年」段階でも「文帝」の治世期間以外の史料がなかったとあるように、「顔師古」は「隋代」全体の資料を入手することができず、「隋史」をまとめることができなかったとものであり、その後改めて「再度」同様の「詔」が出され、その後「貞観十年」までの間のどこかで完成したものであり、それが「十年正月壬子,徵等詣闕上之。」ということとなったものと思われます。
 つまり「夷蛮伝」を含む「列伝」五十巻はこの段階で皇帝に提出されたものであり、この段階で「夷蛮伝」も既に書かれていたと見られるわけですが、「隋書」という範囲の記事ではあるものの、この「貞観十年」付近までには国交回復が進んでいなかったことの徴証として「此後」という表現が使用されているのではないでしょうか。(続く)


「續守言」「薩弘恪」の来倭の経緯についての私案

2014年10月18日 | 古代史
 既に述べたように「續守言」「薩弘恪」の二人は「百済」で捕虜となったとされていますが、それにしては「郭務宋」達の来倭以降も倭国に留まっている理由が不明と考えたわけです。彼らが「捕虜」であったなら当然解放されて「唐」へ帰還したはずですが、そうはなっていないのは不審と思えるものです。さらに彼らが編纂に関わったという「書紀」において「唐」の二代皇帝「太宗」の「諱」「李世民」の「世」も「民」もその使用が避けられていない事実があり、そのことから彼らは捕虜だったものではなく、「太宗」の存命中に既に倭国へ来ていたものではないかと推定したわけです。
 しかしそう考えた場合彼らはどのような経緯で倭国にやってきたものでしょうか。最も可能性があるのは「高表仁」の来倭(六三二年か)に同行したというものではないでしょうか。

 この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)しかしこの時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明であるわけですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書記(史生)など(状況によっては「軍関係者」も)総勢十数名はいたはずです。「隋代」の「裴世清」の来倭の際にも十数名が来たとされます。

「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)

 しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。
 「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。

 通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
 このときの判官はそれができなかったということになるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。(もっとも当然彼らは「高表仁」の説得を試みたと思われますが、彼は「隋」の高祖下の大臣クラスの地位(尚書左僕射)にあった「高熲」の息子であり、また「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻にしているという血筋の良さからプライドが高かったものと思われ、それを受け入れなかったものと思われます)
 そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたと云うことも考えられるでしょう。
 「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。

 「郭務宋」達は「戦争捕虜」の交換の交渉は行ったものと見られるわけですが、それ以前から倭国にいる「續守言」達については自ら望んで倭国に留まって二十年以上になるわけですから倭国での生活の方が重要となっていたと云うことが考えられ、本人達の意向を踏まえたものと思われます。(というより「續守言」達は結果的に敵国のメンバーの一人となってしまったわけであり、安易に唐へ帰国するとさらに別の責を問われるという可能性もあったでしょう。)彼らが「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなります。
 
 以上かなり恣意的な想定ではありますが、このような想定でもしなければ彼らの動向と「書紀」の「諱」に関する不審を説明できないのではないでしょうか。

「諱字」と「書紀」編纂にあたった「唐人」

2014年10月16日 | 古代史
「森博達氏」の論(森博達「『日本書紀の謎を解く』述作者は誰か」中公新書)によって「書紀」は「唐人」によって一部が書かれていることが明らかとされました。
 いわゆる「α群」とされる「唐人」が関与したと思われる部分は広範囲にわたりますが、「續守言」「薩弘恪」の両名は「音博士」とされ、「漢文」なとの専門家として存在していたと思われ、かれらが最後に名前が出るのが「持統紀」であり、そのためその時点で彼らによって「書紀」の「α群」部分が書かれたという考察がされているわけですが、その「持統紀」も含め「書紀」全体にわたって「太宗」「李世民」の「諱」が全く避けられていないことが知られます。
 三代皇帝「高宗」の時(顕慶二年(六五七))に、それまでの「世民」と連続するもの以外は「諱字」としないとされていたものを、「世」「民」単独でも「諱字」とし「人名」「組織名」等からその使用を避けるようにと云う「詔」が出されたものです。
 そのため「民部省」が「戸部省」へ変更されるなどの他、重臣である「李世勣」が「李勣」とされ(以下の記事)、「裴世清」も「裴清」とされるなど多くの改姓や省略が行われました。

(「舊唐書/本紀第四/高宗 李治 上」より)
「(貞観)二十三年五月己巳,太宗崩。…辛巳,改民部尚書為戶部尚書。」

(「舊唐書/列傳第十七/李勣」より)
「李勣,曹州離狐人也。隋末,徙居滑州之衞南。本姓徐氏,名世勣,永徽中,以犯太宗諱,單名勣焉。」

 他にも「世」が「代」へと云う書き換えや表記変更もあったとされます。(前稿参照)
 しかし「書紀」ではそれが全く避けられていないのです。

 「續守言」「薩弘恪」」の参加したとされる「白村江の戦い」はその「詔」から数年を経ているわけですから、それに参加した唐人(特に彼らは高官であったと思われる)の彼らがそれを知らなかったはずがないと思われます。
 にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる「書紀」で「世・民」という「諱」が避けられていないのはどういうことでしょうか。
 「後漢書」などからの引用や借用部分(既に述べたように引用元には複数の説がありますが)に「世・民」が避けられていないのは「高宗」の通達の時期以前の資料を参照しているからという考え方も不可能ではありませんが、ことはそれだけに留まらず、「書紀」の全体にわたって「世・民」は全く避けられていないのです。
 可能性としては色々考えられるでしょう(無視したのかも知れませんがかなり考えにくいものです)。しかし、「唐人」が編纂に参画していながら「世・民」の諱を避けていないのは大きな疑問です。
 
 ところでこの「唐人」である「續守言」と「薩弘恪」については当初「捕虜」であったとされます。

「(六六三年)二年春二月…是月。佐平福信上送唐俘續守言等。」(天智紀)

 このように「百済」で捕虜になったというわけですが、しかし、彼らがもし捕虜なら「天智紀」に来倭した「郭務宋」達の帰還に同行したはずと思われます。なぜなら彼らの来倭の目的は「和平」を講ずるためであり、戦争状態の終結であったと思われますが、このようなときには「捕虜」の交換がしばしば行われていたからです。
 「隋」と「高句麗」の間に戦いが行われた際は「唐」に代わった直後に捕虜交換が行われていることが「唐」の高祖が「高麗王」に当てた「書」から窺えます。

「(武徳)四年、又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地、五年、賜建武書曰; …但隋氏季年、連兵構難、政戰之所、各失其民。遂使骨肉乖離、室家分析、多歴年歳、怨曠不申。今二國通和、義無阻異、在此所有高麗人等、已令追括、尋即遣送;彼處有此國人者、王可放還、務盡撫育之方、共弘仁恕之道。
於是建武悉捜括華人、以禮賓送、前後至者萬數、高祖大喜。」

 当然「倭国」との間にも戦闘があったのですから、和平協議の際には必ず捕虜交換について話し合われたはずと思われるわけです。もしそうなら「六六五年」以降「唐人捕虜」はその多くが帰国したこととなるでしょう。
 しかし、「續守言。薩弘恪」という二人は帰国しなかったこととなります。そうすると彼らがここで残留した理由が不明となるでしょう。

 そもそも「捕虜」はどこの国でも「」ないしは「官」となるのが通例であり、「良人」として「政権」の中枢に存在していることが異例といえます。

「(持統紀)九月己巳朔壬申。賜音博士大唐續守言。薩弘恪。書博士百濟末士善信銀人廿両。」

 ここでは彼らは「音博士」とされ、「中国文献」の読みなどを官僚に対して指導する役割であったらしいことが知られます。
 彼らは「唐人」捕虜とされる中で唯一氏名が書かれていますから元々高官であったと思われるものの、それでも「戦時捕虜」の対象であることは変わりなく、同様に「」というような扱いであってしかるべきですが、このときは例外的に「良人」として扱われ「官職」を得て政権内部で活動していたものです。
 「百済禰軍」のような例もありますから、この当時忠誠を誓えば「」として扱わない場合もあったとも思われますが、いかにも不自然ではないでしょうか。
 このことは元々彼らが(書紀の記述とは裏腹に)「捕虜」ではなかったという可能性を考えるべきことを示しているようです。
 「世・民」の諱を避けていないことと併せ考えると、彼らはそのような通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられるでしょう。つまり、彼ら唐人は「孝徳」以前から倭国にいたということが想定できます。

 こう考えた場合、「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなりますし、その後の「高宗」の出した「諱字」についての知識がなかったとして当然ということにもなるでしょう。
 では、その場合彼らはいつから「倭国」にいるのでしょうか。
 可能性として最も考えられるのは、彼らが「高表仁」の随員だったという場合です。

「釈奠」と「飛鳥浄御原律令」

2014年10月13日 | 古代史
 「中国」では「釈奠」の際に祭祀を行う対象として「先聖先師」がありましたが、「唐」の時代には初代皇帝「李淵」(高祖)の時は「周公」と「孔子」が選ばれていました。しかし、「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。
これは以下にみるように「隋代」以前の「後斉」と同じであったので「旧に復した」こととなります。

(「隋書/志第四/禮儀四/釋奠」より)
「後齊制,新立學,必釋奠禮先聖先師,每歲春秋二仲,常行其禮。每月旦,祭酒領博士已下及國子諸學生已上,太學 、四門博士升堂,助教已下、 太學諸生階下,『拜孔揖顏。』日出行事而不至者,記之為一負。雨霑服則止。學生每十日給假,皆以丙日放之。『郡學則於坊內立孔顏廟,』博士已下,亦每月朝云。

 これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものでした。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。

(「新唐書/志第五/禮樂五/五禮五/吉禮五/皇后親蠶[底本:北宋嘉祐十四行本]より )
「貞觀二年,左僕射房玄齡、博士朱子奢建言:「周公、尼父俱聖人,然釋奠於學,以夫子也。大業以前,皆孔丘為先聖,顏回為先師。」乃罷周公,升孔子為先聖,以顏回配。」

 それが「永徽律令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなったものです。「高祖」時代への揺り戻しといえます。

(同上)
「永徽中,復以周公為先聖、孔子為先師,顏回、左丘明以降皆從祀。」

 さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが奏上されたものです。ここで再び「太宗」の時代の制度に復したこととなります。

「(同上)
「顯慶二年,太尉長孫无忌等言:「禮:『釋奠于其先師。』若禮有高堂生,樂有制氏,詩有毛公,書有伏生。又禮:『始立學,釋奠于先聖。』鄭氏注:『若周公、孔子也。』故貞觀以夫子為聖,眾儒為先師。且周公作禮樂,當同王者之祀。」乃以周公配武王,而孔子為先聖。」

そしてこれがそれ以降定着したものです。

 ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは「続日本紀」の大宝元年(七〇一)二月です。

「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」

 ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、「養老令」の「学令」をみるとそれがはっきりします。そこでは「大学・国学毎年春秋二仲之月上丁に先聖孔宣父に釈奠す。其の饌酒、明衣須くする所並びに官物を用いよ」と規定されており、明らかに「先聖」が「孔子」「先師」が「顔回」であると見られます。これは上に見るように「顕慶二年」あるいは「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
 また貞観二十一年の「許敬宗」の建議では、「(貞観)学令に大牢を以て祭り楽は軒懸を用い、六悄の舞並びに登歌一節大祭と相遇せば、改めて中丁を用いよ。州県は常に上丁を用い、学(楽ヵ)無し祭は少牢を用う」とあり、「大宝令」の中にあったと思われる「学令」の基本形は唐の「貞観令」にあったという可能性が考えられることとなります。(州県の例に準じたもの)
 その「貞観律令」は「武徳律令」を改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。

(「舊唐書/志第三十/刑法[底本:清懼盈齋刻本]より)
「高祖初起義師於太原,即布大之令。百姓苦隋苛政,競來歸附。旬月之間,遂成帝業。既平京城,約法為十二條。及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。又制五十三條格,務在簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭瑀及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。至武七年五月奏上

 この記述を見ると「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。このことから、「飛鳥浄御原律令」のスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
 またそれは「続日本紀」の「大宝律令」制定記事において「…大略以淨御原朝庭爲准正。…」とあって、上の「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているアナロジーからも窺えるところです。つまり「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。
 しかしなぜ「大宝令」と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。

 この「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(「続日本紀」等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審が感じられます。
 「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後これをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものではないかと思われます。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくい訳です。
 それは「書記」編纂において「隋書」が重視されていること、また「隋」の「文帝」についてその「遺詔」を借用したり、「大興城」への遷都の詔を換骨奪胎するなど(元明紀)重要な意味を持つ皇帝と考えられていたことにつながります。これは何を意味するものでしょうか。

「諱」字と「書紀」の原資料

2014年10月12日 | 古代史
 唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点以降「戸部」と改められたものです。

(「隋書書/志第二十三/百官下/隋」より)
『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。…度支尚書統度支、戸部侍郎各二人,《戸部侍郎「戸部」當作「民部」,唐人諱改。下同。》…』

(「隋書/列傳第十六/長孫覽 從子熾 熾弟晟」より)
「…大業元年,遷大理卿,復為西南道大使,巡省風俗。擢拜戸部尚書。《戸部 據本書煬帝紀上當作「民部」,唐人諱改。》…」

 しかし、我が国では「民部」は「戸部」と変えられることなくそのまま使用され続けました。「民部省」や「民部卿」「民部」という呼称が「書紀」にも「続日本紀」にも出てきます。(「持統紀」「天武紀」「天智紀」等)
 また「養老律令」においても同様に「民部省」等の用例が多数確認できます。

 また、「唐」では「世」の字も「代」に変えられたものです。
 以下の例では「世」がそのまま「世」と表記されていて、それは「諱」を避けて「代」と表記している例と違うというわけであり、それは「唐」以降変えられたものと解釈しているわけです。

(「後漢書/本紀 孝和孝殤帝紀第四/和帝 劉? 紀/永元九年[底本:宋紹興本]
「閏月辛巳,皇太后竇氏崩。丙申,葬章皇后。
燒當羌寇隴西,殺,遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世等討破之。《越騎校尉趙世等討破之 按:集解引錢大說,謂趙憙傳、西羌傳「趙世」並作「趙代」,蓋章懷避唐諱改之,此作「世」,又唐以後人回改。》」

 この「代」と表記するものが「李賢」による注が施された「後漢書」であり、これが「書紀」には引用されていないという訳です。
 そもそも「書紀」には「世」字は頻発しており、枚挙に暇がないほどです。「観世音経」「観世音菩薩」という呼称などの他多数の「世」の例が確認できます。ここでも「世」の字が避けられていないことがわかります。

 つまりこれらのことは「書紀」の編纂において「李賢」が注を施した「後漢書」を見て書いたというわけではないことを示すものであると同時に「書紀」全体を通じて「唐代」の「諱字」は全く避けられていないと云うことを示します
 このようなケースがどのような理由によるか想定すると、「参照」されていたのは「李賢」が「注」を施す以前の「後漢書」か、あるいは「後漢書」によく似た文章を持つ別の「書」(例えば「東観漢紀」など)であったと考えるわけですが、それがどちらであってもそれが「倭国」に伝来したのはかなり早い時期を想定しなければなりません。
 たとえば「范曄」が表した「後漢書」についていえば「隋書経籍志」に既に「後漢書」が含まれており、(当然「李賢」の注が施されたものではない)「書紀」編纂時点で「隋書」を参照していたのは確かですから、その時点で「後漢書」も参照していたと考えても不思議はないわけです。「隋書」伝来時点(これがいつかは不明ですが、「書紀」編纂時点よりは以前であることは間違いありません)で「後漢書」だけは伝来しなかったとも考えにくいものであることは確かです。

(「隋書卷三十三/志第二十八/經籍二《史》」)
「…
『東觀漢記一百四十三卷起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等撰。』
後漢書一百三十卷無帝紀,吳武陵太守謝承撰。
後漢記六十五卷本一百卷,梁有,今殘缺。晉散騎常侍薛瑩撰。
續漢書八十三卷晉祕書監司馬彪撰。
後漢書十七卷本九十七卷,今殘缺。晉少府卿華嶠撰。
後漢書八十五卷本一百二十二卷,晉祠部郎謝沈撰。
後漢南記四十五卷本五十五卷,今殘缺。晉江州從事張瑩撰。
後漢書九十五卷本一百卷,晉祕書監袁山松撰。
後漢書九十七卷宋太子事范曄撰。
『後漢書一百二十五卷范曄本,梁剡令劉昭注。』
後漢書音一卷後魏太常劉芳撰。
范漢音訓三卷陳宗道先生臧競撰。[三]臧競 雲笈七籤五唐茅山昇真王先生傳作「臧矜」。
范漢音三卷蕭該撰。
後漢書讚論四卷范曄撰。
…」

 また「東観漢紀」という史書は「范曄」が「後漢書」を書く段階で参考にしたと見られる書ですから、その「後漢書」が伝来していたなら当然「東観漢紀」も伝来していたと思われることとなります。そしてそれは「李賢」が注を施す「高宗」の代以前のこととならざるを得ません。
 「日本国見在書目録」にも「范曄」の「後漢書」が記されていますから、かなり早い段階で入手していたのは間違いないでしょう。
 これについては「類書」の使用が有力視されており、「後漢書」や「東観漢紀」などから集められた文章で構成された「華林遍略」という類書からの引用が考えられていますが(これも「隋書経籍志」にも「日本国見在書目録」にも記されている書物です)、これとて「南朝「梁」の時代のものであり、その伝来がかなり早かったと想定しなければならないのは同様です。
 「李賢」が注を施した「後漢書」が注目されたのは「開元年間」のこととされていますが、当然「李賢」在命時には重要視されていたものであり(「則天武后」以降無視ないし否定されていたものです)、それが「倭国」に伝来していたとして不思議はないわけですが、実際にはそれは「書紀」の編纂には使用されなかったわけです。
 これは「書紀」編纂に何が使用されたかという問題と共に当時の倭国王権の意識がどこにあるかが問われるべきものと思われます。

 「諱字」が避けられていない史料によって「書紀」を書いたということと、「書紀」編者がそもそも「諱字」を意識していなかったと見られることは「軌を一にする」出来事と考えられるのです。
 依拠した「史書」に「諱字」があった場合、「諱字」の存在を知っていたなら書き換えて当然のはずが、そうしていないのは「諱字」を知らなかったか、あるいは「無視」ないしは情報が「視野に入っていなかった」かではないかと思われます。
 しかし、知らなかったというのは本来は考えにくいわけです。それは「書紀」の編纂に「唐人」が関わっていたと云う説があるからです。(森博達氏の議論)
 彼らは「百済を救う役」の際に「捕虜」となった「唐人」であるとされますが、それは「六六〇年代」のことであり、「顕慶二年」(六五七年)に「世」と「民」を諱字とするという通達が出ているわけですから、「唐人」であれば避けるべき「諱字」が実際には使用されている理由が不明となります。
 つまり「李世民」の「諱字」が避けられていないのは彼の時代以前の史料によって「書紀」が編纂されているからであると考えられることとなるでしょう。つまり「書紀」編纂という事業が「隋書」を見ながら行ったと考えられることと併せ、「唐」と云うより「隋」の影響が非常に大きいと思われることとなります。(唐人とされる彼らについては別に考察します)

 「書紀」を見ると「民部省」の前進というべき役職は「民官」であったことが知られますが、このように「民官」という官職が設置されたのは「中国」の制度にならったものと思われますが、それは当然「唐」ではなく「隋」の影響であることとなります。(「民官」同様多数の「官」用法が「書紀」に書かれています。)
 そう考えると、「民官」の根拠法令である「飛鳥浄御原律令」というものも「隋」の影響を受けたと考えるべきこととなるでしょう。
 ところで、「大宝律令」は「永徽律令」の影響を受けているとされます。そうなると、「飛鳥浄御原律令」は「永徽律令」以前の律令の影響を受けていることとならざるを得ないこととなるでしょう。
 「永徽律令」以前で「隋」の影響ということを考えると、「開皇律令」の影響が考えられます。それを示すのが、「釈奠」についての記事です。