既にみたように『日本帝皇年代記』に拠れば(紫香楽の)「廬舎那仏」は「長一十六丈」とされ、大きさが指定されていることから「実際に造られた」ものと考えられます。ただし大きすぎると型の内部で気泡などができやすく鋳造はかなり困難を極めたという可能性が高いと思われます。
また「正倉院文書」の中の「筑後国正税帳」をみると、『造同( 銅) 竈工人』が献上された」旨の記事があります。これが「天平十年(七三八年)」のこととされていますから、先に見た伊勢神宮への参詣などと一環の事象であったことが推定され、彼らが「菩提遷那」および「廬舎那佛」の造仏に深く関わっているのは明白と思われます。
「崇福寺」が「紫香楽宮」造営と深く関わっているとすると、その寺名も「聖武」や「行基」に深く関係していると考えられるわけですが、 この「崇福寺」が「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」に由来しているならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
彼が来日する以前に所在していたとされる長安の「崇福寺」は当初「西太源寺」という寺院であったとされます。
「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」(「大正新脩大藏經/宋高僧傳卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/周西京廣福寺日照傳」より)
これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも『天智紀』の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
ただし「南朝」の首都であった「建康」にあった「崇福院」に由来するとする考えもあり得ます。「崇福寺志」によればその創建は「北宋」の「擁熙年間」という説もあれば「東晋」にあった「崇福院」がそれであるという説もあるなどとされ、南朝劉宋の頃の創建を伝える記事があるなど、「北宋」時代に寺院として固まるまで国中に認知されていたとはいえず、それが倭国に認知されていたかは「疑わしい」といえるのではないでしょうか。またもしこの「建康」にあった「崇福寺」に由来するとした場合この寺院が「建康」の「艮」つまり「北東」の「鬼門」に建てられていたものであり、「護国」の意義があったとみてこれを真似たものとする可能性もないとはいえませんが、その「南朝」は「唐」の前王朝である「隋」に滅ぼされ「建康」も明け渡されるという推移を経たことを考えると、そのような寺院名を選定する積極的理由が感じられないのが正直なところです。
「崇福寺」という寺院が「建康」では「護国仁王寺」とされていたという記事も見受けられますが、結局「南朝」は滅亡したものであり、護国の役割を果たせなかったその寺院から名称をいただいて命名したとするとその動機が全く不明といえます。
「…按艮山門在城東北、慶春門宋時為東門在城東、其地上下相距數里不能混也。崇福院與崇福寺本是二名惟咸?志謂之崇福院元係寶壽院祥符元年改額在艮山門外則非慶春門外難消埠之崇福院明矣嗣後府縣志皆稱為崇福寺。而刪去寶壽舊額但云改賜今額夫不載舊額則何從改賜府縣志之誤顯然至仁和趙志乃以寶壽院額屬之難消埠之崇福院…」
唐王朝も長安の寺院を「崇福寺」と命名(改名)したわけですが、征服した相手から名前を「奪う」というのはある意味理解できますが、倭国の場合は南朝同様戦いには敗北したわけであり、勝者の立場ではないわけですから、「唐王朝」とは同列に論ずることはできません。
またこの「紫香楽宮」の至近には後年「甲賀寺」があったとされます。そこに「盧舎那仏像」を建てる予定があったという伝承が伝えられています。推測するとこの「甲賀寺」が本来の「崇福寺」ではなかったでしょうか。
またここに「甲賀寺」が建てられたとすると、『敏達紀』に登場する「弥勒像」を伝えたという「鹿深臣」との関連が考えられます。
「敏達十三年(五八四年)秋九月条」「從百濟來鹿深臣闕名字。有彌勒石像一躯。佐伯連闕名字。有佛像一躯。」
このように「聖武」の時代をかなり遡上する時期にこの「甲賀」の地にすでに寺院があったものであり、これが「鹿深寺」つまり「甲賀寺」であったという可能性はかなり高いものと思われます。つまり「盧舎那仏」を建てる予定であった寺院は自ずとそれとは異なる寺院であったと思われることとなり、それが「崇福寺」ではなかったかと考えられるわけです。