『隋書俀国伝』には「倭国」の官職制度について説明した箇所があります。
「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」
ここに書かれた「軍尼」「伊尼翼」という官職名唐について以前考察しましたが、新たな知見を得たので書き加えて再掲します。
この時派遣された「遣隋使」の一行には当然ながら「通事」(通訳)がいたと思われますが、また彼らは「百済」を経由して「隋」へ訪れたものと思われます。「百済」は「隋」から「帯方郡公百済王」という称号を得ていました。「倭国」からの使者は当然(三国時代と同様)「帯方郡」を経由して「隋」の都へ訪れたものと思われるわけであり、この時点では「帯方郡」を統治するものとして「百済」が存在していたわけですから、「倭国」からの使者は「百済」にいわば引率されていたと思われる訳です。ただし「重訳」つまり「訳」を重ねて訪問したとは書かれていませんから、「倭国」からの使者は直接「隋」との間で会話を行うための自前の「通訳」をともなっていたこととなるでしょう。そう考えると、たとえば「軍尼」という語は「隋皇帝」(高祖文帝)の問いに「通訳」が答えたものを「文書」化したものが基本であると思われます。もちろんこの「通事」が「日本人」なのか「半島人」や「隋」などの大陸の人なのかは全く明らかではないわけですが、いずれにしてもこの「軍尼」という表記は「表音」を現わしているものであり、その「漢字」の発音は「漢音」として書かれたものと考えられます。(これが「表音表記」であるというのは、その直後に「猶中國牧宰」というような「説明」が付いていることでも知られます。「表意」であればその文字の中に「意味」が含まれているわけですから、「説明」書きは別に必要ないこととなりますから。)
「隋」の発音はその後の「唐」の発音と同じであり「中国北方音」です。これを「漢音」と称するわけですが、これは現在の「日本漢音」とほぼ同じと考えられ、そうであれば「軍」の漢音は「クン」ないし「コン」、「尼」の漢音は「ジ」ですから、「クンジ」あるいは「コンジ」と発音するのが正しいと思われ、「クニ」とは結びつきません。もし「遣隋使」(通訳)が「クニ」と発音したのならば、「隋」の「官人」は「尼」という漢字は使用しないことでしょう。それは「隋」では「ニ」とは発音しない漢字だからです。(『隋書』の中では「尼」という漢字は本来の「出家した女性」という意義の他は異蛮における個人名などにしか使用されておらず、この『俀国伝』の使用例も後者に類するものであり、「表音」として考えるべきものと思われ、そこに「意味」は特にないと考えるべきでしょう。)
これに関しては「伊豫軍印」について考察した際に触れた「軍郡」(軍郡事)という官職が任命されていたという記事が関連している可能性があるでしょう。
「倭の五王」の上表によれば「南朝」の皇帝に遣使していた「倭国王」の配下には複数の「軍郡」(「軍郡事」)がいたわけであり、彼等は「南朝」から「印綬」を授けられたと考えられます。
「…讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。」「宋書夷蛮伝」
これら二十三人の軍郡は「除する」とされていますから、正式に任命されたこととなり、規定に則り「銅印環鈕」他を授けられたものと思われますが、この「軍郡事」を「倭国内」では「クンジ」あるいは「コンジ」と呼称(発音)していたという可能性もあるでしょう。
同様に「伊尼翼」は「イジヨク」と発音するものと考えられ、これも「稲置」(イナギ)とは似ても似つかないものとなります。
ちなみに「阿毎多利思北孤」については「国書」の「署名」と考えられ、これは「倭国側」からの表記ですから、「呉音」で発音するべきものと思料され、「アメ(マ)タリシホコ」となると思われます。ただし、「利歌彌多仏利」は「軍尼」「伊尼翼」と同様「倭国」からの使者が話した言葉の聞き書きであり、「漢音」で発音すべきものと考えられますが、発音としては「リカビタフツリ」と発音すべきこととなります。
ところで「軍尼」や「伊尼翼」はいずれも「発音」を聞いて書き留めたものと思われますが、実際にはどのような「倭語」を聞いて書き留めたものでしょう。何か近い言葉が今も残っているという可能性も考えられ、それを考慮して発音の似た単語を思い浮かべると、「伊尼翼」(いじよく)については「うじやく」(氏役)という言葉が関係しているのではないでしょうか。「うじ」(氏)「やく」(役)つまり、「氏」のことに関する「責任者」という意味合いがあるかと思われます。
「氏」はいわゆる「同族集団」を意味する言葉であり、基本的には居住する地域も同一である場合が多いようです。そのため、地域の責任者はすなわち「氏」の責任者であると言うこととなる場合が多かったと推察され、そのような人物が「里長」のような存在であったものとしても不思議ではありません。
(但し、「翼」という漢字が使用されているのは「助ける」「補助する」という意味合いがこれにあるからではないかと考えられ、それは「隋」の「官僚」がその「伊尼翼」という職掌から考えて「最適」と思われる漢字を選んだ結果という可能性もあります)
これについては「柿本人麻呂」の歌などに「宇治」の枕詞(序詞)として「もののふの八十」が選ばれていることにも現れているようにも思えます。
第三巻二六四番歌
柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首
物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代經浪乃 去邊白不母(もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも)
「宇治」の表記が一般的になるのは後代であり(これは国名等の二字表記を標準としたことに関連する)、この「氏」は人麻呂の時代には普通に使用されていたようであり、(万葉仮名としては「宇遅」「兎道」などと表記)いずれにしても「音」は「うじ」であり、それに直結する「枕詞」(序詞)として「八十」が使用されています。
「枕詞」(序詞)の起源としても「対象物」との関係性が必須であったことは確かであり、「八十」という数詞形容と「うじ」という単語の間に密接な関係や歴史が現れていると見るべきと思われ、「八十戸」が「氏」の集団であり、そののまとめ役が「氏役」であったという過去の事実がその文字修飾に現れているという推定はあながち的外れとはいえないと思われます。
また「軍尼」は「クンジ」ないし「コンジ」と発音すると推定した訳ですが、『隋書』や後の『旧唐書』などを見ると、すでに見たように「尼」という文字が出家した女性のことを意味する使用法は「唐」国内でもその直轄領域に限られ、夷蛮の地域では地名や名前の「音」を表すものでしかないことがわかります。そして、その「音」は「ジ」と推定されます。
さらに『万葉集』には「軍布」という表記があり、それが現在の「昆布」を指す言葉として使用されているようです。つまり「軍布」を「コンブ」と発音していることとなります。このことから「軍尼」は「コンジ」と発音するものと考えられますが、これは元の「倭語」がそもそも「倭語」ではなく「漢語」であり、「音」で発音されていたと見るべきことを示唆します。つまりその点から見ても「軍郡事」という官職がそれに該当する可能性があると思われるわけです。(「軍」は「漢音」「呉音」いずれも「こん」と発音します。)
それは「埼玉」の「稲荷山古墳」から出土した「鉄剣」の「銘文」からの類推からもいえます。そこには「万葉仮名」による表記と「臣」という「漢語」表記が混在していました。
この「臣」という表記が「訓」表記(例えば「於彌」など)ではないということから、この「臣」は「音」で発音していたのではないかと推測され、「シン」と呼称していた可能性があると思われます。それは「磐井」の墳墓に設営された「裁判の場」を表す形容に「漢語」が使用されていた『風土記』の記述を想起させるものです。そこには「臓物」「盗人」という法律用語が使用されていました。(これは古田氏も指摘したように各々「ゾウブツ」「トウジン」と発音していたものと思われます)
同様に「中国」や半島からの輸入とでもいうべき「法律」用語や官職用語には「漢語」がそのまま使用されていたと見るべきでしょう。
この「稲荷山古墳」から「磐井」の古墳と思われる「岩戸山古墳」に至る時期は、「五世紀末」から「六世紀前半」のことと考えられ、今問題としている時期は「六世紀末」以前のことですから、時期的には連続していると思われます。そこで「中国の制度」を導入したらしいと思われるわけですが、その時点で「漢語」をそのまま「役職名」として使用するようになっていたという可能性は高いと思われ、「軍郡事」を省略して「軍事」と称し、それを「コンジ」と発音していたものではなかったでしょうか。(省略したために「隋使」には「軍郡」のことと理解できず「軍尼」という「音表記」をしてしまったものと推定します。)
(この項の作成日 2011/08/24、最終更新 2018/11/24)左の日付で旧ホームページに掲載していた記事を現時点で再構成したものです。