古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「赤色」と「金色」

2017年08月27日 | 古代史
 以前も書きましたが( http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91610d9d8444ca821cd920b25ddcbd55 )、弥生時代の始まりの契機として全地球的気候変動があったこと、それが「シリウス」という太陽系至近の恒星系で起きた突発的事象が関係しているのではないかという考察をしましたが、その時点で紀元前八世紀以前の時代を描写していると思われる「ホメロス」の叙事詩「イリアス」において「シリウス」の色を「赤」と描写している部分を抽出しました。特に日本語訳の以下の部分を挙げて論じたわけですが、その時うかつにも気づかなかったことがあり、それを今日発見したので改めてそこを含めて論じます。それはまた「金光」への改元理由とも関係していると思われるので、それを含んで以下に書きます。

 すでに故人となられましたが、元東京天文台の教授であった「斉藤国治」氏の『星の古記録』という書には、各種の古い記録に「シリウス」についてその色を「赤」と表現する記事があると書かれています。それによれば「紀元前一五〇年頃のエジプトのプトレマイオス(トレミー)は「アルマゲスト」という天文書の中で「赤い星」として、「アルクトゥルス」(うしかい座α星)「アルデバラン」(牡牛座α星)「ポルックス」(双子座α星)「アンタレス」(さそり座α星)「ベテルギウス」(オリオン座α星)という現在でも「赤い星」の代表ともいえるこれらの星の同列のものとして「シリウス」を挙げているのです。
 さらに古文献によれば古代ローマでは炎暑の夏の理由を[太陽とシリウスが同時に出ているためである」として「赤犬」をシリウスに「生贄」として捧げ、暑さへの対応としていたとされますが(「ロビガリア」と称する農業儀式であり紀元前八世紀頃から始まったとされるが、その司祭の言葉として残っているもの)、それは「シリウス」の別名が「赤犬」であったからとされています。そのことは当然「シリウス」の「色」を表しているともいえるものであり、その意味からも「シリウス」は赤かったといえそうです。
 たとえばホメロスの「イリアス」にも「シリウス」についての記載があり、その第五歌では「…この時パラス・アテナは、テュデウスの子ディオメデスに、アカイア全軍中特にめざましい働きを示してその名を挙げさせようと、力と勇気とを授けた。その兜と盾とから炎炎たる火焔を燃え上がらせたが、そのさまは、大洋(オケアノス)に浴みして晩夏の夜空に煌々と輝きわたる星のよう、その星にも似た火焔を頭から肩から燃え上がらせ、大軍の相撃つ戦場の真直中に彼を押しやった。…」(『イリアス』第五歌冒頭)(松平千秋訳『イリアス』一九九二年 岩波文庫91)とありますが、この「晩夏の星」というのが「シリウス」であるとされ、そこでは「火焔」という表現がされていますが、これが「赤色」を示す語であるのは当然といえます。
 ところでこの訳では「夜空」とありますが。これは不審です。(この部分について今回気づいた点です)一見すると「夜空」にシリウスが見えて何ら不思議はないようですが、「シリウス」が「夜空」に見えるのは「冬」に限ることを思い起こせば、この「夏」という表現とは矛盾します。
 「夏」には太陽の方向にシリウスがありますから決して「夜空」に見る事はできません。(歳差によって春分点は移動しその結果季節は変化しますが、その周期は26000年であり、3000年程度では冬と夏が逆転するほどの季節移動はないものと思われます。)この訳は「まさか星が昼間見えるはずがない」という先入観のもとのものと思われ、英訳(Project Gutenburgによる)によって確認してみるとやはり、どこにも「夜空」を示す語は見あたりません。

「BOOK V
The exploits of Diomed, who, though wounded by Pandarus, continues fighting?He kills Pandarus and wounds AEneas?Venus rescues AEneas, but being wounded by Diomed, commits him to the care of Apollo and goes to Olympus, where she is tended by her mother Dione?Mars encourages the Trojans, and AEneas returns to the fight cured of his wound?Minerva and Juno help the Achaeans, and by the advice of the former Diomed wounds Mars, who returns to Olympus to get cured.
Then Pallas Minerva put valour into the heart of Diomed, son of Tydeus, that he might excel all the other Argives, and cover himself with glory. She made a stream of fire flare from his shield and helmet like the star that shines most brilliantly in summer after its bath in the waters of Oceanus - even such a fire did she kindle upon his head and shoulders as she bade him speed into the thickest hurly-burly of the fight. 」
(The Project Gutenberg EBook of The Iliad, by Homer/Translator: Samuel Butler Produced by Jim Tinsley. HTML version by Al Haines.)

 これを見ると「夜」も「空」もありませんから「日本語訳」の際に意訳したものと思われるわけですが、訳者は多分戸惑ったのだと思います。星が昼間見えるはずはないという考えからここに「夜空」という一語を付加したのだと思われますが、「夏」という語が存在する限り「シリウス」は「昼間」出ていると見るしかありません。

 さらに同じく「イリアス」の「第二十二歌」の冒頭では、「収穫時に現れる星の如く、輝きながら走ってくるアキレウスを最初に認めたのは老王プリアモス、その星の光は、丑三つ時の夜空に、群がる星の間でも一際鮮やかに目に立って、世に〈オリオンの犬〉の異名で呼ばれるもの、星の中ではもっとも明るく、また凶兆でもあり、惨めな人間どもに猛暑をもたらす。走るアキレウスの胸の上の青銅の武具がその星の如く輝いた。」とあり、ここでは「凶兆」とあり、「猛暑をもたらす」とされるとともに「青銅の武具」と同じ輝きを示したとされます。「青銅の武具」は決して「青」や「緑」ではなく「強度」を増すために「錫」の配合を減らしていたとすると(槍を跳ね返している事でもそれが相当強度がある事が解ります)、その場合「黄金色」となりますから、それが「シリウス」の色に表現につながっているとするとここでも「シリウス」は「赤かった」という表現とそれほど食い違いはありません。(※1)

 また古代ローマの詩人である「ウェルギリウス」(前七〇年から前十九年)の作である『農耕詩』(第4歌)では「今や天狼星は、乾いたインド人を激しく焦がしながら天空に燃え、炎のような太陽は、軌道の半ばを走り終えていた。草はしおれ、うつろな川は底が乾き、太陽の光線で、泥まで熱くなるほど焼かれていた。」(※3)とあります。
 また同じく「ウェルギリウス」の『アエネーイス』にもシリウスの色について以下の表現が見られます。
 「アエネーアスの頭は天辺が燃え立つ。兜の頂から毛飾りが炎を吹き出し、黄金の盾はあふれる火を吐く。それはまさに、澄み渡る夜空で彗星がのろわしい血の赤に輝くとき、あるいはシリウスの炎熱、あの渇きと病をもたらして死すべき人間を苦しめる星が現れて、不吉な光で天を鬱(ふさ)ぐときのよう。」(※4)
 特にその後半部分では「血の赤」と「シリウス」が対比的に表現されており、ここでも「シリウス」が赤かった事が示唆されています。
 さらに重要なことは、すでに見たようにこのような伝承は「シリウス」が「昼間も見えていた」という事実を示しているということです。
 「シリウス」の「炎熱」という表現や「太陽とシリウスが同時に出ている」という言い方は太陽とシリウスが同時に「見えている」あるいは「シリウス」が昼間も見えているという条件があってこそいえる話でしょう。「出ているはずだ」とか「日の出の時同時に地平線上に現れる」(「ヘリアカルライジング」と称する)というだけではこのような伝承や生贄を捧げる儀式の成立はなかったものと思われるわけです。これが正しければシリウスは相当増光していたものであり、且つその期間もかなり長かったということがいえそうです。

 ところで(一見話は変わるようですが)「金光」という年号についてその改元理由として「天然痘」の流行があり、これは半島との人的物的交流があり、その副産物として列島にもたらされたものと思われますが、それに対して「効能」があると考えられていた『請観音経』も同時に伝来したものであり、その中に「金色の光」が「超常的」光景として描写されています。このような「金色の光」という現象は経典などではそこそこ普遍的ですが、それはそのような超常現象こそが菩薩や如来などの、「宗教的至高の存在」としてのいわば「存在証明」というべきもので、彼らの超越的能力の表象として機能しているといえるのではないかと思われるのです。
 そしてさらにいえばこの「金色」の占める位置には元々「赤色」があったのではないかと思えるのです。「金色」と「赤色」は同系統の色味であり、違いはその「輝き」です。その「輝き」のただならぬないことが当時の(今でも)人々の心を動かしたものと思われるものですが、その出現以前は「赤」やそのための染料が縄文やそれ以降の時代において「呪術」に不可欠のものであったのは周知の通りです。それが何に起因するのかというのは色々理由として説明されていますが、私見では上に見た「シリウス」の色がその一因を成しているのではないかと考えられるのです。「シリウス」の「赤」は農作物の不作をもたらす「凶兆」であり「禍禍しいもの」とされていました。紀元前八世紀付近で特にその輝きを増したと思われる「シリウス」の「赤色」が、当時の世界的気候変動に直結していると見なされたとすれば、「赤色」一般に特別な意味が持たされたと見るのは不自然ではありません。それが「赤色」に対する「超常的」な意味を持たせられるようになった経緯と推察するのです「青銅製品」が重用されたのも、その硬度を上げるために「錫」の配合を減らすと「金色」に近くなることが重要視されたものであり、これは「赤色」の代わりをしていたと見られるのです。このような「青銅」色について「燃えるような赤」という形容がされていたことが上に見る資料からも窺え、古代において「金」と「赤」との間に一種の「互換性」があったように見られるのです。

(※1)ホメロス(松平千秋訳)『イリアス』(一九九二年 岩波文庫)
(※2)(当該部分の英訳)
「BOOK XXII
On this, with fell intent he made towards the city, and as the winning horse in a chariot race strains every nerve when he is flying over the plain, even so fast and furiously did the limbs of Achilles bear him onwards. King Priam was first to note him as he scoured the plain, all radiant as the star which men call Orion's Hound, and whose beams blaze forth in time of harvest more brilliantly than those of any other that shines by night; brightest of them all though he be, he yet bodes ill for mortals, for he brings fire and fever in his train--even so did Achilles' armour gleam on his breast as he sped onwards. 」
(The Project Gutenberg EBook of The Iliad, by Homer/Translator: Samuel Butler Produced by Jim Tinsley. HTML version by Al Haines.)
 これを見るとここでは「night」という語が見えますから、夜であることは間違いなく、季節が真夏ではないことが窺えます。(なお、ギリシア語原語ではないのはその方面の知識が当方に皆無だからです。)
(※3)ウェルギリウス(小川正廣訳)『牧歌/農耕詩』(二〇〇四年 京都大学学術出版会)
(当該部分の英訳)
「For the rest, whate'er/The sets thou plantest in thy fields, thereon/Strew refuse rich, and with abundant earth/Take heed to hide them, and dig in withal/Rough shells or porous stone, for therebetween/Will water trickle and fine vapour creep,/And so the plants their drooping spirits raise./Aye, and there have been, who with weight of stone
Or heavy potsherd press them from above;/This serves for shield in pelting showers, and this/When the hot dog-star chaps the fields with drought.」(第2歌)
「…And now the ravening dog-star that burns up/The thirsty Indians blazed in heaven; his course/The fiery sun had half devoured: the blades/Were parched, and the void streams with droughty jaws/Baked to their mud-beds by the scorching ray,…」(第4歌)
 ここで「dog-star」と書かれているのが「天狼星」と訳された「シリウス」のことです。
(※4)ウェルギリウス(岡道男・高橋宏幸訳)『アエネーイス』(二〇〇一年 京都大学学術出版会)
(当該部分の英訳)
「… The radiant crest that seem’d in flames to rise,/ And dart diffusive fires around the field,/ And the keen glitt’ring of the golden shield./ Thus threat’ning comets, when by night they rise,/Shoot sanguine streams, and sadden all the skies:/ So Sirius, flashing forth sinister lights,/Pale humankind with plagues and with dry famine frights」
(THE TENTH BOOK)
 ここで「sanguine」という語が使用されていますが、これが「血の赤い色」を意味するものです。さらに「sinister」は「不吉」とか「邪悪」とかと訳され、それは「シリウス」の色が「血の色」のようであるところからの連想であったと見られるわけです。
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「九州年号」と「倭国年号」(古田史学会報を見て)

2017年08月12日 | 古代史
 送られてきた『古田史学会報』(141号)を見てみると「古田史学の会」執行部の考え方としては、今まで「九州年号」といっていたものを「倭国年号」と呼び直そうという趣旨のようですが、それは「実態」と整合していると考えられますので自分的には首肯できるものです。しかし林伸禧氏(古田史学東海)はそれに「異を」唱えているようであり、その論には少なからず「違和感」があります。
 「九州年号」と「倭国年号」について自分の思うところを以下に述べます。

 日本は元「倭国」と呼ばれまた自称していましたが、その実態は九州に王権の中心を持つ王朝であったものであり、それを「九州王朝」と名付けたのは古田氏でした。
 そのように列島を代表しまた実質的に列島全体を統治していたと見られるその「九州王朝」が、中国の歴代の王権のように年号を使用していたとして不思議ではなく、それは全国各地の縁起録や伝承資料の中に現れる「年号群」に対してそれを「逸年号」つまり使用されていたにも関わらず「正史」に記録されなかった年号と見たのも古田氏でした。そのためそれらは「九州王朝」の年号つまり「九州年号」であると命名されたものですがその呼称には先蹤がありそれは「襲国偽僭考」を著した幕末の「鶴峯戊申」です。彼はその中で年号を列挙していますが、それを「『九州年号』と題した古写本より引用したものである」旨の記述をしていたため、古田氏もそれを自ら提唱した「九州王朝」論に叶うものとしてそのまま受け入れたものです。(もちろん「偽僭」したという論法を受け入れたものではありません)
 このような「大宝」以前に実際に使用された年号群があり、それは「九州」という地域に関係していたという視点は、近畿王権一元論からは決して導き出されるものではなく、これが「九州王朝論」と不可分のものであるのはいうまでもありません。そしてその「九州」に王権の中心を持っていた時期には「倭国」という呼称を自他共に認めていたとするならそれら年号群は「倭国年号」と呼称されて当然のこととなります。

 近畿王権一元論者は近畿王権が倭国時代も自らがその権力中心にいたとするわけですが、にも関わらず「年号」は「大宝」以降とするのですから、「倭国」時代には年号を持っていなかった(使用していなかった)ということとなりますが、そのような想定が非常に困難であるのは当然です。
彼らは「律令制」の成立と「年号」の使用開始が関係していると見ているようですが、それが失当といえるのは『書紀』の「暦」に関する事実からもいえます。
 『書紀』の年月日の記述において「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用されているのが指摘されていますが、「元嘉暦」による記述が「五世紀末」以降に限られているのはその「元嘉暦」の中国における成立時期と近接していることから考えても、「倭国」王権が実際に採用したことを推定させるものです。そして「暦」と「年号」が「不可分」であることを指摘するのは無駄ではないでしょう。この二つは同時に使用されていたと見るのが相当と考えます。
 これについては二年ほど前にプログに記事をアップしていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/297706c33ca5e3bbaf2d99d95ba6359d)この内容を簡単に記しますと、以下の通りです。
 日付表記法は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握する事が不可欠であり、「暦」と「年号」が不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとみるのは合理的といえます。
これに類する例を挙げると、『三国史記』に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

 つまり「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。ここでは「暦」と「年号」とがセットになっていることが判ります。
「九州年号」資料として知られる『二中歴』については私見では「干支一巡=六十年」遡上すると見ており、「年号」の使用開始時期は「五世紀後半」と措定していますが、それは「暦」の採用と「年号」の使用開始が同時という仮定に矛盾しないと考えます。
 このような「年号」使用というものは、その「王権」の権威の高揚や「統治」の固定化などにより強く作用するためのツールであったとみられます。特に「半島内」の覇権を「高句麗」と争っていた「倭国」にとって「年号」の点で後れを取るのは「あってはならないこと」であったものであり、さらに国内的にも「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それもまた「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できるものです。(南朝から将軍号などを授与されたのも同じ意義があると思われます)このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があるとみるべきです。

 以上の考察からは以下のことがいえると考えます。
 「逸年号群」の推定される使用時期(存在時期)と「元嘉暦」の存在時期が合致していて、その時代の国としての呼称が「倭国」であるならそれら「逸年号群」は「倭国」が使用していた年号群であると見るのが相当であり、「倭国年号」と称すべきものであることとなります。しかるに「近畿王権一元論者」はこの「逸年号群」全体を否定しているのですから「倭国」は「近畿王権」とは関係のない存在であることとならざるを得ないこととなるでしょう。
 つまり、「倭国年号」という呼称が「近畿王権一元論者」の主張を認めたものなどではないのは論理として明らかです。よって林氏の論には全く従えません。

 逆に言うと「九州年号」という呼称自体がややもすると(イメージ的に)「九州地域」に局地的に行われていたマイナーなものという誤った認識につながりかねず、古田氏がこの呼称を使用された時期においては「九州王朝」そのものについての「啓発的」意味があったとは思われますが、いずれ淘汰されるものであったともいえるでしょう。
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