棟上寅七氏(中村通敏氏)のブログ(https://ameblo.jp/torashichi/)に非常に興味深いことが書かれていました。それは「稲荷山鉄剣」の銘文中にある「杖刀人」についてです。 氏のブログによれば「平野雅曠氏」のエッセイに引用された「田ノ井貞治氏」(医師、「飛鳥古京を守る会」会員)が「朝日新聞」(昭和55年5月5日付け「研究ノート」欄)に書かれた「杖刀人は古代の医官」という題の文の中で「杖刀」について検討されており、それが「正倉院」にある「杖刀」(「呉竹鞘杖刀」及び「漆塗鞘杖刀」)と同種のものであり、「咒禁」を業とする人が使用する「儀礼用の刀と考えられ、「杖刀人」とはそのような職種の人間を指すというものです。
今一度この「稲荷山鉄剣」の」銘文」を掲示します。
(表)「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比跪其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」
(裏)「其児名加差披余其児名乎獲居臣『世々為杖刀人首奉事来至』今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」
ここに書かれた「杖刀人」という用語は国内ではこの「鉄剣」に書かれた(彫られた)ものが初出です。これが何を意味するかの検討が不十分のまま「授刀人」と同義であると「学界」から即断されているようです。 「授刀人」は『書紀』に出て来るもののいわば宮殿の親衛隊であり、門番のようなものです。時代も「元明天皇」の時代になって「初めて」設置されたものであり、これと無批判に同一視しているわけです。
この「杖刀」という語については古田氏が指摘したように「武人」を指すという考え方もあります。 「杖刀」という単語は『三國志』にも出ており、武将が剣(刀)を立てて直立する姿勢を示している用例が確認でき、武将としての「威儀」をしめす姿勢とされます。もちろんこの場合「武将」と言っても「下っ端」ではなく、「将軍」のような高官であるのが「本意」であり、その意味でも「佐治天下」という用語との関連を示唆するものという考え方です。ところが、上に見たように「田ノ井氏」の考え方ではこの「杖刀」という単語が「正倉院」に残る「呉竹鞘杖刀」のような「刀剣」及びそれを使って「咒(まじな)い」などを行う「咒禁」などに関わるものとみられているようです。 確かに「杖刀」と「咒禁」との関係については『令義解』の「医疾令」の説明の中で「咒禁生」の行うべきこととして「杖刀」を持ち「咒文」を読み、「作法禁気」するということが書かれており、それにより「猛獣虎狼毒虫精魅賊盗五兵」から「侵害」を被らず「湯火刀刃」でも傷つけられないとされます。(ただしこれは『政事要略』という書物からの復元と考えられており、正確性という点で疑問視する向きもあるようですが)、「世々杖刀人首」という表現も同じく『令義解』で『「咒禁生」を含む「医術」に関する職掌は「世習」(三世)』とされていることと関連していると考えられています。
「田ノ井氏」の論を見て考えましたが、この「杖刀人」が示す実態が「咒禁」を業とする人物が「杖刀」を使用していたことを意味しているという考え方に同意することを表明します。 そもそも「咒禁」の際に「杖刀」を持する理由、あるいは「杖刀」でなければならない事情というものを考えると、「悪霊退散」儀礼や「危険」な対象からの護身としての「持禁」も「王」など中枢の人に対して行われたと考えられますから、宮殿の奥深くまで入る必要があるわけですが、そのような場所に「刀剣」を「刀剣」と判る形で所持して入っていくことはできなかったのではないかと思われます。 中国では「百官」は古来帯刀(帯剣)して昇殿が可能でしたが、それがそのまま倭国で行われていたかは不明であり、武人に限定されていたものではなかったでしょうか。そもそも当時「刀剣」は「武人」以外所有していなかったとも思われますし、やはり「王」の前では(特に信頼していた人間など特定の人を除き)武装解除の必要があったと見るべきでしょうから、「呪禁」を業とする職掌の人間も例外ではなかったと思われます。しかし彼らはそれを使用して「咒い」を行う必要があったわけであり、「剣」(刀)は必需であったわけです。そのためやむを得ず外見上「刀剣」には見えないように「鞘」を「杖」に仕立てて宮中に入ったものと思われるわけです。 この「杖刀」は儀礼用ですから刀身自体、それほど長く作る必要はなく、杖の長さより実際にははるかに短く作られており、その意味で実際の「攻撃力」としては相当程度減じていたものと思われ、そのような条件付きで王の側まで所持することを認められていたものではなかったでしょうか。 この考え方であれば「杖刀人」は「王」の側近的立場であることとなりますから、「田ノ井氏」「平野氏」などがそう考えたように「佐治天下」する事も不可能ではないということとなるでしょう。(しかも「臣」という称号も「側近」的立場という見方と矛盾しません)
『令義解』では「世習」の中身として「三世習医業。相承為名家者也。」とされ、少なくとも三代続いて医業を習っており、そのため名家とされるという条件をつけています。この「乎獲居臣」の場合過去三世が相当すると考えると「多沙鬼獲居」から「杖刀人」であったという可能性が考えられますが、そう考えるよりも「上祖」とされる「意富比跪」その人が「咒禁」を行う職掌にあったと見るのが相当ではないでしょうか。 現時点の「乎獲居臣」が自分に直接つながる祖先として「意富比跪」を挙げているのは、彼が「乎獲居臣」と同様「杖刀人」であったからであり、彼以降「王」の側近として仕えてきた(「奉事来至」と表現しています)ことが「彼」を「上祖」としている理由ではないかと考えられるのです。