古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「金光」年号の由来について

2017年07月16日 | 古代史
 山田氏のブログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/07/post-2243.html)において、「金光」という年号が「四寅剣」の輝きに関係しているということがコメントとして服部氏から投稿されていました。それは確かにそうと思いますが、その「四寅剣」の存在も含め、『請観音経』』(正確には『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』というもの)に強く影響されていると思います。
 この「金光」という年号につていては以前「会報」にも投稿しましたが(『「善光寺」と「天然痘」』2016年4月『古田史学会報133号』)、論旨は現在でも有効と考えています。それに沿って改めて書いてみます。
 ところで、これもすでに指摘しましたが、この「金光」年号は『平家物語』にも出てきます。

「善光寺炎上の段」
「其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一 ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。『常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。』 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。」(岩波新古典文学大系本より)

 ここには『常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。』とされています。ここに書かれた「金色の光」が放たれるという現象に深く関係していることが『請観音経』という経典に書かれています。
 
「時世尊告長者言。去此不遠正■主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門■。『佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。』」『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經

 この『請観音経』という経文には「ヴァイシャーリー治病説話」があります。「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そこでは「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て「金色」に染まったとされています。これは『善光寺縁起』の中にもほぼ同内容の文章があります。

「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」『善光寺縁起』

 ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
 これらは『請観音経』の伝来と「金光」という年号の間に深い関係があることを示すものですが、この『請観音経』という経典に表わされた『悪病』の治癒というものが「疫病」特に「天然痘」についてのものであり、実際に「天然痘」によって「王権」に死者が出たということがあったことは間違いないと思われますから、「倭国王」の交代ということがあったこととなり、「改元」のタイミングとしては不自然ではなく、その際に「破邪」を目的として「金光」と改元されたとみられるわけです。
 
 また「元岡古墳」から出土した「四寅剣」は正木氏のいうように「天然痘」という悪疫に対する破邪を目的としていたと思われ、「庚寅年」に作られた剣であることは間違いなく、さらに「金象嵌」という方法が、「金色」の光を放つという「経文」に沿ったものであったことも重要と考えます。
 またその日付からこの「庚寅年」とは「元嘉暦」に基づくものであること、それが「五七〇年」であることが確実視されています。この「年次」が『二中歴』の「金光元年」に一致するということであり、『請観音経』と「四寅剣」の伝来はこのタイミングで行われたものといえるでしょう。またこれら一連のことは『二中歴』の記述の信頼性に対して一定の担保が確保されたということにもなりそうです。

『二中歴』の「六十年遡上」について

2017年07月11日 | 古代史
 以前「倭国」への仏教の伝来と関連して『二中歴』や『書紀』の記事に「60年」(干支一巡)の遡上を考えるべきという記事を書きましたが、(以下の記事等)http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/3b3186a5a40cb4fd3b2c30ea7323e7ac
その時は気が付きませんでしたが、古田武彦氏が2006年段階で「磐井の乱はなかった」という新説を出した際に、彼の当初の論で重要視されていた『継体紀』における「日本天皇及太子皇子俱崩薨」という記事について古田氏は講演の際の「質疑応答」の中で「干支一巡」の移動で考察するべきことを示唆されていました

 「質問三 磐井の乱ですが、今まで継体の反乱と理解していました。それで質問なのですが継体が死んだ年と朝鮮の記録との時期のずれ、そのあたりはどのように理解したらよいのでしょうか。
 回答
 これも大事な質問です。
 継体紀の最後に、「日本の天皇及び皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ」という百済本紀の記事があります。
 今考えてみますと、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた 三』などを書いた人間として、間違いというか論理の飛躍があったと、今は考えています。結局百済側が伝える事件があったことは間違いがない。あそこに干支も書いてある。それも間違いがないと思う。ですがそれが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースで、そういう問題が起きえたケースがあったか。たとえば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景に、この事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度再検討したらよい。磐井にこだわらず、いったんこの事件を保留して、もう少し時間帯を自由に動かしてみたらどうか。六十年単位に動かしてみたらどうか。動かせば、何か引っかかるかところが見つかるかも知れません。大事な保留問題と考えています。」(古田武彦講演記録 二〇〇四年一月十七日「「磐井の乱」はなかった 
ロシア調査旅行報告と共に」『古代に真実を求めて第八集』より(明石書店二〇〇六年)

 これをみると「磐井の乱」についての検討の中でこの一斉死亡記事を「磐井」と結びつけることを放棄したものであり、そのことからこの一斉死亡記事に相当する記事を別に『書紀』等に探す必要が出てきたことから、『宋書倭国伝』記事と結びつけて考える必要があるとみたもののようです。

 先行する研究(というより示唆ですが)があったことに全く気付いていませんでした。今ここに記し、あらためて『二中歴』と「百済関係資料」について「干支一巡」の遡上を主張したいと思います。(ただし私見では「磐井の乱はあった」とみていますが)
 ただし、その「遡上」がどの時期までなのか、どの段階までなのかについては若干不明確な点はあります。一応可能性があるのは「七世紀末」付近までではなかったかとみており、それは「物部」に「筑紫」を占有されていた「六十年間」のことではなかったかと考えています。そのあたりもすでに触れていますので、それらもご覧いただければと思います。

 

「富本銭」について(五)

2017年07月03日 | 古代史

 「倭国王権」が「銅銭」(富本銭)を製造することとなった意図(目的)としては、「十七条憲法」との関連が考えられます。
 「富本」の命名の元となったものは「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申の言葉ですが(下記)、それによれば「富國之本在於食貨」という言葉からとったものとされています。

「晋書食貨志」
「…建武十六年 馬援又上書曰 富國之本在於食貨 宜如舊鑄五銖錢。帝從之。於是復鑄五銖錢 天下以為便。…」

 つまり「食」と「貨」とが「本」であるとされているわけですが、「貨」が「貨幣」を意味するものであり、「富本銭」を指すならば、「食」は「米」であると考えられ、それは「班田」を脳裏において考えると理解しやすいと思えます。つまり、「富本銭」と「班田制」とは「対」を成していると考えられることとなります。
 この「貨幣」が「銀銭」であり、「高額商品」などとの交換などが主要な用途であるとするならば、「民」とは縁遠いものとなるでしょう。「貨幣」が「銅銭」となって始めて「民」の生活に密着した「銭貨」となり得るものです。
 「聖徳太子」が定めたという「十七条憲法」は統治する側の心得を記したものであり、各条において「民」(公民)を大切に扱うことを指示しているものです。つまり、ここでは一種の「護民」思想が語られていると思われ、それと「富本」という「銭文」は共鳴しているといえるでしょう。

 さらに「王権」から流出した「銀」(無文銀銭)の回収という目的もあり、「銅銭」との「置換」により等価交換を狙ったものと見られ、そのために重量も同じとしたものと見られます。つまり、「国家」としての「権威」により「銅銭」に付加価値を与え、「無文銀銭」と「等価交換」しようとしたと考えられ、それにより国内に流通している「無文銀銭」を国家に回収すると共に、その「銀」と「銅」の「実差額」を国家の財政に寄与させようと考えたものと思料されます。更にそれは「銀銭」や高額商品を手に出来る層には打撃となる措置ですから、「王権」と肩を並べうる階層に対する一種の「威嚇」であり、対抗措置であったと思われます。
 「無文」つまり、表面に何も書いていない状態では「素材」としての価値しかありませんが、「文字」が書いてあればその「文字」を書いた存在の「権威」で裏打ちされるので(一般には)「価値」が高くなるわけです。
 「富本銭」は「銅銭」ですが「倭国王朝」に「権威」があれば「銀銭」と同じ価値が出ても不思議ではないわけであり、「倭国王権」はそれを目論んだものと見られます。この「隋代」から「初唐」時点付近の「倭国王権」の権威の高さは倭国史上かつてないものでしたから、その様な事も可能であると考えたのかも知れません。しかし「実勢」としてはそうはいかなかったものと考えられます。
 『続日本紀』にあるように(下記)「銀」と「銅」の交換比率(価値の比)としては「一対二十五」と「公定」されていましたが、「初期」型の「富本銭」と「無文銀銭」の間の重量比でみると、これは「一対十」となります。

「養老五年(七二一年)春正月戊申朔(中略)丙子  令天下百姓 以銀錢一當銅錢廿五  以銀一兩當一百錢  行用之」

 これをそのまま「初期」型「無文銀銭」と「初期」型「富本銭」に適用すると、(どちらも同重量ですから)「銀銭」一枚に対し「銅銭」十枚という交換率となります。この「枚数比」をそのまま「法定交換率」として規定したものと思われますが、さすがに「王権」として初めての試みでもあり、この時の「王権」の権威は確かに高かったとは考えられるものの、「貨幣価値」については「王権」の描いた青写真通りには事が運ばず、「等価交換」は夢想と化したと思われます。
 後の「和同銭」の価値を公定した際には、当初「一対十」であったらしいことが推定されており、この交換率は「富本銭」と「無文銀銭」の交換率が既にあり、それを継承したと言うことが考えられ、「初期」「無文銀銭」と「初期」「富本銭」の間の「実勢」としての交換率をそのまま持ち込んだのではないかと考えられます。

 「倭国王権」はこのような無理をしてまで「銅銭」の流通に意欲を燃やしていたわけですが、それは当時「官道敷設」特に「東山道」整備や「難波京」の前身とも言うべき「副宮殿」の整備に多量の「銀」を使用したからと考えられます。
 「古代官道」である「東山道」の整備が大きく進捗したのは、「阿毎多利思北孤」の太子であったとされる「利歌彌多仏利」の時代である「七世紀前半」と考えられ、それを利用して「各諸国」に対して制度改定を義務づけるなどが可能となったものと思われます。それはその周辺に多く「従来型」「富本銭」が見られることにつながっているものです。
 倭国政権はこのように東国に「富本銭」を流通させ、代わりに「銀銭」を回収し、幾分かでも差額を手にしようとしたことと考えられます。このためより消費地である「東国」に近い場所である「難波」に「鋳造」場所が選ばれたと考えられますが、それは「無文銀銭」に「小片」を付加させるなどの改造を施していた場所がそのまま「富本銭」鋳造の場所になったらしいことが推定出来ます。(これが後に「難波大蔵」となったものか)
 しかし、実際にはこの「東山道」工事時点ではすでに「従来型」「富本銭」が鋳造されていたわけであり、この段階では「銀銭」との交換率が限りなく一枚対二十五枚に近づくこととなったと見られますから、とても「等価」としての「銅銭」を東国に投下・流通させることはできなかったと思われます。というより「等価交換」を断念したが故に「重量」を変えたとすれば、市場原理に基づいて「東国」から大量の資本を短期間に西日本へ移動させるということは実際には不可能であったと見られます。ただし、賃金や土地の買い上げ資金などに「富本銭」を使用したこと間違いないと思われますし、またそのような目的では「銀銭」は使用されなかったと見られます。(民間は別ですが)

 「富本銭」はその後も「鋳造」が継続されたものと考えられますが、「庚寅年」つまり「六三〇年」以降「鋳造」が停止され、その後「古和同銅銭」として「改鋳」され(「鋳つぶされ」)その存在自体が「駆逐」されてしまうこととなったと考えられます。このために「難波京」にあった「鋳銭司」が使用されたものでしょう。(鋳つぶす材料を一番多く抱えていたのがこの「鋳銭司」と考えられるため)そこで「和同銭(新古)」が鋳造されたものですが、その段階で「開通元寶」と全く同じ大きさ、同じ重量の他、同じ「四文字」デザインというスタイルとなったものであり、それはその時点以降「親唐王朝」となり「一新」された「倭国王権(日本国)」の方針に沿って、「新王朝」にふさわしい「デザイン」が新たに必要となったためと思われます。


「富本銭」について(四)

2017年07月02日 | 古代史

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土しています。このことは「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」の「富本銭」が「貯蔵」されていた事を示すと思われ、そのことから少なくとも「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなります。
 そもそも「大蔵」というのは元々「国庫」を意味する用語ですが、特にこの時点では「貨幣」や「金銀」「珠玉等」の「貢上品」を管理するのが職掌であったと推定され、そのようなものが「難波宮」の至近にあったと考えられることとなります。(「無文銀銭」が「難波」から大量出土している意味も同様と考えられます)
 また、「鋳銭司」は「大蔵」の下部組織であり、その「大蔵」が「難波」にあったという事から「鋳銭司」そのものも至近にあったという推測は可能です。(後には各地に作るようですが、この時代には「大蔵」に付随していたと考えるべきでしょう)
 そうすると「初期型」と考えられる「新型」「富本銭」についてはそれらを遡る時期が推定されますが、それは上に見るようにそのデザイン(意匠)が「五銖銭」を意識していること、重量もまた同様であること、その大きさが「隋・唐」の規格(度量衡)に則っていることなどから判るように、「無文銀銭」と同様「隋代」から「初唐」という時期に鋳造が開始されたと見るのが相当であると考えられます。
 この段階で「唐制」への全面的な対応が図られた結果、「無文銀銭」は「小片」が付加され「一両」の約四分の一の「10g」程となり、それと同時或いはやや遅れて「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度となって、大きく異なることとなったと見られます。
 また、このようにして「従来型」「富本銭」と「小片付き無文銀銭」とで重量が異なることとなったのは、互換性を保つために「同重量」にしていたという仮定からの帰結として、この時点付近で「倭国王権」として「公的」に「等価交換」を断念したということを意味すると考えられるでしょう。
 
 ところで、八世紀に入って「和同開珎」が鋳造された際に、その「法定価値」として「銀銭一文=銅銭十文」というものが与えられたとする「森明彦氏」の説(※1)があり、(「浅野雄二氏」の論(※2)においても同様の趣旨の発言があります)これは前記した「松村氏」などにより受け入れられているようですが、「松村氏」によればこの関係は『無文銀銭と富本銭に遡及できる可能性が高く、むしろ逆に、無文銀銭と富本銭の貨幣価値が、和同開珎の貨幣価値を規定した可能性が浮上する。』とされています。つまり「法定価値」として「一対十」が与えられたのは「無文銀銭と富本銭」においてであるとされているわけです。
 「森氏」はそれを「扱いやすさの点から」十進法を元に設定したものと考えられているようですが、これは上でみたように「初期」「無文銀銭」と「初期」「富本銭」の間の「枚数比」であったものであり、それを「無文銀銭」と「富本銭」の規格が変更になって以降も既定の「交換率」として「法定化」(公示)したものと考えられ、これを以降そのまま維持していたことが窺えます。
 また、この事は「貨幣経済」の進歩の程度とも関連していると考えられます。高額取引用の「銀銭」やそれと等価の「銅銭」だけであったとすると「下位」の「補助貨幣」が存在しなかったこととなりますが、それは代わりに「布」ないし「穀」が貨幣の役割を果たしていたからと考えられ、未だ「貨幣経済」という呼称が当たらない時代であったと考えられます。ところが、実勢として「一対十」という「交換率」が存在するようになったとすると、明らかに「銅銭」は「銀銭」の「補助貨幣」としての役割が与えられたこととなるでしょう。この事は「貨幣」というものに「慣れた」人々が、急速に「貨幣経済」へ移行を開始したことを推定させるものです。

 また、「東山道」の周辺である「長野」「群馬」などの地に多く「従来型」の「富本銭」が見られますが、このことは「七世紀前半」から「難波朝廷」時代までに「古代官道」である「東山道」の整備が大きく進捗したと考えられる事と関連しているものと推量します。
 従来「富本銭」が「近畿王権」に関係があるかのような議論があった訳であり、それは「西日本」からの出土が見られないことにその主因があったと思われますが、「倭国政権」はこの「富本銭」を「東国」という地に対して「局地的」「局所的」に意識的に投下・流通させ、逆にそこから「無文銀銭」など「資本」を回収し、幾分かでも差額を手にしようとしたものではないでしょうか。
 ところで、『続日本紀』には「和銅年間」の記事として「諸国」から徴発した「役夫及運脚者」などが帰郷する際に「郡稲」を別置し、それに対して「銭貨」を以て交換することを命じている文章があります。

「(和銅)五年(七一二年)冬十月丁酉朔乙丑条」「詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。」
 
 ここで見るように彼らは労働の対価として「銭貨」を受け取っており、これは「和同銅銭」らしいことが推測されますが、このような「賃金」として「銅銭」を利用するというのは「王権」としてはこの時が初めてではなかったのではないでしょうか。つまり、「東山道」工事等の際にも「銅銭」が「賃金」として渡されたと言う事も充分考えられるものであり、それを受け取った「役夫及運脚者」が彼らの国において使用したと言う事の表れとして、東山道界隈で「富本銭」が多く見られると言うことなのではないかと推察されます。(またここでは「銭」を用いるのが「便利」であることを知らしめる意義もあったように書かれており、「貨幣」制度に慣れさせようという工夫が感じられますが、それが「八世紀」に入ってからと言うのは少なからず「遅い」ものと思われ、実体としては「富本銭」の登場時点で同様のことは行われていたのではないかと推量されます)

 ところで、「崇福寺」の塔心礎から「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。これは明らかに「呪術」的意味があったと見られますが、上に見る「藤原京」から出土した「地鎮具」には「無文銀銭」ではなく、「新型」の「富本銭」が埋納されていたわけです。その理由として最も考えられるのは、「無文銀銭」も「従来型」の「富本銭」も、「王権」の手持ちのものは既に「鋳つぶされてしまっていた」からとも考えられます。僅かに秘蔵されていた「初期型」の「富本銭」がこの時の「地鎮具」として活用されたものではないでしょうか。
 既に考察したように当初鋳造された「富本銭」は「王権」にとって特に「意義」深いものであったと思われます。それはこの「初期」の「富本銭」が、「銭文」というものが選定され、「国家」としてのプロジェクトとして「官司」を整えながら鋳造された初めての「貨幣」であったものと考えられるからです。
 当時の「九州倭国王権」はこの「貨幣発行」を「国家」として推進したものであり、流通を開始した「銀銭」に対して互換性を保つように重量なども考えて鋳造したものです。その意義は高く、以降この「初期」型「富本銭」は「王権」の中で「宝物」として秘蔵されたのではないかと考えられます。
 それに対し「無文銀銭」はすでに述べたように「銀銭(一分銀)」として出来上がったものが国内に流入したものであり、また「銀」の地金の価値で通用していたと考えられます。つまり、この「無文銀銭」そのものについては、「倭国王権」の意思も威厳もそこに内包されてるいとは言えないこととなり、「市井」の人間にとっても、「無文銀銭」の存在と「倭国王権」が直接結びつくようなこともなかったと思われます。
 「富本銭」の場合は、そのデザイン等にも「王権」の確固たる意志が感じられますから、「利歌彌多仏利」以降の「大義名分」を継承した王権にとって「無文銀銭」より重要で必須の「威信財」であったと思われます。
 それは「藤原宮」の「地鎮具」として「富本銭」が埋められていたことにつながるものです。この「地鎮具」が発見された「藤原京」を建設しそこへ遷都した「倭国王権」は、「利歌彌多仏利」の手になると考えられる「元興寺」を「飛鳥」へ移築して「法隆寺」としたほか、その「元興寺」(「法隆寺」)と同じレイアウトの建築様式の寺院を「飛鳥」の地に複数建設するなど、「利歌彌多仏利」への傾倒を強めていたように見えます。その「地鎮具」の中に「富本銭」(特に「初期型」)を選ぶこととなった理由も同様に「利歌彌多仏利」に対する傾倒ないし信仰が重要な部分を占めているのではないかと考えられるものです。


「富本銭」について(三)

2017年07月02日 | 古代史

 すでに「無文銀銭」については「当初」「五銖銭」と互換性を持たせるために「6.7g」程度の重量として設定されたものと想定しました。さらにその後「唐」で新たに作られた「開通元寶」と互換性を持たせるために「応急的に」「小片」が付加されることとなったとみたものですが、その段階で約10g程度の重量となったものと見られます。このような「無文銀銭」の流れから推定して、「6.7g」の重量を持つ「新種」の「富本銭」は「開通元寶」の鋳造前かあるいは「唐」の「開通元寶」鋳造という「情報が伝わっていない時点」での製造ではないのかと考えられるところです。
 従来型の「富本銭」は「唐」の「開通元寶」とほとんど同じ規格(大きさ、重さ)で作られており、「唐」の影響を強く受けていると考えられておりますが、実際には表記が「富本」と二文字であり、最新の「唐制」というよりも、漢代より長期間継続して使用された「五銖銭」の影響の方が大きいとされています。「富本」という用語も、「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申からの引用と考えられているようですが、そのように「富本」という言葉と「五銖銭」との間に関係があるとすると「五銖銭」と「富本銭」との間に重量として共通基準がある方が整合的であるわけですが、実際には従来型の「富本銭」は(飛鳥池工房のものを含め)「4g」程度であり、これは「五銖銭」ではなく「開通元寶」に重量基準が合っていることとなります。しかし、デザインは「五銖銭」に対応しながら重量は「開通元寶」に対応しているというのは実際には「矛盾」といえます。それに対し、この「新種」の「富本銭」ではまさに「五銖銭」との間に重量基準が設定されていることが明確であり、その意味で「矛盾」はなくなります。(一対二の整数比となります)
 しかし、「五銖銭」は「隋代」に使用されたのを最後として、それ以降「初唐」時期に「開通元寶」が鋳造されてからはその役割を終えたものと理解されています。その意味からはこの「新種」の「富本銭」の当初製造時期がかなり早いと推定する必要があります。
 その後「唐」で「開通元寶」の鋳造が始まり「五銖銭」が終焉を迎えたことを知った「倭国」は、「無文銀銭」に「小片」を付加させて重量調節をしたものと思われますが、またそれと同時に「銅銭」(従来型「富本銭」)も鋳造開始したものと思料します。つまり「無文銀銭」に小片が付加された時期と「従来型」「富本銭」の鋳造時期はほぼ同時と考えられるでしょう。問題はその時期です。

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土していますから、「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」「富本銭」が「貯蔵」されていたものと思われ、このことは早ければ「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなりますから、「新型」の「富本銭」はさらにそれを遡る時期を想定すべき事となります。すでに述べた論理からは「初唐」以降であることは間違いないと思われ、これらのことから「七世紀第二四半期」と言う概括的な年次範囲が得られます。可能性としては「高表仁の来倭時」が有力視されます。この年次については別途検討した結果「六四一年」という年次が推定されています。この時「遣隋使」達が同伴して帰国した事が『法苑珠林』に書かれています。

「倭国は此の洲外の大海の中に在り。会稽を距てること万余里。隋の大業の初、彼の国の官人、会丞、此に来りて学問す。内外博知。唐の貞観五年に至り、本国の道俗七人と共に方に倭国に還る。…」

 この中の「大業の初」といい「貞観五年」の帰国とされていますが、これは『隋書』に沿った記述と思われますが、そもそもその『隋書』に信頼がおけないとするとそれが「六三一年」とは断定できないこととなります。いずれにしても彼等が「開通元寶」に関する情報を持ち帰ったという可能性を想定するのは無理がないと思われます。
 つまり、この時点で「無文銀銭」と「富本銭」は「一対一」の重量ではなくなったこととなります。元々はどちらも「6.7g」程度であったものが、この時点で「無文銀銭」は「小片」が付加されて「10g」程度となり、「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度と大きく異なることとなったと見られ、このことはこの時点付近で「倭国王権」として「等価交換」を断念したという可能性もあると思われます。つまりこの時点で「富本銭」は「無文銀銭」の下位貨幣として「補助貨幣」的役割をするようになったのではないでしょうか。(取引の主役はまだ「無文銀銭」であったということです。)

 また、「富本銭」に使用されている「七曜紋」についてもそれが「陰陽五行」を表すという解釈がされますが(松村氏の説)、それは「天武朝」の製造を想定していることからの「予断」ともいえると思われます。つまり「天武」が「道教」などに傾倒していると言うことを想定(前提)しての解釈であるわけですが、デザインとして「中心」に一つ、「周囲」に六個の「珠紋」というのはつまり「一+六」であり、陰陽五行となれば明らかに「二+五」ですから、食い違っているといえるでしょう。これについては「上下」が「陰陽」で「中心」が「土」であるという解釈をしているようですが、それは非常に「苦しい」解釈といえるでしょう。確かに「方向」としては「土」は「中心」の意義がありますが、それは「水平」にデザインされたものの「東西南北」が明示できる場合であると思われ、例えば「建物」などの場合には建物の四隅に「火水木金」を配置し、中心に「土」とする場合がありますが、「貨幣」の場合には「方向」も固定されているわけではありませんから、「五行」で方向を表すと考えるのは適切ではないと思えます。
 また「五行」は「火水木金土」という五つの要素が「循環」することによって万物が生成されるという思想ですから、その意味では「円周上」に配されてこそ「五行」を意味するといえると思われますが、そうでないとするとこの「七曜紋」は「陰陽五行」を意味するものとは考えにくいこととなります。
 他に考えられるのは「北斗七星」を意味するという可能性ですが、その場合「北斗」の柄杓の形のままに並んでいる可能性が高く(「四天王寺」や「法隆寺」に伝わる「七星剣」などがそう)、やや意味合いが異なると言えると思われます。
 結局「陰陽五行」あるいは「北斗」など「道教」に関わるものが表されているのではないものと考えられ、「天武」と結びつくものは実はないこととなります。