古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大房」と「三十三間堂」

2018年05月13日 | 古代史

 (以下の論は「米田良三『建築から古代を解く』新泉社一九九三年十一月に相当の部分依拠しています)

 現在京都に「三十三間堂」という建物があります。(「通し矢」などのイベントで有名です)この「三十三間堂」は、「平忠盛」が「鳥羽上皇」に寄進したものとされ、当時「得長寿院」という名称でした。(一一三二年創建とされます)
 平家物語にもそのことが語られています。

「(平家物語)巻の第一」「殿上闇討」の段
「しかるを忠盛備前の守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏をすゑ奉る。」

 彼は(平家は)この後「肥前神埼の荘」へ赴任しており、九州にも勢力を伸ばしている時期であったと見られます。
 その後「一一八五年」に起きた「元暦大地震」により「得長寿院」は大被害を受けています。
以下平家物語の記事の当該部分。

「巻の十二」「大地震」の段
「赤県(せきけん:都に近いところ)のうち、白河(白川。京都市左京区)のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重の塔(法勝寺にあった九重塔)もうへ六重ふりおとす。「得長壽院」も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂をけし、朝衆悉く心をつくす。また遠国近国もかくのごとし。(以下略)」

 このように「一一八五年」に「近畿」地方に大地震が襲ったことが窺えるわけですが、この時点で「得長寿院」が存在していたことが確認できます。また、この時「得長寿院」は上に見るように多大な被害を被ったこととなっていますが、その後それが再建されたかどうかについては記録がありません。
 現在京都にある「三十三間堂」(正式には「蓮華王院本堂」と言う)は、「一一六四年」に「平忠盛」の子「清盛」が「後白河法皇」に寄進したものとされています。これも直後に火災に遇いその後「一一六六年」に再建されたものとされています。
 この経緯を見ると、「得長寿院」と「蓮華王院」とは同時に存在していたように見えます。しかも、上で見た「一一八五年」に起きた「元暦大地震」の際にはこの「蓮華王院」については『平家物語』中には何も触れられておらず、建物は倒壊しなかったようにみられますが、それもまた不審です。つまり「年次」から言うとこの地震の際には「京」には「三十三間堂」が二つあったと言う事となりますが、かなり不審であるように思われます。
 この辺の年紀にも不可思議な部分があり、「得長寿院」の創建記事が載っている資料には「蓮華王院」の創建記事が載っていなかったりします。

 ところで、現「太宰府天満宮」の所蔵資料の中の「一〇〇一年次」の記録に(大房の中に)「千躰観音像」がある、という記事が存在します。そして、京都に「三十三間堂」が出現する直前の記録には「筑紫観世音寺で大房が転倒し消失した」という記事が残っています。
 このような流れから見ると、「大房」がこの時期に「都」へ「移築」されたものと考える事ができると思われます。
 つまり、「三十三間堂」は「筑紫」の地から「観世音寺」の「大房」が移築されたものと考えられるのです。(これが現在残っている「蓮華王院本堂」なのかどうかは前述したように「得長寿院」と「蓮華王院」の変遷から考えると不明です)
 そして、「平忠盛」もそしてその息子である「清盛」も、送られた側の「後鳥羽上皇」も「後白河法皇」も、関係者一同この「大房」がそもそも「何」であるかをよく承知していたものと考えられます。
 この「大房」の持つ意味を双方が把握していなければ「寄進」の意味がありません。これは「歴史的」な遺産ともいうべきものであり、また「法華経世界」の上等の表現としての「千躰仏」とそれを納めた「三十三間堂」は、彼等にとって最高の価値のあるものであり、寄進の意味もそこにあったと思われます。
 この「寄進」については、「天皇」は行幸しなかったとされ、それは「異例」という表現がされています。これが「旧王朝」の遺物であり、いわば「公然の秘密」ともいうべきものであったと考えられますから、「寄進」に際しても大々的なイベントも行わず、天皇自身行幸もしなかったものでしょう。
 この当時「末法思想」の蔓延で、誰もが「西方浄土」での救済を願っていました。そのような中で「由緒」ある「三十三間堂」が「寄進」されたとすると、「上皇」の喜びも特に極まったものとなったでしょう。彼はこの功績で「殿上人」に加えられ、「昇殿」を許されています。

 ちなみにこのような「筑紫」からの移築という前例はかなりあったと思われますが、同じ「平安」時代(「平安」の初期)に「筑紫尼寺」を(少なくともその「梵鐘」を)移築して「檀林寺」としたという可能性を指摘しましたが、このような先例が彼等には重要であったのではないでしょうか。
 「とわずがたり」でも示されたように「鎌倉時代」においても「筑紫」から「寺院」に関する多くのものが移動されている現実があった模様であり、王権に近い人々には「筑紫」が「仏教」特に「法華経」の聖地として映っていたものと思われ、そのような地から寺院その他を自家のものとすることは彼等にはいわば「贅沢」でありまた「至上の幸福」であったものと思われるわけです。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事に加筆)


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