古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「東山道十五国」とは

2018年03月31日 | 古代史

  山田氏がそのブログ「http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/03/post-757d.html」やこの度出された『古田史学論集』において「東山道十五国」について論じておられます。またその契機となった西村氏はその論(『古田史学会報』131号2015年12月)において「五畿七道」について根源的な問いかけをしております。それらに従えば「『東山道』とは九州から西へ行く陸の道をいい、『十五国』とはその『東山道』沿いにある諸国をいう」という点で両氏の論考に同意するものですが、「近畿以東」については後の「東山道」に引きずられてはいないでしょうか。

 もともと「東日本」へのルートとしては「東海道」が先行しており、こちらへ行く方が「初期東山道」ではなかったかと思われるのです。具体的には「駿河」までであり、そこから「海の道」に変わるものと見られ、ここから「船」により「房総半島」に上陸していたものが初期の関東への道であったはずであり、「陸の道」としては「駿河」までであったと見られます。それを傍証するのが「駿河」に設けられたという「稚贄屯倉」であり、この場所に「屯倉」が存在しているのは、ここが「官道」の「末端」であったことを示すと思われるのです。

 「駿河」の「宇戸ノ濱(宇土浜)」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路の終点であり、ここから海路によったものとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。この至近に作られた「屯倉」は当初「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」という一種の軍事的拠点としていたと考えられ、ここから関東に対して軍事力を背景として統治行動を起こしていたものと推定されます。(ただ多数の軍勢は送ることが出来なかったものであり、そのため「関東王権」の独自性が強く続いたといえるでしょう。)
 また初期目的達成された後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われます。それを示すと思われるのが「東遊」に関すると思われる史料です。

 「本居宣長」の著書『玉勝間』には『體源抄』(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。

 「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」

 ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見え、「東遊」という語からもわかるようにここに書かれた「天人」とは「九州王朝」の配下にあった「東国」から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったと思われます。つまり元々「東国」の舞であると思われるわけです。
 ここでは「江浦の夕ヘ」、つまり「日の暮れる頃」になって「浜」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、東国から「弔使」として派遣された人々により「鎮魂」のための舞として「九州王朝」に奉納されたものと思われるわけです。
 (『常陸国風土記』の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
 この「東遊」はその後も「宮中」で保存され、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)起源と考えられます。
 (このあたりについては以前に詳細記事(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/392aa3e70d5fd2f6f2fb294671966093 とその付近の関連記事)を書いていますのでそちらを参照してください)

 また「東山道都督」記事の中では「上野国」というような文が現れますが、「毛野国」が分割されたのはいつなのか判別できないものの、分割したのは関東王権によるものではなかったかと思われ、かなり早い時期を想定すべきです。その意味でここに「上野国」という名称があるのは不自然とは思われません。後に新たに「官道」が造られ「陸路」により「北関東」へ行くルートが開拓されこれが「東山道」となるまではこの「途中に海路を挟む」経路が「北関東」と「倭国中心」を結ぶものであったと推定されます。

 また「東山道十五国」記事中に「彦狹嶋王」が「春日穴咋邑」に至って亡くなったとされていますが、通例ではこれが「大和」の中(奈良市の一部)と考えられていることを踏まえると、これらをベースに考えた場合「幹線」としての「道」が当然あったとしてそれが通ったであろう以下の国々が「東山道十五国」として想定されます。

「豊」-「長門」-「周防」-「安芸」-「吉備」-「播磨」-「摂津」-「河内」-「大和」-「伊賀」-「伊勢」-「尾張」-「三河」-「遠江」-「駿河」

 この先は海路によったものであり、その終点は(房総半島から上陸した後)「上野国」であったと思われます。だたしこの「東山道十五国」時点ではまだ「関東」は「小国」(クニ)の分立状態であり、「西日本」の諸国と同様な「常陸」など「令制国」と同じ領域を持つ「クニ」の成立は「六世紀末」あるいは「七世紀始」まで遅れる可能性が高いと思われます。(『常陸国風土記』の分析から)

 このルートは「東山道都督記事」の直前にある「景行天皇」の「東国行幸」記事のルートと同じと見られ(「伊勢」に行幸した後「東海」に行き、上総に至っている)、この「行幸」が即座に事実とは思われないものの当時の東国へのメインルートであったことが推定できます。

「2018年4月1日加筆修正」


(※)富永長三『常陸国風土記』行方郡の二つの説話をめぐって「市民の古代」第13集 1991年 市民の古代研究会編


「朱鳥」年号について(一)

2018年03月26日 | 古代史

 「朱鳥」年号は『書紀』によれば、天武末年「六八六年」に改元され行われ、一年間しか継続せず、「持統天皇」即位と共に消えてしまういます。この改元についてはなんの説明も『書紀』中にされていません。一見すると「遷宮」と関係がありそうな記述がありますが(「飛鳥浄御原宮」へ「宮」を遷した)、その「宮」名と「年号」の間にはなんの関係も考えられません。ただしここで用いられている「仍」の本義は「やはり,依然として,いまなお」というものであり、これに従えば「年号」は「朱鳥」となったが、宮殿は「変わらず」「飛鳥浄御原宮」とした(命名した)とも理解できます。

「朱鳥元年(六八六年)秋七月己亥朔(中略)戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」

 上で見るように「改元」されて「朱鳥」(阿訶美苔利)に年号が変わったと書かれています。さらに『二中歴』では「六八六年」から「六九四年」まで九年間「朱鳥」が続いています。また、『万葉集』の中には「日本紀に曰く」という形でいくつか引用があり、それによれば「朱鳥」年号は少なくとも「七年」まで続いていたと思われます。

「右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋」(巻一雑歌作三十四の左注)

 そのほか「朱鳥」年号は下記各種資料に確認され、実在性が大きいと考えられ、『書紀』のように一年で終わるものではないことが確かであると考えられます。

「文武天皇御宇朱鳥一三年葛木神讒言」「一代要記 」
「持続天皇御宇朱鳥四年己丑依讒言伊豆国大島被流自夫。…」「會津正統記」
「文武天皇同十五庚子同十六年辛丑改元有大宝云…」「一六八八~ 本朝之大組之雑記」
「持統天皇朱鳥七年壬辰 朱鳥八年癸巳より元禄元年庚午迄…」 「一巻未書 」
「持統天皇御宇朱鳥八年歳次甲午春…」「修験道史料集II 昭和五九年 箕面寺秘密縁起 」

 (但し、上の「朱鳥」の例のいくつかは「持統称制」期間と混乱があると思われ、「六八七年」を元年とするものもその中に認められます。)

 また、滋賀県大津に「鬼室集斯」の墓、と言うものがあります。「鬼室集斯」というのは「白村江の戦い」前後に活躍した「百済」の将軍であった「鬼室福信」の子息で、「白村江の戦い」の後日本に「亡命」したと『書紀』に書かれています。この彼の墓が大津にあるのですが(六角型をしています)、この中に「鬼室集斯」の亡くなった年次として「朱鳥三年」と書かれています。(というより彫られています)

「朱鳥三年戊子十一月八日」

 これは「江戸時代」に偽作されたものという説もありましたが、古賀氏により古代からのものであって「偽作説」が成立できないと論証されています。(※)もっとも、私見では(論旨の一部には同意するものの)重要な点で疑いがあります。なぜなら当時の金石文(墓誌)で「干支」だけではなく「年号」が書かれているのは非常に珍しく、これが唯一と言っていいものです。他に年号が書かれている例は「那須直緯堤」の碑文がありますが、そこには「唐」の「則天武后」の時代の年号である「永昌」が使用されており、それは「六八九年」を表わすものと思われますが、そうであれば「朱鳥」の施行されていた時期に相当すると思われるのにそれは書かれていないこととなります。

 この時期「墓碑」や木簡などを見ても通常は「年号」を書くことが慣例化していなかったことが推測されるわけですが、それにもかかわらず、ここには「朱鳥」という年号が書かれているわけです。そうするとことさら「年号」特に「朱鳥」が書かれているということには別の意味があると考えられることとなるでしょう。
 確かに「墓碑」などいわゆる「金石文」については「錯誤」あるいは「虚偽」の可能性は低いと考えられ、この「朱鳥」年号についてもその信憑性は非常に高いものと考えられるものの、通常は書かれない「年号」が書かれていることにはある「疑い」が生じます。それは「古さ」を演出するためではないかということです。
 確かに「朱鳥」は『書紀』には「一年」しか出現しませんが、そもそも『書紀』自体の成立が一般に考えているよりかなり遅れたという可能性があり、本来は『日本紀』が「正規の史書」とされていた時代が長かったものではないでしょうか。そしてそこには上に見るように「朱鳥」が「年次」を表わすものとして使用されていたという可能性があると思われます。
 この「墓誌」の作者がその『日本紀』を見てそれに合わせようとしたという可能性は考えられ、「江戸時代」ではなくても「八世紀」あるいは「九世紀」付近での「偽作」という可能性は捨てきれないでしょう。

 またその形が「六角形」をしていることについても、七世紀代の「六角形古墳」が非常に少なく、「マルコ山古墳」と「塩野六角古墳」の二基だけとされています。その「マルコ山古墳」は『書紀』に出てくる「川島皇子」(天智天皇の子供とされる)との説もあるなど、かなり高貴な人の古墳とされており、その「六角形」という形状についても本来誰でも作れるものではなかったという可能性が考えられるところです。
 「鬼室集斯」の父である「鬼室福信」は「百済」の「佐平」という称号を持った軍人ではあるものの「王権」とはそれほど近い存在ではありませんでした。その人物の子供が「倭国王」やそれに近い立場の人物と同じ形の「墓」を作るということは「同時代」としては考えにくいものです。
 さらにこの「朱鳥」が「六八〇年代」を示すとすると、当時は「古墳」と「金属板の墓誌」という組み合わせが普通であって、「石材」を使用した「墓碑」というもの例がありません。またこの「鬼室集斯」の墓と称する場所には「墳墓」がなく、「墳墓」を伴わない「墓碑」というのも当時としてははなはだ異例です。「墓碑」は「墳墓」の敷地内に立てられる性質のものであったはずだからです。(『養老令』では「喪葬令」に「凡墓。皆立碑。記具官姓名之墓」と規定されており、「墓」には「碑」を立てるとされていますから、同じ敷地内に立てることが前提であったと思われますが、それは前代までの規則を踏襲したものと考えられます。)
 これらのことから「鬼室集斯」の「墓碑」と称するものは『現行書紀』が成立する以前の「桓武」「嵯峨」以前の時代に作られたものと見るべきこととなりかなり古いものであるのは間違いないものと思われるものの、その「朱鳥」という年号については正確性には疑いがあると考えられることとなるでしょう。ただしその場合でも「年次」と「干支」の関係は「偽造」しにくい性質のものであり、「朱鳥三年」が「戊子」であるという情報の意味は重要でしょう。つまりその元年としては「丙戌」となり、「七世紀」では「六二六年」と「六八六年」のいずれかの可能性が考えられますが、『日本紀』にはすでに「六八六年」のこととして書かれていたということが推定され、「墓碑」はそれに合わせたという可能性が考えられることとなります。(後でも記しますが、実際の「朱鳥」年間は「一運」上がった「六二六年」という年次を示すものがその本義であったと推定されます)

 また『書紀』でなぜ一年間だけ記載されているかは諸説ありますが、この「天武末年」の前年とこの年の二回にわたり「徳政令」(借金の利息と元金とを棒引きする)が発布されていることと関係しているという古賀氏の指摘が重要でしょう。(※)
 この「徳政令」と「六八四年」に起きたとされる「白鳳大地震」とは非常に深く関係していると思われ、多くの負債者が(特に西日本で)発生したものと思われ、これを救済するために「徳政令」を発布したものと推量しますが、この時の「債務」は「詔」にもあるようにその多くが「貸稲」とその「利息」であり、それが棒引きされることになって影響を受けるのは「私的」に「貸稲」を行っていてしかも「被災」しなかった地域の「大土地所有者」であったと思われます。
 この時の「地震」と「津波」の被災地域は広範にわたったため、大土地所有者達の逸失利益も甚大となり、彼らはこの「徳政令」の発布を受けて「倭王権」に対し「補償」をするよう迫ったものと思われますが、「倭王権」がそれに正確に対応できたかは疑問であり、「権威」と「軍事力」で押し通すには無理があったものと考えられ、その反発は「倭王権」にとって致命傷となった可能性があるでしょう。
 「新日本王権」は「日本王権」からその地位を禅譲されたものであり、それは「負債」をも継承したこととなります。もし完全な「革命」ならば「負債」については補償しないという立場もあるでしょうけれど、この場合は形式的ではあっても「禅譲」を装っていますから、「債権者」である大規模土地所有者等の支持を得る意味でも「債権」の存在を認める必要があり、また逆に「負債」を免除された人々に対しても同様に支持を取り付ける必要があるわけで、その意味で「徳政令」そのものもなかったことには出来なかったものと見られます。そして「徳政令」記事とそれに対となっている「朱鳥」年号は「史書」に書かれるべきものであったことと見られるわけです。


(※)古賀達也「朱鳥改元の史料批判」(古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集 二〇〇〇一年十月 明石書店)


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/02)(ホームページより転載したものに加筆)


「大長年号」について

2018年03月26日 | 古代史

 『新唐書』には以下のような記述があります。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
 長安元年〔二〕,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 つまり上の記事によれば、「天武」の前代である「天智」は「蝦夷」を引率した「遣唐使」を即位の翌年派遣したとされていますが、これは通常「伊吉博徳」が参加した「六五九年」の遣唐使を指すと考えられています。
 また「天武」の次代の「總持」(持統か)は「咸亨元年」つまり「六七〇年」に使者を派遣したとされていますから、その即位は「六七〇年」以前のこととなります。そうすると結局「天武」の統治期間としては『新唐書』による限り、「六五八年」以降「六七〇年」までのどこかの年次区間を推定する必要があるという結論になりそうです。
 ところが、この「天智」が使者を出したのが「六五九年」ではなく「六四〇年」であるという可能性もあり、その場合「天武」の治世期間としては「六四〇年」まで上限が変わることとなります。それは「六四〇年」が「甲子朔旦冬至」という「中国」の皇帝としては画期とすべき年次であったためであり、この時に「倭国」から「蝦夷」を伴って遣使したという可能性が考えられるわけです。(詳細は後述)そうであれば『新唐書』の記事は「六五九年」のことと決めつけることができないこととなるでしょう。(このような記述があるところから『新唐書』には信がおけないという風評もあるわけです)

 ところで『続群書類従』中に見える『伊豫三島縁起』では「壬子」という干支が「大長九年」と記されているとされます。(実際には「天長」と記されている)

「…天武天王御宇『天長九年』《壬子》六月一日。…」(『続群書類従』巻第七十六「伊豫三島縁起」の段)

 上の『新唐書』記事によれば「天武」の統治期間は「七世紀半ば」となるわけですが、この『伊豫三島縁起』によれば「天長年間」に「天武」の治世があるとされています。この「天長」は「古田史学」学派では「大長」の誤りとされていますが、その「大長」という年号は「九州年号」中に存在するものであり、これについては「古田史学の会」のホームページ上で古賀氏が書き綴られている『古賀達也の洛中洛外日記』の五九九話(二〇一三年九月二十二日)で内閣文庫本『伊予三島縁起』を写真撮影したものについての話が書かれており、そこでは「天長」ではなく「大長」と書かれている写本があることが述べられています。但し「古賀氏」はこの「天長」が「大長」の誤りであり、それは「文武」の時代と推定されていました。しかし「内閣文庫本」において「天長」は「大長」であったとしても、「天武」はやはり「天武」であって氏が推定しているような「文武」ではなかったということは重大と思われ、無視できないものではないかと思われます。つまりこれが「天武」であったとすると『新唐書』に合致する事となるのが重要と思われるわけです。

 この「大長」という年号については、史料によりその場所(年次)が異なり、『二中歴』によれば「大化」の後に入れられています。また、たとえば『八幡宇佐宮御託宣集』では「持統」の代の記事として書かれています。現在の「多元史観論者」の多くはこれを「正統」としているようですが、「常色」と「白雉」の間、つまり「七世紀半ば」に入れている史料もあります。(『如是院年代記』、『開聞山古事縁起』など)
 この「天長」(大長)がこれらの資料が示すように「大化」よりはるか以前の「七世紀半ば」を指すということとなれば、『新唐書』あるいは『伊豫三島縁起』との近似を単なる偶然とすることはできなくなるものと思われます。そしてそれは『伊豫三島縁起』において「文武」ではなく「天武」と書かれている事とつながります。
 これらからは「大長」についてその元年が「壬辰」(「六四四年」)であり、「六五二年」までの九年間継続したという推定も可能となります。その場合『伊豫三島縁起』の「壬子」という年は「六五二年」と考えるべき事となるでしょう。つまり「白雉元年」と一致するわけです。
 『運歩色葉集』に記された「柿本人麻呂」の死去に関する記事もこれと整合しているともいえるでしょう。

「(柿本人丸)大長四年丁未於石見国高津死」(『運歩色葉集』の「賀」の部)

 これによれば「大長元年」が「壬辰」となりますから、『伊豫三島縁起』と一致します。そして上の推論に従えば「柿本人麻呂」の死去は「六四七年」のこととなります。もっとも、これは従来の常識とまったく反していますから、これを不審とすることは簡単ですが、「柿本人麻呂」の生きていた実年代が別の史料から証明されない限りはこの説もすぐに消えることはありません。

 また以下の史料では「三論宗」の国内への展開を『持統天皇ノ御時』としていますが、これは後代の『書紀』などによって得た知識に基づく「挿入」と思われ、「大長」という年号だけが初期の形を表していると思われます。

「持統天皇ノ御時大長元年壬辰三論宗広マル文武ノ時大長九年庚子倶舎宗広マル」(『八宗伝来集』一六四七年)(※)

 この史料の趣旨は「三論宗」の普及と展開が「七世紀後半」から「八世紀前半」に掛けてのものであるとしている訳ですが、「三論宗」の倭国における始源は「七世紀前半」に来倭した「高句麗」の僧である「慧灌」によってもたらされたらしいことが以下の史料から推定されます。(ただし、彼は来倭後「三論宗」の講義を多年に亘り行わなかったとされ、「福亮僧正」への講義により、一般化したらしいことが以下の記事から理解できます。)

「……孝徳天皇御宇大化二年丙午慧師慧輪智蔵三般同時任僧正。是三論講場日之勧賞也。智蔵上足有三般匠。乃道慈智光禮光也。…乙酉歳慧灌来朝。来朝之後二十一年未廣講敷。大化二年丙午初開三論講塲是即仏法傳日本後。経九十五年始講三論。其第二傳。智蔵僧正。未詳時代。応勘?史。…」『三国仏法伝通縁起』(中巻)

 この『三国仏法伝通縁起』によれば「慧灌僧正以三論宗授福亮僧正」とされており、ここでいう「慧灌僧正」については「推古三十三年」(六二五年)来日とされており(同じく『三国仏法伝通縁起』による)「三論宗」が七世紀前半に伝来したことが窺えます。
 そして「七世紀半ば」という時期に「講義」が広く行われた結果、一般に普及・拡大したものと推定されますから、この「大長元年」を『持統天皇ノ御時』つまり「七世紀末」とする事とは少なからず整合せず、かえって「七世紀半ば」を措定して不自然ではないことを示すものです。

 さらに上に見た『伊豫三島縁起』は以下のように「東夷」を「征罰」したという内容となっています。

「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日。為東夷征罸。第一王子伊豆國御垂迹云云。」

 ここでは「天武天皇」が「東夷征罸」するために「第一王子」を「伊豆国」へ派遣したように書かれています。この「東夷」が何を意味するかは不明ですが、『書紀』には「天武」が「東夷」を「征罸」した(あるいはそのために「王子」を派遣した)というような記述は見あたりません。ましてこれを「文武朝」と考えると「王子」(後の聖武天皇)は「文武」の死去した時点でまだ七歳であったとされますから「東夷」など征伐できるはずもありません。(当然そのような記事は『続日本紀』にはありません。)
 この「東夷」がいわゆる「蝦夷」を指すとすると、『書紀』を見ても「蝦夷」への武力対応は『斉明紀』に最も明確であり(「阿倍比羅夫」の遠征として描かれています)、それは「六五〇年代」ですからまさに「七世紀半ば」の出来事となります。その場合「壬子」とは既にみたように「六五二年」を指すとみて矛盾はありません。

 これについては『天武紀』にある「伊勢王」の「東国限分」記事(以下)がそれに相当するという可能性があります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔…辛巳。遣伊勢王等定諸國堺。…」
「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔…己丑。伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…。」

 これらの記事のうち前二つの記事では「諸国」とされていますが、実際にはそれが「東国」のことであったのは三番目の例が示しています。そこには「亦」とありますから、以前の「諸国」も「東国」を意味していたことも確かでしょう。
 これらの例は「正木氏」のいう「三十四年遡上」研究に重なるものと思われます。それは「伊勢王」という人物の活躍年代の推定からもいえます。後述しますが、「伊勢王」の生存年代は「七世紀半ば」と見るべきと思われ、その場合この「東国限分」の実年代としては「六四九年」から「六五一年」にかけての話となって、上に見た「六五二年」付近のことと思われる『伊予三島縁起』の「東夷征罰」と重なることとなります。
 つまり、「大長」の実使用期間としては『二中歴』にあるような「八世紀」代ではなく、「七世紀半ば」という可能性もまた充分に考えられるものと考察します。


(※)古田史学の会のホームページにて(九州年号資料)確認。


 (この項の作成日 2013/08/03、最終更新 2016/06/12)(ホームページより転載したものに加筆)


「白鳳」と「朱雀」年号について

2018年03月25日 | 古代史

 「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号があります。この二つの年号に関しては、『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。

『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。」

 ここでは「治部省」から奏上された「僧の身分確保の件で処置を請う」というものに対して聖武天皇は「詔」を出していますが、そこで「白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。」という言い方をしています。
 ここで問題になっているのは「出家」して「僧」になっている人たちに関してであり、この時点で「僧」の本人判別を行っているものです。彼等の申し立てに対して調査すると「出家」した理由が本当かどうか不明であったり、「鋼帳」に該当する人物はいるが、「官籍」つまり「王権」の側で持っている「リスト」にはいないという場合、あるいは「顔かたち」や「ホクロ」など本人を識別するものが記録されたものと変わってしまっている(つまり年月が経って顔形が変わったということか)というような事情があって、「公験」つまり「僧」としての活動を認める証明書を発行するべきかどうか判断できないというわけです。
 これによれば本人達の出家した理由などに関する部分の中に、「白鳳以来」とか「朱雀以前」という言い方が使用されていたものと見られるわけですが(この事は「書類」として「公験」らしきものが提出されたらしいことが示唆されます)、この「白鳳」や「朱雀」が「年代」や「年次」を表すものとして使用されているのは明らかであり、それは過去においていわゆる「年次」を記録するのに「白鳳」や「朱雀」がその基準として使用されていた実態があったことを如実に示すものです。
 僧の「公験」というのは公式文書であり、そのような中に「白鳳」「朱雀」が使用されていたと言う事になるわけですが、そういわれても「聖武」の朝廷の官僚達は「判定できない」というわけです。それはなぜかということが大きな問題であるわけですが、それは「聖武」の王朝つまり天皇家では改元したとか公布したとかの記録が一切なかったものであり、そのような年次を示すものは彼等にとって無効であったこととなります。しかし実際に使用されていなかったものを天皇が「詔」の中で「言及」するはずがないのは明白ですし、「聖武」の「詔」のニュアンスも「白鳳」「朱雀」という年号の存在を頭から否定しているものではないことに注目すべきでしょう。あくまでも、そのような年号があったのは承知しているが、その年号とリンクした記録がないと言っていると理解できます。

 そして、「聖武」はこの時代のことは「玄遠」つまり、「暗くて遠い」ということであり、良くわからないぐらい昔である、ということを言っているのです。
 しかし、この「詔」を出したとされる「神亀元年」(七二四年)から見ると、「白鳳」(六六一から)「朱雀」(六八四年から)という年代はたかだか「六十-四十年」程度の過去のことです。そのことは、現実にまだ生存している「僧」達の口から(あるいは「文書」として)「白鳳、朱雀」という年号が彼等の時代として語られていると見られることでもわかります。彼等が若い頃出家した頃には「白鳳」「朱雀」という年号が施行されていた時代であったということですから、それほど大昔のことではないこととなります。(彼等自身は七十代程度かと思われます)
 「聖武」の祖父である「草壁皇子」の「生年」が「六六二年」とされますから、まさに「白鳳」の始めに当たります。自分の祖父である「草壁皇子」の時代のことがよくわからないとすれば、朝廷にあってははなはだ不都合なことであろうと推察され、(実際「不都合」が起きているわけですが)そのようなことがなぜ起きたのか、不思議な感じがします。

 この「僧尼」に対する「公験」という問題はその二年前の「養老四年」に同じく治部省から「奏上」がされていることと関連があるとされます。

「(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。」

「(養老)四年(七二〇年)…八月辛巳朔…癸未。詔。治部省奏。授公驗僧尼多有濫吹。唯成學業者一十五人。宜授公驗。自餘停之。…」

 ここでは「公験」を「始めて」授けたとされ、さらにそれら「僧尼」の中に「濫吹」、つまり学業ができてもいないのにそのような「ふり」を装っているものが多いとされ、「公験」に値するかを精査しているようです。さらにその作業の中でこの年(養老四年)正月に「聖武」の「王権」が「始めて」公験を授けるずっと以前から、すでに「公験」を授けられている者達が多数おり(僧尼は確かにそれ以前から多数いるわけです)、彼等がそもそもいつの時点で「公験」を受けていたのかが不明であったものと考えられるわけであり、「始めて」の意味がここでは不明となっているわけです。

 察するに、彼等はこの時点でようやく「僧尼」に対する国家管理を行おうとしているわけであり、それまでは「僧尼」が持っていた「公験」の有効性を認めていたと見られます。この時点以降自らの王権の元に「僧尼」に対する統治・管理に乗り出したらしく、その時点で「公験」の精査を始めたものと見られます。そのような中で「前王権」から有効性を認められていた人々から、継続して認めるよう要請があったものと見られ、それに対し「官僚」が適否の判断をできなくなり、ことは手続きの問題から「政治性」を帯びてしまったため直接天皇の裁可を仰ごうということとなったものではないでしょうか。
 「前王朝」との関係を考えると(現王権に対する反対者がまだ隠然たる勢力を持っていたものと推量され)、一概に却下することも出来なかったものであり「聖武」に下駄を預けたというわけでしょう。

 さらに興味があるのは「朱雀」以降についてはどうもデータがあるらしいということです。聖武の詔では「白鳳以來。朱雀以前。」と書かれていますが、「白鳳」の次が「朱雀」ですから「白鳳以来」というと本来その時系列は現在まで続くはずですが、それが「不明」なのですから、実際には次の「朱雀」で切れていることとなります(だから「朱雀以前」がわからないということでしょう)。このことから「聖武の王権では問題となっている「僧尼」や「入道」達の主張について「朱雀」以前のデータだけがないということを示すものと思われますから、その期間を除けば僧籍については把握していたと受け取れる表現と思われるわけです。そう考えると、「聖武」の王朝は(『二中歴』によれば「朱雀」に続く年号である)「朱鳥」から始まる王朝に直接つながっていると見られることとなりますが、それは「朱鳥」が「新王朝」の始まりであるといっているのに等しいわけであり、(後でも触れますが)「朱鳥」が「訓読み」をするとされていることや「持統」が「日本国」と国号を変更した際の年号が「朱鳥」であったという資料の存在から考えても首肯できるものです。

 このようなデータベース(僧籍)については、「寺院側」では廃棄すべきものではなかったとみえ、「王権」や「体制」が変わってもそのまま継続して保有(保存)していたものと思われます。そう考えると、「朱雀」以前の「王権」と「聖武」の「王権」とではその内実が異なっていたという可能性が考えられるでしょう。そのため「朱鳥」から始まる新王朝の「官籍」とは整合しない内容となっていたということと理解できるのではないでしょうか。
 「聖武」は「粗略」なところがあった、という言い方をしていますが、実際には前王朝の官人や資料が(実質的には)継承されていなかったため、「資料」がそもそもなかったことから発生した問題であったものと思われるのです。(「始めて授ける」という表現はそのあたりを示しているようです)

 上に述べたように「聖武」につながる王権の最初は「朱鳥」という年号下の王権と思われるわけですが、そのことに関して『歴代建元考』(「清」の「鐘淵映」の撰)という書物に興味ある記述があります。その中の「外国編」の「日本」のところに以下のようにあります。

「…斉明天皇吾妻鏡作天豊財重日足姫即皇極天皇復位仍用白雉紀元在位七年改元一白鳳/天智天皇舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」

 記事の中で使用されている「仍」とは「継続して」という意味であり、「白鳳」は「斉明」の時代に改元され、「天智」「天武」と継続して使用され、その「天武」のときに「朱雀」「朱鳥」と改元されたというわけです。この情報からは「天武即位」を「元年」とする「白鳳」年号は誤謬であり、「天智元年」つまり「斉明」の「末年」を「元年」とする「白鳳」の方が正しいように受け取ることができます。しかし、そもそも他の年号であっても「即位改元」されているものがみられません。このことはこれら「天皇」の存在と「改元」とが「無関係」であることを窺わせるものであり、本来の「最高権力者」が別に存在していたことを裏付けるものです。その意味で「白鳳」が延々と(二十三年間)継続使用されているのは、「倭国」を代表する権力者つまり「倭国王」がその間継続して存在していたからであり、そのゆえに「改元」されなかったと見るべきです。
 それではその「倭国王」は誰かと言うことですが、「白鳳元年」が通常考えられる「六六一年」であるとすると、考えられる人物としては「筑紫君薩夜麻」が挙げられます。彼は「百済を救う役」に参戦し捕囚となったものであり、「天智末年」に「唐軍」と共に帰国しています。その後の動静は不明ですが、(私見では)元通り「筑紫君」として復帰したとみるのが相当であり、自らの身を売って主君である「薩夜麻」の帰国に尽力したとされる「大伴部博麻」が帰国する直前まで生存していたとみるべきでしょう。(というより存命中には帰国が許されなかったとみるべきではないでしょうか)そして、「持統」により「国号」が「日本」と変更されると共に「博麻」は帰国したものと見られますが、それはまさに「白鳳」の継続年数に整合しています。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/02/10)(ホームページより転載したものに加筆)


『一切経』と『江談抄』

2018年03月25日 | 古代史

 「大江匡房」の談話録とされる『江談抄』の巻三に「一切経日本渡事」という項があり、以下のことが書かれています。

「日本人王三十代御門欽明天皇僧要元年乙未年自唐渡也」(『江談抄』巻三より)

 ここでは「僧要」という年号が使用されていますがこれは「正史」とされる『書紀』などには見られない年号であり、いわゆる「九州年号」群の中に存在しています。
 この『江談抄』とは「大江匡房」が語り、それを「藤原実兼」が筆録したとされているものです。またこの「大江匡房」は十一世紀から十二世紀にかけて活躍した人物であり、「大宰帥」「中納言」などを歴任した当時の重臣です。彼の言葉の中にそのような「正史」とされる史料には書かれていない「年号」が使用されているのです。
 彼がどのような知識で書いたのか、どのような資料を参照したのかは不明ですが、ここにそのような「年号」が使用されていることは重大ですが、さらにこの記事には別の意味で不審があります。それは「人王三十代御門欽明天皇」という天皇名です。

 他の史料では「僧要」は「舒明」の時代の年号であり、この「乙未」というのは「六三五年」と理解されています。しかしここでは「欽明天皇」とされています。これは同じ「明」という字句を持つ「舒明」との混乱と考えられそうですが、「人王三十代」とされてもいますから、そうは断言できません。「舒明」であれば「三十四代」のはずであり、「代数」も同時に書き間違えていることとなってしまいます。
 もっとも「乙未」は「干支一巡」遡上した「五七五年」と理解することもできると思われ、そうであれば「敏達」の在位年代となります。(敏達を三十代とする数え方もあるようです。)
 ただし今度は『一切経』の成立年次と齟齬するという可能性が出てきます。『一切経』は「仏教経典」の集大成であり、このようなものは何回か作られました。しかし『一切経』とは「北朝」において成立した仏典の集大成をいい、「南朝」において成立した『大蔵経』とはその素性が少なからず異なります。ここでは『一切経』とされていますから、「北朝」で成立したものが伝来したことを示しますが、「倭国」はその国交が「南朝」に著しく偏っており、「北朝」との交流は「隋」成立後のことでした。そのため「隋」以前の「北周」「北斉」「東西魏」などの「正史」には「倭国」は全く登場しません。「倭国」は「隋」に至って始めて「北朝」と接したものと考えられる訳です。では「北朝」との接点はなかったのかと言うそうでもないわけです。それはこれが「百済」から伝来したという可能性が考えられるからです。
 「百済」は当時「南朝」との交渉と平行して「北朝」とも通交しており、「北斉」や「北周」からは「帯方郡公百済王」という称号を授与されていました。その「百済」を通じて『一切経』が倭国内に流入したということは考えられます。それを示すのが以下の「空海」「日蓮」の記述です。

「仏法、百済国より始めて日本朝に届る。是れ梁の武帝の大宝三年、壬申に当たるなり。其の壬申より日本の第三十帝、天国排開広庭天皇の十三年壬申に至るまで、仏入滅の後、一千一百六十二歳を経て、仏法始めて日本に届る。」(空海「高野雑筆集」『弘法大師空海全集』七巻所収)

「…又、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済より一切経・釈迦仏の像をわたす。」(日蓮『報恩抄』・『日蓮大聖人御書全集』所収)

 ここにも「日本の第三十帝、天国排開広庭天皇」「人王第三十代・欽明天皇」という表現がみられます。ただし伝来の始発が「唐」と「百済」というように食い違っていますが実祭にはすでに見たように始発も同じであったという可能性が考えられます。「空海」や「日蓮」がどのような記録を見てこれを書いたのか不明ですが<「日蓮」関係資料では『書紀』のように「経論若干」ではなく『一切経』とある点などみても『書紀』ではない史料を見ているのは明らかと思われます。(仏教関係の史料と思われます)
 『一切経』はその「集大成」という素性から考えても、ボリュームが非常に大きいものであり、とても「若干」とはいえないものです。
 このような資料からは「僧要」年間つまり「七世紀」も半ばの時期などではなくそれに先立つ「六世紀」の「欽明朝」にも『一切経』など多数の経論が「百済」から渡っていたのではないかということが推定できると思われることとなります。そう考えると、一概に『江談抄』の記事が「舒明」の書き間違いとも断定できなくなります。
 つまり、「一切経」は幾度か作られまたそれが幾度かにわたり我が国へ伝えられたものであり、「六世紀代」、さらに「隋代」に作られたものが「遣隋使」などの手によりもたらされたという可能性もあると思われます。

 「一切経」として成立したもので主だったものを挙げると以下のものがあります。

①前秦・道安『綜理衆経目録』(『道安録』) 一巻、六三九部八八六七巻
②梁・僧祐『出山三蔵記集』(『僧祐録』) 一五巻、一五七二部三三六五巻(ただしこれは『大蔵経』としてのもの)
③隋・法経等『衆経目録』(『法経録』)七巻、二二五七部五三一〇巻
④隋・費長房『歴代三宝紀』(『長房録』)一五巻、一〇七六部三二九二巻
⑤隋・彦琮『隋衆経目録』(『彦琮録』『仁寿録』)五巻、二一〇九部五〇五九巻

 これをみると「隋」以前の「北朝」において成立しているものとしては「前秦」の「道安」によるものがあるとされています。このようなものが「欽明朝期」に渡ってきていて不思議はないと思われます。(推定によれば『請観音経』もほぼ同時に渡ったものと思われます)

 ところで『二中歴』の「僧要」の項には渡ってきた一切経の巻数として「三千余巻」という表記があることを考えると、これが「隋」の「費長房」の『歴代三宝紀』(『長房録』)(一〇七六部三二九二巻)を指すと考えるのが相当と思われますから、この場合は「遣隋使」との関係を考えるべきでしょう。 
 結局『一切経』については随時最新のものが渡ってきていたという可能性があり、『江談抄』にはそれが混乱して書かれているという可能性が最も考えられるのではないでしょうか。
 またここに出てきている「僧要」という年号については、「大江匡房」は原史料にあった「僧要」をそのまま書いているだけという考え方もできるでしょうが、その原表記を尊重しているという中にこの「僧要」という年号に対する「大江匡房」の態度が現れていると思われ、このような「正史」にない年号についても彼は「敬意」を持って対応していると見られます。(これを「偽年号」というような記述が見られないことも重要と思われます。)


(この項の作成日 2014/12/07、最終更新 2017/02/19)(ホームページより転載したものに加筆)