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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「厩戸勝鬘」とは誰か

2021年02月27日 | 古代史

 以下はホームページに2013年に記載していたものですが、最近「厩戸勝鬘」という人物について「聖徳太子」と同一視する議論を目にしたものですから、あらためて「聖徳太子」とは思われないということを述べるものです。

 「善光寺文書」(『善光寺縁起集註』)には「聖徳太子」と思われる人物からの手紙が記され、そこには「斑鳩厩戸勝鬘」という「自署名」が記されています。

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 また、室町時代中期の考証的随筆書である『壒嚢(あいのう)』などにも、「聖徳太子」が「善光寺」へ「消息」(手紙)を出した際に「厩戸勝鬘」と名乗ったように書かれています。

壒嚢鈔』(『古事類苑』より引用)
「如來未ダ伊那郡善光ガ家ニ御座時ニ、推古天皇御宇、…法興元(○○○)世一年〈辛巳〉十二月十五日、『厩戸勝鬘』上ト遊シケル、世間ニ流布シテ、?中廿句ノ文ト云是也、…法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、『厩戸勝鬘』上ト遊バシテ、御表書ニハ、進上本師如來御寶前ト侍リテ、班鳩厩戸上ト云々、…」

 この善光寺への手紙については、その年次を示す「命長七年丙子」に矛盾があり、これを「古賀氏」も言うように「九州年号」の「命長」年間のことと考えると、「聖徳太子」とは時代が合いません。彼は『書紀』によれば「六二一年」に死去したとされ、また「阿毎多利思北孤」であったとしても(彼と「上宮法皇」が同一人物とすると)「六二二年」に亡くなられたと言う事が「法隆寺」の「釈迦三尊像」の「光背」に書かれているのは既に各位周知と思われます。
 また既に指摘しているように「仏教」に関連する日付には「年号」を使用するという「きまり」があったものとみられますから、ここにも「年号」が「当初から」使用されていたと思われ、そうであれば疑うべきは「干支」の方であると思われるわけです。
 しかも、さらに問題と考えられるのは、ここで「自称」として使用されている「勝鬘」という「文字」(名前)です。
 「聖徳太子」には数々の名前が各資料に書かれていますが、現在有力な説は「在世中」は「厩戸皇子」と呼ばれたであろうというものです。
 それに対しここでは「(斑鳩)厩戸勝鬘」となっています。この「勝鬘」が「勝鬘経」に淵源するものであるのは明らかであると思われますが、しかし、その「勝鬘経」の由来となっている「勝鬘」とは、在家の「女性」信者の名前であり、舎衛国波斯匿(はしのく)王の娘である「勝鬘夫人」を指すものですから、「勝鬘」とは「女性」の名前の一部であることとなります。それを上の「善光寺」文書の中では一見「聖徳太子」とされる人物が「自署名」の一部として使用しているわけです。
 上に述べたように、この手紙の送り主は「聖徳太子」ではないのはその「年次」から明らかですが、この人物が誰であれ「男性」であった場合、「女性」の名前を「男性」が名乗った形になるのは避けられないと思われます。これは明らかに不自然ですから、「厩戸勝鬘」なる人物が実際には「女性」ではなかったかという可能性について考えてみる必要があることとなります。

 そもそも、この「勝鬘」の「鬘」という言葉は「花飾り」を意味する語から付けられた「漢語」であり、「勝」は「優れた」「美しい」という意味です。このことから、「勝鬘」とは「起源」となった「インド」では「女性」が身につける、あるいは「髪に挿す」などのための「花飾り」を意味するものであって、「美しい女性」を形容するのに使用されたもののようです。(「花子」さんの類かと思われます。)
 たとえば「新羅」の「真徳女王」(在位六四七年-六五四年)の「諱」も「勝曼」であるとされますし、さらにその前代の「善徳女王」の「諱」は「徳曼」であるとされていますが、これらには「曼」の文字が共通しており、この「曼」は「長い」という意ですが、本来「蔓」(つる)から来たものであり、「鬘」と同じく頭髪に飾るものを指すものとして使用されていたと思われ、「勝鬘」と同類の表現と考えられます。このような名前は彼女達のように「国王」やその「娘」という高い地位にある女性達を形容するものとしても、また自称するものとしてもふさわしいと考えられ、その意味でも「高貴な女性専用」であったと推定されます。
 後代においても、室町幕府の四代将軍「足利義持」の母は「勝鬘院」と名乗っていたという記録があるなど(下記『伊勢貞助雜記』)、基本は「女性」の使用に関わるものとして認識されていたと思われます。

「…一攝家御參賀の時、諸大夫〈并〉御侍など、殿中御縁へはあがり不申之由候、如何、攝家の御供の時、諸大夫御縁へ祗候の事は無之候、自分に御禮被レ申時祗候勿論也、御侍衆の事不及申候、御門跡方坊官衆も同前、坊官衆の事、時代にもより可レ申歟、勝定院(義持公ノ事也、自尊氏公四代目、)之御母儀様は『勝鬘院殿』と申て、其俗姓は三寶院殿坊官大谷安藝法眼息女にて御座候はるヽ…」『伊勢貞助雜記』(『古事類苑』より引用)

 ところで、この「勝鬘」という名前の元となった「勝鬘経」については「推古天皇」の要請に応じて「聖徳太子」が講説したという記録が『書紀』にあります。

「(推古)十四年(六〇六年)…
秋七月。天皇請皇太子令講勝鬘經。三日。説竟之。」

 「推古」も「勝鬘夫人」も立場は「近似」していますから、共感するものがあったとすると、「勝鬘」という「文言」を「推古」が「自署名」として使用したという方がまだしも理解できるものですが(ただし、これが「推古」本人でないことは「善光寺文書」の中に「命長年間」のこととしてその存在が確認されるわけですから、「推古」とはこの点からも合致しないと考えられます)それに対してこれが「聖徳太子」であったとしても、このような「女性名」を「自署名」として使用する動機というのはかなり分かりにくいものです。

 また、この人物は上に見た『壒嚢鈔』では「法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、『厩戸勝鬘』上ト遊バシテ、…」とありますが、「法隆寺」の「釈迦三尊光背銘」では「上宮法皇」は「法興元卅一年歳次辛巳」の「明年」、つまり「法興元卅二年」の「二月」に死去しているとされています。
 「釈迦三尊像」の「光背」銘文は以下の通りです。

(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)(「/」は改行を表します。)

「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐…」

 このことからもに出てくる「厩戸勝鬘」と「上宮法皇」は同一人物ではないと考えられることとなります。

 この「上宮法皇」については「法隆寺釈迦三尊像」の「光背」に出てくることで有名ですが、時代的な部分から考えて、いわゆる「聖徳太子」という人物とかなりの部分で重なるとともに『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」である「阿毎多利思北孤」とも重なると考えられます。つまり、一般に「聖徳太子」と称されている人物のかなりの「治績」は「上宮法皇」つまり「阿毎多利思北孤」のものではないかという推測が可能ですから、「厩戸勝鬘」と称する人物は「阿毎多利思北孤」本人ではないこととなり、また「法隆寺釈迦三尊」の光背銘文によれば「王后」も「上宮法皇」と同時に亡くなられていますから、結局「それ以外」の人物の中に該当者を捜すほかないこととなります。つまり、「皇子」(皇女)を含む「王権関係者」の「誰か」ではないかと考えざるを得ません。

 また「記紀神話」における「天宇受売尊」という人物の名称における「宇受」とは「頭」のことであり、そこには「髪飾り」をしていたという意味が隠されていると思われます。また「天鈿女」とする表記もありますが、この「鈿」は「かんざし」のことであり、まさに髪飾りを意味するものです。
 神話世界では「天宇受売尊」(「天鈿女尊」)は「オリオン(座)」の表象とされているようですが、この「オリオン」は古代中国の「西王母」の投影とする見方もあり、そうであれば「西王母」は「華勝」つまりきれいな花飾りを頭に付けていたとする史料もあるところから、まさに「天宇受売尊」そのものといえます。この「天宇受売尊」が女性であるのは神話を見ると一目瞭然ですから、その意味からも「厩戸勝鬘」は女性であったと言えそうです。

 ところで「平成七年」に巨大な「半地下式心礎」が発見された「香芝市尼寺(地名)」では、発見された「尼寺廃寺」(北遺跡)の二〇〇メートルほど南側にも別の「廃寺」が確認されており、そこに残る薬師堂の「毘沙門天像」の背には以下のような「墨書」があるとされます。

「華厳山般若院/片岡尼寺開山/皇太子勝鬘菩薩ナリ/(梵字)毘沙門天/皇太子作」

 この「墨書」や「毘沙門天像」がどれほど遡るものかは不明ですが、通説でも相当古いと見られます。また、この「墨書」からはこの「廃寺」が「尼寺」であること、それを開山したのが「皇太子勝鬘菩薩」であることが読み取れると同時に、「毘沙門天」は「皇太子」の作であるとされているのがわかります。
 ここでは「皇太子勝鬘菩薩」が「尼寺」を開山しているとされていることが注目されます。それは、このことから、この人物が「女性」である可能性が高いと思料されるものだからです。
 多くの「尼寺」の例から考えても、その開基ないし開山は「尼僧」であるのが通常です。希に男性である場合もありますが、それは当初「僧寺」であったものを変えるとか、「僧寺」に「尼寺」を増設するなどの場合に限られるように思われます。(後の「橘嘉知子」による「檀林寺」つまりなど場合)つまりそこが尼寺であるとすると、開山したとされる人物である「皇太子勝鬘菩薩」という人物も女性であることが強く示唆されることとなるわけです。
 またここでは「菩薩」という形容がされていますが、これが「観世音菩薩」を意味するものであるとすると『妙法蓮華経』には「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」という文章があります。
 以下『妙法蓮華經』(鳩摩羅什譯)より抜粋

「…觀世音菩薩。即現佛身而爲説法。應以辟支佛身得度者。即現辟支佛身而爲説法。…應以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者。即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而爲説法。應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者。即現婦女身而爲説法。…」

 つまり、「観世音菩薩」は相手に応じてその姿を変えて説法するとされているわけで、「婦女」に対しては同じく「婦女」となって(変身して)説法するとされています。そう考えると、この時の「皇太子勝鬘」は「開山」した程ですから講説もしたであろう事を想定すると、この「皇太子勝鬘」もまた「尼僧」として「説法」した事を意味するのではないかと思われ、それが「菩薩」と形容されることにつながっていると見ることもできるでしょう。
 この「廃寺(北遺跡)」の創建年次については「近畿一元論者」間でも議論があり、「七世紀前半」とする意見と「後半」とする意見が分かれていますが、この混乱は「半地下式心礎」や「瓦」についての見解の差であると見られ、これらがこの当時の「飛鳥」の標準的な技術水準とは異なるという点が問題となっていると考えられます。
 この「北遺跡」の「半地下式心礎」は、ほぼ同型が「若草伽藍」に使用されていたことが判明しており、その「若草伽藍」が「法隆寺」のある敷地に以前建っていた建物であり、それが「焼亡」したのが「六二〇年」付近と考えられることを考慮すると、この建物と同じ形式の心礎を持つこの「廃寺」についても「七世紀前半」の創建が推定されるものです。それは「心礎」上面から発見された「金環」(耳輪か)にも言えるようです。
 このような「荘厳具」が「心礎」に残されていたのは、「飛鳥寺」「中宮寺」「定林寺」「四天王寺」など、いずれも「七世紀前半」以前にその創建が伝えられる寺院ばかりであり、「心礎」への埋納という宗教的行為について共通性があるということからも、時期を同じくする証明ではないかと考えられるものです。(まだ「古墳」への埋納の記憶が残っている時期か)
 また「基準尺」として「唐尺」(小尺)の採用が推定されていますが、私見によれば「隋」から諸文化を取り入れた際に「度量衡」についても導入されたと考えるべきと思われ、この事は逆にこの建物が「七世紀前半」の創建であることを推定させるものと言えるでしょう。
 さらに「坂田寺」と同笵の瓦が出土していることを捉えて、「六五〇年代」あるいはそれ以降とする論もありますが、「坂田寺」の創建が『書紀』に記すとおり「五八八年」とすると、この出土瓦がそれに使用されている瓦のバリエーションのひとつであることを考えた場合、それが五十年も六十年も創建から下るとは考えられません。仮にそうならば「坂田寺」の「建設過程」に大幅な停滞があったこととなりますが、『書紀』を見る限りそのようなことは感じられません。逆に『推古紀』には、以下に見るような「鞍作氏」に対して「褒賞」として「大仁」の位と水田が与えられたという以下の記事があり、その時点で「坂田尼寺」(金剛寺)が創建されたとされていますが、この時点で「坂田寺」についても何らかの「補修」を行なったという可能性さえ考えられるものであり、そうであればかえって時代として整合するともいえるでしょう。

「推古十四年(六〇六年)五月甲寅朔戊午条」
「勅鞍作鳥曰。朕欲興隆内典。方將建佛刹。肇求舎利。時汝祖父司馬達等便獻舎利。又於國無僧尼。於是。汝父多須那爲橘豐日天皇出家。恭敬佛法。又汝姨嶋女。初出家爲諸尼導者。以修行釋教。今朕爲造丈六佛以求好佛像。汝之所獻佛本。則合朕心。又造佛像既訖。不得入堂。諸工人不能計。以將破堂戸。然汝不破戸而得入。此皆汝之功也。則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥以此田爲天皇作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺。」
 
 さらに「法隆寺」と同様の「パルメット紋(蔓草模様)」の「軒平瓦」も確認されており、またこの瓦についてはその「胎土」についてもその成分が「法隆寺」と同じとされていますが、「法隆寺」の創建の年次については、「法隆寺」に伝わる伝承からも「年輪年代法」による主要部材の年代測定からも、「七世紀初め」という時期が推定され、これと同じ形式の瓦を使用している「尼寺廃寺」も「七世紀初め」という創建年代が有力視されると思われます。 
 「法華経」「勝鬘経」「維摩経」は「大乗三部経」と言われ、「女人」を含む「市井の民」が「成仏」できることを説いているのが特徴です。
 また、「法華経」や「勝鬘経」は「女性在家」を重視するものであることが重要と思われ、「法華経」では「提婆達多品」の中での「娑竭羅龍王の娘」や「薬王菩薩本事品」における「女人往生」の話、「勝鬘経」では「勝鬘夫人」というように「女性」がその「主役」となっている部分もあり、このような「信仰」は実際の「王権」周辺の女性達には受け入れやすいものであったと思われます。
 つまり、ここで「勝鬘経」に淵源した名前を持つ人物は「王権」の内部に存在していた女性であると推察され、「確定」は困難であるものの、「利歌彌多仏利」の「正夫人」であり、後に「皇后」となった人物ではないかと推測されます。(あるいは「皇太子」という表記から考えて「利歌彌多仏利」本人という可能性もありそうです)
 この結論は「厩戸勝鬘」が女性であると推論したわけですが、上で述べたように「時代」も含めて「聖徳太子」とは異なる人物であり、「聖徳太子」が「女性」であったと述べている訳ではありません。
 ただ、一般には「聖徳太子」と同一視されていることは確かであり、それは後の「聖武天皇」が「菩薩戒」を受け「沙弥勝満」と名乗った(というより師僧である「行基」から「戒」を授けられた際に名付けられた)ことにも現れており(『扶桑略記』による)、そのように「勝鬘」に「なぞらえた」「法号」を名乗ったと言う事にも、そのような「混乱」が反映していると考えられます。  
 これはそのような「誤解」に基づいた後代の知識によったものとも思料されるわけですが、ただここで「勝満」というように「鬘」の字から変えているところを見ると、「勝鬘」が「女性名」であるという心理的支障があったという可能性も考えられます。つまり「厩戸勝鬘」という人物が女性であることを「聖武」も「行基」も知っていたという可能性があることとなるでしょう。

(ホームページ記載記事に加筆)

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「和銅」改元時の国司任命記事について

2021年02月22日 | 古代史
「元明紀」には「和銅改元」時に諸国に対する「国司」(国守)任命記事があります。(以下のもの)
そこでは「筑紫」全体としての「大宰府」を除けば計28国について「国守」が任命されています。

(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲『攝津』大夫。從五位下佐伯宿祢男爲『大倭』守。正五位下石川朝臣石足爲『河内』守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲『山背』守。正五位下大宅朝臣金弓爲『伊勢』守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲『尾張』守。從五位下美弩連淨麻呂爲『遠江』守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲『上総』守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲『下総』守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲『常陸』守。正五位下多治比眞人水守爲『近江』守。從五位上笠朝臣麻呂爲『美濃』守。從五位下小治田朝臣宅持爲『信濃』守。從五位上田口朝臣益人爲『上野』守。正五位下當麻眞人櫻井爲『武藏』守。從五位下多治比眞人廣成爲『下野』守。從四位下上毛野朝臣小足爲『陸奥』守。從五位下高志連村君爲『越前』守。從五位下阿倍朝臣眞君爲『越後』守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲『丹波』守。正五位下忌部宿祢子首爲『出雲』守。正五位上巨勢朝臣邑治爲『播磨』守。從四位下百濟王南典爲『備前』守。從五位上多治比眞人吉備爲『備中』守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲『備後』守。從五位上引田朝臣尓閇爲『長門』守。從五位上大伴宿祢道足爲『讃岐』守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲『伊豫』守。從三位粟田朝臣眞人爲『大宰』帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。

さらにそれほど日を置かないで次の二つの国にも国司が任命されます。

(七〇九年)二年…十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲『伯耆』守

(七一〇年)三年…夏四月…癸夘。以從三位長屋王爲式部卿。從四位下多治比眞人大縣守爲宮内卿。從四位下多治比眞人水守爲右京大夫。從五位上采女朝臣比良夫爲近江守。從五位上佐太忌寸老爲丹波守。從五位下山田史御方爲『周防』守。

これらに含まれない国々は「東海道」では「伊賀」「參河」「駿河」「伊豆」「甲斐」「相模」、「東山道」は「飛騨」、「北陸道」は「佐渡」、「山陰道」は「但馬」「因幡」「石見」「隠岐」、「山陽道」は「安芸」「南海道」は「紀伊」「淡路」「阿波」「土佐」と総計17カ国になります。
これらの国々への国司任命記事はかなり後になります。なぜ「和銅」改元時点で他の30国のように(ほぼ)同時に任命されなかったのでしょうか。

 これについては任命されなかった国々を見るとある程度推測が可能です。例えば「南海道」は「伊豫」と「讃岐」を除く「平城京」から伸びる「紀伊」を始めとする「南海道」の主線行程上の国が入っていません。南海道の「伊豫」「讃岐」は「筑紫」から(「豊後」経由か)瀬戸内海を通過して行きやすい国であり、「土佐」等の諸国は「筑紫」からのルートとしていわば「遠絶」と考えられていたもののように思われます。
 確かに「伊豫」から「土佐」へのルートはあったものですが、陸路として山脈越えであり、その後「七一八年」になって「阿波」からのルートへ「付け替え」が行われたものです。これらついては西村氏も『古田史学会報』一三六号で言及されていますが、明らかに王権の中心地点の移動に伴うものですが、この付け替え年次である「七一八年」の二年前が前回検討した(豊後に置かれた)「戍」における交通制限の緩和措置です。
 「豊後」と「伊豫」を接続することを制限する必要がなくなったことと、「伊豫」を介して四国内を統治する形態が過去のものとなったこととは深く結びついていると思われるものです。

 また「東海道」は「遠江」以東の箱根を越えるルート上の国が入っておらず、これについては「東海道」そのものが以前は「遠江」以降は「海路」であったと考えられており、房総半島に上陸するルートが長く使用されてきていたことと関係していると思われます。
 「古代官道」の箱根越えルートは後からできたものであり、その経路上の諸国はそれほど倭王権と関係が深くはなかったと思われるわけです。
 また「山陰道」においても「筑紫」から見て遠方の「因幡」「但馬」などが入っていません。これも似たような事情と思われ、海路「日本海」ルートを行くとき「出雲」から「越」へという主線行程からこれらの国は「スキップ」してしまう結果「外れている」ということとなるのではないかと思われます。
 それに対し「関東」の国々はほぼ網羅されていますが、それは『常陸国風土記』が示すように「総領」が任命・配置された段階で「クニ」から編成替えが行われ、「令制国」と同等の広域行政体が作られたとしていますから、これらに「国司」(国宰)がいなかったはずはないこととなるでしょう。

 結局これら国司任命がなかった諸国は以前の「倭国」時点においてかなり後半まで「諸国」(附庸国)に入っていなかった国であると推測できるでしょう。これらの理由等により「倭王権」と関係の浅かった場所には「国宰」や「国守」が元々任命されておらず、新日本王権に王権が委譲された後に改めて「国司」を任命する際に旧王権から任命されていた国司を新王権側から選定した人物へすげ替える措置を行ったものとみられ、それが「和銅」改元時点で任命された者たちと思われるものです。(ただし新王権に忠誠を誓った場合などはそのまま横滑りした者がいなかったとは思いませんが)
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「豊後」と「伊豫」の「国之境」

2021年02月07日 | 古代史
『続日本紀』に「豊後」と「伊豫」の間に『国之境』があり、そこに『戍』が置かれていたことが書かれた記事があります。(以下のもの)
 
(靈龜)二年(七一六年)…夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。
五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。

上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」(伊豫)からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。
 ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。
 
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』

養老元年(七一七年)…十一月…
癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。

 ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘(「憶良と亡命の民 -嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集)によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。
 この旧倭国領域(特に「直轄領域」)については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在(これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます)や、その後の「伊豫総領」(これも「旧倭国王権」により任命されていたものか)という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。
 確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」(これは反乱の地である「薩摩」の国司たち)から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。
(「柵」のほうが規模が大きい)

 (七〇二年)二年…
 冬十月乙未朔。…
丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…
 
 さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。
 つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として(いわば「官」として)大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。
 このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。  
 「伊豫」地域には以下に見るように「守」が適宜任命されており、統治が緩んでいたようには見えませんが、この領域の旧倭国王権支持者たちは粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。
 「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。 
  
(七〇三年(大宝三年))八月辛酉。以『從五位上百濟王良虞爲伊豫守。』
(七〇八年)(和銅元年)三月…
丙午…『從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。』
(七〇九年)(和銅二年)十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。『正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。』
(七一四年)冬十月乙夘朔。…
丁夘。以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。『從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。』從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。
(靈龜)二年(七一六年)
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。『從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。』
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「薩摩国正税帳」と貢納路

2021年02月07日 | 古代史
 以前『筑後国正税帳』の中に、「種子島」からの僧侶の帰途の食料として「二十五日分」が支給されているという記事があり、これと『倭人伝』中の「投馬国」への日数として「水行二十日」と書かれていることとの関係を指摘しました。

「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)

 つまり天平四年の『筑後国正税帳』中に「種子島」から来ていた僧侶や人夫の帰還に食料を支給した記事があり、それを見ると「二十五日分」であって、この日数から考えてこれが「大宰府」から「多褹」までの全日程に要するものと見たわけですが、同時にこれが「陸路」ではないであろうと考えたわけです。もし「陸路」であったとすると当然隣国の国府までの食料を支給すればよいはずであり、最終的に「薩摩」からだけが「水行」の対象となるはずですが、実際には「多褹」までの全日程分の支給をしているということから考えてこれは全行程を「水行」したと見たものです。つまり「多褹」から「大宰府」までは「有明海」を「沿岸沿い」に北上して「筑後川」河口に到達した後、「筑後川」を遡上して「大宰府」まで行ったものと考えたものであり、帰路はちょうどこの逆ルートを使用したものと考えました。
 『倭人伝』の中で「投馬国」までの行程が「水行二十日」と書かれている点について(この「投馬国」の位置については諸説ありますが)、私見では「伊都国」からの行程が書かれていると見たものですが、この『正税帳』の記事に見える「大宰府」から「二十五日」という食料の支給との関連で考えると、『倭人伝』においても「水行二十日」で到着するという「投馬国」が「薩摩」のことと措定して違和感はないとみたものです。
 ただし見ようによってはこの記事は「多褹」までが「水行」であるのはそこが「島」だからとも言い得るかもしれません。しかし「多褹」への帰還に「陸路」つまり「官道」が使用されていないのは「官道」の使用が「公用」に特化していたためであり、一般の人々の使用を強く制限していたためです。「官道」の名称が示すように一般民衆が気軽に使用できる条件はなかったと思われます。このことは「水行」しているからといって「投馬国」が「島」であるという理由には直結しないことを示すものです。
 ところでこれに関係するものとして今回『薩摩国正税帳』に「兵器料」(及び「筆料」)としての「鹿皮」を「大宰府」へ運ぶ人夫に対して、食料が「往復」で19日分支給されていることを確認しました。

「…運府兵器料鹿皮擔夫捌人《十九日》惣単壹伯伍拾貳人 食稲肆拾陸束肆把《八人十日人別四把八人九日人別日三把》…
運府筆料鹿皮擔夫貳人《十九日》惣単三(異体字)拾捌人 食稲壹拾壹束陸把《二人十日人別四把二人九日人別日二把》…」(天平四年『薩摩国正税帳』)

 薩摩国府から大宰府までの行程は、このような庸調の貢納には「官道」を使用することが決められていたものであり、当然「陸路」でした。(ただし以前の記事で指摘したようにそれ以降近畿までの瀬戸内海は「海路」が標準であり、「難波津」が指定港であったものです。)
 当時の律令国家は、運送の利便さではなく、国家威信の発露として「官道」を「貢納路」として使用させていたものであり、その貢納は、直接貢納担当者によって「陸路」を「人夫」が運搬するというのが原則でした。つまり「薩摩」から「大宰府」まで「陸続き」だから「陸行」したのではなく、あくまでも「大義名分」を重要視したが故に「官道」を使用したのであり、それは行程が「官道」周囲から目視できることが重要であったわけであって、「御用」などの幟や旗などにより視覚的にも威儀を示すことが可能な陣立てがあったものと思われ、一種のデモンストレーションが行われたものと思われます。
 また、この輸送に関わる「人夫」への食料として「薩摩国」が全行程分を負担しているわけですが、それはこの「鹿皮」を「兵器料」として朝廷に納める行為そのものが「薩摩国」の責任で行われるべきものだからであり、途中経過する「肥後国」などがそれを一部でも負担すべき理由がなかったからでしょう。
 ちなみにその後の『延喜式』では大宰府からの行程として、薩摩国府からの往路として12日間、帰路にその半分の6日間が規定されていました。往復で18日間というわけですが、「正税帳」では往復で19日間となり、近似しているもののその割り振りも含め若干異なっています。

「…薩摩国/行程上十二日。下六日。/調。塩三斛三斗。自余輸綿。布。/庸。綿。紙。席。/中男作物。紙。…」

 このように行程日数等に変化があったわけですが、それに関してはどのような事情があったものか、現時点ではつかめていません。いずれにせよ、このように「官道」が利用される場合には「十日前後」で「薩摩」と「大宰府」間は結ばれていたわけですが、そのような整備された規格道路がなかった時代には「陸路」が積極的に利用される状況ではなかったものと思われ、『倭人伝』の時代にあっては(「多褹」までの僧の帰還などと同様)「海路」が主要な移動手段であったと推察されます。
 ちなみに『倭人伝』において「伊都国」以降の「水行」に使用した船舶が「倭王権」(つまり「一大率」)が用意したものか、「魏」から使用してきたものかは明確ではありませんが、推測によれば「倭王権」が用意した船と考えています。「魏使」が乗船してきた船は「末盧国」に係留されている可能性が高いと思われます。彼等は「末盧国」で上陸していますから、それ以降については自前の船を使用できず、「倭王権」が用意した船に乗船するしかなかったと思われます。(彼等の船は「一大率」の配下の手により管理されていたものと思われます)
 「魏使」が乗ってきた船は「外洋航海」が可能な「構造船」であったと思われますから、彼等の船であれば「伊都国」以降「投馬国」までは「沿岸航法」というより沖合を一気に遠距離移動できたはずです。そうであれば「二十日」も「投馬国」までかからなかったものと思われますが、当時の「倭」にはそのような船がなかったため、夜間には上陸・接岸し翌朝航路へ復帰するという行程であったと思われます。そのため「二十日間」という日程を要したものと考えるものです。
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「徳政令」と「革命」

2021年02月07日 | 古代史
 すでに検討したように『続日本紀』には「壬寅年」以前の「大税」について「免ずる」という詔が発せられている記事があります。これは明らかに「徳政令」ですが、それが発せられたタイミングは「慶雲」への「改元」時点とされます。
 また「朱鳥」改元前後にも同様の「詔」が発せられています。

(六八六年)朱鳥元年
秋七月己亥朔…
丁巳(十九日)。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。『乙酉年十二月卅日以前。』不問公私皆兔原。

(六八七年)(持統)元年…
秋七月癸亥朔甲子(二日)。詔曰凡負債者『自乙酉年以前』物莫収利也。若既役身者不得役利。

 ここで「乙酉年」といっているのは「六八五年」つまり「朱鳥改元」以前を指しているのは明確です。なぜここで「乙酉年十二月卅日以前」(六八五年)と指定しているか、については、要は「朱鳥」改元した年次以前についての措置であり、「天武十五年」の「七月」に改元した際に、遡ってその年の初めである「一月一日」から「朱鳥」であったこととし、それ以前を「利息の元本」の阻却対象としたものですが、これは明らかに旧「天武王権」時代について「否定」している性格のものであり、それは「債権者」の否定と思われます。
 以前考察しましたが、「持統王権」はいわば「禅譲」されたもののそれまでの「倭王権」からは「傍流」であったと考察しました。つまり「持統王権」の母体となっていた勢力は「天武王権」の母体とは異なる勢力であり、また異なる領域であったとみられることとなります。
 つまり「王権」に近い立場にはその「徳政令」で被害を被るものが「いない」という可能性が高く、それは「他王権」(前王権)の「治世」を「否定」する行動の一部とも思われることとなります。
 一般に「徳政令」を行うと「債務者」は助かりますが「債権者」は助からないということとなるでしょう。特に「多量」の「債権」を保有するものにとっては「死活問題」です。つまり「王権」が交代するというポイントでは「徳政令」は「他王権」(前王権)にとっては「とどめ」を刺される性格のものではないでしょうか。それは即座に「資金源」を断たれる、ということとなるからです。
「改新の詔」に引き続き出された「東国国司詔」の中では以下のように「徳政令」が発せられています。

(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…

 ここでも「徳政令」が発せられていますが、その標的は「吉備」の権力者とそれにつながっている人々であると思われ、この「改新の詔」は明らかに「吉備」の権力者との絶縁を意図したものであり、「吉備」の権力者をいわば「潰す」ことを目的としていると思われますが、そのことは「逆」にいえばそれまでの王権は「吉備王権」であったことを示すものと言えます。
 上の「詔」に引き続き「皇太子使使奏請に対する詔」の中では「皇祖大兄」として「彦人大兄」が挙げられており、彼の御名部(名が冠せられている部民)と「其(の)」という形容がされているところから、彼に直結すると思われる「屯倉」が返上させられ、「天皇」に帰属させられたとされています。

(六四六年)大化二年
壬午。皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。『故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。』

 ここで名が挙げられている「彦人大兄」は「押坂彦人大兄」であり、彼は「皇祖大兄」という至上の敬称を奉られており、絶大な権威を所有していたことが推定されます。またそれを示すように「詔」の中では多数の「御名部入部」を保有していたらしく、それを継承・保有していた人物についてその所有権を放棄させられるということが行われています。
 「徳政令」で放棄させられた「貸稲」についても「吉備嶋皇祖母」が保有していた広大な領地の存在を前提にした表現であると考えられ、それらは「新王権」により取りあげられ「食封」代わりに「群臣及伴造等」に「班賜」することとなった模様です。このことから「吉備嶋皇祖母」の権力の大きさを示すものでもあります。
 この「吉備嶋皇祖母」というのは『書紀』では「皇極(斉明)」の「母」とされている人物です。その「吉備嶋皇祖母」については詳細は『書紀』には書かれていませんが、「皇極」の年齢から考えて、その主な活動時期は「七世紀初め」であったと思われます。その彼女の「財産」として「貸稲」とその背景としての広大な領地があったことが推定される訳です。
 つまりこの「詔」の解釈としては「官司」の「屯田」とは「旧王権直営の田」であり、そこには「田部」が置かれ収穫した「稲穀」は「屯倉」に収納された後、「旧王権」に直送されるというシステムであったと思われますが、それに対し「吉備嶋皇祖母」の「貸稲」の方は「王権」というより「吉備嶋皇祖母」個人の所有に帰するものと思われ、広く貸し付けられて利を稼いでいたものであり、その利益は彼女個人の収入となったと思われ、それを背景として絶大な権力行使が行われていたであろう事が推察されます。もちろんこれは彼女自身が形成したと言うよりは彼女の「父祖」から継承したものと考える方が筋が通っていると思われ、その彼女の父は「茅濡王」とされていますが、彼は「押坂彦人大兄」の子供とされているのです。
 つまり「彦人大兄」についても「吉備」と浅からぬ関係があるわけであり、「吉備王権」は彼に発祥するといってもよいと思われるわけです。(「皇祖」という呼称の所以もそのあたりでしょう)
 実際に『和名抄』に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であり、これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
 「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。それを考慮すると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたとして決して不自然ではありません。
 この「押坂彦人大兄」については「私見」では「阿毎多利思北孤」の「前代」の人物と推定しており(『古事記』によれば「押坂彦人大兄」は「隋」への「遣使」以前に死去していると思われるため)、彼の「弟王」である「春日王」あるいは「難波王」が「阿毎多利思北孤」その人であると推定しました。
 それまでの「南朝」偏重を脱して、初めて「北朝」である「隋」へ使者を送り、制度他新しい文化・情報を入手することで統治を一新しようとしたのが「皇祖」と称される「押坂彦人大兄」であり、またそれを継承した弟王と見られます。 
 このような思惟進行は、「吉備嶋皇祖母」がその広大な領地を「押坂彦人大兄」から継承した事を推定させるものであり、そこで「貸稲」を蓄え、それを民衆に貸し付けて巨大な財源としていたと考えられる事となります。それはその後「子供達」である「舒明」と「皇極」に相続されたものですが、その後「新王権」に奪取されるということとなったのではないでしょうか。その意味で「皇極天皇」の諱名が「天豊財重足姫」という(さらに結婚前は「宝皇女」と呼称されていた)、そのいかにも「資産が豊富」と推測されうるものであるのもよく理解できるものです。
 ところで上に見たように「改新の詔」とそれに引き続く「詔」群では「押坂彦人大兄」と「吉備嶋皇祖母」の「財産」としての「御名部入部」と「貸稲」について、「天皇」に献上し、「天皇」はそれを「各群臣及び伴造」へ「班賜」するとされています。しかし、その「詔」を出した「天皇」である「孝徳」は『書紀』では「皇極」の「同母弟」とされますから、「押坂彦人大兄」や「吉備嶋皇祖母」とは「直系」となり、これを「天皇」に帰属させるというのはある意味「当然」のことであり「改新」でも何でもないこととなってしまうでしょう。
 彼が「皇極」と姉弟の関係であるなら「吉備嶋皇祖母」の子供となりますから(しかも男子です)、彼に財産の継承権があるのは当然と考えられるからです。
 このような施策は、ここに書かれた「天皇」というものが「皇極」「舒明」と血縁のない人物であるか、正当な「財産継承権」を有していない人物の時始めて意味を持つ「詔」であると考えられ、そのような人物がそれを自分のものにするための「大義名分」として出されたものと考えるべき事を示します。つまりここに「革命」が起きたとみて不自然ではないわけです。
 この「改新」が一種の「革命」といえるのは、制度を大きく改変していることからも言えますが、この「徳政令」が最も端的に「革命」の本質を表していると言えるでしょう。
 そもそも「徳政令」は貧困にあえぐ「民」が多いことを表すものであり、「革命」がおきる状況がすでに「前提」としてあることが重要なことなのでしょう。そのような中で「王」の交代がある場合は、即座に「王権」の交代であり、それは「革命」といいうるものであって、だからこそ「徳政令」は必須ということとなります。
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