古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭奴国と金印の読み方について

2016年07月25日 | 古代史

『後漢書』において「倭国」という概念が形成されたらしいことが窺えるわけですが、「国郡県制」の「国」と「国家」とは(当然ながら)異なるものであり、その絶対的上部構造を「国」(国家)と呼称するものであって、そうであれば階層的行政制度がない時点においては「国家」自体あるとは言えないこととなります。
 「後漢」に朝貢した「奴国」は「倭」のかなりの部分を統一した功績を讃えられたものですが、明らかに「行政制度」やその根拠となる「法体系」は未整備であったと見られ、そのため「国家」とは認められず、しかし地域ナンバー1であることは確かですから、「金印」を与える条件としては整っていたものであり、結局「異例」のこととは思われますが、「倭(委)」の「奴国王」という二段表記が出現する事となったものではないでしょうか。またここで「卑弥呼」のように「倭王」と言い切っていないのは国家体制の成熟の差とそこから発生する権力の強さに起因するものでしょう。しかし「卑弥呼」でも「倭国王」と呼称されていないわけであり、それは「狗奴国」率いる敵対勢力がかなり強い存在であったからであり、彼等が存在する限り「倭国王」とは言えないからであったでしょう。
 それらを考えると、「委奴国王」という表記は発展段階における「倭」という領域において、初めてある程度広い領域を治めることとなった(それでも三十国以下の国数しかなかったと思われますが)「奴国王」に与えたものであり、その統治内容の不完全さから「倭王」とも(ましてや「倭国王」とは言いきれず)認定されなかったことを示すものと思われるわけです。

 この点について、よくご存じのように古田氏の重要な批判があります。つまりこの「金印」については従来のように「委(倭)」を挟んだ「三段」に読むべきではなく「委奴国」という一語で読むべきとされたわけです。「漢の委の奴の国王」と細切れに読むのはおかしいとされるわけです。その理由として「金印」とは単一部族とか地域限定の権力者に贈られるものではなく、広い範囲に権力を及ぼす事が可能であるような「統一王者」に授けられるものであることや「金印」は贈る側である「漢」と贈られる側の「委奴国」との関係が直接関係であり重要で親密である、ということを互いに確認するため授与されるものだから「漢」と「奴国」の間に「委(倭)」という語が入るのは印章を各部族に授与するときのルールに反しているというわけです。しかし、上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、その地方に「奴国王」の上に位置する権力者は存在しないわけですから、「委(倭)」を挟んでも「三段」読みとは言えないこととなるでしょう。つまり、これでも実際には「漢」と「奴国」の間の直接関係であることを示すものであり、「二段国名」表記と内実は同じであると思われるわけです。
 また古田氏は同じ「光武帝」が「韓人」である「廉斯人」に対して「漢廉斯邑君」という称号を授与した記事があるとされ、これが「韓」を飛び越えて直接の関係を示したものという理解がされていますが、この「廉斯人」は「辰韓王」の統治を離れて「楽浪郡」の支配下に入ろうとしていたものであり、このため「韓」という一語を入れると「漢」と「廉斯」の関係を直接的に規定することができなくなることとなるのは理解できますが、「倭」の場合はこの「韓」のケースとは異なり、この時代に「奴国」以外に「倭」を「不完全」ではあってもまとめているような「上部的権力」は存在していなかったとみられるわけですから、これと同列には論議できないものと思われます。そう考えると実際には「倭の奴国王」であったと見るべきであり、それは即座にこの時点の列島の覇権を「奴国王」が握っていたことを示します。そのことから「奴国」の領域と思しき場所から「弥生王墓」と考えられる「方形周溝墓」が出土しそこから豪壮華麗な副葬品が多数出土した理由も判明します。それらは「周」から「後漢」へと続く王朝との間に成立していた関係において招来されたものという可能性が考えられることとなるでしょう。(上に見たように「委奴国王」を「倭の奴国王」と理解できれば「委奴国」と「伊都国」が同じというような音韻的に無理な理解をする必要もなくなります。)

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倭王から倭国王へ

2016年07月25日 | 古代史

 『後漢書』や『三國志』の「倭」と「倭国」について考察しているわけですが、『漢書』を見てもそこには「倭国」という表記は使用されていません。あくまでも「倭人」であり「倭」であるわけです。しかし『後漢書』の考え方はそれとは異なり「倭国」というものがあり、「倭国王」がいたという観点で書かれています。
 これは『後漢書』が書かれた「五世紀」における認識の反映であると思われますが、それが「一世紀」や「二世紀」にも該当するものとは考えられないことは『倭人伝』や『漢書』から窺えるわけです。それは「金印」の表記が「倭国王」や「倭王」ではなく「倭奴国王」であることに現れています。(「卑弥呼」の金印も「親魏"倭王"」であって"倭国王"ではありませんでした)
 ただし「金印」は一地方王に授与されるものではありませんから、この「委奴国王」がその統治範囲の中に複数の「国」を含む広い領域を統治する事となったことを示していることは確かですが、そうであるなら後の「卑弥呼」が授けられたようになぜ「倭王」ではないのかというこことが問題となるでしょう。
 上に見たように「後漢」当時は「倭国」という概念が(少なくとも「後漢」側には)なく、「倭」は列島全体に対しての呼称であり、そこに居住する人達についての「倭人」という概念しかなかったものと思われます。その概念は「後漢」から「魏晋」へと継承されたものと思われますが、当然「帥升」や「委奴国」の時代も同様であり、かれらはあくまでも「倭」という地方においてある程度の範囲を統治する事に成功した「王」であったものであっても、「倭王」と言い切るほど強力で広大な権威があったとは思われていなかったことを示すと思われます。その後「卑弥呼」に至って「倭」の内部において統治領域とその体制が近代化(当時のという意味で)されたことに対応して「倭王」という呼称が採用されることとなったものと推量しますが、この段階でも「倭国王」ではないことに注意すべきです。「倭国」という概念はさらにその後に形成されたものであり、「東国」を含む列島の主要な部分に対してかなり強い権力を示すこととなって以降「倭国」という一種の「大国家」概念が造られたものではないでしょうか。
 この「倭国王」という称号が現実のものとなったのは「倭の五王」の時代になってからのことです。
「倭の五王」のうち最初に「倭国王」と称号を授与されたのは「讃」の死後「王位」に付いた彼の弟とされる「珍」の時です。それ以前の「讃」では「卑弥呼」と同じく「倭王」という称号しかもらっていないようです。

「晉安帝時,有『倭王』賛。…」「梁書五十四、諸夷、倭」
「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍『倭國王』。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」『宋書』
「文帝元嘉十五年(四三八年)夏四月…己巳,以『倭國王』珍為安東將軍。…是歳,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。」『宋書』

 これ以降も『倭国王』という称号を授与されていますし、配下の者について「将軍」」や「軍郡」に除されるという例が多数確認できます。この「倭の五王」の時代は「武」の上表文にみられるように「列島」の内外へ統治範囲を拡大しつつあった頃であり、「倭地」のほとんど全部に対して「倭王」の版図とする勢いであったことと思われます。彼等に対してならば「倭国王」という呼称は適切なものであったと思われるわけです。(実際には元々「自称」であり、「南朝」はそれを追認したものですが)
 『後漢書』はこれら「倭の五王」が遣使をしていた「南朝」の一つであった「宋」(劉宋)の「范曄」によってまとめられた書であり、その中に「范曄」の生きていた「五世紀」の観念が持ち込まれているという可能性が高いものといえるでしょう。つれは『三國志』の「邪馬壹国」を『後漢書』において「邪馬臺国」に変えたようなことが行われたとみられるわけであり、「帥升」が「倭国王」とされているのはこのような「五世紀」の考え方を「後漢」の時代に敷衍した結果であると推察されるわけです。

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倭と倭国と倭地

2016年07月25日 | 古代史

 ところで、「倭」と「倭国」、「倭国王」、「委奴国王」とは異なる範囲、定義であると思われます。「後漢」の光武帝から授与された「金印」の表現はあくまでも「倭人」の国の中心王朝として「倭奴国」があるということ以上を示してはいないと考えられます。
 その後の『魏志倭人伝』の中では「倭国」という表記が三例しかなく、基本はやはり「倭」であったものです。「夷蛮伝」も『倭人伝』となっており、それは「倭人」という一語で始められているからであるわけですが、それ以降も基本は「倭」であって「倭国」ではありません。
 『三國志』に見られる「倭国」という使用例は「邪馬壹国」率いる統治領域を指して言っていると思われ、いわば「仮」にその領域を「倭国」と称するという立場の考え方かも知れません。ただし、「狗奴国」率いる領域は当然含まれないわけですから、本義としては「倭国」とは言いうるものではないと思われます。「邪馬壹国」の統治範囲以外に別に倭人の国があるとすると、その「邪馬壹国」の統治範囲だけを「倭国」と称することは本質的には無理と思われるのです。

(以下「倭国の例」)
①「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使『倭國』、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

②「『其國』本亦以男子爲王、住七八十年、『倭國』亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、『有男弟佐治國』。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

③「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣『倭國』、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦〓、刀、鏡、采物。倭王因使上表答謝恩詔。」

 ①の例は「邪馬壹国」と置き換えても通用しそうですが、②の例は明らかに「乱」が起きたのが「邪馬壹国」の内部だけであったとは考えられないため、「倭国」とは「邪馬壹国」だけではなくその統治範囲についての呼称と思われます。また③も「邪馬壹国」と置き換えても意は通じそうですが、『倭人伝』の冒頭に「從郡至倭」という表現があり、これが「女王国」を訪れる意であることを考えると、その「女王」が「倭女王」であり「親魏倭王」であったということを念頭において考えれば、この「倭国」は「邪馬壹国」単体を指すとは考えられないこととなるでしょう。
 結局これらの例はいずれも「邪馬壹国」単体というよりその周辺の統治範囲に入る領域全体を指して「倭国」と称しているように見えます。他にも「其の」という使用例が多数出てきますが、いずれも「邪馬壹国」単独を指すものと言うより「統治領域全体」を指すものと考えるべきものです。このような使用法は特殊であり、はっきり言えば「不適切」な例であって、あくまでも「便宜的」な例であると思われます。それはそのような「倭国」という使用例があっても「倭国王」として「卑弥呼」が書かれない事に現れています。彼女はあくまでも「倭王」であり「倭国王」ではないという事実が当時の日本列島の状況を表していると思われるわけです。
 その「倭」の範囲については以下の記事で触れられているように「邪馬壹国」の東側に広がっているものとみられます。

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 この表現としては「九州島」を含め「倭地」が東西に長い形状をしており、ある国の次の国までがすぐ続いている場合もあれば、かなり離れている場合もあるというような具合であり、しかも「州島」と表現されていますから、平たい島もあれば山勝ちな島もあるという意味と思われ、推測するとその大部分が「瀬戸内海」の島々で構成されていたらしいと理解できます。この「倭地」を「倭」と称しているわけであり、その意味で「倭地」全体に支配力が及んでいない段階では「倭国王」という呼称は使えないということとなります。

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帥升の貢献と狗奴国

2016年07月23日 | 古代史

 『後漢書』によれば「安帝永初元年」つまり「一〇六年」に「倭国王」とされる「帥升」の貢献があったとされます。

「建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(106年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書倭伝)

 この記事によれば「安帝永初元年」という年次で「帥升」は「皇帝」に会うことを「願請」したとはされているものの、それが実現したとか、「後漢」から改めて彼を「倭(国)王」として任命するというようなことがあったとは書かれていません。
 しかし、ここでは「帥升」について「倭国王」という表現がされています。『後漢書』の論理ではこの「帥升」は「倭国王」という地位にあるとするわけですが、これが後の「倭の五王」の遣使に基づく後代の論理にもとづくものであることは間違いなく、当時は「倭国王」ではないのはもちろん「倭王」でもなかったと思われるわけです。しかし「奴国」同様「倭」領域において強い権力を持つ存在であることを何らかの方法で確認し、認定していたこととなります。それは「奴国王」に与えた「金印」の存在であったものではないでしょうか。
 この「金印」は「帥升」が以前の「奴国王」から継承していたものと思われ、彼(帥升)は貢献物として「生口」の他に当然「上表」つまり「国書」を持参していたものと見られますが、その「封」に「漢委奴国王」の「金印」による「封泥」がされていたということが考えられます。「金印」は通常の印と異なり「凹印」ですから、本来このように「封泥」用のものと考えられ、それを「国書」に封印として押すことで自分が「倭奴国王」を継承した正統な「王」であることを表現しまた誇示していたものと見ることができるでしょう。「後漢」の側ではこれを見て「帥升」を「光武帝」以来の「倭」の代表王権であると確認したものと思われるわけです。
 またその内容からは「帥升」自らが貢献の使者の先頭に立っていたように理解できます。それは、そこに「遣わす」という意義を示す語がみられないことに注意すべきです。
 「奴国」の場合は「使人」という語が使用されていますから「使者」を遣わしたらしいことが判りますが、「帥升」の場合「献」の主語が「帥升等」になっています。つまり、この記事を素直に解すると「帥升」を含む複数の人々で「派遣団」を構成していたことを示し、「倭」王権の当事者が(皇帝に)「見える」ことを望んだこととなります。そのような人物が直々に「後漢」の皇帝に会いたいとやって来たというわけですから、その様な行動をする必要性があったわけであり、ある意味状況はかなり切迫していたかも知れません。それを示すものが、彼が連れて行ったという「生口」ではなかったでしょうか。この「生口」は「原・狗奴国」である「銅鐸圏」の勢力を捕虜にしたものではなかったかと考えられます。

 「原・狗奴国」は津波に襲われて弱体化した旧銅鐸圏を力で制圧して統一した新進の国家であったと思われ、少なくなった平野部分を自らの領域とするために、軍事に特化していた可能性があると思われます。そのような勢力がさらに平野部分を求めて「西下」してきていたものではないでしょうか。
 「帥升」率いる「諸国」はその「原・狗奴国」の軍事勢力と衝突した可能性が高いと思われます。そう考えると、この時の「帥升」の使者派遣も「魏」の時の「卑弥呼」と似たような状況があったという可能性もあるでしょう。
 「帥升」は自分が正統な「倭王」であり、「金印」が与えられた「奴国王」の後継者であること、生口等の「貢物」を持参したことなど、「後漢」の皇帝を「至高」のものとしていることを表現し、変わらぬ忠誠を誓うと共に、「後漢」に対し「封国」への義務を果たすことを要望したと見ることができると思われます。
 「後漢」など「宗主国」は周辺国を「封国」とする限りにおいて、その「封国」に対して軍事的脅威などが外部からあった場合は「援助」や「仲裁」などを行う義務があったものであり、「宗主国」と「封国」の間にはそのような一種の契約関係があったとみられます。
 つまり、この時の「帥升」は「後漢」に対して何かしらバックアップを求めていたという可能性があるでしょう。実際的には、「軍」を派遣してもらいたいと言うより、武器等の援助を必要としていたということではないでしょうか。但し、『後漢書』からはその「帥升」等の要望がかなえられたものかは不明です。

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方形周溝墓と筑紫王権(二)

2016年07月17日 | 古代史

 すでに述べたように「筑紫」地域が最初に「縄文」から「弥生」という時代へ移行したものと見られることから、常に「筑紫」が文化的先進地域であり、また「稲作」を中心とした「国力」も群を抜いていたと思われますが、この「弥生中期」(BC5世紀頃)には「瀬戸内」から「近畿」にかけての地域においても「稲作」が開始され、国力が豊かになり始めていたものと思われ、先行していた「筑紫」の力が相対的に低下していたということが考えられます。
 しかし、「瀬戸内」を中心とした地域に天変地異が襲ったとすると、国内の力関係は(再び)「筑紫」に偏る結果となったのではないでしょうか。
 今回の熊本を中心とした地震においても「筑紫」地域では地震被害はそれほどではなかったものですが、この弥生中期の「中央構造線」を震源とした地震による被害においても同様ではなかったかと思料され、そのため「倭」領域は全体として「筑紫王権」の影響下に(再び)深く入り込むこととなった可能性が高いと思われます。
 その頃の「筑紫王権」(それは「北部九州」に中心があったものと思われ、「奴国」の前身としての国がその中心にいたと思われますが)は「周」あるいは「秦」などの中国との関係を深めていたものであり、その結果「強力」な王権が発生していたものです。その彼らの墓制が「方形周溝墓」であったと思われるわけです。

 「筑紫」の勢力はこのとき「中国」から当時最新の武器であった「青銅器」(この場合銅剣)を入手したことにより、それを前面に押し立てて国内への圧力と発言権を高めたものであり、「瀬戸内」を含めた領域に「銅剣」の分布が見られるのはそのことを示すものと思われます。その結果おおよそ「関東」まで含めて全て「筑紫王権」の影響下に入ったものとみられるのです。
 ただしその影響は実際の政治までには及ばず、各国共通あるいは統一した政策のようなものはなかったと思われますが、墓制を共通化することにより「葬送祭祀」という古代において重要な儀式の際に「筑紫王権」の介在(直接あるいは間接)を可能としていたものです。
 中国における「周」の古制も同様であり、「周」は「力」で制圧しているわけではなく「徳」を慕って諸国はその統治下に入っていたものです。
 「周」が敷いていた「封建体制」は諸国の王を「候王」とし、その頂点に「天子」としての「王」がいるというものであり、「文王」や「武王」に示される「王」は「天子」の意義を持つものであったのです。
 当時の「倭」が「周制」を模倣していたというのは『後漢書』に書かれた「派遣された倭人が自ら大夫と称した」という記事から明らかですが、そのように「倭人」が「周制」を模倣したとすると、国内に「封建体制」の構築を企図したと思われます。それはまたその時点で「筑紫」に始めて「王権」と呼べるものが発生したことを意味していると思われ、その「建国」がこの時点であったとも言えるものです。つまり、これは「神武神話」の実態が成立した時期に相当するものではないかと推察されることとなるでしょう。(このような「王権」の発生等政治力学的変化というものは往々にして「外力」つまり域外からの勢力の侵攻などや天変地異という一種突然変異的要因がその背景にあることが推測され、この場合も同様ではなかったかと考えられるわけです。)
 そして、『書紀』による「神武紀」を見てもこの時点での「倭人」達の盟主は筑紫にいたことは明らかであり、またそれは「弥生」の始め以来変わらなかったと思われるものです。
 つまり、「神武東侵」そのものの実年代は二千年前の巨大津波来襲以前のことであったと考えられ、紀元前四~五世紀付近のことではなかったかと考えられますし、「近畿」以東に「方形周溝墓」が伝搬するのもこの時期以降のことではなかったかと考えられます。

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