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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持衰」について

2015年06月23日 | 古代史

 ところで「倭人伝」には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 ここには「生口」が関連して書かれています。ここに書かれた「生口」については以前から解釈が複数あり、この船の中に「皇帝」に献上すべき「生口」がいるという前提で、それを指すというような解釈がありましたが、それは大きな読み違えと思われます。
 「生口」は確かに「持参」することもありましたが、それも必ずというわけでもなかったわけです。しかしこの文章からは「いつもそうしている」というニュアンスを感じます。つまりここでいう「生口」は、「皇帝」に献上すべく乗船していたというようなものではなく「持衰」が母国に残して来たものであり、「其」という指示代名詞からもわかるように彼の所有に関わるものであったと考えられます。
 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますがその「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきです。この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。つまり、「持衰」そのものは「生口」などではなく「使者」のうちの一人であると判断できます。
 また「航海」がうまくいく、ということは「母国」に帰るまで確定しない事項ですから、「共顧其生口財物」というのは「帰国後」のことであるとわかります。
 またそこに「其」という指示代名詞があるところから考えると、「生口」と「財物」の双方とも本来「持衰」となっていた「使者」の所有するものであるということが推定できるでしょう。つまり「持衰」となる人物は乗船前から決まっていたと思われるわけであり、その意味で彼の所有となっていた「生口」と「財物」は出発前に当局に「預託」されていたものであったと思われるわけです。
 また上の記事の中では「如喪人」と表現されていますが、このような「航海」の「無事」を祈願するために選ばれた人物は「誰でもよい」ということではなかったと思われ、特に選ばれた存在であったと思われます。つまり普段から「祈祷」のようなことを生業としている人物が推定されるわけであり、またいつも彼が「持衰」をすると「安全」に航海できるというようなある意味「幸運」な人物ならば彼に乗ってほしいという要求も多かったと思われ、ある程度「固定」していたという可能性もあるでしょう。(これは後の「忌部氏」や「中臣氏」のような、神事に関わるようなことをその職掌としていた氏族につながることも考えられるところでしょう)
 
 そして、「共顧」するとは、無事に航海が全うできたならそれらについては「安堵する」つまり「返却」される(ただしその場合は褒賞付となり、増加していると思われますが)ということではないでしょうか。
 ここで用語として使用されている「顧」には「考慮する」あるいは「気を遣う」という意味があり、彼の「生口」「財物」については不当に扱われることのないよう「考慮」されるという意味で使用されているのではないかと思われます。
 また「荒天」に遭ったりしたなら使者は殺されるというわけですが、船には航海中の船内の治安を維持するために「解部」が乗船していたと思われ(「卑弥呼」の時代に既に「部」という制度があったものと見られます)、彼により判決が下され、また刑が執行されたものと思われます。また当然「母国」に残してきた「生口」と「財物」も(もし帰国できたならその後)没収されるということになると思われます。
 このように本人が「死刑」になった後に「生口」「財物」が「没収」されるというのは、後の「物部守屋」の死後にも同様のことが行われているとともに、「蘇我倉山田麻呂」の処刑後にも同じような措置が行われています。これらは「律令」の中にも同様の規定があるものであり、「倭」では古代より普遍的に行われた措置であったと考えられるでしょう。後にそれが律令に取り込まれたものと考えられるわけです。

 またこの「持衰」となった使者が「生口」を保有していたと見られるわけですが、当然「生口」を保有していたのは彼だけではなかったはずですから、他の使者やその他多くの「倭」の人々は「」として「生口」を保有していたものと思われ、その起源として最も考えられるのは「戦争捕虜」であり、この当時「戦争」が多くあり、多数の人々が「捕虜」となり「生口」という扱いを受けていたことを示すものと思われます。それが「」という存在ではなかったかと考えられます。
 すでに見たように「」には「犯罪者」やそれが「重罪」の場合「没」とされたその家族や宗族などがあったという場合と、「戦争」によって獲得された「捕虜」という二種あったと思われます。これらはいずれもその所有が「国家」に所属すると思われ、いわゆる「官」と思われます。ただしそれら「」の中で「犯罪」を犯したという場合その「被害者」にその「」が「国家」から「下賜される」という場合があったと思われ、そのような場合「」として存在したとも思われます。さらに「戦争」で獲得したという場合も、その戦闘で主体的に活躍した武将などにその「捕虜」が「下賜された」という可能性もあり、これも同様に「」となったと考えられます。
 この「持衰」記事において見える「生口」は「」であったと思われ、「持衰」が所有するところの「」を意味すると考えられるわけです。

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「生口」について

2015年06月23日 | 古代史

『倭人伝』の中に「生口」という用語が見えます。

「…景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男『生口』四人、女『生口』六人、班布二匹二丈、喪到。…
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻『生口』、倭錦、絳青■、緜衣、丹木、■、短弓矢。…」

「其八年(二四七年)太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與、臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女『生口』三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」

 これについて「倭」の各諸国(「三十国」)からの使者であるとする古田氏の意見もありますが、そうは考えられません。ここに書かれた「生口」以外の「班布二匹二丈」や「白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」はその「目録」とも言えるものが添付されていたはずであり、それは「献上」されたとみられる「生口」についても同様であったと考えられます。
 この史料が中国側の史料であると言う事を考えれば、ここに書かれた文章はそれらを参照して書かれたとみるべきこととなり、そう考えればこの「生口」が「白珠」や「雑錦」などと同様「贈呈」されたものであり、「往還」する立場である「使者」とは異なることは自明ではないでしょうか。

 他に『三国志』の中で「生口」が記載された例を以下に挙げます。

『魏志東夷伝 わい伝』「…其邑落相侵犯、輒相罰、責『生口』牛馬。名之爲責禍。…」

 その他『三国志』以外にも「生口」の例は多いのですが、以下に『後漢書』と『旧唐書』の例を挙げます。

『後漢書倭傳』「…安帝永初元年、倭國王帥升等獻『生口』百六十人、願請見。…

『舊唐書東夷傳 高麗』「貞觀十九年、…夏四月、李勣軍渡遼、進攻蓋牟城、抜之、獲『生口』二萬、以其城置蓋州。五月、張亮副將程名振攻沙卑城、抜之、虜其『男女』八千口。…」

 「生口」とは上の諸例でも分かるように、要は「人間」であり、それは「提供」されたり、「取得」されたり、「献上」されたり、「奪取」されたりしている事でわかるように「金品」と同じ扱いをされるものであったと思われます。それがどのような種類の人間であるかは不明ですが、少なくとも「自由を奪われた」種類の人間であることは間違いありません。
 例えば近隣諸国との争いの結果取得された「戦争捕虜」であったという場合が多いと思われます。『三国志』や『後漢書』などではこの例がほとんどです。
 戦争捕虜が「」となるのは「隋唐」の「律令」にも定めがあり、『書紀』にも「百済を救う役」で捕虜になり「唐」の「」とされた例がいくつか出て来ますが、このように「捕虜」は「」ないしは「官」となるとされています。
 「殷代」の王墓からは「捕虜」と思われる多数の「殉葬者」が確認されており、「戦争捕虜」の用途としてこのような場合もあり得べきものかとも思われます。
 「倭」から「生口」が献上されたという意味は、「外交儀礼」(というより「服属儀礼」と言うべきか)として「戦争捕虜」に準じた人員を献上したという可能性もあり得ます。(これが「狗奴国」など反対勢力との闘争で獲得した「戦争捕虜」であったという可能性も考えられます。)
 しかし、これらの「生口」を「」として扱うかどうかは「送られた側」が決めるわけであり、「良人」として扱われるという場合もあったでしょう。(「特殊技能」があるなどの場合)それが「生口」という表現の中に現れていると思われます。つまり「ユーティリティパーソン」というべきものであり、「素材」としての人間であったと思われます。持ち合わせた特徴により「ご随意にご使用ください」というわけです。
 戦争捕虜と違って、このように「皇帝」に「献上」するというような場合は、基本的に皇帝に「喜んでもらえる」種類の人間を選んでいるはずです。
 つまり、なにがしかの「技能」を有する人間が選抜されたものではないかと思われ、音楽、曲芸、舞踊などに秀でた人物達を献上したと推定されるものです。また「女性」の場合「容姿端麗」な者が選ばれたと考えられます。(それだけで特殊技能と言うべきですから)

 「前漢」の「金日禪」は元々「匈奴」の太子であったのですが、捕らえられ「官」に「没」されたとされていますから、「」ないし「官」となったものと思われます。彼は「馬」の飼育係となったとされますが、日本でも「馬飼部」という部民は「」として扱われていました。その意味でも彼は「官」であったものと思われます。
 後に彼は「漢皇帝」(武帝)に見いだされ、取り立てられて「良人」となったものですが、当初「漢」に連れてこられた際は「生口」として連れてこられたものと思料されます。

 ところで、上の「魏志東夷伝わい伝」の例の中の「責生口牛馬」については「捕虜」や「牛馬」を「取り返す」というような意味として訳されるときがありますが、これは「相侵犯、輒相罰」と「相」という字が使用されていることから分かるように、「双方」つまり「両村」へのペナルティーであり、それは「不耐■(わい)国」の上層部からの措置であると考えるべきと思われます。つまり、「生口」や「牛馬」を「責」する主体は「不耐■(わい)国」そのものであると理解すべきではないでしょうか。農耕に必要な人や牛馬を取り上げるというのですから、戦いは終わらざるを得ないと思われます。
 「取られた方」に「取り返す」権利があると理解すると、互いに「取られたら取り返す」という争いは終わることがなくなってしまうでしょう。

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甕棺の分布と倭王権

2015年06月23日 | 古代史

 既に述べたように「一大率」は「伊都国」でその権勢をふるっていたとみられ、また同時に「博多湾岸」で「睨み」を聞かせていたものと思われますから、「伊都国」の領域も「博多湾岸」まで伸びていたとみられるわけですが、それは「奴国」の位置や「邪馬壹国」の位置についての従来の理解とはかなり衝突するものです。しかしそのような理解が著しく不当なものではないことはたとえば、「甕棺」の分布からいえると思われます。

 「甕棺」とは「弥生時代」の九州北部に特有の埋葬方法であり、大型の「甕」(「かめ」或いは古田氏によれば「みか」)に遺体を収納し(主に屈葬)、それを土中に埋める形式のものですが、このような埋葬法を使用する人たちとそうでない人たちの領域には明確な地域差があるとされます。

 この「甕棺墓」の全盛期は「卑弥呼」の時代をかなり遡上するものではありますが(弥生中期から後期)、そのような「同一祭祀圏」としての性格はその後の各国に継承されたものと見るべきであり、その推移を見ることは「卑弥呼」の時代の様相を窺う格好の史料となると思われます。
 それを踏まえてみてみると、「甕棺」という墓制を行っている地域は「西」は「松浦川」を基準として区切られ、東は「福岡県」の「多々良川」までがその範囲とされています。この範囲は「通常」の理解において「末廬国」「伊都国」と「奴国」にまたがっています。さらに「古田説」に従えば「邪馬壹国」の領域さえもその中に含んでいることとなります。
  「奴国」や「邪馬壹国」の領域が「松浦川」まであったとも考えにくいのは確かですから、あきらかに「複数」の「クニ」の領域をその中に含んでいるわけですが、このような「甕棺」の分布からはこれらの国々が同一文化圏に所属していることを示すものであり、それは「伊都国」について「邪馬壹国」(女王国)に「統属」している(「皆統屬女王國」)という表現があることと関連していると思われ、「伊都国」と「邪馬壹国」とが同じ様式の埋葬形式を採用していたことをも示していますが、この両国は通常の理解では「隣接」していないと思われますから、その間にある国(それが「奴国」と「不彌国」さらには「伊都国」の向こう側の「末廬国」においても少なからず「統属」といえる関係があったことを示していると思われます。それを示すように確かにこれらの地域は「弥生時代」においてすでに「王権」の存在を示す遺跡が多量に出土している領域でもあり、その意味で「邪馬壹国」だけではなく「九州北部」全体において「倭」における「先進地域」であったものと言えます。

 また、中国では「殷代」の「王墓」から多数の「殉葬者」が確認されていますが、これは「戦争捕虜」であると考えられており、それはその「王」の功績を顕彰する意味ではないかと思われ、「倭」の場合においても(「中国」と通交があったとみられる「伊都国」「奴国」の場合は特に)同様ではなかったかと考えられることとなるでしょう。このような対外戦争による「戦争捕虜」は「」となったと思われ、そのような一種の奴隷の存在が「強い権力者」の存在と表裏を為すものであるのは自然であり、「甕棺」に埋葬されている人たちのかなりの部分は「」であったのではないかと考えられることとなります。その分布はそれら「強い権力者」の統治の主要な範囲を示していると思われ、これらの地域にそのような「」あるいは「殉死」そして「甕棺」という様式を共通する「強い権力者」がいたことを示すものでもあります。
 「卑弥呼」の死に際して「殉葬」されたという「百余人」という「」を収容したものも(時代としては「木棺」が主要な埋葬法となっていたとは思われるものの)「甕棺」ではなかったかと思われ、その意味でも「邪馬壹国」の領域が「九州北部」であるのは自明と言えますが、他方「末廬国」などとは別個にその領域を想定すべきとすると「邪馬壹国」の領域自体もある程度限定して考えるべき事となるでしょう。
 これを「博多湾岸」に設定すると「奴国」と「伊都国」の領域が重なってしまうこととなりますから、それを別個に領域を確保するとした場合、「邪馬壹国」はやはり「大宰府」付近以南の地区に設定するのが妥当と思われることとなります。(もちろんそこも「甕棺」墓制地域です)その場合その周辺からは「王墓」と思われる「豪壮な副葬品」を含む遺跡は出ていないわけですが、それについては既に考察したように「卑弥呼」の「邪馬壹国」が「後発」の王権であり、時期的に「魏」の薄葬令に則った墓制を採用していたものだからという理由が最も考えうるものです。
 その意味では「伊都国」の領域と「奴国」の領域、さらに「邪馬壹国」の領域などが現代の感覚で言う国境線のようなもので明確に区切られているとは考えない方が良いのかも知れません。つまり、この「甕棺分布」からは即座に「伊都国」の領域が博多湾岸まで伸びてはいなかった、とはいえず、逆に言うと「多々良川」沿いの「博多湾沿岸」という領域では「甕棺墓」が急激に減少しているわけですから、そこには「強い権力」が及んでいなかったことを示唆するものであり、そこが「邪馬壹国」など中心権力の地ではなかったこととなり、「その余の傍国」とされる領域ではなかったかと考えられることを示すものです。
 さらに「末廬国」の領域についても「松浦川」からそれほど西側に広がっていないこともまた明確と思われます。それは「松浦川」を境として「甕棺墓」が大きく減少すると言うことと、その西側でも松浦川に接する地域では「甕棺墓」が認められるものの、その中への遺体の埋葬法が他地域と異なるとされ、そのような墓制や埋葬法という重要な習俗が同一の王の支配地域内で大きく異なるとは考えにくく、これはその付近に当時の「倭王権」の直轄支配領域の末端があったことを示すと考えられます。この「境界線」がその後移動したという可能性もないわけではありませんが、それでも「川」や「山」という自然国境はかなり堅固なものであり、大規模な橋や道路の造成などがなされない限り状況が大きく変化するとは考えにくく、「卑弥呼」の時代にあってもそう大きく「西側」へ支配領域が拡大したとも考えられないこととなります。
 このことは「魏使」など外国使者の入港する港湾が現在の「唐津」付近であったらしいと推測されることにもつながるものです。つまり、「一大率」は「魏使」などを「博多湾」から遠ざけて入港(入国)させたと見られるわけですが、他方この「松浦川」以西に大きく外れた地域へは誘導しない或いはできない状況が存在したのではないかと考えられる訳です。(服従はしていても別の氏族であったという可能性があると思われます。)そう考えると、「松浦半島」の先端や以西に「魏使」の出入国地点を措定することは困難であると考えられます。
 いずれにしても「博多湾岸」に「伊都国」の領域があったとしても不思議ではないことが甕棺の分布から言えるものと思われます。

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「邪馬壹国」の位置」

2015年06月22日 | 古代史

 このように「伊都国」と「奴国」の領域について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなりますが、古田氏は(正木氏も)「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。
 古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。
 「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのような宝玉類は出てこないでしょう。そう考えると、これらの宝玉類はそのような「薄葬令」が出される以前の墓ではないかと考えるべきことを示すと思われます。「卑弥呼」の墓を造るに当たっては「難升米」や弟王あるいは次代の王である「壱与」などの意志が関与していると見られますが、彼らが「魏」の朝廷の意志や「薄葬令」を知らなかったはずはなく、無視などはできなかったはずです。
 また「卑弥呼」の墓は「魏」から「張政」が「告諭」のために来倭中に造成されたものと見られますから、いわば「魏」の使者の監視の下で作られたこととなります。そうであればなおのこと「薄葬令」を意識せずにはいられなかったでしょう。とすればこの時「」は殉葬したものの「宝物類」は埋納されなかったと見るべきこととなります。そうであればこの「豪華」な副葬品が出土した「須久・岡本遺跡」という地域は「邪馬壹国」ではなくそれ以前の「倭」の代表権力者であった「奴国」の領域と考えるべきこととなるでしょう。
 「奴国」はそれ以前の「倭王権」の中枢であった時期があったものと思われ、その時代に中国と関係ができ「宝物類」を下賜されたことがあったものとして不自然ではなく、それらを「埋納」したということが考えられます。(そもそも「皇帝」からの下賜品というのはそれほどバリエ-ションがあったとも思われず、「倭」など「夷蛮」への下賜品としてはある程度決まっていたという可能性が考えられるでしょう。その意味では「卑弥呼」への下賜品と似た内容となったとして不思議はないと思えます。) この地域が「奴国」であったという可能性は「二万余戸」という人口にも表れており、「博多湾岸」のかなりの部分を占めなければこの人口を収容できないと思われます。「博多湾岸」を「邪馬壹国」が占めるとすると、「奴国」の領域は(西側の)「山」に押し込められかなり狭くなるでしょう。それでは「二万余」という人口を格納できないと思われるわけです。(でなければ正木氏のように唐津付近まで「奴国」の領域を広げる必要があると思われますが、それでは「博多湾」の防衛を担うはずの「一大率」の存在が浮いてしまうでしょう。)

 もう一つは「水城」の存在です。「水城」の構造の解析から、その基礎部分には「敷きソダ構造」が採用されており、その最下層の「ソダ」の年代判定として「卑弥呼」の時代まで遡るものもあるとされています。(※1)
 「水城」の位置とその構造から考えて、「水城」は首都防衛の重要な施設であったと見るべきこととなりますから、「水城」よりも海岸に近いところに首都があるとすると「水城」の存在意義と反してしまうでしょう。これは後世の太宰府などと同様「首都」となるべき領域は水城の「背後」にあると考えなければならないと思われます。(「狗奴国」との戦いの中で構築されたものでしょうか)それを示すように後に「元寇」に備えて造られた「防塁」は「海岸線」に存在していました。この時代は「博多湾岸」にその九州統治の中心があったものであり、その防衛線はそれよりも海岸側に造られて当然であることをしめすものですが、それは「水城」によって防衛されるものも当然「水城」の背後になくてはならないことを示すものです。
 さらに「神護石」遺跡の分布も「筑前中域」にはその中心がありません。それよりも「筑後側」に偏した付近にその防衛すべき主体があったと見る方が正しいと思われます。もちろん全ての「神護石」遺跡が「卑弥呼」の代まで遡上するというものではありませんが、「祭祀」に使用された遺物の時代判定からは一部についてはやはり「三世紀」付近までその起源が遡上すると考えられるものもあるとされます。そう考えると、「水城」や「神護石」という重要拠点の防衛として構築されたらしい遺跡の存在から考えて、「博多湾岸」ではなく、そこから一歩下がった現太宰府付近にその中心があったと見るべきでしょう。
 それはまた「倭人伝」に記された「伊都国」からの「行程」からも推定できます。 伊都国からの距離として(「魏使」の常に留まるところと云うのが現平和台付近としてそこから出発したとする場合)「不彌国」を経由した合計距離として計二〇〇里程度というのですから「実距離」として15km程度が推定され、これを地図で確認すると「太宰府付近」までその範囲として含むことが可能と思われますから、位置関係としては矛盾しないと思われます。

 「一大率」は「伊都国」において「刺史の如く」存在しているとされますから、「王」には実権がないものと考えられますが、このようなこととなった経緯については以下の通りと考えられます。
 「伊都国」は「黥面文身」の本拠とでも言うべき領域であり、またその領域はほぼ「海浜」に限定されていたと思われます。つまり彼らは基本的に「海人」であったと思われるわけですが、しかし「邪馬壹国」率いる諸国は「後漢」との折衝を経て以降「律令制」と「国郡県制」のような階層的行政制度を構築しようとしたと推定され、その中心は「農業」であったことが「伊都国」の衰亡に関係していると思われます。
 中国においては「農業」が基本であり、「稲作」と「養蚕」というように男女の労働負担の振り分けも(慣習ではあるものの)決められていました。これを「倭」でも取り入れようとしていたと思われるわけですが、「倭人伝」には「倭」が「漁業」、つまり「海人」が中心の領域であるように書かれています。「末廬国」の描写のところやそれ以外でも「黥面分身」の風習や「沈没して魚介類を捕る」というようなことが書かれており、「魏使」にとって珍しいものであったことが窺えます。しかし「租賦」を納める「邸閣」の存在が書かれているように、当時の「倭」では「租」が人々から徴集されていたと思われますが、これは「穀類」であり、その中心は「稲」でした。「稲作」には広い領域を必要とし当然その中心は「内陸」となります。これは即座に「奴国」「邪馬壹国」などの領域の方が「租」の実量において多数を占めることを示し、相対的にこれらの国々の方が政治的実力も高くなることとなったことが推定できます。
 「賦」については「布帛」つまり「絹織物」を中心とした繊維類や各国の特産物などを貢納するというようになっていたものと思われ、魚介類なども当然この中に入ってはいたと思われますが、税の主体が「穀類」となったことは動かしがたく、その意味で「邪馬壹国」について「倭人伝」で戸数が「七万」という大きな数字とされていることは重要です。このような戸数は「東夷伝」全体でもどの国にも見られずその意味で「邪馬壹国」がずば抜けて大きな人口を保有していたことがわかります。このことからかなりの量の「租」が「邪馬壹国」から収集可能であったものと思われ、それは即座に「邪馬壹国」の「政治力」の増大につながったものと思われます。
 つまり、「稲作」そのものは当然国内では以前から行われていたものですが、それが「税」の中心となるという事態に立ち至って以降「海人」の国である「伊都国」はその体制の中心から遠ざかることとなったのではないかと推察されるわけです。

(※1)古田武彦『俾弥呼 鬼道に事へ、見る有る者少なし 』2011年ミネルヴァ書房

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「東南陸行五百里至伊都国」の謎

2015年06月22日 | 古代史

 「末廬国」の「政庁」所在地を「鏡山」付近と見たわけですが、ただしこの想定では「東南五百里至伊都国」という表記の「東南」という方向指示と整合しなくなります。上のように「伊都国」が「伊都平野」にあるあるいは「博多湾」に面しているといういずれの理解においても、明らかに「終点」への「大方向」としても「始発時点」の方向としても「東南」ではなく、どちらも「東」あるいは「東北」といった方が適切なこととなります。ではなぜ「東南」という表記がされることとなったのでしょう。

 そもそも、この「方向指示」については「始発方向」であるという「古田氏」の理解がありますが、それは疑問ではないでしょうか。なぜならこの「倭人伝」の記載の原資料として有力視されるものは「卑弥呼」への金印他を「仮授」するために派遣された「建忠校尉梯儁等」による「復命書」と、さらにその後「狗奴国」との争いについて「告諭」のために訪れた「塞曹掾史張政等」の報告書も原資料の中で大きなウェイトを占めていただろうと思われるからです。
 たとえば「告諭」に対して「邪馬壹国」率いる「諸国」や「狗奴国」が仮に従わなかった場合、「魏」としては本格的な軍事介入をしなければならない可能性もあり、そう考えると「復命書」は「軍事的」な情報という側面を必ず持っていたものと思われます。そう考えた場合「始発方向」にどれほどの軍事的価値があるといえるのでしょうか。それよりも重要なことは「大方向」であり、そこに至るまでの日数と道のり距離であって、その途中に横たわる障害の有無です。
 つまり、川や谷あるいは山や峠の情報は必須であったと思われると同時に「大方向」つまり目的地の出発地から見た方向と日数あるいは距離がそこに明確に読み取れなければ「軍事的情報」の価値は著しく減少するものであり、「復命書」の目的を果たしているとはいえないと思われます。たとえば古田氏も言うように「唐津」からは「一本道」ではありません。複数の方向へ進むことが可能であり、しかもその「分岐点」は一個所ではありません。
 つまり「伊都国」へ海岸沿いに進むためには、もし「唐津港」付近に上陸したとして出発地点もその付近を措定すると、そこから東南に行くとまず松浦川沿いに南下するルートとの分岐点があり、それを越えて東に行くと今度は「玉島川」に沿って「東南」方向へ行くルートとの分岐の場所が存在します。このルートが魏使の通った路であるという理解もあるぐらいですから(それが正しいかは別として)、このように分岐点を複数通過することを考えると、「東南」の一語で進行方向を指示することにはほとんど意味がないこととなってしまいます。そうであればこの「東南」とは始発方向を示すものではないと考えられることとなるでしょう。それはたとえば「倭」の所在する場所として「倭人伝」冒頭に「帯方の東南大海の中にある」という言い方にも現れていると思えます。ここで「東南」とされているのは決して「始発方向」ではなく「倭」の位置についての「大方向」表示であり、このような「大方向」表記が「倭人伝」の各々の区間表記としても有効であったと見るべきであって、「伊都国」の場所についての「東南五百里」というものも「大方向」表記ではなかったかと見られることとなるでしょう。
 しかし「末廬国」から「伊都国」へと向かう場合、これが「伊都平野」や「博多湾」を目指すものとすると、行程のほとんど全ての区間において「東北方向」へと進行することとなってしまいます。このような状況下で「東南」と書いてそれで「軍事的情報」として有効であるとはとてもいえないでしょう。これを読んだ「皇帝」あるいは側近達は「伊都国」が実際にはほとんど「東北」方向に位置していることを全く理解できないと思われます。このようないわば「不正確」な情報を報告しては種々の点で甚だ不都合と思われます。
 しかし、かといって「末廬国」から「大方向」として「東南」に実際に進むとすると「松浦川」沿いに進行するのが最も考えられわけですが、このルートでは決して「博多湾」や「伊都平野」にはたどり着きません。逆に筑後方面(吉野ヶ里方面)へと出てしまいます。ここに「伊都国」があり「一大率」がいたと想定することも可能かも知れませんが、やはりそれは無理があるでしょう。なぜならその場合「一大率」が担っていたと思われる「邪馬壹国」以北の防衛はできないこととなってしまうからです。特に重要港湾であったはずの「博多湾」の防衛が不可能となります。あくまでも「吉野ヶ里付近」に「伊都国」があったとしてそこから「一大率」が「博多湾」の防衛を担っていたとすると「伊都国」の領域が相当広大なものとなってしまいますが、それはちょっと想像の域を超えます。
 このように「矛盾」が発生するということを考えると「東南」という方向表示に問題があると考えられることとなるでしょう。これはやはり「東北」と書くべきものであったのではないでしょうか。古田氏が厳しく戒めたように安易な「書き間違い」というような理解はするべきではないのはもちろんですが、論理的に考えた場合方向表記に問題があるとみられる以上、そこに何らかの錯誤があると考えざるを得ないものです。これがどの段階で発生した錯誤なのかは何ともいえませんが、原資料となった「復命書」に問題があったというよりその後の書写などの段階ではないかと考えられるものの、詳細は不明です。ただし、その錯誤の発生するメカニズムとしては「倭」の位置する大方向が「郡治」からみて「東南」であるという観念に縛られたものではないかと推測され、そのため「東南」と誤られたという可能性が考えられるでしょう。

(この「東南」という表記に関しては『三国志』の原史料とも言われる『魏略』にすでに「東南」とあったらしいことが知られ(『魏略(逸文)』として残る『翰苑』(卷三十)に「…又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也…」とあります(2015/08/19追記))

 結局「東北陸行五百里到伊都國」という表記が本来のものであったとして考えると、上記の推察のように「博多湾」に面して「伊都国」があったこととなるでしょう。そして、そこが「伊都国」とされていることは、その「伊都国」という領域がかなり(海岸に沿った形で)東西に長い形状をしていたということを示唆するものです。
 後の「鴻臚館跡」の場所は現在の「常識」では「奴国」の領域とされていますが、私見では「奴国」の領域は必然的にもっと内陸側にその中心があったと考えられ、「須久・岡本遺跡」のある場所付近がいわゆる「奴国」ではなかったでしょうか。
 「博多湾岸」全体はその後「奴国」の領域となったとみられますが、それは「伊都国」の権力が衰微し、その後「奴国」側がその領域を自家のものとしたという経緯があったからということが推察されます。(そもそも「一大率」に事実上の統治権を奪われていた「伊都国」がそれほど支配領域を強く長く維持できたはずがないとも言えるでしょう)

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