「評木簡」つまり「評」が制度として行われた期間に「評」が記載された木簡の多くは「五十戸」という制度も併せて書かれています。
(以下例を示す)
① 三形評三形 五十戸 生部乎知◇調田比煮一斗五升? 031 荷札集成-134(木研18- 飛鳥京跡)
② 丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈 五十戸 造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
③ 丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
④ 知夫利評由羅 五十戸 加毛部乎加伊加鮓斗 031 荷札集成-169(飛20-28 藤原宮西方官衙南地区)
⑤ 尾張海評堤田 五十戸 032 飛鳥藤原京1-191(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
② 丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈 五十戸 造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
③ 丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
④ 知夫利評由羅 五十戸 加毛部乎加伊加鮓斗 031 荷札集成-169(飛20-28 藤原宮西方官衙南地区)
⑤ 尾張海評堤田 五十戸 032 飛鳥藤原京1-191(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
この「評」という制度は『書紀』では決して記載されていません。明らかに隠蔽されています。「評」ではなく「郡」でり、「評督」ではなく「郡司」あるいは「郡大領」であったように書かれているわけです。これは「日本」が歴史の当初から「やまと」であるように装っていることと結びつきます。さらに「近畿王権」に独自の冠位制があったと推定したこととも結びつきます。つまり「郡」は元々「近畿王権」の統治範囲に使用されていたものではなかったでしょうか。
「評制」が隠蔽されているということからこの制度が「筑紫日本国」つまり「倭国」の制度であったものであり、「五十戸制」も同様であったと思われます。
栃木県大田原市に今も残されている「那須の国造韋提碑」には冒頭「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜…」という文章があり、ここに出てくる「評督」については「飛鳥浄御原宮」が「下賜」したこととなっています。
この「飛鳥浄御原宮」という存在についてこれが「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」を指すとは考えられません。なぜなら彼等は上に見たように徹底的に「評」を隠蔽していたはずであり、この「評督」を授与したが彼等ではないのは明白でしょう。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である『書紀』に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。「評」という制度を徹底的に「隠している」彼等が、それほど忌み嫌った制度をここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないからです。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)段階で「九州倭国王権」が「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
このように「評」や「五十戸」制は「筑紫日本国」(倭国)の直接統治領域内に施行されていたものであり、東国を直接統治するという段階で「東国」(近畿王権の統治領域を含む)に「冠位制」と共に「評制」を敷き、また「五十戸制」を施行したものです。
『皇大神宮儀式帳』に「難波朝廷」が「天下立評」したとされているのは、この段階です。「難波朝廷」は倭国が東国へ進出した際の朝廷であり、この「天下」とはもっぱら「東国」を指すものであったと思われるわけです。その意味でも「改新の詔」とは「東国」に対して出された「詔」と考えるべきです。「東国国司詔」なども併せて出されていることなどからもそれは明らかです。この時点で「副都」を造り、そこを拠点として「東方」に対し直接統治体制を築こうとしたものと推察します。そのために「筑紫」から「遷都」したものです。
ところで「改新の詔」の中で「三十戸から仕丁を出していたものを五十戸に変える」とされています。
「…凡仕丁者。改舊毎卅戸一人以一人充廝也。而毎五十戸一人以一人充廝。以諸司。以五十戸仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。…」
これはそのすぐ前にある「…凡五十戸爲里。…」という規定と相まって、それ以前に「三十戸法」が行われていたたことを推定させます。しかしながら『隋書俀国伝』を見ると少なくとも「六世紀末」では「八十戸制」であったことが窺え、それがその後「隋」から制度を取り入れ「五十戸制」になったものであり、そのことが木簡から確認できることと一種「矛盾」しているようです。つまり「倭国」の統治範囲では「八十戸制」であったものが早い段階で「五十戸制」に代わったものであり、それを考えると「三十戸制」は近畿王権の制度であるということとなるでしょう。それはこの「改新の詔」が「東国」に向けたものという性格からも言えることです。
これはそのすぐ前にある「…凡五十戸爲里。…」という規定と相まって、それ以前に「三十戸法」が行われていたたことを推定させます。しかしながら『隋書俀国伝』を見ると少なくとも「六世紀末」では「八十戸制」であったことが窺え、それがその後「隋」から制度を取り入れ「五十戸制」になったものであり、そのことが木簡から確認できることと一種「矛盾」しているようです。つまり「倭国」の統治範囲では「八十戸制」であったものが早い段階で「五十戸制」に代わったものであり、それを考えると「三十戸制」は近畿王権の制度であるということとなるでしょう。それはこの「改新の詔」が「東国」に向けたものという性格からも言えることです。
また「仕丁」という制度も近畿王権にはすでにあったことになります。つまり既に指摘しているように「近畿王権」はその統治範囲にそれなりのシステムを導入していたものであり、それが例えば「冠位制」であり、「三十戸制」であり「仕丁」の制度であったと思われます。
当然それだけではなく多様な制度が導入されていたと思われますが、いずれも中国に始原を持つものであり、同様に中国を手本として制度を構築していた宗主国であるところの「倭国」における制度と共通のものがあったとして不思議ではありません。
八世紀に入りこの近畿王権につながる勢力により新日本国が作られるわけであり、そこで「評」を止めて「郡」にすることとなったわけですが、それは「近江令」から「大宝令」へとつながることと深い関係があることとなるでしょう。それらは「天智」への回帰という流れの中にあるものであり、以前の制度であった「郡」の復活ということとなるでしょう。