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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「郭務悰」の派遣と「薩夜麻」の帰国

2018年05月12日 | 古代史

 『書紀』には「天智十年」に「薩夜麻」の帰国記事があります。

「(天智)十年(六七一年)十一月甲午朔癸卯条」「對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務そう等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」

 この記事は三年ほど遡上した「六六八年」ではなかったかと考えられることをすでに述べたわけですが、別の点から考察してみます。
 この時の「郭務悰」達使節の構成を見てみますと、「唐使」が「六百人」、「送使」として「沙宅孫登」率いる「百済人」が「千四百人」とされており、併せて二千余人が四十七隻に分乗してきており、これは(概数ですが)一隻あたり平均四十四人ほどとなります。
 この乗船数から考えて、この「船」は「軍艦」であり、乗船している「唐使」とされる「郭務悰」以下「六百名」や、「佐宅孫登」以下「千四百名」という「百済送使」は基本的には「戦闘員」と考えるべきでしょう。単なる「使者」と「送使」の随員としては人数があまりに多すぎます。

 中国の例では「和平工作」のために使節を派遣する場合でも多くて十数人が普通であり、将軍など「軍事関係者」がその中にいたとしても数百人という例はなく、その意味ではこの「倭国」への使者は(これを「使者」とするなら)「希有」な例であると言えます。
 将軍以下軍事関係者が使者に付随するのは戦闘地域に対する和平工作の場合であり、そのことはこの「唐使」と「送使」が共に単なる使者ではないことを意味するものです。少なくとも、この時の「唐船」は戦闘行為を想定し、あるいは準備して、操縦要員や外交使節的人員とは別にかなり多数の「戦闘要員」も乗り組ませていたものと推定されます。
 このように「唐」など「外国船」(というより「敵国船」)が直接「博多湾」に進入しようとすれば「首都防衛」軍が発動され「攻撃」を仕掛けるのは明らかですから、当然「対馬」に到着した時点で事前に警告したわけですが、それでもなお戦闘になる可能性はあるわけであり、あるていど「反撃」可能な戦闘員を乗船させているのはある意味当然とは思われます。つまりこの大量の軍事要員が乗り組んでいる船が単なる「平和使節」などではないのは明らかと考えられます。しかしそう考えると、この大量の軍人の存在が何を意味しているのかがやや曖昧となります。つまり「郭務悰」や「百済禰軍」などの護衛なのかというと、そうではないと思われます。最も考えられるのは彼らを伴って帰国した「薩夜麻」と関連させて考えなければならないというものです。
 つまり「唐使」と「送使」が各々率いていた多量の人員は「倭国王」であるところの「薩夜麻」を護衛するという目的のために乗船していたのではないでしょうか。
 (このような例は「百済典支王」の即位の際に、「質」として「倭国」にいた「典支王子」に護衛数百人をつけて「百済」へ送り、即位させたという記事や、「扶余豊」を「阿曇比羅夫」が護衛して「百済王」として即位させたという記事とよく似ており、いずれも本国に危急があり、王位が空白となったために「質」あるいは「捕虜」となっていた人物を「王」として帰国させたという点が共通しています。これらを彷彿とさせるものでもあります。)

 そもそも「二千人」に上る数の人員がこの時点で「和平」のため来倭したとすると、それ以前にすでに「劉徳髙」らによって和平交渉が行われていたこと、「百済禰軍」の墓誌を見てもすでに六六五年段階で交渉は妥結していると思われることと矛盾します。
 彼らの「来倭」の目的は、一つには「捕囚」となっていた「倭国王」である「薩夜麻」の帰国であり、それに伴う「戦争状態」の最終的な終結を目指すものであると考えられますが、他にも「薩夜麻」が安定して「倭国王」に復帰できるように協力することもあったのではないでしょうか。
 「唐」としては「百済」「高句麗」は滅亡させたものの、それらとの戦いで明らかになったように「倭国」が常に背後にいることを意識せざるを得なくなったものと思われます。彼等は「倭国」が今後「反唐」的立場に立って欲しくないと考えたものと思われ、「帰順」した「薩夜麻」との関係を基調とした「戦後体制」を確立したいと考えたであろうことが推察され、その「薩夜麻」が帰国後「不安定」な政治的状態になることは「唐」としては避けなければならないことと考えたものと思われます。このため、「使者」という名目で「戦闘要員」を乗船させ、「倭国」と「薩夜麻」に対し「威嚇」により「軍事的圧力」を加えると共に、場合によっては「薩夜麻」に対して「軍事支援」を実行できる体制を作っていたものではないでしょうか。

 「唐」や「百済」の関係者が危惧していたのは、「薩夜麻」が捕囚の間に倭国内に政変が起こり、それらの勢力が「薩夜麻」に対して反旗を翻すという状況であり、それが現実となったために帰国にあたって軍事支援を行う必要が出てきたと言うことではないでしょうか。
 つまり「薩夜麻」帰国に当たり、「天智」はともかく彼の後継たる「近江朝廷」(大友皇子)が意に従わなかったため、「薩夜麻」と「唐・百済連合軍」は共同して「反対勢力」の制圧に当たらざるを得なくなったものと思われます。

 前記したように「天智紀」の年次には「ずれ」が各所にあることが推察されていますが、それはこの「郭務宋」の来倭年次においても同様であり、「三年」のずれというのが最も考えられるところです。
 それまでの天皇家や中国の歴史でも「相続」に関する争いは「前王」の死去後余り時間をおかないで発生しています。それは「殯宮」で「モガリ」をする期間というものが「墳墓」の造成期間であると同時に「後継者」の決定に要する期間でもあったと考えられるからであり、「天智」の死去後「すぐ」に争いが起きたと考えるのが通常でしょう。その場合、そこに「薩夜麻」と「郭務悰」率いる「唐・百済連合軍」が関与している、と考えるのは当然ともいえます。

 「倭国王権」にとっては「負けた」とか「捕虜となった」あるいは「唐」の援助によって「統治権」を回復した、などと言うことを明らかにはしたくなかったものと推察され、史書の編纂の際にもそれが強く反映した結果、年次を移動して記事を操作していると推量します。
 この争いに関与していたと思われる「郭務宋」率いる「唐軍」は『書紀』では「六七二年」に帰国しており、その後「壬申の乱」となりますが、実際にはその間に「空白の年次」があり、そこで「壬申の乱」が起きたものと思われます。つまり「郭務宋帰国」は「乱」の後の話であり、その結果としての「褒賞」が「郭務宋」達に対する大量の下賜品として『書紀』に書かれていると思われます。

「(天武)元年(六七二年)夏五月辛卯朔壬寅条」「以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。」

 この「下賜」の内容を見ると、かなり大量の物品が「郭務悰」に贈られているのがわかります。たとえば、「一匹」が「二反」、「一反」がおよそ「一着分」とすると上記「下賜品」は「太絹」(余り上質でないとされる絹製品)が「約三千二百人分」、「布」(綿布)が「二千八百五十二人分」、「綿」が「六百六十六人分」となります。
 これは筑紫に送られてきた「唐使」と「百済送使」の人数に対応していると見られ、駐留していた「両軍」に対する「衣料支給」という形での「補償」と考えられます。
 このことから「百済軍」の総数は(記事中では「千四百人」となっていますが)実際には「千四百二十六人」(彼らに二着分ずつ)、「唐使」は同様に「六百人」ではなく「六百六十六人」(彼らに一着分ずつ)と推計できるものです。また「ふとぎぬ」の「千六百七十三匹」というものは「唐使」と見られる「六百六十六人」に対して一人「五反」という割り当てであったとするとほぼ整合した値となります。(その前段の「甲冑・弓矢」などの「下賜」についても同じように駐留唐軍に対する「褒賞」であると思われます。)またこの数字から彼らの総数は二〇九二人であり、それが四十七隻に分譲していたとすると一隻あたり四十四~五人となります。

 また、この時の「百済送使」が(送使の常として)「唐使」達に先んじて帰国していたということが言われているようですが、慣例では送使も含め倭国からの送使が母国への帰国を先導するものであり、単独で帰国することはなかったものです。そもそも上に見たようにこれがほぼ「戦闘要員」であったとすると、「薩夜麻」や「郭務宋」の「倭国滞在中」は同行していたものと思われ、彼ら「要人」の警護に当たるとともに、「近江朝廷」との間の戦闘に参加していたという可能性が高いと推量します。それが「褒賞」の中身に反映していると思われるわけです。


(この項の作成日 2011/03/11、最終更新 2016/09/25)(ホームページ記載記事を転記)


『天智紀』の年次の混乱について

2018年05月12日 | 古代史

 「百済禰軍」墓誌の解析からは「六六〇年」に行われた「百済」に対する戦闘に「倭国」が当初から関係していると理解されるものであり、『書紀』や『旧唐書』などで、戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われることと、この「墓誌」の文章とでは食い違っていると考えられます。この「墓誌」の文章を素直に理解すると、「唐」は「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
 このことから「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。
 『書紀』によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
 しかし、この記事自体がすでに『旧唐書』や『資治通鑑』とも食い違っていると考えられるのです。

『資治通鑑』
「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道?、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」

 これによれば「六六一年三月」には旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、「百済」に居残っていた「唐」の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
 このことは上に挙げた『書紀』の「六六一年九月」の「扶余豊」帰国記事と大きく食い違うものです。
 従来の考え方では、滅亡した「百済」の残存勢力の代表である「鬼室福信」から「百済再興」の計画を持ちかけられ、「倭国」に人質となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えることとして、軍を添えて送ったのが「六六一年九月」のことであり、この時点以降、「唐」「新羅」と戦いになったというように理解されてきましたが、「百済禰軍」の墓誌からも、『資治通鑑』によっても、それとは異なっていることとなります。
 そもそも「百済」滅亡という「緊急事態」に対して、すぐに行動せず、「一年後」の軍の派遣というのでは「遅きに失する」と思われます。「危急」の事態に対する対応として、はなはだ「不自然」ではないかと思われるわけです。
 また、「百済を救う役」という名称も「百済滅亡の瀬戸際」でこそ意味があると考えられ、すでに滅亡し、国王、王子らが国外に連れ去られた後、「一年後」の軍の派遣に際しての命名としてはいささか「不審」と言うべきであり、「そぐわない」ものと考えられます。
 しかも「墓誌」ではすでに「餘噍」といい「遺甿」と言うとらえ方をしているわけですから、彼ら「倭国」の「残余」の勢力の本来の指導的立場の人間は既に「いない」こととなってしまっています。つまりこの段階で既に「倭国王」は「捕囚」となっていたことを示唆するものであり、「持統」の「大伴部博麻」への詔に言う「百済を救う役」で「唐軍」のために虜にされた、という中に「筑紫君薩夜麻」が居るのはまさに整合していると言えます。

 ところで、この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然倭国にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるのではないでしょうか。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

『書紀』
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
 そもそも「白村江の戦い」の年次について、『旧唐書』と『三国史記』では「六六二年九月」と考えられ、『資治通鑑』と『書紀』では「六六三年九月」となっており、「一年」ずれて書かれています。このどちらかが誤りであるわけですが、記事の内容を見ていくと『資治通鑑』には「不審」な点があります。それは「六六二年十二月」の条の記事です。

(六六二年)冬十月(中略)癸丑 詔以四年正月有事於泰山 仍以來年二月幸東都。
(同)十二月戊申 詔以方討高麗 百濟 河北之民 勞於征役 其封泰山 幸東都並停。

 上の記事では「高麗」と「百済」を「討つ」よう「詔」を出したと書かれています。しかしこの記事時点では「高麗」も「百済」もすでに遠征軍が派遣され、「征討戦」が実施されています。「百済」に至っては「六六〇年八月」の段階で「国王以下主要メンバー」が投降し、「唐」の皇帝の面前まで連行されています。「六六二年十二月」になってからの「百済」を「討つ」という「詔」とは整合していないと考えられます。
 
 また「十月」に「泰山封禅」を行う、という詔が出ていますが、そうすることとした理由としては「白村江の戦い」で「百済」と「倭国」に打撃を与えたことで「東夷」が安定したと思ったことが大きな理由と考えられます。
 ここで、もし「東夷」がまだ「征伐」されておらず、「百済」残党も「高麗」も「倭国」も活発に活動し、「唐」遠征軍と激闘を繰り広げていて、遠征軍からは「勝利」の報告が来ていない段階で、「泰山封禅」を企図したとすると、そのこと自体がはなはだ不審なことと思料されます。
 「泰山封禅」は、後に実施に移された際の参加国も膨大なものであり、「唐」の力と権威を見せつける場にするつもりであるはずですが、「東夷」が平定されていないのであれば、その「東夷」からは参加する国がない、と言う事になりかねません。(新羅は参加するかもしれませんが)そのようなことは逆に「唐」の権威に「傷」をつけることとなってしまいます。
 つまり、この段階で「泰山封禅」を企図した、と言う事は「東夷」が平定された、と「高宗」が判断したからに他ならなく、そうであれば「十二月」の条にある「詔以方討高麗 百濟」という一文の存在が「矛盾」となると考えられます。
 このことはこの『資治通鑑』の「六六二年十二月」の条の記事に何らかの混乱があると考えられるものです。つまり「泰山封禅」を取りやめるという記事の前段の「征討」の詔は「何らか」の理由により「六六〇年」の条から紛れ込んだのではないでしょうか。
 これらのことは「白村江の戦い」が「泰山封禅」を企図したという記事の日付である「六六二年十月」より「以前」に行われた可能性が高いことを示していると考えられ、『資治通鑑』とともに「白村江の戦い」を「六六三年」のことと記している『書紀』にも何らかの混乱が生じていることが示唆されます。
 『書記』にも「唐側資料」にも共通しているのは「百済」の滅亡が「六六〇年八月」ということです。

 この年次のズレについては「青木一利」氏の研究もありますが、(『古田史学会報』一〇二号)その中でもやはり『旧唐書』『三国史記』が正しいとされているようであり、『日本書紀』の影響を受けたと考えられる「後期中国側資料」については「信」がおけず、その年紀は真の年次に対して「一年」ズレているのではないかと考察されています。
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。

 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。

 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『須岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『須岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで九日間で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。

 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を終結させるためであつたものと思われます。
 「倭国」との折衝を通じて「薩夜麻」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後(「百済国」内某所と推察されます)「薩夜麻」に面会し、引率して来た「守君大石」達と合流した後、「薩夜麻」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「薩夜麻」を含む「百済王」「耽羅国王」などは「船」で「泰山」の麓まで運ばれています。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國『酋長』赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。

 「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。この後彼らは「倭国王」達の「高宗会見」などにも同船して向かったものと考えられます。

 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。

 また、この「劉徳高」の倭国への遣使が「唐」の史書にありませんが、これは「泰山封禅」の式典に参加する各国への使者が余りに多く、記録上書ききれないため省略されたのだと考えられます。この時は国内全州、及び「柵封国」、「友好国」など非常に多くの参加者があったようであり、『資治通鑑』にも以下の文章があります。

『資治通鑑』「六六五年」(麟德二年乙丑)「冬十月丙寅上發東都從駕文武儀仗數百里不絶。列營置幕彌亙原野。東自高麗西至波斯烏長諸國朝會者各帥其屬扈從穹廬毳幕牛羊駝馬填咽道路。」

 東西の各国からの使者や高官がその随行員を率いて「唐」の「高宗」に「從駕」し、その長さが「数百里」に及んだように書かれています。当然これに参加した彼ら「東西諸国」からの使者なども「唐」からの「使者」によりこの式典に来るよう指示なり招待なりを受けたものと思われます。しかし、このような各国への「唐使」派遣記事は唐側の史書には記載されていないのです。
 ただし、上の『資治通鑑』記事では「東自高麗」と書かれ「新羅」や「倭国」などのことが書かれていません。一見彼らは「泰山封禅」に参加しなかったかのようですが、これは「東都」(洛陽)から「泰山」への陸上移動の様子であり、「倭国王」達はそれとは別に「船」で直接「泰山」(太山)へと「劉仁軌」により運ばれていたものですから、この「従駕」の列には書かれていなくて当然であるわけです。

 また、これに参加したと考えられる「坂井部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。
 この時「薩夜麻」が同行帰国しなかったのは上に見たように「軟禁」されていたからと思われ、それが解かれたのは「三年後」の「六六八年」のことであったと思われますが、これに関しては『書紀』では「六七一年」のこととして書かれており、この「年次」については「三年」のズレが確認できます。(すでに触れました)
 『天智紀』は「即位年」と「称制年」の混在を始め、かなりの年次の混乱が確認されており、この「薩夜麻」の帰国についても同様に混乱の中のものと推量されます。
 そう考えることの根拠らしいものは『善隣国宝記』の中に見えています。


(この項の作成日 2011/03/11、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事を転記)


「天智」の正体

2018年05月12日 | 古代史

 『古事記』序文には「投夜水」(夜水に「投」(いた)りて)という表現があります。

「夢の歌を開きて業を纂がむことを相はせ 夜の水に投りて基(もとひ)を承けむことを知りたまひき」

 この文章の前半部分は「夢占い」のこととされていますが、後半はやや意味不明に受け取られています。一般には「投」を「至る」意味で解釈していますが、「夜水」に「至った」事と、基を承ける事との関係が曖昧です。諸々の解説書を見ても納得のいく説明が為されていません。
 以下は、全くの推測になりますが、この部分は「前半」部分同様何らかの「占い」を行なったのではないかと考えられ、「投げる」という表現から考えると、「灌頂」の一種である「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」を行なったのではないか、と推察されます。
 「灌頂」とは「頭頂」に水を注いで緒仏や曼荼羅と縁を結ぶ儀式一般を指し、多く見られるのが「投華得仏」を行なう「結縁灌頂」というものです。これは目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶ、つまり「帰依する仏を選ぶ」というものです。これは後の「戦国時代」などでは「武運」を祈るための儀式でもありました。
 この儀式は仏教発祥地であるインド(天竺)においては「王」の即位や「立太子」での風習であったらしく、それも含めて「天智」のこの行動が自らの「大義名分」を求めてのものであったことが窺えるものです。

 「天智」は「夜水」でこのような「儀式」を行ない、「帰依する仏」を選び、それを名目に自らの行動を正当化しようとしたと推測されます。推測すると、特定の「仏」を選ぶことが「基を承ける」事を意味するような「意味付け」が行なわれていたのではないでしょうか。(この事に関して後代「天智」と「弥勒信仰」が関連して語られている説話が多く見られるのが注目されます)
 そして、この「儀式」後「夜水」つまり「筑後川」を「渡って」、筑紫側に進入したことを示すものと思われ、「肥後」から続く古代官道もこの時点ですでに存在していたと想定すると、これを通って軍を「筑後川」まで派遣して来たのではないかと推察されます。そして、その時点でさしたる抵抗もなく「容易」にこれを越えることができたため、それ以降に軍を進めることを最終的に決断したのではないでしょうか。
 「筑紫」から「筑後」に至る領域は「薩夜麻」が支配していると考えられ、(彼は「筑紫の君」なのですから当然ですが)その分水嶺とでも言うべき「筑後川」を越えることが「決断」の瞬間であったと思われ、それを「灌頂」により正当化したものと思料されます。
 また、確かにこの時点の「倭国」は「筑紫」の「南方」地域への備えは薄かった可能性が高いと思われます。それは「伊勢王」時代に「隼人」に対して「内属」させるなどの政策をとった結果、「南九州」に対する警戒が薄くなったということはあり得ます。
 また当然「半島」での戦闘発生という事態が、列島内部の「軍事力」の「空洞化」を招いたということもあるでしょう。
 
 同じく「序文」の中では「南山に蝉蛻(せんぜい)し」とされており、この「南山」は「筑後風土記」「磐井」の逃げ込んだ場所を示すのに使用された「南山」と同じとおもわれます。
 この「南山」については以下の文章から、「高良山」ではなく、「筑後」と「肥後」などの間にある「高取山」などの山岳地帯を指すと考えられます。

「豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。」

 つまり「磐井」は「上膳の縣」の「南側にある山」の中に逃れたと言うことのようです。
 そう考えるとこの「南山」は「筑後」の「南方」に存在する「阿蘇」に連なる山地を指すと考えられ、「天智」がいわゆる「筑紫」に元々もいたものではなく、「肥後」(阿蘇)に所在していたという可能性が高い事を示すものと思料します。その場合、現「菊池市」至近に存在する「鞠智城」がその「拠点」として考えられるものです。

 この「六六〇年」という「天智」の革命時点以前に「筑紫宮殿」を含むその周辺防備施設の改修が行なわれたと考えられ、この「鞠智城」においても同様に整備されていたと推察され、この段階で「実用」されていたものと考えられます。
 この場所は「倭国」の「古都」であり、「倭の五王」以来「利歌彌多仏利」が「筑紫」遷都を行なうまで、二〇〇年余りの間「倭国」の「首都」であったと考えられます。(『隋書俀国伝』の行路記事からも「裴世清」が来たのはこの場所ではなかったかと推察されます。)
 この場所は「伊勢王」も元々所在していたものと考えられ、「伊勢王」が「難波副都」に常住するようになった時に、臣下中の有力者であったと推定される人物に後を託したものと考えられるものですが、それが「天智」であったという可能性もあります。

 「天智」の出自については、彼が「天命」を受け、「革命」を起こしたといういきさつからも、「前倭国王」と「親子」や「兄弟」ではないことは明白です。ただし中国の「天命」「寶命」などの使用例を見ると「甥-叔父」の交替の際に「天命」という用語が使用されたことがあり、(「南朝劉宋」の「明帝」の例)、そのような関係が「天智」と「前倭国王」との間にあったという可能性は否定できません。
 「天智」はこの「革命」の際に「東」(我姫)の勢力の支援を受けています。また、この「東国」勢力とは、当地の「新羅系」勢力である「中臣」「高向」などと連係した勢力であると考えられます。このことから「天智」と「高向」「中臣」の間に深い関係があることが推測できます。
 そもそも「九州」は「親羅系勢力」の一大拠点でした。「筑紫」も「豊」も「肥後」も基本的には「新羅」の勢力が優勢であったものです。それは「宗教」の点においても同様であり、「新羅」から「九州」へという流れがあり、これに沿って「古神道」系統と考えられる「信仰」が「九州」へもたらされていたと考えられますが、他方、同時に「中国」の「北朝」から「高句麗」という流れもあり、この流れに乗った「小乗仏教」もまた「九州」に渡来していたという可能性があります。
 これらに対する「相克」というものが「九州」島の中でもかなり先鋭的な形で現れていたと考えられ、内部に矛盾を抱えた形で「倭国」が存在していたと考えられるものです。
 これに対し「難波」を含む「近畿」は「百済系勢力」、いわゆる「百済」から渡来した勢力(「後漢」から「百済」に亡命した漢人を含む)の拠点であったものです。そのため「近畿王権」は以前から「親百済勢力」として存在していたものと思われます。
 このような中で「伊勢王」は「唐」に対する政策上のこともあり、「百済勢力」と連係して事に当たることとなったと考えられますが、そのことにより国内の「新羅系勢力」は倭国主流から外れ、冷遇されていたと考えられます。(「高向玄理」の冠位が「降格」になっているなどもそれを表すと見られます)

 また、「天智」が武力により国内を制圧した時点以降、「近畿王権」をはじめとしてかなり多くの地域がこの支配下に入ったように見えます。「革命」を起こすという時点でかなりの勢力をが彼の支援に回ったと見られることや、その支援をまとめるのに余り時間が掛っていないようにも見えることから、彼の「実力」が「以前」から「評価される」事が幾度かあったことを示すと考えられます。つまり彼は以前よりそれなりに倭国内では人望も名声もあった人物と考えられます。
 そのような人物としてはいろいろ想定できますが、その際には『書紀』の「天智」という人物に対する描写が参考になると思われます。
 『書紀』で「天智」について「孝徳」から見て「姉」の「子供」とされており、これは「実際」の「天智」の家族構成を反映したものかもしれません。そう考えると、『書紀』では「伊勢王」と「孝徳」の入れ替わりが行われていると考えられますから、「天智」は「伊勢王」の「姉」の「子供」である、という可能性もあるでしょう。つまり「伊勢王」には「弟王」がいたわけですが、その他に「姉」もおり、その子供が「天智」であるという可能性もあります。
 こう考えると、「天智」という人物の立ち位置として「利歌彌多仏利」に対する傾倒が強いと考えられる事も理解できます。彼は「天智」から見て「祖父」に当たるわけであり、「利歌彌多仏利」の時代の政治理念のようなものに「共感」していたのかも知れません。また、彼は「利歌彌多仏利」同様、「東院」という「法号」を貰うほど仏教に強く帰依していた人物であると推定され、それもまた「利歌彌多仏利」からの影響かも知れません。
 

(この項の作成日 2012/05/25、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事を転記)


『古事記』偽書説について

2018年05月12日 | 古代史

 『古事記』については以前から「偽書説」の立場から多数の論が成されており、その中には全体が「偽書」であるとするものや「序文」だけが偽書であるという説あるいは「序文」については後代の成立であるという説など、多数乱立しているようです。
 このように「偽書」説が「跋扈」している理由は、これも種々言われていますが、結局のところ『古事記』、特に「序文」に書かれた内容と『書紀』の「壬申の乱」を含む『天武紀』がその内容において「齟齬」しているのが最大の理由と考えられます。
 また、「序文」が「並序」として「上表文」の体裁をなしていることの論理性については古田氏により詳細に論究されており、この「上表文」という形式から「後代成立」とか「偽書」というような結論には直結しないものであるのは明らかです。(※1)
 また 「序文」だけが「偽書」ないしは「後代成立」であるという考えもありましたが、「一九七九年」に「太朝臣安萬侶」と書かれた「墓誌」が発見され、その表記が「序文」の署名と同じであったことから、その様な考えに合理性がないこととなりました。
 また「本文」における「上代特殊仮名遣い」という「奈良朝」における「母音」の書き分けが「正確」に行われていることや、「本文」中の万葉仮名に「呉音」が使用されていると考えられることなどからも、「後代成立」や「偽書」というような論が成立しないのは明らかであり、やはり、その成立がかなり「古かった」つまり、奈良時代或いはそれ以前であったという可能性の方がはるかに高いと考えるられるでしょう。

 また、『日本書紀』も「平安時代」に「編纂」(再編纂)されたものと考えられ、「嵯峨天皇」の時代に大幅な書き換えが行われたと見られます。この時代に「中国」の「北朝」の影響を顕著に受けるようになるわけであり、その思想の元にそれまで存在していた『日本紀』を今見るような『日本書紀』に「改定」したものと思料します。
 この『日本書紀』の元となった『日本紀』はそもそも「親百済的」史料であったものと考えられ、それはその原型が造られた段階の「持統朝」が「親百済」政権であった事につながるものです。「元嘉暦」の採用などもその一つでしょう。また「編纂」の参考資料として「百済系資料」が頻繁に引用されたり、明示せずに本文中に取り入れられたりしているのもその意味で傍証となるでしょう。しかし「倭国(日本国)王朝」の没落後それの受け皿となった「新日本国王権」は明らかに「新羅」「唐」に偏倚した王権と見なせますから、『書紀』から「百済」的イメージの払拭に努めたように見受けられるものの、一部に消しきれないものを残しており、このことが『書紀』について「親百済的立場」というイメージを植え付けていると考えられますが、実際には「北朝」的立場から出来うるかぎりの「改定」を行ったというのが正しいと考えられるものです。

 もしこの時点で『古事記』が編纂されたとすると「嵯峨帝」などの「親北朝」意識に沿った為に、このような「親新羅意識」で貫かれるような内容になったと見ることとなりますが、その割りにはその「万葉仮名」の表記にほぼ「呉音」が使用されており、これは「南朝」の系統に属する発音であり、「唐」以降の「北朝」の王権からは「蔑視」されていたものです。
 これらは「平安時代」という時代背景や「嵯峨帝」が行った「北朝」偏重、つまり「漢音」重視という政策の中では際だって「異色」であり、時代の流れと即していないと考えられるものです。この「呉音」は「太安万侶」の出自と関係あるという可能性もあり、そうであれば「時代」としては整合しますから、「偽書」とするには無理が出てくるでしょう。

 ただ、古田氏が批判の対象とされた三浦氏の論(※2)には興味深い観点が指摘されています。それは「序文」の「史書」選定経過と『書紀』の「史書」選定経過は「全く異なっている」というのです。
 氏は以下のように主張します。
「…序文が絶対的な矛盾を抱え込んでいるという理由はどこにあるかということですが、古事記「序」を正しいとみると、天武天皇は、天武紀十年三月に書かれている「帝紀及び上古の諸事」の記定と、古事記「序」にあるような「帝皇日継及び先代旧辞」の誦習という、まったく性格の異なった二つの史書編纂事業を同時に行おうとしていることになり、その点について大きな疑問を感じるからです。…」
 ここで「氏」が主張していることについては、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」とが「内容」が異なると言う事なのか、「記定」と「誦習」の違いを問題にしているのかはやや曖昧です。

 以下に「序文」『天武紀』の関係部分を見てみます。

(以下「序文」)
「是に天皇詔りたまひしく、「朕聞く、諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王家の鴻基なり。故惟れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲す」と。時に舎人有りき。姓は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒しき。即ち、阿礼に勅語して帝皇日継及び先代旧辞を誦み習はしめたまひき。然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。」(読み下しは「倉野憲二校注(古事記)によります)

それに対応すると考えられる『天武紀』は以下の通りです。

「天武十(六八一)年三月丙戌(十七日) 天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。」(読み下しは「岩波」の「大系」によります)

 「序文」ではその中で「詔」としてまず「帝紀及び本辞」と言い、次に「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して」と表現しています。当然この二つは同じものを指すでしょう。でなければ「話」が一貫しません。それを行動に移したのが「勅」として「帝皇日継及び先代旧辞」について書かれているのですから、これも同じ問題についてのものと考えられ、同じ人間(天皇)の発言なのですから、この三つが異なると考える「余地」がないのは明らかです。また、これに対応する『天武紀』の「帝紀及び上古の諸事」というものも、推測では同じ内容であると考えられます。つまりいずれも「史書」編纂に必要な内容であり、史書の体裁(「紀伝体」であるか「編年体」であるかなど)の違いに拘わらず、等質の内容であると考えるものです。
 つまり「氏」の主張がそうなのかは不明ですが、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」の内容は「異なる」ということは当たらないと考えられますが、「記定」と「誦習」は明らかに異なります。「記定」はまさに「定める」ものであり、「皇子」「諸官人」などの共同作業により「諸史料」を校合して「史書」を実際に「執筆」していく作業を行ったこととなりますが、「誦習」はまず「諸家」にある「帝紀」などについて「阿礼」が「読んで」それを「記憶する」という作業であり、それを「紙に」落とす作業が欠けています。これは「記定」とは全く違う作業と考えられ、それを「氏」が主張しているのなら、確かにその通りと思われます。そして「氏」は「日本書紀の記事と古事記の序文とを並べた時、どちらかがウソをついていると考えざるをえない」とされ、結果的に『書紀』を「真」とし、「序文」を「偽」とすることとなったのです。
 しかし、そもそもそのような「食い違い」ないしは「論理上」の混乱の原因は、上で述べたように『古事記』の編纂が「天武」ではなく、それに先だって「天智」が指示したことであり、そこに書かれた内容も「天智」に関することが書かれているにも関わらず、「天武」であると誤解されたことが原因であると考えられ、編纂を指示した者の「立場」の違いと「時代」の違いがそのまま「史書」の内容に現れているという事と思われます。
 そのように考えれば『古事記』序文を「後代」のものと認定する根底が覆ると考えられます。

 また、「山尾幸久氏」は「古事記についての一問題」(『日本思想史研究会会報』第四号一九八五年七月)で以下のように述べています。

 「古事記の本質をどのように見るかは、いくつかの立場がありうるが、ほぼ疑いのない一つは、それが、全体として天皇縁起の性質をもっているということであろう。(中略)これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示という性質を、古事記はもっている。その論理が、天皇の地位は神の意思の現実態だとするものである。」

 「今まさに新たに生み出そうとしている律令国家の君主の、正当性根拠を、なぜ古事記は、初源における神勅の存在という形式で発想したのか。」

 ここで「氏」が述べられていることを言い換えると、『古事記』には「初代王」が書かれているという主張とほぼ同一であると考えられます。
 ここで発せられた「問い」に対する答えというものは、『古事記』が「天智」の「革命」を正当化するために書かれた史書であるというものです。つまり、「天智」が「初代」王であるとしたならば、彼の「権威」は「連綿」として続く「倭国王権」には重ならないわけであり、そのため、『古事記』は(その編纂者は)「氏」が言うような「これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示」を「新た」に行なう必要が「絶対」にあったものです。そして、それは必ず「神勅」という形を取らざるをえないものであったと思われるわけです。

(※1)古田武彦「学界批判 『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」(『なかった 真実の歴史学』第四号二〇〇八年二月所収)
(※2)三浦佑之『古事記のひみつ -- 歴史書の成立』(吉川弘文館、二〇〇七年四月)


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2012/05/26)(ホームページ記載記事を転記)


「天智」(近江(淡海)御宇天皇)と「新羅」

2018年05月12日 | 古代史

 『書紀』などでは「天智」が「百済」系であるように書かれてますが、これは「百済を救う役」に「親征」した「倭国王」である「薩夜麻」についてものを「天智」のものとして記述しているためであり、「天智」自身は「親新羅系」の人物であったと推察されます。そう考えるいくつかの「徴証」があります。

 以下の『続日本紀』の記録で分かるように「新羅使」は「八世紀新日本国王朝」の「元旦儀礼」に参加しているようです。その際に持参した朝貢の品を「伊勢神宮」など「諸社」や「持統」の「陵(墓)」と思われる「大内山陵」に「奉納」するなどしています。

「(文武)二年(六九八年)春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。
戊寅。供新羅貢物于諸社。
庚辰。獻新羅貢物于大内山陵。」

「(慶雲)三年(七〇六年)春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛有異於常。
戊午。奉新羅調於伊勢太神宮及七道諸社。」

「靈龜元年(七一五年)春正月(中略)己亥。宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。」

 これらのことは「新日本国」王朝にとって、いかに「新羅」との関係が重要であるかを如実に示すものです。その彼らが「権威」の根拠としている「天智」という人物が「百済」系であるはずがないとも言えます。 

 また「天智」は「東国」に支援勢力があったと考えられるわけですが、「東国」は「利歌彌多仏利」の時代に行なわれた「改革」の際に「惣領」として「高向臣」と「中臣幡織部連」が派遣され、彼等は「倭国王権」の統治の第一線で活躍したものです。
 この時点以降倭王権の「東国」に対する「指導力」が強くなったものと考えられますが、また彼等は「新羅系」の氏族であったものとも考えられます。
 同じ「高向氏」である「高向玄理」はすでに見たように「遣唐使」として「新羅経由」で派遣されていることなど、「新羅」に縁の深い氏族であったと考えられますし、「中臣幡織部連」は「関東」に伝わる「羊大夫」伝説によれば「物部守屋」が滅ぼされた際に、彼に加担した罪により「関東」に流されたとされる人物として「中臣羽鳥連」がいるとされ、これと同一人物(或いはその子孫)ではないかと考えられるものです。その「守屋」など「物部氏」自体が「親新羅勢力」であったと考えられ、彼と行動を共にした「中臣氏」も「新羅」と関係の深い氏族であったものと考えられでしょう。
 彼等が「関東」に派遣された(流された)理由の一つは、もちろん「ペナルティー」の意味もあると思われますが、より重要な意味としては「新羅系」の渡来人などが多かった「関東地域」に対する影響力を強化することを目的としていたものと思料します。

 関東にはそれ以前から「新羅系」を始めとする渡来人のコミュニティが各地にあったように見受けられ、彼等を「倭国王権」に組み入れていくことが必要であったものです。そのために同じ「新羅系氏族」を起用するという政策が行われたものと考えられます。また、そのような中に「秦氏族」もいたものと思われ、『書紀』などで「聖徳太子」のブレーンであったとされる「秦河勝」がその代表的人物ですが、「聖徳太子」が「利歌彌多仏利」の投影とでも云うべき存在である事を考えると、この「秦氏」もまた「利歌彌多仏利」に深く関わる「氏族」(人物)であると思われます。

 また、この『古事記』とその「序文」を書いたとされる「太安万侶」の「太氏」についても「秦氏」と深い関係があることが種々の研究により指摘されており、「太氏」自体が「新羅」に深く関係していたものと考えられるものであり、彼がこれを執筆、編纂している理由もそこにあるものと考えられるものです。
 彼ら「秦氏」とその関係氏族は「九州」では「豊」(「宇佐」)に本拠がある氏族と考えられ、この「宇佐」地域は「新羅系」氏族の痕跡が深く、また彼等の信仰についても「新羅系」の傾向が色濃い地域とされています。
 「宗像三女神」信仰も「宇佐八幡信仰」の一部として信仰されていたものであり、これもまた「新羅系」の信仰が土台にあるものと思料されます。
 これらの「利歌彌多仏利」に関する人物や環境などに「新羅」の関連や影響が考えられるものであり、「天智」はこのような、以前から「東国」に存在し、影響力があった「新羅系」氏族などからの支持を取り付け、「革命」を起こすために立ち上がったものと考えます。
 またそのためには「古代官道」の整備が重要な役割をしていたと考えられます。「難波京」整備と並行して、難波から「東国」へ伸びる「官道」(特に「東海道」)の整備(拡幅と延伸)が相前後してほぼ完成し、これは「倭国中央」の支配力強化のために整備された「軍用道路」であったと思われますが、これを利用して「逆」に「東国」から「副都難波」へ侵攻することが可能となったものと考えられます。
 この「革命」時点では「西国」の主要な勢力は「隋」の脅威に対抗するため「筑紫」周辺に展開していたものと思われ、「東国」勢力の侵攻を止めるものは何もなかったと思われます。このため、この「革命」は短期間の内に「成功」を治めることとなったものです。(それは『古事記』序文では「十二日以内」と書かれています)
 「天智」はその様な不安定さを利用して、「軍事クーデター」を起こしたものであり、それは見事に成功したとみられるのです。


(この項の作成日 2012/4/19、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事を転記)