「斉明」は「宮殿」造営など各種の「工事」を興しており、『書紀』にはそれがうまくいかなかったことが記されています。
「斉明元年」(六五五年)「冬十月,丁酉朔己酉,於小墾田宮造起宮闕,擬將瓦覆.又於深山廣谷,擬造宮殿之材,朽濫者多.遂止弗作.」
ここでは、「宮殿」の材料としては不適なものばかりであったとする記事を載せており、いわば「宮殿」を造営することを批判的に見る観点で書かれていると考えられますが、「皇極」の時代にはそれほどでもなかったものが、「斉明」として「重祚」して以降は「一変」し、「精神」の変調に拍車がかかったように見え、これ以降「老人性鬱」とも考えられる症状が頻発化している状態を想像させます。
『斉明紀』の「朝倉の社の木を切った」という記事も「狂心」と言うことを強調するために書かれたと考えられ、「宮殿内」に「鬼火」が出たような書き方の末に、「韓智興」の「供人」「足島」と同様「天報」により死んだと示唆されていて、彼女の死も「天罰」であったと言うことを「消極的に」述べているように考えられます。これらの記事からは『書紀』では「斉明」は「嫌われている」ようにしか見えません。
そのような「狂心」として描写される遺跡のひとつに「飛鳥」に残る「亀形石」という遺跡があります。これは「石造物」とそこから続く「導水路」、「排水施設」、さらに「石敷き」などで構成された遺構です。
この中の「石造物」というのが「亀」の形をした「浴槽」状のものであり、一般には「用途不明」と言われているものです。何らかの「祭祀」の跡であろうと言われていますが、それ以上は良くわからない、ということになっています。
ここで、この「亀形石」(遺跡)の「用途」について推測すると、これは「斉明天皇」が「孫」の「建皇子」のための「沐浴場」として作ったものではないでしょうか。
「建皇子」は先天的な病気であったと考えられ、「口も利けない」とされていました。彼女はそのことを不憫に思って、その治療のために「沐浴」させようとしてこの「亀形石」などの建造物を造作したものではないかと考えられます。
この「亀形石」の直ぐ上には実際に「泉」があり、そこからの「湧き水」を貯められるようになっていました。この中で「建皇子」を「沐浴」させて治療しようとしたのだと思われます。(そのため「目隠し」として「石垣」を巡らしているのでしょう)
もちろん、「神」に祈らなければ、そのような「薬効」は得られるものではないものであり、当然「祭祀」も行われたことと思われますが、その目的はあくまでも「皇孫」である「建皇子」の「治療」というものであったと考えられます。そして、それは「大国主命」の故事に習ったものであると考えられます。
『出雲風土記』の中に「大神大穴持神」(大国主命)の御子「阿遅須枳高日子」がやはり「口が利けない」でいたものが「霊泉」により治癒した話が書かれています。また『書紀』にも『垂仁紀』に「誉津別命」の故事として同様の話があり、更に『古事記』にもやはり同類の話が伝えられています。いずれも「出雲」に関連していることが特徴です。ただし、口の利けなかったものが「治癒」すると言う流れからは「沐浴」した結果と伝える『出雲風土記』が最も論理的であり、『垂仁紀』は「鳥」を捕らえた話と「皇子」の口の利けるようになることが明確につながった話になっておらず不審です。また『古事記』も、「鳥」の話と「出雲」との関連が定かでないなど異種伝承が渾然としているように見えます。つまり「白鳥」伝説と「霊泉」の伝説が別々にあり、その混合具合で三種類できたと考えられ、その意味で『出雲風土記』が最も「純粋」な話となっていると思われます。
「斉明」はこの『出雲風土記』にある「泉」で「霊験」を受け、治癒したという伝承を模して、「丘」の高いところに「沐浴」する場所を作り「建皇子」の不自由な体を「治療」しようとしたのではないでしょうか。
この『出雲風土記』は「元明」の「詔」により「八世紀」に入ってから書かれたものではありますが、その内容は「古記」「古伝承」なども多く含むものであり、それまで伝わっていた多くの「伝承」の類を集録したものと考えられ、「八世紀」時点でその内容が「創作」されたというわけではなく、当然そのことは「七世紀半ば」に「既に存在していた」という可能性が大きいと思われます。(元明の「詔」でもそれを踏まえた表現となっています)
また「出雲」の「大国主命」に関する伝承は淵源が古いものであり、国内中に「有名」であったのではないかとも考えられます。
『万葉集』の中にも「天照大神」よりも「大国主」(「大己貴」)の出現例の方が多く、このことから『万葉』の時代(八世紀以前)には「出雲神話」の方が良く浸透していたという考え方もあるようです。
また、このことは『風土記』の原型が出来たのが少なくとも「斉明」の時代より「前」であると言うことを示すものであり、「利歌彌多仏利」の時代(七世紀初め)のことではないか、という推測を裏付けるものでもあります。
このように「建皇子」の為に「沐浴場」を作ったと見られるわけですが、それが「亀」型であったのは、道教の神仙伝説で「亀」は「鶴」と共に「長寿」であるとされることが関係していると考えられ、「道教」を信奉していたとされる「斉明」には大変似つかわしいものと考えられます。
『書紀』によれば「皇極天皇」時代(六四二年)には「蘇我蝦夷」が「法興寺」で行った「雨乞い」が効果がなかったのに対し、彼女が「南淵」の「川上」に行き、「四方を拝し」天を仰いで祈ったところ、雷鳴がとどろき五日間も大雨が続いた、と『書紀』に書かれていますが、この雨乞いの儀式は「四方拝」と呼ばれ「道教」の儀式そのものです。
これでわかるように「斉明」は道教に対する信仰が深く、そのこともあって「浴槽」には「亀形」を用い、できるだけ「天」に近い位置である「山」などの高いところに、そのような「祭祀」のための施設を造ったものでしょう。
彼女が「鬱」的症状を見せていた原因は、この「皇孫」と称された「建皇子」の不憫さを憂いた余りではないか、と考えられるものであり、そのことは「斉明」重祚後の変調と「建皇子」誕生とが時期として重なっていると考えられることからも推測できます。
また、「泉」や「温泉」というものと「宗像氏」が関わっていたと考えられるのは、「龍神」伝説がそれについて回ることが多く、「龍神」と「龍王」そして「宗像氏」というのは「一本の糸」でつながっていたと考えられます。この事から「斉明」と「出雲」そして「宗像」というつながりがここでも現れていると考えられます。
また、日本で(倭国)で最初に造られた「病院」とも言える「施薬院」が「四天王寺」の別院として「聖徳太子」により造られたと言う伝承があるようです。この「施薬院」においても「霊泉治療」は行なわれていたものと見られ、それが「斉明」の頭にあったとしても不思議ではありません。それは「施薬院」で行なわれていた治療などに「斉明」も深く関わっていたと考えられるからです。「四天王寺」にも「亀井堂」という「堂」があり、ここでは地下から湧出する「泉」に御利益があると信じられ続けて今に至っています。
「泉」と「亀」という単語の連結はその後も多くの場合意識されていたと考えられ、「亀泉」「亀井の霊泉」などの名称で「信仰」を集めている「泉」は(現在でも)各所に見られます。それらはいずれも「絶えることなく湧き出る」ということから、「不老長寿」という願いが込められていると同時に、「温泉」などと同様、「病気」の軽快などの「薬効」を信じたものです。
この「亀形石」遺跡でも「亀」の形には同様の意図があるものと推察されるものです。
(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/08/24)(ホームページ記載記事を転記)