古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「格謨」と「唐人所計」

2013年09月25日 | 古代史

 ご存じのように「書紀」には「筑紫の君薩夜馬」達を解放するために身を売ったとされる「大伴部博麻」のエピソードが語られています。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞『唐人所計』。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并絁五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 ところで、この詔の中に「唐人所計」という表現が出てきます。従来この「唐人の計る所」とは何を指すかについては「不明」とされていますが、唯一「正木氏」により「泰山封禅の儀」を指すという研究があります。(※)
 しかし、この「詔」によれば、「薩夜麻達」はこの「唐人所計」を「本朝」に「是非」伝えようとして、その方法に苦慮した結果、「大伴部博麻」が「身を売る」ということとなったとされるぐらいですから、「国家危急」の事態が想定する必要があると思われます。
 このような緊急的な事項としては、彼等が「補囚」となっているという状況も含めて考えると、「軍事」に関わること以外のことは想定しがたいものです。そのような「危機的」状況であれば、これに対する処置等を「至急」「本朝」(これは「筑紫」の王朝を指すと思われます)に指示・伝達する必要があったとするのは当然であり、そのためのメッセンジャー役として「土師連富杼」たちが選ばれたと理解できます。
 また、ここで「本朝」という用語を使用しているのは「博麻」の言葉としてですが、彼は「筑後」の軍丁であり、それは「筑紫の君」である「薩夜馬」の配下にいたものです。当然彼が「本朝」と言う時には目の前の「薩夜麻」の朝庭を指すと考えるのが常道でしょうから、「筑紫朝廷」が「本朝」であると言う事となります。しかもその「筑紫朝廷」を「持統」は「天朝」と呼称しているのです。(この「天朝」は「聖武」などが使用した「遠朝廷」と重なるものといえるでしょう)

 「熊津都督府」の「鎮将」として存在していた「劉仁願」(実質的な占領軍司令官)は、後に「流罪」となるなど、不審な行動があったようであり、彼は「熊津都督府」という立場で何らかの「経略」を企んだのではないでしょうか。「補囚」の身ではあったものの、このような「劉仁願一派」(「郭務悰」達を含む熊津都督府の要人達)の策動を知ることの出来た「薩夜麻」達は「郭務宋」と「百済禰軍」について、「熊津都督」の「私者」「私蝶」であるとしてその「交渉」を拒否するようにという内容を「本国」に伝えようとしたと思われます。
 これに関連すると思われるのが「二〇一一年」に発見された「百済禰軍墓誌」(拓本)に出てくる「格謨」という用語です。
 この「百済禰軍墓誌」では、「以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰。」という文章となっています。
 この中で使用されている用語はいずれも難解なものが多いのですが、ここでいう「謨」は「謀」とほぼ同義とされますから、いわゆる「計画」であり「はかりごと」です。(ただし、現在の「皇帝」の立てた計画という意味はないと考えられます。その場合は「聖謨」と言うようです。)
 (以下「聖謨」の例)

「「舊唐書/本紀 卷一 本紀第一/高祖 李淵」

「(貞観)九年五月庚子…
史臣曰:有隋季年,皇圖板蕩,荒主燀燎原之焰,羣盜發逐鹿之機,殄暴無厭,橫流靡 救。高祖審獨夫之運去,知新主之勃興,密運雄圖,未伸龍躍。而屈己求可汗之援,卑辭答 李密之書,決神機而速若疾雷,驅豪傑而從如偃草。洎謳謠允屬,揖讓受終,刑名大剗于煩苛,爵位不踰於?軸。由是攫金有恥,伏莽知非,人懷漢道之寬平,不責高皇之慢罵。然而 優柔失斷,浸潤得行,誅文靜則議法不從,酬裴寂則曲恩太過。姦佞由之貝錦,嬖幸得以掇 蜂。獻公遂間於申生,小白寧懷於召忽。一旦兵交愛子,矢集申孫。匈奴尋犯於便橋,京 邑咸憂於左袵。不有聖子,王業殆哉
贊曰:高皇創圖,勢若摧枯。國運神武,家難『聖謨』。言生牀第,禍切肌膚。鴟鴞之詠, 無損於吾。」

 この「聖謨」と比較すると「格謨」とは「現皇帝」という程高位ではないもののかなりの地位にある人物が立てた計画ないしは計略のことをさすと考えられます。
 この「格謨」に関しては「晋書」に例があり、そこでは「燕」の王朝のこととして『「前皇帝」が「質素」を旨としていたのにあなたは華美で浪費している』という部下の諫言中に「先王格謨、去華敦僕、哲後恆憲」という表現がされています。
 これによればやはり「格謨」とは、「先王」の建てた「統治の方針」であり、また「姿勢」ともいうべきものでもあるようであり、「現皇帝」に関するものではないことがわかります。そのことから考えても、「百済禰軍墓誌」の場合は「禰軍」の上司であった「熊津都督」である所の「劉仁願」が立てた計画を指すのではないかと推測できるでしょう。この事から「格謨」とは「唐人所計」そのものであると考えられます。
 つまり「薩夜麻」達はこの「百済禰軍」達が実行しようとしていた「格謨」について何らかの情報を入手したのではないかと思料され、実行部隊として送り込まれた「郭務悰」と「百済禰軍」に対して必要なアクションを取ろうとして「思い余って」「大伴部博麻」が「身を売る」という事態となったと考えられます。
 そう考えると「唐人の計」とは「泰山封禅」ではないことが理解できるでしょう。なぜなら「泰山封禅」は「唐」の「高宗」が「長安」で企図したことであり、「劉仁願」の建てた計画ではないからです。(いわば「聖謨」であるわけです)
 この推移はそのまま彼らが「どこ」にいたかということの推定にもつながるものです。この「格謨」が「現地司令官」クラスのアイデアを示すとしてそれを「薩夜麻」達が知ることが出来たとすると、「薩夜麻」達も「劉仁願」達の至近に所在していたと考えることが出来るのではないでしょうか。
 一般には彼らは「唐軍」の捕虜となったとされていることから、「唐」まで連行されていたと考える向きもあるようですが、そうではない可能性の方が強いと思われます。

(続く)

(※)『薩夜麻の「冤罪」I』古田史学会報八十一号二〇〇七年八月十五日


「評制」の施行時期について(三)

2013年09月25日 | 古代史

 既にみたように「皇太神宮儀式帳」によれば「評」の設置と「屯倉」の設置は同時であり、「評督」が「屯倉」を管理している形になっています。ところで、「改新の詔」では「屯倉」を止めるとされていますが、「儀式帳」ではそれが「設置」されたこととなっています。この事から「儀式帳」時点と「改新の詔」時点とは時代の「位相」が異なると考えられるわけですが、その場合、どちらがどうなのかと言うこととなると「既成概念」に捕らわれて「儀式帳」を「七世紀半ば」に置き、「改新の詔」をもっと後代とすると言うのが一般的でした。(当方もそのように考えていた時期がありました)
 しかし、すでに述べたように「評制」の施行がもっと早かったと考えると即座にこの「儀式帳」も同様に早かったこととなり、既成の考えに大きく修正を迫ることとなります。それは「伊勢神宮」の成立の時期と、「屯倉」の成立の時期の推定に関わります。
 「儀式帳」の記事は「度会宮」の成立と「屯倉」の設置の時期として大きく異ならないことを示していますから、「評制」が施行が早くなると「度会の宮」つまり「伊勢神宮」の成立も当然早まることとなると思われます。それは「遺跡」から「出土」した「剣」の「鍔」の時代推定と見事に合致することとなるものです。

 「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した「銀象嵌『鍔』」は、「酷似」という言葉がふさわしいほど良く似ていることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などは「同一工房」によるものという可能性が強く示唆されています。
 また、共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、この二つの古墳の主には「深い関係」があると考えられるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
 なぜなら、元々「伊勢」は「肥後」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるからです。(これは水野氏の議論をなぞる形になりますが)
 また、「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
 この「日葉酢媛命」は、その死に際して「夫」である「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる「書紀」不信論の代表とされています

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、既に指摘されているように「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますが、これは上のエピソードに言うような「出雲」など「島根県」の遺跡の状況とは整合しませんから、説話として不審であるとされるわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの発生が遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。(ご存じのように「九州」は「石人・石馬」文化でありまた「装飾文化」の集中地点でもあります。)
 これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードもその「時期」が「整合」していると考えられています。つまり「垂仁天皇」という人物の統治領域の中心は「近畿」ではなく「筑紫」であったという推測が可能となるわけですが、それは「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に所在していたという可能性が高くなることを示すものと思料します。(以上は古田氏も言及されていることです)そしてそれは「伊勢」という地名及び「伊勢神宮」という存在そのものがオリジナルが九州にあったという推測を可能とするものであると思われます。
 この「九州」の「伊勢」が現在の「伊勢」に移されたということが考えられ、それが現「伊勢神宮」の成立時点と考えると、古墳の示す年代である「六世紀末」という時点がその成立年代として考えられることとなるわけですが、それは「屯倉」「評制」というキーとなる事象とセットとなっているものであり、いずれも「六世紀末」にこの「列島」に出現したものと推定できるでしょう。

(続く)


「評制」の施行時期について(二)

2013年09月19日 | 古代史

 ところで「評」や「郡」の末端組織である「村」や「里」について考えてみると、「旧唐書」では「開元年間」以前には「村」記事が全く見られません。また、「北史」では「魏」(北魏)以降「村」記事があります。「南史」では「梁」以降見られます。ところが、「後漢書」等の前史には全く見られません。
 これらのことから「村」の発祥はかなり新しいと言えるのではないでしょうか。それに対し「里」は「漢書」等の古典とも言えるものにも頻繁に見られ、その発祥がかなり古いことが判ります。また、これを元に距離としての「里」(り)が発生したと考えられ、深く生活と統治に根付いた制度であったと思われます。
 「唐」やそれに先行する「隋」の行政制度の末端には「里制」と「村制」の二つがあり、「里制」は租税徴集のために「人工的」に組織されたもので、後出的なものであり、戸数は「百戸」と決められていました。それに対し「村制」は「自然発生」した集落をそのまま「制度」として組み込んだものであり、これはおおよそ「五十戸」程度あった模様です。
 つまり「村」が先在していたところに後から「里」が制度として決められたと見られ、これが「併用」されていたものです。
 上に見る「村」と「里」の起源から考えると、「村」は「北魏」によってほぼ中国の「北半分」が統一された段階で使用されるようになったいわば「鮮卑系」の制度と思われるのに対して、「里」は「漢民族系」の制度とも言えるでしょう。
 「隋」は「南北」を統一し、「南朝」を「呉」と表現し「南朝」の発音を「呉音」と称するなど、自らの王権の正統性をことさらに強調しています。「長安」の発音を「漢音」と称するのも同様の意図からであり、このような流れの中に「漢民族系」の制度とも言える「里」を正式に導入する事となったのではないでしょうか。
 ところで「倭国」では元々「村」であったらしいことが「風土記」から窺えます。
 「風土記」には「石川王」が「総領」である時代に「村」が「里」へ改定されたという記事があります。

「備前国風土記」「揖保郡」の条。
「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後石川王為総領之時 改為広山里…」

 ここでは「都可村」から「広山里」へ変更になったと書かれており、単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」への変更が成されているようです。これは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられ、これは「風土記」の性格として「七世紀初め」の時期に「一旦」成立したものを換骨奪胎していると考えれば、この記事が「常陸国風土記」などと同様「七世紀初め」の記録であると推定できるものです。
 そう考えると「倭国」で元々「村制」らしいことから、これは「北朝」の影響とも言えるものであり、「仏教」等の文物とともに「北朝」から「高句麗」などを通じて流入したということも考えられます。そうであればその時点で「文化」の流入は「半島経由」であったことは間違いない訳であるので、「半島」の制度も混じり合って流入したと云うことも充分考えられ、「評」という制度が導入されることとなったのも同様の経過のことではなかったかと考えられます。

「常陸国風土記」によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

「常陸国風土記」「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここに書かれた「癸丑」という干支も「六五四年」が有力とは思われますが、「五九四年」という考え方も可能であると思われます。
 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、これは一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、以下の理由により、そうとは断定できないと考えられるようになりました(当方の見解を変更したものです)
 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が書かれているのが「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。
 このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。その場合両郡とも元々「千二百戸」ほどあったこととなり、これを「五十戸」制として考えると「二十四里」あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について「書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「二十四里」程度で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。
 しかし、この時点で「八十戸制」であったとすると、両郡とも「十五里」程度となって「隋書俀国伝」に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準より五割増し程度となりますから、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとするとほぼ同規模の郡が三つ出来ることとなり、バランスとしても良くなるものと思われますし、標準的な「里数」や「戸数」となるものと思われます。
 このことからこの時点ではまだ「五十戸制」ではなかったのではないかと考えざるを得ず、この「癸丑」という干支の指し示す年次は「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという推定が可能と思われます。

(続く)


「評制」の施行時期について(一)

2013年09月17日 | 古代史

 「古田史学の会」のホームページに古賀さんが「秦人凡国評」の木簡に関連して一文書いています。それを見て思い出しましたが、以前この「秦人凡国評」の表記を見て疑問に思ったことがありました。それはこの「木簡」には「評」の名称が書かれていないことです。「秦人凡国」とは「国」の名称でしょうから、「評」名としては何も書かれていないという不思議なこととなってしまいます。
 この事はこの「木簡」が通常よく見られる「過所木簡」や「荷札木簡」ではないことを示すものであり、何らかの「文章」の一部ではないかと言うことを示唆します。つまり『「秦人凡国」の「評」云々』という様な文章の流れになっている可能性が考えられ、例えばこの「評」が「秦人凡国」の「評」についての何らかの報告のようなものであったとみられることとなるでしょう。
 通常「評」木簡は三種類あります。一つは「年次」(「干支」(及び月日))-「国」-「評」というように「年次」と「国」名が前置されている場合と、「年次」がなく「国」-「評」というように「国」名だけが前置されている場合、そしていきなり「評」から始まるものと三種類があります。これを捉えて「評」の成立よりも「国」の成立が遅れるというような議論もあります。 
 「評」が書かれた木簡を分析してみると「年次」が書かれた木簡で「五十戸」表記がある木簡は非常に少ないことが判ります。(多くが「里」表記になっている)
 「五十戸」という表記は後に「里」に取って代わられることが推定されていますから、「年次」が書かれるようになる時点と「五十戸」が「里」に書き換えられる時点とは接近しているのではないかと考えられる事となります。
 また「年次」の書かれた木簡の全てが「国」表記を伴っています。これらのことから、「年次」が書かれるようになった時点以降「国」表記もされるようになり「里」表記へと書き換えられていくという推移が考えられますから、逆に言うと「国」表記がなくいきなり「評」から始まるものは「里」移行以前のものであり、「初期型」なのではないかと考えられることとなるでしょう。

 ところで、ここで「秦人凡国」とされているものと「隋書俀国伝」に書かれた「秦王国」が無関係とはとても考えられません。「凡国」の読みは「おおこく」とされていますから、この「秦人凡国」は「秦王国」と実は全く同じものではないかと考えられることとなります。その「秦王国」は「隋書俀国伝」の記事からは「竹斯国」の近隣にあることが推定できますから、「九州島内部」かせいぜい「山口県」付近ではないかと考えられ、発音の近似もあり「周防国」(すおうこく)との関係が注目されます。
 また、そのことは「隋書俀国伝」で「一二〇人」いるとされた「軍尼」の掌握している領域が実際には「評」であったのではないかという疑いへとふくらみます。(以前書いた拙論ではこれを「クニ」であると考えていたものです)
 つまり、「軍尼」が百二十人いて、しかもその上部組織に言及がないことからもこの時点では「国」がまだ成立していないことを示すと思われますが、そのことは「木簡」に見るように「国」が前置される以前には「評」だけが書かれている事とつながるという可能性があると言えるでしょう。
 つまり「軍尼」が管掌している「範囲」(戸数八百程度と考えられる)の名称は「評」であったのではないかと云うことです。

 「五十戸制」は「隋」にある制度ですが、「評」という制度は「隋」には見られません。この事は「五十戸制」と「評制」は少なくとも同時に導入されたものではないと言う事を示します。
 「俀国伝」中の「秦王国」は「裴世清」来倭時点の行路記事に出てくるわけですから、「六〇八年」段階の国内事情を反映していると考えられますが、その時点で「秦王国」は「竹斯国」と並んで既に「令制国」と同様の広さがあったことを示すと思われ、その中に複数の「評」を内包していたことを意味すると考えられます。
 既に拙論『「六十六国分国」と「国県制」』の中で「令制国」と同等の広さを持った「国」の成立は「七世紀初め」の時点であり、その時点において「強い権力」が発現したということを考察した訳ですが、その際の「国県制」の施行は「直轄領域」だけであったのではないかと考えるようになりました。
 拙論では「九州島」など「倭国王」の直轄領域ではそれまで「国-郡-県制」であったものではないかと考え、それをこの時点で「国-県制」へ変更したものとし、また「附庸国」である「諸国」について「クニ」が散在していたものを集約して「国」を成立させ、それまでの「クニ」は「県」へ名称変更したものであり、これにより国内の制度が統一されたと理解した訳ですが、この「国-県」という制度は結局「直轄領域」だけであったものであり、「諸国」は「国-評」という制度となったらしいことが推定されるようになりました。つまり「クニ」と考えていたものは既に「評」になっていたと云うことではないかと考えられるわけです。
 確かに従来から「評制」は「畿内」には施行されなかったという意見もあり、それは当方も同意見ですが、この段階で「評制」が施行されていたとすると、やはり「畿内」(直轄領域)には適用されなかったという可能性が高いと考えられます。
 また、「評」という制度は「半島起源」と考えられていますから、「隋・唐」と関係を深めていく中で(それに逆行するように)「半島」から「評制」を取り入れていたと云うことは非常に考えにくいことと思われます。そう考えると「隋代」以前に「評制」を取り入れていた、あるいは「遣隋使」派遣以前に「評制」が倭国に流入していたということを考える方が自然なのではないかと考えられることとなります。
 つまり「評制」は「阿毎多利思北孤」段階の「諸国」へのものであり、「五十戸制」及び「国県制」は「利歌彌多仏利」段階ではなかったかと考えられるわけです。

 ところで、「皇太神宮儀式帳」に「八十戸制」とおぼしき表現が出てきます。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」

 上の資料を見ると「十郷」で一つの屯倉に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は「八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「八十戸」程度あることとなり、これは「隋書俀国伝」に言う「八十戸制」と強い関連が考えられるものです。またこの記事は「五十戸制」と「評制」の先後関係にも影響を与えるものであるのは明らかであり、この時点で制定された「評督」の管轄範囲の「郷」の戸数が「八十戸」程度とすると、「評制」の方が「五十戸制」よりも「先行」することを意味するものとも言え、上の推定を補強するものとも言えるでしょう。

 ここでは年次として「難波朝廷天下立評給時」とありますが、「拙論」でも触れたようにこれは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の朝廷を意味するものと思われ、この時点で「難波」に前方拠点を設けたことを示すと考えられます。これが後に「副都難波」を作ることとなる前章であったと推察します。

(続く)


騎馬集団と馬具

2013年09月13日 | 古代史

 有名な「倭の五王」の一人である「武」の上表文では「駆率」という言葉が使われています。

「…臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遥百濟、裝治船舫。…」

 「駆率」する、とは馬に乗って(軍を)率いることが本来の語義です。「馬」については「四世紀」に百済から持ち込まれたのが最初とされています。
 それは「応神天皇」の頃とされ、「書紀」に以下のように記事があります。

「(応神)十五年秋八月壬戌朔丁卯条」「百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。…」

 この「応神天皇」の頃というのは「倭の五王」の最初の王である「讃」の頃を指すものと思料され、「四世紀末」に「百済」と友好を結んだ時の前後に列島に導入されたもののようです。これは「百済王」からもたらされた「親善」のための贈呈品であったものでしょう。そしてこれ以降、「馬」は「王」の乗り物となったと考えられます。「武」もこれに乗って陣頭指揮していたものでしょう。つまり、「駆率」する、と言うのは「慣用表現」でも「誇張表現」でもなく、実態にあった用語と考えられます。

 「馬」については、従来は少数ながら以前(弥生)から国内にもいたという考え方もありましたが、現在は遺跡から出た「骨」を「フッ素分析法」などの科学的方法などにより検証した結果、別の動物の骨らしいことが判明し、それ以外についても「後代」の混入と言う可能性が否定できないものばかりであり、「古墳時代」まで国内には存在していなかったというのが正しい考え方のようです。(倭人伝にも「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれており、馬はいなかったとされていますがこれは正しいようです)
 その最古の遺跡(骨)は「宮崎」県の遺跡から出土しており、その後「肥後」からもかなりの数が出土するようになります。
 また「馬具」についても最古のものはやはり「九州」であり(福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳など)、遅くても「五世紀初頭」のものであると言われています。
 このように、古代の「馬」と「馬具」分布中心は「九州」にあったことが判明しています。

 そして重要なことは古墳時代「倭の五王」の時代を通じて全国の古墳から出土する「馬具」はほぼ同じ形式であったことです。その理由としては、以前は「文化」の伝搬ということを考えていたものです。つまり、「国」から「国」へ「地域」から「地域」へと「文化」(つまり、馬とその馬具や乗馬法など)が「人から人へ」間接的に伝わっていったものとして考えていましたが、そう考えるには困難がありました。それは「伝搬」に時間が掛かっていないように見えることです。
 「統一政権」がまだ出来ていない、あるいはその過程にある、という段階では、「文化」あるいは「情報」の伝搬というものは現代の私たちの想像以上に時間が掛かるものですが、遺跡などから判断して、この「馬具」の形式というものは「一世代」ないし「二世代」のうちに各地に伝搬している事が推測され、このことから現在では「馬を操る集団」そのものが移動した、という考え方の方が主流を成しているようです。
 この事と「倭の五王」による国内統一と云うものが重なっているのは間違いないところであり、「軍事力」の中心に「騎馬集団」(ただし「騎馬民族」ではない)がいたものと考えられます。
 ギリシャ神話の「ケンタウロス」は「馬に乗った種族」を「半人半馬」という風に表現されたものと思われ、これは「騎馬」勢力を初めて見たような人たちの「驚異」を表す伝説であるとも言えるわけですが、このような「圧倒的」とも言える「武力」の差を背景として、「倭国王権」は列島各地に「武装植民」を果たし、その勢力を広げていったものと考えられます。

 また、この諸国への「騎馬集団」の展開と配置ということに関連して、「轡(くつわ)」と「引き手」の長さなど、馬具の寸法の変遷の研究が注目されます。(※)
 「古墳」などから確認される「轡」及び「引き手」の長さについて各地のものを相互に比較してみると、「当初」(五世紀初め)かなりばらついていた「馬具寸法」はその後「六世紀後半」になると全国で(但し「筑紫」を除く)ほぼ一定の長さに規格化されたこととが確認されています。これは各地域でバラバラに作っていたものが生産地域が集約され、そこで一括して生産しそれを各地に分配するようになっていたらしいことを示すと考えられます。また、それとと同時に、使用する「尺」がこの時点で「規格化」され統一されたことを示すとも考えられるものです。
 このことは「馬具全体」の傾向とも一致するものであり、上に述べた「騎馬団」の全国展開というものが短期間のうちに行なわれたものであり、その間の「馬具生産」や「補修」は現地で全て賄っていたと云うことを示すと思われます。これはひとつには、地方においても「鉄」を「鍛造」したり「精錬」するなどのことができるようになったことを示すものです。(それを示すように近畿など各地から「鉄」材や「剣」の出土が大量に増加することが確認されています。)
 その後「支配」が安定すると後方支援体制が整ったと思われ、「馬具」などについても「集約」して生産が行なわれるようになったものと推定され、その結果サイズ等がほぼ同一となっていったことを示すと思われます。
  
 他方、その「六世紀後半」という時点で、「筑紫」地域と他の地域とにおいて「寸法」の差が大きくなっていっている事実があります。「筑紫地域」とそれ以外では馬具寸法や引き手の長さなどが別の値をとるようになるのです。 このことから、この時点以降「筑紫」とそれ以外の地域というように国内がほぼ「二分」されたと見て取れます。
 これは明らかに「筑紫」とそれ以外の地域(これは集約された場所である「近畿」と思われる)とで別々に生産を始めた結果、違う寸法が採用されるようになったと言うことを示すと考えられますが、「引き手」の長短は「馬」の操縦の自在性と関係しており、「早足」や「左右」への速い動きなどを馬に指示する場合基本は引き手が短い方がより細かく制御できるとされます。(競馬の騎手などが典型的です)
 「筑紫」など「西日本」でそれが長いのは、「戦闘行動」というより既に「馬」が「儀式用」あるいはせいぜい「示威行動」のためのものとなっていたことを示すものであり、またそれが「東国」では短いのは実際に「戦闘」に馬が使用され、野山を駆け巡っていたことを示すと考えられます。

 これらの違いは「倭国王」の「権威」を諸国に拡大する過程をそのまま写したものと考えられ、「西日本」がまず制圧され、戦闘行動が停止された後、東国への統治が実際化していったことを示すと考えられます。しかし、地域によっては、「倭国王権」の方針に対して「抵抗」があったものと思われ、それが「引き手」の長さに現れていると思われます。それはまた「六世紀末」において「東国」(関東)で「前方後円墳」が突然大量に作られるようになることと関連していると言えるのではないでしょうか。西日本では小型化され「終末期古墳」に移行する過程であったにも関わらず、「関東」ではそれに「対抗」するかのように「前方後円墳」が作られるのです。

 このようなことについては、従来の「近畿王権一元論」では説明できない性格のものと思われます。この「法量」の違いを「異なる政治圏」の徴証と考えると、この「六世紀後半」という時点では「近畿王権」は「九州をその支配下においてはいなかった」と言うことになってしまいかねません。(前方後円墳についても同様です)
 他方、「九州王朝説」で言えば、この「六世紀後半」という時期は「筑紫」に「都城」を造ると共に、「難波」に「前方拠点」を造った時期に相当すると考えられ、「筑紫」という「倭国中央」と、「諸国」としての「他地域」という様に「政治的」にも「大別」されるようになった時期に相当すると考えられます。
 そして、それは「皇帝」(天子)自称という政治的動きにつながっているものと考えられ、「倭国王」直轄領域と「諸国」という「区別」が明確となった時期でもあったと思われます。(この時点で「諸国」に「国県制」(これは「国評制か)が施行されるようになったと見られます)

 また、この「六世紀後半」という時期は「轡」が「藤ノ木古墳」などに代表されるような「新羅形」の新形式となった時期でもあり、それは「倭国」に一代変革が起きた事を意味するとも考えられ、上に見るような馬具の「法量」の変化はそれに伴う現象であると考えられます。

(※)田中由理「日本・韓国出土轡の法量比較検討 -轡と引き手の長さに注目して-」大阪大学リポジトリ二〇〇七年十二月