goo blog サービス終了のお知らせ 

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「亀形石」と「亀井の霊泉」

2018年05月10日 | 古代史

 「斉明」は「宮殿」造営など各種の「工事」を興しており、『書紀』にはそれがうまくいかなかったことが記されています。

 「斉明元年」(六五五年)「冬十月,丁酉朔己酉,於小墾田宮造起宮闕,擬將瓦覆.又於深山廣谷,擬造宮殿之材,朽濫者多.遂止弗作.」

 ここでは、「宮殿」の材料としては不適なものばかりであったとする記事を載せており、いわば「宮殿」を造営することを批判的に見る観点で書かれていると考えられますが、「皇極」の時代にはそれほどでもなかったものが、「斉明」として「重祚」して以降は「一変」し、「精神」の変調に拍車がかかったように見え、これ以降「老人性鬱」とも考えられる症状が頻発化している状態を想像させます。
 『斉明紀』の「朝倉の社の木を切った」という記事も「狂心」と言うことを強調するために書かれたと考えられ、「宮殿内」に「鬼火」が出たような書き方の末に、「韓智興」の「供人」「足島」と同様「天報」により死んだと示唆されていて、彼女の死も「天罰」であったと言うことを「消極的に」述べているように考えられます。これらの記事からは『書紀』では「斉明」は「嫌われている」ようにしか見えません。

 そのような「狂心」として描写される遺跡のひとつに「飛鳥」に残る「亀形石」という遺跡があります。これは「石造物」とそこから続く「導水路」、「排水施設」、さらに「石敷き」などで構成された遺構です。
 この中の「石造物」というのが「亀」の形をした「浴槽」状のものであり、一般には「用途不明」と言われているものです。何らかの「祭祀」の跡であろうと言われていますが、それ以上は良くわからない、ということになっています。
 ここで、この「亀形石」(遺跡)の「用途」について推測すると、これは「斉明天皇」が「孫」の「建皇子」のための「沐浴場」として作ったものではないでしょうか。
 「建皇子」は先天的な病気であったと考えられ、「口も利けない」とされていました。彼女はそのことを不憫に思って、その治療のために「沐浴」させようとしてこの「亀形石」などの建造物を造作したものではないかと考えられます。
 
 この「亀形石」の直ぐ上には実際に「泉」があり、そこからの「湧き水」を貯められるようになっていました。この中で「建皇子」を「沐浴」させて治療しようとしたのだと思われます。(そのため「目隠し」として「石垣」を巡らしているのでしょう)
 もちろん、「神」に祈らなければ、そのような「薬効」は得られるものではないものであり、当然「祭祀」も行われたことと思われますが、その目的はあくまでも「皇孫」である「建皇子」の「治療」というものであったと考えられます。そして、それは「大国主命」の故事に習ったものであると考えられます。

 『出雲風土記』の中に「大神大穴持神」(大国主命)の御子「阿遅須枳高日子」がやはり「口が利けない」でいたものが「霊泉」により治癒した話が書かれています。また『書紀』にも『垂仁紀』に「誉津別命」の故事として同様の話があり、更に『古事記』にもやはり同類の話が伝えられています。いずれも「出雲」に関連していることが特徴です。ただし、口の利けなかったものが「治癒」すると言う流れからは「沐浴」した結果と伝える『出雲風土記』が最も論理的であり、『垂仁紀』は「鳥」を捕らえた話と「皇子」の口の利けるようになることが明確につながった話になっておらず不審です。また『古事記』も、「鳥」の話と「出雲」との関連が定かでないなど異種伝承が渾然としているように見えます。つまり「白鳥」伝説と「霊泉」の伝説が別々にあり、その混合具合で三種類できたと考えられ、その意味で『出雲風土記』が最も「純粋」な話となっていると思われます。
 「斉明」はこの『出雲風土記』にある「泉」で「霊験」を受け、治癒したという伝承を模して、「丘」の高いところに「沐浴」する場所を作り「建皇子」の不自由な体を「治療」しようとしたのではないでしょうか。

 この『出雲風土記』は「元明」の「詔」により「八世紀」に入ってから書かれたものではありますが、その内容は「古記」「古伝承」なども多く含むものであり、それまで伝わっていた多くの「伝承」の類を集録したものと考えられ、「八世紀」時点でその内容が「創作」されたというわけではなく、当然そのことは「七世紀半ば」に「既に存在していた」という可能性が大きいと思われます。(元明の「詔」でもそれを踏まえた表現となっています)
 また「出雲」の「大国主命」に関する伝承は淵源が古いものであり、国内中に「有名」であったのではないかとも考えられます。
 『万葉集』の中にも「天照大神」よりも「大国主」(「大己貴」)の出現例の方が多く、このことから『万葉』の時代(八世紀以前)には「出雲神話」の方が良く浸透していたという考え方もあるようです。
 また、このことは『風土記』の原型が出来たのが少なくとも「斉明」の時代より「前」であると言うことを示すものであり、「利歌彌多仏利」の時代(七世紀初め)のことではないか、という推測を裏付けるものでもあります。

 このように「建皇子」の為に「沐浴場」を作ったと見られるわけですが、それが「亀」型であったのは、道教の神仙伝説で「亀」は「鶴」と共に「長寿」であるとされることが関係していると考えられ、「道教」を信奉していたとされる「斉明」には大変似つかわしいものと考えられます。
 『書紀』によれば「皇極天皇」時代(六四二年)には「蘇我蝦夷」が「法興寺」で行った「雨乞い」が効果がなかったのに対し、彼女が「南淵」の「川上」に行き、「四方を拝し」天を仰いで祈ったところ、雷鳴がとどろき五日間も大雨が続いた、と『書紀』に書かれていますが、この雨乞いの儀式は「四方拝」と呼ばれ「道教」の儀式そのものです。
 これでわかるように「斉明」は道教に対する信仰が深く、そのこともあって「浴槽」には「亀形」を用い、できるだけ「天」に近い位置である「山」などの高いところに、そのような「祭祀」のための施設を造ったものでしょう。
 彼女が「鬱」的症状を見せていた原因は、この「皇孫」と称された「建皇子」の不憫さを憂いた余りではないか、と考えられるものであり、そのことは「斉明」重祚後の変調と「建皇子」誕生とが時期として重なっていると考えられることからも推測できます。

 また、「泉」や「温泉」というものと「宗像氏」が関わっていたと考えられるのは、「龍神」伝説がそれについて回ることが多く、「龍神」と「龍王」そして「宗像氏」というのは「一本の糸」でつながっていたと考えられます。この事から「斉明」と「出雲」そして「宗像」というつながりがここでも現れていると考えられます。
 また、日本で(倭国)で最初に造られた「病院」とも言える「施薬院」が「四天王寺」の別院として「聖徳太子」により造られたと言う伝承があるようです。この「施薬院」においても「霊泉治療」は行なわれていたものと見られ、それが「斉明」の頭にあったとしても不思議ではありません。それは「施薬院」で行なわれていた治療などに「斉明」も深く関わっていたと考えられるからです。「四天王寺」にも「亀井堂」という「堂」があり、ここでは地下から湧出する「泉」に御利益があると信じられ続けて今に至っています。
 「泉」と「亀」という単語の連結はその後も多くの場合意識されていたと考えられ、「亀泉」「亀井の霊泉」などの名称で「信仰」を集めている「泉」は(現在でも)各所に見られます。それらはいずれも「絶えることなく湧き出る」ということから、「不老長寿」という願いが込められていると同時に、「温泉」などと同様、「病気」の軽快などの「薬効」を信じたものです。
 この「亀形石」遺跡でも「亀」の形には同様の意図があるものと推察されるものです。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/08/24)(ホームページ記載記事を転記)


「熟田津」の歌について(二)

2018年05月10日 | 古代史

 このように『万葉集』の中には「に」が「方向」や「目的地」を表す助詞として使用されている例はいくらもあり、「熟田津尓」の「に」についても同様の解釈は可能であるわけですが、従来はそういう方向には傾かず、「に」を「内在的」には「from」の意味で使用しながら、体裁(外面)としては「at」の意味であると強弁しているのです。
 そこにはそうは言えない理由があるわけです。それは「左注」との齟齬です。
 「左注」には「山上憶良」の『類聚歌林』からの引用として「伊予石湯」に到着後の歌という意味のことが書かれており、従来の研究者達はこれを無条件に重視あるいはそれに依拠していて、その結果この「に」を「目的地」とすることが出来なくなったわけです。
 そもそも「左注」と「本文」(本歌)は本来別であり、「左注」に引きずられて解釈をねじ曲げるというのは本末転倒以外の何者でもありません。
 古田氏も主張されているように(※)「左注」から「本文」を解放するべきであり、独立して研究の対象とすべきでしょう。
 
 ところで、上で考察したようにこの歌が「難波」から軍事行動を起こす際の歌であるとすると、行き先がなぜ「娜大津」ではないのか、なぜ「熟田津」なのかが問題となるでしょう。それはそこがこの海域の「潮流」の「潮目」であり、「西行」から「東行」へと変る場所であるため、「西行」してきた船団にとっては一旦小休止が必要であったものだからと考えられます。
 ここまでは「潮」の流れに沿ってくることが可能ですが、そこからは流れに逆らって運行する必要があり、この時点で漕ぎ手を増やして対応したと思われます。場合によってはここで船を乗り換えたという可能性もあるでしょう。
 ちなみに半島に向かった船団のほとんどは九州「吉野」からの発進と思われます。ここは干満の差も大きく、軍用の大型船であっても干潟に置いておけば満潮になれば自然に浮くわけであり、軍団の発進地としては最適であると思われます。(そこから一旦「筑紫」の「百道」に集合したもの)
 また船の建材として著名な「樟」は九州原産であり、九州島の中ではどこからと言っても良いほど産出されますが、「筑後川」の上流には「玖珠(くす)」という地名を持つ場所が存在するほどであり、この周辺は「樟」の自生する山林が豊富にあったことを示すものです。そこから切り出してそれを「筑後川」で下流に運びそこで船として加工するとした場合、軍事基地と見なされる「吉野」が非常に至近の地にあることも深く関係していると言うべきでしょう。
 それに対しこの時の「斉明」達はいわば「大本営」であり、彼女たちは「筑紫」へ行くだけであったと思われますから、それほどの大型船でもなくまた多数の船団を組んでいたわけではなかったとも思われます。
 さらに「難波津」から出航するに当たって「熟田津」が目標とされていたと思われることから、以前から「熟田津」は中継地としての機能があったと思われることとなるでしょう。
 たとえば「難波津」から船出した「六五九年」の遣唐使一行も「熟田津」で小休止したという可能性が考えられる事となります。
 その時の「伊吉博徳」の記録によれば以下のようになっています。

「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…」

 この記事は巧妙に「難波」から「筑紫」までの所要日数を伏せていますが(「筑紫」記事は「発」記事であり「到着」記事ではありません)、少なくとも1ヶ月程度あるいはそれ以内の期間であったと思われ、「筑紫」で若干の小休止を含んでいるとすると、「斉明一行」の場合に比べ「博徳」達の行程は日数を要していないようではあるものの、それなりに時間がかかっている感があります。これはこの「熟田津」そのものが「中継地」としての機能を有していたものであり、ここで筑紫への航海の体制を整える意味があったものでしょう。

 ちなみにこの経路を「筑紫」から「伊予」へというように理解する向きもあるようですが、それは困難と思われます。理由はこの「熟田津」の歌が語調が良すぎるからです。これは明らかに「戦闘開始」に近いものであり、軍発進の号令としては首肯できますが、「石湯」へ行くためには大仰すぎるでしょう。
 また「熟田津」が「伊予」であるとした場合、「筑紫」から「伊予」へ一旦向かう理由が不明となります。「新羅」への軍出動を指示しながら、自らは後方へ移動していることとなり、これでは軍の指揮や連絡がスムーズに行くはずがありません。
 このことは「熟田津」が「筑紫」そして「新羅」へ向かう中継地点であったことを示していると思われ、進行方向のベクトルとしては同一であったことを示していると言えます。そう考えると、出発地点は近畿(難波)であると考えざるを得ないものです。

 ところでこの歌の中では「月を待つ」という行為が為されています。この意味についても従来諸説がありますが、もし潟や陸地に船があるとすると満潮にならなければ船出できないこととなるでしょう。
 地球は自転しており、月はその地球の周りを29.5日で公転しています。このことから、地球上の一地点に注目すると、一日一回は月にその地点が向くこととなり、それとちょうど反対に地球の真裏に来るときと一日二回満潮があることとなります。(真裏の時も海水が反対側に持ち上げられて満潮となります。これを「潮汐の原理」と言います。)
 さらに、潮汐は月の引力だけではなく太陽の引力でも起きています。つまり、「太陽」と「月」の引力が重なると満潮の中でも最大の状態となり、この時「大潮」となります。
 出航する船が大型であれば満潮の中でも「大潮」であることが必要となるでしょう。それは一月に「新月」と「満月」の時の二回しか来ませんから、タイミングが重要です。新月の場合はそのタイミングがわかりにくいものですが、満月なら夜半過ぎに上ってきますから、それを見て判断できます。
 皆船に乗り込んで準備していて、満月が出て潮が満ちたその瞬間を選べば、通常は大型の船が出入りできないような遠浅の港からでも容易に外洋に出られます。
 軍用船は遣唐使船に比べ装甲(「矢」などのための防御板)などが船体各所にあったと思われ、重量があった可能性があるでしょう。そうであれば通常より「喫水線」が高かった可能性があり、これを進水させようとすると水位を高く保つ必要があったかも知れず、それには「大潮」が必要であったとも考えられます。そう考えると「遣唐使船」の船出とはやや状況が異なっていると思われるのも首肯できます。
 ただし、難波(大阪湾)は「潮流」が遅くさらに干満の差も小さいため大型船と言うより中型船が出入りするのに適した港であったと思われます。その場合それほど干満の差が大きい必要性はなかったものと思われ、その意味でもこの歌が「難波津」で歌われたとすると整合すると思われます。

 「難波津」ではありませんが同じ近畿の「住吉」の岸に船が到着する際には「潮が満ちる」タイミングを利用していたらしいことが「謡曲」から窺えます。
 以下謡曲「岩船」からの「抜粋」です。

「…久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\『潮の満ちくる浪に乗つて』。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。『汐にひかれ波に乗つて。』長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ここでは『潮の満ちくる浪に乗つて』あるいは『汐にひかれ波に乗つて』とされ、それによって「住吉の岸」に到着したように書かれています。
 ここに出てくる「磐船」は当時の用法としては「大型船」といえると思われ、金銀財宝を満載しているという書き方からも喫水線は高かったと思われますから、「満潮」を待たなければ岸に着けなかったものではないでしょうか。「熟田津」の歌ではちょうどこの逆を行おうとしたと思われるわけです。
 さらに、『斉明紀』の「伊吉博徳」が乗った「遣唐使船」も「筑紫」から「百済」の南端の島へ着いた後、大陸へ漕ぎ出すときにはやはり「満潮」(特に大潮)を待っています。

「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。『以十四日寅時。』二船相從放出大海。…」

 ここに書かれた『十四日寅時。』とはまさしく「大潮」の時間ですから、「遣唐使船」のような外洋船が船出する際には(そこが特に遠浅の場合)「大潮」でなければ出港できないということがあったものと推量されます。(彼らの場合はこの島へ流れ着いた時点で「座礁」したという可能性もあるでしょう、そうであればますます「大潮」を待つ必要があったものです。)


(※)古田武彦『新・古代学』第四集(一九九九年十一月)及び「失われた『万葉集』─黒塚と歌謡の史料批判─」(大阪市天満研修センター)一九九八年六月等

(この項の作成日 2014/09/03、最終更新 2018/03/11)(ホームページ記載記事を転記)


「熟田津」の歌について(一)

2018年05月10日 | 古代史

 『万葉集』に「額田王」の歌として「熟田津の歌」が書かれています。

(万葉八番歌)「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜/熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

 この歌の解釈は古今、諸説が入り乱れていますが、これを「伊予」の「道後温泉」のある地とする従来の解釈に対して近年「九州島」の中にこれを求める考え方が提出されています。しかしいずれもこの「熟田津」を「発進地」として理解しているように見えます。しかしこの「熟田津」は「目的地」として書かれているのではないかと思われるのです。
 この歌の最大の問題は「熟田津尓」の「尓」(に)という助詞ではないでしょうか。この助詞の意味するところがこの問題を解く鍵ではないかと考えます。

 「怒り心頭に発する」でも触れたように、「に」は色々意味がありますが、ここでは目的地や到着地(方向)を表すものとして使用されていると考えます。
 「船乗りせむ」という言葉からは、「陸」あるいは「浜」から「海」へという「方向」が内蔵あるいは暗示されていると思われ、これは『万葉集』に確認できる他の例からも「to」の意義で使用されていると思われます。
 この「熟田津」の歌に使用されている「に」とほぼ同義の「に」が万葉集の中にいくつか確認できます。

03/0323(山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首[并短歌])反歌
「百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為  年之不知久/ももしきの大宮人の熟田津『に』船乗りしけむ年の知らなく」

03/0327或娘子等<贈>L乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
「海若之  奥尓持行而  雖放  宇礼牟曽此之  将死還生/海神の沖『に』持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ」

03/0359(山部宿祢赤人歌六首)
「阿倍乃嶋  宇乃住石尓  依浪  間無比来  日本師所念/阿倍の島鵜の住む磯『に』寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」

 上の例のうち「三二三番歌」は「熟田津」の歌を踏まえた「本歌取り」ですから、これは別としても、「三二七番歌」は「海人の沖まで」という意味であり、また「鵜の住む磯に向かって」という意であると思われ、いずれも「持ち行く」であるとか「寄する」というような方向性を内蔵した動詞が述語として選ばれています。
 つまりここでは「尓」は「方向」や「目的地」を表す意の助詞として使用されており、これは「熟田津尓」と同様の使用法と思われます。
 それに対し異なる用法の「に」も確認できます。

(万葉集四十番歌)「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」
「鳴呼見乃浦尓  船乗為良武  嬬等之  珠裳乃須十二  四寳三都良武香/嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか」

 この「尓」は場所を示す「で」の意味であり、「at」の意と思われます。「熟田津」の歌についてもこれと同義であるというのが通常の理解のようです。つまり「熟田津尓」と「月待てば」が対応しているとみて、この「尓」をその「場所」を表す「で」の意味で理解しているわけです。しかし、月を待っているのは船出するためであり、どこから船出するのかと言えば(彼らの解釈では)「熟田津」しかないわけですから、この「尓」には「から」の意として使用されていると考えるのが正しいはずです。しかも他の例では「熟田津」の場合と違い「方向等」を内蔵した語が使用されていません。このようなものとは明らかに異なるものといえるでしょう。

 元々「に」という助詞は「方向」や「着点」を示すのがその本義と思われ、それ以外の意味はそこからの派生であると理解されています。それに対し従来の全ての説はこの「熟田津」を「出発地」として「から」の意で理解していることとなるわけであり、本義からはずれた解釈と言えるでしょう。
 「出発地」として歌うならば本来もっと適切な助詞があります。

02/0234 ((霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王<薨>時作歌一首[并短歌])或本歌曰)
「三笠山  野邊従遊久道  己伎<太>久母  荒尓計類鴨  久尓有名國/御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」

03/0318 (山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
「田兒之浦従  打出而見者  真白衣  不盡能高嶺尓  雪波零家留/田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」

03/0366 角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
「越海之  角鹿乃濱従  大舟尓  真梶貫下  勇魚取  海路尓出而  阿倍寸管  我榜行者  大夫乃  手結我浦尓  海未通女  塩焼炎  草枕  客之有者  獨為而  見知師無美  綿津海乃  手二巻四而有  珠手次  懸而之努櫃  日本嶋根乎/越の海の  角鹿の浜ゆ  大船に  真楫貫き下ろし  鯨魚取り  海道に出でて  喘きつつ  我が漕ぎ行けば  ますらをの  手結が浦に  海女娘子  塩焼く煙  草枕  旅にしあれば  ひとりして  見る験なみ  海神の  手に巻かしたる  玉たすき  懸けて偲ひつ  大和島根を」

 「出発地」(発進地)を示す助詞としては上の例にみるようにこの当時は「従」(ゆ)を使用していたと思われます。
 これらの例における「ゆ」という語には「従」という漢字が使用されており、これは「漢語」において「起点」「基点」を表す「語」であり、「より」「から」という方向性の意味を表す語として使用されています。
 「熟田津」の場合も出発地を表すなら「従」を使用するはずですが、そうはなっていないのですから、ここで使用されている「に」は「着点」などを示す「に」の本義としての用法と考えられることとなります。

 この時の「斉明」達の行動に関しては『書紀』に記事があります。

「(六六一年)七年春正月丁酉朔壬寅。御船西征。始就于海路。」

 この歌には「左注」が付いており、そこには以下のように書かれています。

「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰  飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁<酉>十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮  後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔<壬>寅御船西征  始就于海路  庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧『昔日猶存之物』  當時忽起感愛之情  所以因製歌詠為之哀傷也  即此歌者天皇御製焉  但額田王歌者別有四首」

 問題はこの「左注」の内容と歌とが全く合っていないことです。
 「昔のもの」というのが何かが不明であることや、それに対する「哀傷」というものとは全く異なるトーンでこの歌は作られています。
 ところで、ここにいう『昔日猶存之物』とは「斉明」以前に「伊豫」を訪れた人物の残したものであろうと推定されますから、「聖徳太子」が残したという「碑文」(湯の岡碑文)が最も該当すると思われます。

(以下『伊豫風土記逸文』より)
「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 與恵慈法師及葛城臣 逍遙夷與村 正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首/惟夫 日月照於上 而不私 神井出於下 無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異于寿国随華台而開合 沐神井而癒疹 [言巨なに]舛于落花池而化弱 窺望山岳之[山嚴][山咢](やまざし) 反冀子平之能往 椿樹相[广/陰](おほひて)而穹窿 実想五百之張盖 臨朝啼鳥而戯吐下 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓彌く[さかんむり/白+巴](はなびら)以垂井 経過其下 可優遊 豈悟洪灌霄庭意與 才拙実慚七歩 後出君子 幸無蚩咲也」

 合田氏も言うように(※1)その碑文が建てられていたのは「伊豫」でも「西条」付近と思われますが、ここで書かれた「我法王大王」という表現は「天子」を自称したとされる「阿毎多利思北孤」その人である可能性が強く、彼の類縁であると思われる「斉明」が彼の書いたという碑文に接して「感愛の情」を起こしたとして不思議はありません。

 いずれにせよ、この「左注」はこの歌に関しては接点がないと想われ、この歌はこの時「百済」から援軍を請う使者が来て、それに対し「斉明」が「難波宮」から在筑紫の将軍達に対して「百道」(これは筑紫の地名)からの発進指令を出し、自分も押っつけ駆けつけるという形となったものであり、その際に読まれた歌と考えるのが正しいと思われます。
 つまり当初の出発地は「近畿」であると思われ、またこのような軍事船団の出発を言祝ぐために歌うなら、出発地である「近畿」で歌われたと考えるのが妥当と思われることとなります。
 『書紀』の記事の「御船西征。始就于海路」という言葉の調子と「船乗りせむと~今は漕ぎ出でな」という言葉の調子は互いに響き合っていると言え、この段階で全軍に対しての士気を鼓舞する意味も込め船出する際に歌が詠まれたとする方がよほど首肯できるものです。

 また『書紀』によれば「御船還至于娜大津」、つまり「筑紫」の「那大津」に「還り至る」とあります。この「筑紫」に「還り至る」という表現については従来から解釈に苦しんでいたわけですが、素直に解すれば「斉明」の本拠が「筑紫」にあることを示す言葉であると思われ、当初の発進地が「那大津」であったことを如実に示すものといえるでしょう。
 そもそもここは当時も「主船司」があったと思われる地であり、又「大津城」があったと考えられる場所です。(※2)
 ここが出発地としてふさわしいのは言うまでもありません。それは筑紫」に「本宮」があったという『二中歴』の記述からも言えることです。
 この時「斉明」がその「筑紫本宮」から「近畿」に出向いていたのは「近畿」の「別宮」(これは「難波宮」かあるいは離宮としての「明日香岡本宮」かいずれかと思われるものの現段階では不明です)への「行幸」を行っていたものであり、それはまさに「湯治」のためであったという可能性が高いでしょう。

(※1)合田洋一「「温湯碑」建立の地はいずこに」(『古田史学会報』九十号二〇〇九年二月)
(※2)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)


(この項の作成日 2014/09/03、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事を転記)


「怒り心頭に発する」

2018年05月10日 | 古代史

 「怒り心頭に発する」という言い方があります。現代ではこれを「怒り心頭に『達する』」というように誤用されることがしばしばのようです。そしてたいていの場合は「これは間違いですから気をつけましょうね」的な解説がされています。この誤用が「なぜ」発生するかについて、解説した文章にはお目にかかったことがありません。
 人間というのは、ただ「間違い」だ、と言われたところでそうそう簡単に改まるはずがないと思われます。「間違い」を何とか減らそうとするならばその「間違い」が発生する「メカニズム」に焦点を当てなければならないでしょう。
 上の例の誤用の元となっているものは、「に」という助詞であると考えられます。「怒り心頭『に』」の「に」です。この「に」という助詞は現代ではほぼ「目的地」「到達地」しかあらわさない助詞であり、他の意味ではほとんど使用されないのです。たとえば「学校『に』行く」「彼女『に』会った」などです。英語的に表現すると「to」か「at」に該当するでしょうか。この「に」が使用されているため、この「目的地をあらわす」助詞に連結しやすい単語(動詞)が選ばれ、発音も似ているので誤用されてしまい、「発する」ことなく「達する」こととなってしまうのだと考えられます。

 と、ここまで考えたときにあることに気がつきました。それはこの慣用句を創出した(あるいは訳した)人物についてです。この人物にとって「に」という助詞は「紛らわしくなかった」のでしょう。もし「紛らわしかった」ならば、たとえば「に」ではなく「より」とか「から」などという助詞を使用したことと推察されます。つまり、彼にとっては「に」には「from」の意味しかなく、「to」や「at」の意味がなかったものなのではないでしょうか。このような人物は一体どこのどなたでしょうか。

 これについては「室町時代」の有名なことわざが頭に浮かびます。それは「京へ筑紫に坂東さ」という言葉です。「室町時代」にポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが書いた『大日本文典』という「宣教師」向けの辞典に出てくるものですが、この言葉の意味は「目的地」をあらわす助詞として、「京」では「へ」を使うが「筑紫」では「に」を使い、「坂東」(関東)では「さ」を使用する、というものです。これに従えば「に」を目的地以外の対象に使用して不自然でないのは「京」であると思われます。ところがこれより百年あまり以前に書かれた『実隆公紀』(西三条実隆による日記)には「筑紫と「京」が入れ替わって書かれており、「京ニ筑紫ヘ板東サ」となっています。
 
 『実隆公記』の「明応五年正月九日」(一四九六年)の条に「宗祇(これは有名な連歌師)談」として「京〈ニ〉、ツクシ〈ヘ〉、板東〈サ〉/京〈ニハ〉イツクニユク〈ナト云〉、筑紫〈ニハ〉イツクヘユクナト云、板東〈ニハ〉イツクサユクト云、…」(ただし「〈」、「〉」は小文字で書き表す意です)

 「宗祇」も「三条西実隆」も京の人ですから、その彼が(彼等が)「京では…」として書いているこの記述はおよそ信用できるのではないかと思われます。このような慣用的使用法が彼らにとってなじみのないものであったなら、そのような一文があってしかるべきですが、ここでは特に異が唱えられていません。
 またこの「実隆」や「宗祇」の時代から「百年ほど」経過すると「京」と「筑紫」で使用法が逆転するというのも考えにくいものであり、これは「実隆公紀」に書かれた記述の方が正しいのではないかと考えられるものです。

 この「慣用句」に対して『実隆公記』による「宗祇」の言葉を「助詞」の使用原則として適用すると、この「怒り心頭に発する」という「慣用句」は『大日本文典』から推定した結論とは逆に、この言葉の創作者あるいは訳者は「筑紫」の人物という可能性がでてきます。つまり、「目的地」あるいは「到達地」に使用されるべき「に」をここに使用して誤解を生まない、と考えるのは「京」以外の地域であり、また「坂東」のはずもないと考えられるからです。

 ところで「に」と「へ」という「助詞」の違いについては各種研究がありますが、「に」が広範に使用され、その意味も広いのに対して「へ」の方は「限定的」であることが知られています。
 たとえば「に」には上に述べた「到達地」「目的地」の他多くの意味があることが知られていますが、「へ」については「目的地」そのものではなくそこへの「方向」を示す意味があるとされ、また同時に「公的」な場における発言などある意味「堅苦しさ」が必要な場合に使用されるようです。
 これらは現代の用法であり、中世あるいはそれ以前はどうであったかやや不明ですが、『万葉集』などでは「に」の例が多く見られ「へ」は少ないとされます。
 その『万葉集』の中でも「に」は「目的地」の意味で使用されているのがほとんどであり、「出発地」の意で使用されているのは非常に少ないといえます。なぜなら当時「出発地」を表す助詞としては「従」(ゆ)があったからです。
 そう考えると、この「怒り心頭に」という言い方はかなり古いと考えられるものの、「万葉」の時代までは遡るものではなく、中世以降あるいは近代のものであるという可能性もあるでしょう。

 現在「標準語」として機能しているのは「東京語」ですが、それは上に見る「板東」の言葉とも当然違うと共に「江戸時代」に存在していた「江戸語」ともまた違うものです。
 それは明らかに「明治維新」による「薩長土肥」という「官軍」によるものであり、「漢音」中心とした「法律」などの官式用語として「筑紫」方言が使用され、公的な場で使用されたと見られることと関係しているでしょう。明治以来、「に」が表していた「目的地」「到達地」を表す意味は公的には「へ」に取って代わられたものですが、大多数を占める江戸市民はその影響を僅かしか受けなかったと見られ、非公式な場ではそれまでの「江戸語」が生き残り、それが「に」の多様性として生き残っているのではないでしょうか。
 このため、「怒り心頭に発す」という言葉についても「に」を「目的地を表す助詞」として認識するのが一般化したものと思われ、「達する」方へ誤用が多数を占めると言う現象が起きているものと推察します。


「斉明」と「筑紫」

2018年05月10日 | 古代史

 「有馬皇子の変」が起きる前に、「蘇我赤兄」が「天皇」の「三失」を指摘しています。

「書紀斉明紀」
「(斉明)四年(六五八年)十一月庚辰朔壬午 留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰 天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財一也。長穿渠水損費公糧二也。於舟載石運積為丘三也。」

 また、更に「斉明天皇」に対する「誹謗」「中傷」の言葉として以下のことも書かれています。

「(斉明)二年(六五六年)九月条」
「…時好興事 迺使水工穿渠 自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石 順流控引於宮東山 累石為垣。時人謗曰狂心渠。損廢功夫三万餘矣費損造垣功夫七万餘矣 宮材爛矣 山椒埋矣 又謗曰 作石山丘隨作自破 若據未成之時作此謗乎。」

 いずれも「狂心」と言われるものに部類されていますが、この両記事を対照させてみると、後の記事の「時人謗曰」と言う中には、先の記事の中で「赤兄」が最初にあげた「大起倉庫積聚民財」というのが入っていないようです。
 これについては、『書紀』には何も書かれていません。「宮室造営」と「作石山丘」については書かれているものの、「倉庫」の件は見られないのです。しかし「三失」の筆頭にあげられるぐらいですから、「書紀編者」にとって一番非難すべきものという認識があったはずですが、それが書かれていないというのも不審です。
 「大起倉庫」は『書紀』に記述がないぐらいですから、実際にも「近畿」(飛鳥)からは「遺跡」としては出ていません。しかし、「筑紫」(太宰府)の遺跡からは「蔵司」として「建物跡」が出土しています。

 「太宰府市史」(考古資料編)によれば、この遺跡は「三間×九間」の「礎石建物」やその周辺から多数の建物跡が検出されるなど、「奈良時代から平安時代」までの間において「九州最大規模」といわれるほどの建物遺跡であって、発見された「礎石」には「柱座」が造り出されているなど非常に立派なものであり、これであれば『書紀』で「大起」と言われるに直するものでしょう。その規模から言っても「三失」の筆頭にあげられるのも理解できるほどのものであると思われます。
 つまり「斉明」は「民衆」から「財物」つまり「財産」や「貴重品」など高価なものをその持てる権力に任せて集めたという訳ですが、それが「筑紫」にあった(集められていた)こととなります。 
 これと関係していると考えられるのは「安閑紀」にある以下の記事です。

「宣化紀」(五三六年)夏五月辛丑朔条」
「詔曰食者天下之本也黄金万貫不可療飢白玉千箱何能救冷夫筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢自胎中之帝泪于朕身収蔵穀稼蓄積儲糧遥設凶年厚饗良客安国之方更無過此故「朕遣阿蘇仍君未詳也加運河内国茨田郡屯倉之穀」「蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀」「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」「阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永為民命早下郡県令知朕心」

 この中に「修造官家那津之口」という表現が出てきますが、この「官家」というのが上に見た「蔵司」ではないでしょうか。
 この記事中では「筑紫国」の重要性が強調されると共に「自胎中之帝泪于朕身」という表現で「応神」から「自分」まで同様に「筑紫」に「穀」を運んでいたとする訳ですが、実際的には「自分」が「利歌彌多仏利」であり、「胎中之帝」とは「応神」であり、また「阿毎多利思北孤」となるものと考えられ、自分と父の二代に亘る事業であったことを示していると思われます。
 しかし、「筑紫」に運ぶべき理由としてそこに書かれた理由ははなはだ「薄弱」であり、これはそもそも当時の倭国の中心が「筑紫」にあり、「西日本」全体に対して「筑紫」へ「収穫物」(特に穀)を貢上するよう指示・強制をしていたのではないかと考えられます。
 それが「斉明」時代に「穀」以外にも多量の「財」を集めるようになったことを示すものであり、「収奪」の体制が整ったことによりいっそう「王権」強化の一環として「祖」「庸」「調」という収税システムが稼働し始めたことを示すという可能性があると思われます。

 また、先の記事中には「斉明」の土木工事好きの一端が書かれています。
 (以下再掲)

「…時好興事 迺使水工穿渠 自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石 順流控引於宮東山 累石為垣。…」

 この記事の中の「香山」は(後でも述べますが)、「奈良」の「香久山」ではなく「大分の鶴見岳」のことと思われ、「石上山」はその名前の「石上」氏が元々「物部」の氏族であり、この名前をかぶせられている山も実は「物部」に関係する山であるとすると、「物部郷」とされる「浮羽」近くに想定が可能です。
 また、ここで「自香山西」と書かれていますが、実際には「鶴見岳」「から」水路を引いたというわけではないと考えられ、水路の「起点」が「物部郷」付近から見て「鶴見岳」が見える地域(方向)であったと言う事と考えられます。
 このような位置関係に掘られた水路遺跡としては、「天の一朝堀」と呼ばれるものがあり、これは「浮羽町」の山北の丘陵地帯に「東西方向」に伸びる「深さ20m」、「幅68m」、「長さ240m」の「年代」「用途」不明の「濠」と推定される遺跡です。
 「深さ」から言ってかなり大型の構造船でも浮かべることができると考えられ、「造船」に何か関係があったのかも知れません。
 また、「石運積爲丘」も「高良山神護石」遺跡がそれと考えられ、そう考えると『書紀』に記された「斉明」の「三失」は全て「筑紫」に存在していることとなります。
 このことは前段に記した、この時期の「斉明」の本拠が「筑紫」にあったと推定されることと重なるものです。
 また、「九州倭国王朝」の政権機能がこの時点で「難波副都」から「筑紫首都」へ復帰していた事を意味すると思慮されるものです。

 「斉明」が当初結婚していたという「高向王」は「我姫」に総領として派遣されていた「高向臣」と同一人物であると考えられますが、彼は「守屋」に荷担した結果、「我姫」へ「隠流」(左遷のバリエーション)となったものであり、その「物部守屋」の支援勢力が「新羅」であったと思われ、そのことから彼に同盟していた「高向」「中臣」も同様であったと考えられます。つまり、「高向氏」は「親新羅系氏族」であったと考えられ、(「玄理」も「遣唐使」として往復の際に「新羅」を経由しているのもそれを証しているようです)現在もかなりの数の「高向姓」が「九州北部」(福岡県に特に多い)に居住している事実から考えても、婚姻関係にあった「宝女王」も「新羅系」であって、本来「九州」にいたものではないかと考えられます。
 「斉明」の本拠が「九州」にあったことを示すように『書紀』には「六六一年」の記事として以下のものがあります。(「半島」へ派兵するという時点での記事)

「斉明七年(六六一年)三月丙申朔庚申条」「御船還至于娜大津。」

 上のように「難波」から船を出して「筑紫」に到着した時点の表現が「還至」という訳ですから、出発地点も「筑紫」(娜大津)であったことを示していると考えられます。その「還至(到)」という表現は『書紀』内にかなり多く見られますが、いずれも「出発地点に戻ること」です。例えば「斉明天皇」が死去した際の「皇太子」の行動として以下の記事があります。

「(六六一年)七年…
三月丙申朔庚申。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。

五月乙未朔癸卯。天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。

秋七月甲午朔丁巳。天皇崩于朝倉宮。
八月甲子朔。皇太子奉徙天皇喪。還至磐瀬宮。」

 これを見ると「朝倉宮」に遷る前にそれ以前に「筑紫」に到着した時点で「長津」に「仮宮」を設けたとされており、「朝倉宮」で亡くなられた後に「長津仮宮」へ戻ったことがわかります。このような際に「還至」という表現がされているわけであり、「元々いた場所」に戻るという意味で使用されていると思われます。(他の使用例も皆同様です)

 「斉明(皇極)は前述したように「舒明」と「双子」であったと考えられ、また「父」である「押坂彦人大兄」が失脚したか、死去したか不明ですが「史書」から全く姿を消した後、「皇極」は「筑紫」の「宗像族」に引き取られていたのではないでしょうか。
 上に見るように「皇極」が「筑紫」と深い関係にあるとすると、彼女と「市杵島姫」が同一視されるという可能性が考えられます。
 彼女は「宗像氏」つまり「龍王」の娘として成長し、その後伝来した「法華経」に帰依して、瀬戸内を「布教」しながら移動(東行)し、その後「近畿」に至ったと見られ、その時点で「舒明」と再会したものと見られます。
 この「舒明」は「利歌彌多仏利」を意味するものと思われ、それは『日本帝皇年代記』の中で「帝」という称号が奉られているのは「田村帝」と書かれた「舒明」だけであることからいえるものです。
 「利歌彌多仏利」は明らかに「皇帝」の地位に就いていたものであり、ここにおいて「田村帝」という存在と「利歌彌多仏利」は同一視されると見られる訳ですが、それは即座に「厩戸皇子」とも同一視されることを意味しています。
 「厩戸皇子」という存在は「聖徳太子」を意味する名称ですが、その「聖徳太子」は「利歌彌多仏利」(一部はその父である「阿毎多利思北孤」)の投影であると考えられますから、ここで「田村帝」(田村皇子)と「厩戸皇子」は同一人物であることとなります。さらにそのことから、「皇極」(中津王)と「市杵島姫」と「厩戸勝鬘」が同一人物という事が示唆されることとなります。
 「厩戸皇子」と「厩戸勝鬘」が「双子」であり「兄妹」であると考えると、同じ「厩戸」という「宮」号を名乗っていることも理解できることとなります。

 
(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2018/03/11)(ホームページ記載記事を転記)