古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「鎮壊石」の重量と大きさから単位系を推測する(三)

2015年03月19日 | 古代史

  すでにみたように「万葉集」の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされていますがそれとともに「寸法」や「重量」といった「度量衡」全体として「周・魏晋」の古制が倭国内で行われていたことが明らかとなったわけです。つまり「風土記」や「万葉集」には「周・魏晋」の古制が表れているわけであり、その「風土記」編纂が「八世紀」であるという点を捉え、「周・魏晋」の「古制」が「八世紀」段階においても(筑紫付近では)使用されていたと見なす「古田氏」などの考え方もありますが(※)、当然そうとは考えにくいこととなります。それは、上の「万葉集」の「序詞」が一見「山上憶良」が実見した「大きさ」や「距離」であったともののようで、実際にはそうではなく、既に成立していた「伝承」からの聞き取りや「記載」からの「引用」であったという可能性が強いと思われるからです。
 それはこの歌の「左注」に現れていると思われます。そこには「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」とあり、この「序詞」の部分は「山上憶良」ではなく「地元」の人とされる「建部牛麻呂」によるというわけですが、そこでは「傳言」という表現がされています。これはつまり「建部牛麻呂」はこの「神功皇后」に関わる伝承を「口伝」によって継承していたものであり、それはこの「序詞」に書かれた全体がそのような性格のものであったという可能性が高いことを示すと思われます。
 ここに書かれた記事の全体が「建部牛麻呂」が伝承し来たったものであったとすると、そこに現れている「単位」についても「伝承」の中のものであり、「山上憶良」達が生きていた時代のものではなかったという可能性があるでしょう。

 そもそもこの「鎮懐石」が奉られていた「鎮懐石八幡神社」は、かなり古式ゆかしい神社と考えられ、「鎮懐石」はそこで「ご神体」と崇められていたわけですから、そのようなものを「山上憶良」など外部のものが手にとって眺めたり、まして、その寸法を測ったり、重量を測定するなどと言うことが可能であったとは考えられません。それは「建部牛麻呂」にあっても同様であったと思われ、いくら地元の人間であったとしてもやはり「ご神体」について直接測定などができたとは思えませんから、これは「建部牛麻呂」の語った内容全体が彼の経験したことではなくあくまでも「傳言」であったということを示していると思われ、それを「山上憶良」が聞き取りしたものであると見られるのです。
 「山上憶良」は彼から聞き取りしたものに基づいてこの「鎮懐石」について歌を歌ったものという可能性が考えられます。

 このような「神社」に伝わる伝承というものの淵源はかなり古いものと考えられますから、これが「神社」に伝わっていた資料に基づくとすると、「八世紀」をはるかに遡る時期に書かれた可能性が高いものと思料されます。
 これらの数字が「神功皇后」につながる伝承として伝えられてきたことを考えると、少なくとも「六世紀」以前までは遡上するという可能性が高いでしょう。そう考えるとこの歌が収められている「万葉集」そのものの成立もかなり早かったという可能性が出てきますがそれは後ほど触れることとします。
 ただし「はるくさ木簡」の出現により、「和歌」が造られるようになった時代というのが従来の想定よりはるかに遡上することとなったと思われ、「万葉集」の成立時期も同様に早まると推定されます。
 この「はるくさ木簡」が書かれる時代には既に多くの人達により「万葉仮名」を用いて「和歌」が書かれていたことを示すものであり、それを「まとめた」ものとしての「原・万葉集」とでも言うべきものがこの時代に一旦成立していたと考えて不自然ではないといえるでしょう。
 またそれは、いわゆる「縣(県)風土記」の存在からも言えると思われます。この「縣(県)風土記」については「国県制」が「六十六国分国」と併せ成立した時点における「編纂」と推定されるものであり、例えば「常陸国風土記」において「古老」が「今」として語る場面がありますが、そこでは「縣(県)」が「今」の制度として語られており、明らかに「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」の改革の時点における用語であったものと推量されます。

「筑波郡 東茨城郡南河?郡西毛野郡北筑波岳.
 古老の曰へらく、筑波の縣は古、紀國と謂ひき。美万貴天皇のみ世、采女臣の友屬(ともがら)筑?命を紀國の國造に遣はしき。時に、筑は命いひしく、「身(わ)が名をば國に着けて、後の代に流傳へしめむと欲(おも)ふ。即ち、本の號(な)を改めて、更に筑波と稱ふといへり。(以下略)」

 ここは「筑波」という「郡」に関する記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」と考えられます。そして「古老」が言う「筑波の縣は古、紀國と謂ひき」という言い方は、「今は」「筑波の縣」だが「古は」「紀國」という意味と理解されますから、古老の生きている時代には「縣」が(後の郡の代わりに)使用されていたこととなります。
 つまり「郡」の時代ではない時代に「古老」は生きているわけであり、それは「県制」が施行されていた時代であるとすると、「六世紀末」から「七世紀初頭」付近という時期が相当することとなるでしょう。
 そのような内容を含んでいる「風土記」が「八世紀」になって「新日本国王権」による「新・風土記」編纂という事業の際に「再利用」されたものである可能性が高いものと思われます。

 「元明」の「風土記」撰進の詔の内容は「各地の風俗」「名産」「山河の名前の由来」などを「国司」がまとめて報告せよというものであり、当然その「由来」や「伝承」が「古くからのもの」であるのは当然であると思われます。そのようなものを既にまとめたものが手元にあり、また利用できるのであれば、それを取り込んで「報告書」として書くのもまた当然とも言えるでしょう。
 このようにして、一度作られていた「風土記」が再度「換骨奪胎」され、「新・風土記」に転用されたと考える事ができると思われ、そうであれば、そこに現れる「短里」などが「古制」によって表記されているのは当然であると言え、「鎮懐石」伝承も既にその段階で書かれていたと考える事ができると思われます。つまりこの「伝承」はそれ以前の時代に属するものと推察されるものであり、そこに使用されている「度量衡」についてもかなり以前の倭国(特に北部九州)の状況を示すものではないかと推量されます。

 上に見るようにこの「筑紫風土記」には「古制」であるところの「寸法」と「重量」が表記に使用されていたわけですが、また「縣(県)」が現在の制度として使用されているようにも見えます。(さらに「短里」も見える)これらは関連しているものでありいわば「セット」と思われますから、「八世紀」段階で「縣(県)」という行政制度については明らかに使用されていなかったとみられるわけですから、「寸法」「重量」などの「古制」についても「八世紀」という段階ではすでに使用されなくなっていたのではないかと見るべきこととなります。つまり、いずれも「八世紀段階」の真実ではなく、それをかなり遡上する時期のものであって、「周代」以前の「古制」が「八世紀」に至ってなお使用されていたとは言えないということになると思われます。
 「倭国」は「隋」と通交して以降「隋制」を多く取り入れたものであり、その中に「単位系」の導入と旧来の単位系の棄却ないしは変更というものがあったと見るべきであり、「万葉集」と「風土記」に見る「古制」はその始源がその「隋制」導入以前のものであることを示すものであって、「六世紀末」付近が最も想定できるでしょう。
 この「周代」以前と推測される「古制」は、「阿毎多利思北孤」の改革により「改定」され、命脈が尽きることとなったのではないでしょうか。


「鎮懐石」の重量と大きさから単位系を推測する(二)

2015年03月19日 | 古代史

中国の度量衡は時代を経て変遷がありましたが、「斤」「両」に関して言うと、「殷・商」時代以降「南朝(陳・梁)」まで「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」はその「16倍」の「220グラム」程度で大きく変化はなかったと見られているようです。それが「北朝」では「一両」が27.5グラム程度、「一斤」は「440グラム」程度とほぼ「倍」になります。更に「隋代」になると「一両」が「41.3グラム」程度、「一斤」は「661グラム」程度と更に増加し、「南朝系」の三倍程度までになりますが、同時に「南朝」の重量基準とほぼ等しい「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」「220グラム」程度という基準も併せて使用するようになります。これはもちろん「隋」に至って「南朝」を併合し、中国を統一した国家が誕生したためであり、旧「南朝」地域の人々の便宜を考慮したものでしょう。その後「唐」に至ってこの「旧南朝」系度量衡は姿を消したものと考えられています。

 以下歴代の「寸法」と「重量」の変遷を書き出します。

時代/単位

斤(g)

両(g)

尺(cm)

寸(cm)

661

41.3

29.6

2.96

661/220

41.3/13.8

29.6

2.96

北朝(北魏)

440

27.5

29.6

2.96

南朝

220

13.8

24.5

2.45

漢・新

220

13.8

23.1

2.31

220

13.8

19.7

1.97

殷・商

220

13.8

17.2

1.72

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし「魏晋朝」についてはそれがどのような「単位系」であったのかが今問題としているところであり、先験的に決めるということはできません。このような変遷を踏まえて考察してみます。

(A)以下「大きい方の石」についてその寸法からの「推定重量」と重量表示からの「重量」を算出した表

(寸法から重量を推定した場合、ただし比重を「3」とし、「半長径」は『六寸三分』、「半短径」は『約三寸』として算出)

時代

(隋・唐)

(南朝)

(漢・新)

(周)

(殷・商)

基準尺(cm)

29.6

24.5

23.1

19.7

17.2

半長径の実長(m)

0.186

0.154

0.146 

0.124

0.108

半短径の実長(m)

0.088

0.073 

0.068 

0.058

0.051

体積(m3)

0.00600

0.00340 

0.00285

0.00177

0.00118

推定重量(kg)

17.99

10.20

8.55

 5.30

3.53

(「重量表示」から計算した値)

「斤」の重量単位(g)

661

220

220

220

220

18(斤)の重量

11898

3960

3960

3960

3960

「両」の重量単位(g)

41.3

13.8

13.8

13.8

13.8

5(両)の重量

206.5

69

69

69

69

実重量(kg)

12.15

4.04

4.04

4.04

4.04

同様の試算を「小さい方」の「鎮懐石」について適用してみます。(寸法から重量を推定した場合、ただし同様に比重を「3」とし、「半長径」は『五寸五分』、「半短径」は約『二寸九分』と算出)

時代

(隋・唐)

(南朝)

(漢・新)

(周)

(殷・商)

基準尺(cm)

29.6

24.5

23.1

19.7

17.2

半長径の実長(m)

0.163

 0.135

 0.127

0.108

0.095

半短径の実長(m)

0.085

 0.070

 0.066

0.056

0.049

体積(m3)

0.00491

0.00278

0.00233

0.00145

0.00096

推定重量(kg)

14.71

8.34

7.00

4.34

2.89

(「重量表示」から計算した値)

「斤」の重量単位(g)

661

220

220

220 

220

16(斤)の重量

10576

3520

3520

3520

3520 

「両」の重量単位(g)

41.3

13.8

13.8

13.8 

13.8

10(両)の重量

413

138

138

138

138 

実重量(kg)

11.03

3.67

3.67

3.67

3.67 

(B)続いて、「大きい方の石」について比重を「2」として算出した場合を示します。(ただし、寸法・体積・実重量の元の値は上の例と同じ)

時代

(隋・唐)

(南朝)

(漢・新)

(周)

(殷・商)

基準尺(cm)

29.6

24.5

23.1

19.7

17.2

推定重量(kg)

12.00

6.80

5.70 

3.54

2.35

(「重量表示」から計算した値)

実重量(kg)

12.15

4.04

4.04

4.04

4.04

同様の試算を「小さい方」の「鎮懐石」について適用してみます。(比重・寸法等についての事情は「大」と同じ)

時代

(隋・唐)

(南朝)

(漢・新)

(周)

(殷・商)

基準尺(cm)

29.6

24.5

23.1

19.7

17.2

推定重量(kg)

9.81

5.56

4.66

2.89

1.92

(「重量表示」から計算した値)

実重量(kg)

11.03

3.67

3.67

3.67

3.67

(上の表の「周」の時代の「尺」の長さは、「中国」における各地の発掘などによる「柱間寸法」など多数の例から帰納した平均値を使用しています。(註))

 こう見てみると、石の比重を「3」とした場合は「周・魏晋」時代あるいはそれ以前の単位系の場合に最も合理的な理解が可能です。ただし、比重を「2」とした場合には「隋・唐」の単位系の場合と「周・魏晋」の単位系の場合のいずれの場合も推定重量と実重量がほぼ整合しているように見えます。しかし、「隋・唐」の寸法の場合小さい方でも長径が30cm以上となり、これで既にラグビーボールよりも大きいほどとなります。また重さも(比重を2としても)10kg弱ほどとなってしまいます。まして大きい方ならば長径が40cm弱、重量にして12kgほどとなって、「腰に挿し挟む」などほぼ不可能であるようなサイズと重量となるでしょう。このことからやはり実際には「周・魏晋」時代あるいはそれ以前の単位系の場合が最も適合するといえるでしょう。 さらにこの比重「2」の場合というのは「凝灰岩」のような組成のものを想定していますが、一般に「凝灰岩」などの主たる用途としては「石棺」などの大きさと重量が必要なものに限られていると思われ、このような一種「宝玉」としての扱いがされるようなものに使用されることは皆無と言っていいのではないでしょうか。つまりその組成の特性上いくら磨いても「玉璧」と比べられるほどの光沢を放つことができたかは疑問であり、そのような用途に使用されることはなかったと見られます。 そうであればこの「鎮懐石」はやはり比重がもっと大きかったことを想定すべきこととなりますから「軟玉」と見るのが相当ではないかと思われ、そう考えると、「隋・唐」の単位系ではなく「周・魏晋」のものが「万葉集」「風土記」に現れていると考えるのが正しいと思われます。 つまり「寸法」から計算した推定重量と重量としての表示からの帰結がもっとも整合するのは「周・魏晋」時代に使用されていたと推定される「19.7センチメートル」、重量を「一両」が13.8グラム、「一斤」は「220グラム」という値を採用したときと思われ、この場合であれば大きさもそれほどではなくなり、またかなり軽量化されますから(4kg以下)、「腰に挿し挟む」などと言うことが伝承として伝えられていたとしてもそれほど不審とも思われないこととなります。


「鎮懐石」の重量と大きさから単位系を推測する

2015年03月13日 | 古代史
 いわゆる「魏晋朝短里」は中国の「魏晋朝」だけでなく、古代の日本の国内でも使用されていたと考えられています。
 たとえば「万葉集」の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされています。

(万葉集八一三番、八一四歌の序詞)
「筑前國怡土郡深江村子負原 臨海丘上有二石 大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂径尺璧是也 …」
(左注)「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」

 ここに書かれた「序詞」は「左注」では地元の人物とされる「建部牛麻呂」が書いたものとされています。(歌は「山上憶良」の作であるようです。)この中に「短里」と思しき表現が出てきます。
 この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からもそれは「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
 ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
 つまり「地元」の人間である「建部牛麻呂」は「短里」を使用していたと見られるわけですが、このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里系」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。

 確かに「寸-尺-丈」や「斤-両」などの単位系と「歩-里」とは異なる体系ですが、「里」が「魏晋朝」のものであるとすると、「尺」も同様である可能性があると思われます。
 ここではその大きさとしては二つの石のうち「大きい方」が「径一尺二寸六分」、「囲一尺八寸六分」とされています。また「楕円」という表現や「状(かたち)鶏子の如し」という表現からも、「半長径」が「六寸三分」、「半短径」が「三寸」程度の楕円体にほど近い形状と理解できるでしょう。また「小さい方」については同様に「径一尺一寸」、「囲一尺八寸」とされていますから、「半長径」が「五寸五分」「半短径」が「二寸九分」の楕円体であると推定できるでしょう。もちろん共に理想的な「楕円体」であるはずもありませんが、表現からはかなり「滑らか」な印象を受けますから、「角張ったところ」がないということと考えられ、そうであれば「楕円体」と想定して無理なものではないと言えると思われます。また「楕円型」の形状とするために表面はかなり磨かれているようであり、それが「其美好者不可勝論」や「所謂径尺璧是也」という表現になっていると思われますが、一般に「璧」が「円盤状」とされることを考えると、ここで使用されている「璧」という語は比喩として余り適切ではないように思われ、あくまでもその表面の輝きや美しさに限って語ったものと考えられます。)
 ここに記されている「寸法」から推定される「重量」と、「重量」として記載されているものの比較をすることで、「単位系」としてどのようなものがこの「鎮懐石」に使用されているのかが推定できると思われます。つまり「体積」を算出してそれに比重を掛けることで推定重量が算出されますから、それを実際の重量として書かれているものと比較するわけです。

 「岩石」の比重はその組成や起源によって1.5程度から3をやや超えるぐらいまで幅がありますが、代表的な例として「璧」という形容から、これを「軟玉」と考えて比重を「3」程度にとる場合と、「九州」に多い「阿蘇熔結凝灰岩」のような「堆積岩」の場合の値として標準的な「2」程度とする場合の二つのケースを想定し各々体積と比重から求めた推定重量と重量として表示されている値の推定値とを比べてみることとします。(もっとも「堆積岩」の場合は磨いても「璧」のように輝くほどにはならないと思われ、ここでは「軟玉」である可能性の方が高いとは思われます。)
(ここで楕円体の体積[S]は[S=4/3πabc」(ただしa:長半径、b:短半径1、c:短半径2であらわされ、このばあいb=cです)と表されるものとします。なおa=b=cの場合は球の体積に一致します。)