山田氏がそのブログ「http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/03/post-757d.html」やこの度出された『古田史学論集』において「東山道十五国」について論じておられます。またその契機となった西村氏はその論(『古田史学会報』131号2015年12月)において「五畿七道」について根源的な問いかけをしております。それらに従えば「『東山道』とは九州から西へ行く陸の道をいい、『十五国』とはその『東山道』沿いにある諸国をいう」という点で両氏の論考に同意するものですが、「近畿以東」については後の「東山道」に引きずられてはいないでしょうか。
もともと「東日本」へのルートとしては「東海道」が先行しており、こちらへ行く方が「初期東山道」ではなかったかと思われるのです。具体的には「駿河」までであり、そこから「海の道」に変わるものと見られ、ここから「船」により「房総半島」に上陸していたものが初期の関東への道であったはずであり、「陸の道」としては「駿河」までであったと見られます。それを傍証するのが「駿河」に設けられたという「稚贄屯倉」であり、この場所に「屯倉」が存在しているのは、ここが「官道」の「末端」であったことを示すと思われるのです。
「駿河」の「宇戸ノ濱(宇土浜)」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路の終点であり、ここから海路によったものとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。この至近に作られた「屯倉」は当初「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」という一種の軍事的拠点としていたと考えられ、ここから関東に対して軍事力を背景として統治行動を起こしていたものと推定されます。(ただ多数の軍勢は送ることが出来なかったものであり、そのため「関東王権」の独自性が強く続いたといえるでしょう。)
また初期目的達成された後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われます。それを示すと思われるのが「東遊」に関すると思われる史料です。
「本居宣長」の著書『玉勝間』には『體源抄』(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。
「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」
ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見え、「東遊」という語からもわかるようにここに書かれた「天人」とは「九州王朝」の配下にあった「東国」から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったと思われます。つまり元々「東国」の舞であると思われるわけです。
ここでは「江浦の夕ヘ」、つまり「日の暮れる頃」になって「浜」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、東国から「弔使」として派遣された人々により「鎮魂」のための舞として「九州王朝」に奉納されたものと思われるわけです。
(『常陸国風土記』の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
この「東遊」はその後も「宮中」で保存され、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)起源と考えられます。
(このあたりについては以前に詳細記事(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/392aa3e70d5fd2f6f2fb294671966093 とその付近の関連記事)を書いていますのでそちらを参照してください)
また「東山道都督」記事の中では「上野国」というような文が現れますが、「毛野国」が分割されたのはいつなのか判別できないものの、分割したのは関東王権によるものではなかったかと思われ、かなり早い時期を想定すべきです。その意味でここに「上野国」という名称があるのは不自然とは思われません。後に新たに「官道」が造られ「陸路」により「北関東」へ行くルートが開拓されこれが「東山道」となるまではこの「途中に海路を挟む」経路が「北関東」と「倭国中心」を結ぶものであったと推定されます。
また「東山道十五国」記事中に「彦狹嶋王」が「春日穴咋邑」に至って亡くなったとされていますが、通例ではこれが「大和」の中(奈良市の一部)と考えられていることを踏まえると、これらをベースに考えた場合「幹線」としての「道」が当然あったとしてそれが通ったであろう以下の国々が「東山道十五国」として想定されます。
「豊」-「長門」-「周防」-「安芸」-「吉備」-「播磨」-「摂津」-「河内」-「大和」-「伊賀」-「伊勢」-「尾張」-「三河」-「遠江」-「駿河」
この先は海路によったものであり、その終点は(房総半島から上陸した後)「上野国」であったと思われます。だたしこの「東山道十五国」時点ではまだ「関東」は「小国」(クニ)の分立状態であり、「西日本」の諸国と同様な「常陸」など「令制国」と同じ領域を持つ「クニ」の成立は「六世紀末」あるいは「七世紀始」まで遅れる可能性が高いと思われます。(『常陸国風土記』の分析から)
このルートは「東山道都督記事」の直前にある「景行天皇」の「東国行幸」記事のルートと同じと見られ(「伊勢」に行幸した後「東海」に行き、上総に至っている)、この「行幸」が即座に事実とは思われないものの当時の東国へのメインルートであったことが推定できます。
「2018年4月1日加筆修正」
(※)富永長三『常陸国風土記』行方郡の二つの説話をめぐって「市民の古代」第13集 1991年 市民の古代研究会編