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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

郡制などの制度と近畿王権

2025年03月31日 | 古代史
 以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」派遣され、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国にとして認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。(「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定)

 その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令」として制定していたものが「薩夜麻帰国」からの「王権」の移動等により途絶していたものの復活としたものではなかったかと考えたわけですが、そうであれば「評」から「郡」への切り替えというものが「制度」の切り替えであり、その「制度」が「近畿王権」の元で行われていたものの復活ではないのかという推論へとつながります。
 従来から言われていて、私も同様に考えていましたが、「評制」と「郡制」は「評」と「郡」の名称の違いだけではなく「制度自体」の違いであるのは明白です。しかしではなぜ「郡制」になったのか、なぜ「近畿王権」主体の「新日本国」では「郡制」なのかという問いにつながっていませんでした。つまり「新日本国」は全くの新しい王権ではなく以前からあったものの再構成であり、復活であったとみれば、「大宝令」「冠位制」「郡制」等の制度は以前の「近畿王権」つまり「難波日本国」の段階ですでに備わっていたものではなかったかという見地にはその時点では到達していなかったものです。

 すでに冠位制で述べたように「大華下」等の冠位制は「筑紫日本国」の制度であり、東国直接統治をもくろんだ段階でその統治範囲に入った近畿王権に対して適用された制度とみたわけですが、行政制度についても同様ではなかったでしょうか。すでに「近畿王権」による「郡制」が彼等の統治範囲に対して施行されていたものであり、そのような中で「倭国」の直接統治範囲に入ったことで「倭国」の行政制度である「評制」が施行されたものであり、さらにその下部の組織として「五十戸制」が施行されたものと思われるわけです。これらの「制度」のうち「評制」は部分的には(点的対象として)すでに施行されていたものであり、淵源は「半島」にあると思われます。ただしその下部組織としての「五十戸制」は「遣隋使」以降「隋」からの情報を元に制定されたものであり、これらが本来の「倭国領域」つまり九州島とその外部の近隣領域に対して施行されていたものであり、これを近畿王権の領域に対して適用したものと推定するわけです。
 ただし、これらは「百済を救う役」と「白村江の戦い」等により「倭国」つまり「筑紫日本国」が「政治的」「軍事的」な空白となって以降「難波日本国」が列島全体の統治を開始した時点では「近畿王権」の制度には切り替わらず、そのままそれらは継続されていたものです。推定によると「庚午年籍」も「郡制」ではなく「評制」の制度の元のものであったと思われます。それはすでに全国的な制度となっていた「評制」についてそれを切り替えるのに要する手続き等等が膨大であり、よほど準備を入念に行う必要があったものであり、そのような事情から先延ばしされていたと思われますが、それの準備段階で「薩夜麻帰国」という一種想定外の事案が発生しその後旧王権に列島支配の実態が移ったため、それらが行われないまま八世紀に至ったものと推測します。このあたりの事情に通っているのが『古事記』の前文」です。そこには以下の言葉があります。

於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
 伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 連柯并穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 德冠天乙矣
 於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採 然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首

 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上

 ここで太安万侶が書いたように「小治田宮」までしか記憶あるいは記録されたものがなくそれ以降の「近畿王権」の王についての記録がないということとなります。上の「序」が「天智」が王権を奪取する経緯について述べていると考えれば必要であったものは彼以前の資料であったものであり、それ以降は書かれる必要がなかったということとなります。そしてその編纂事業が中断していたというわけであり、それをここに再開したいということを述べているわけです。

 古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
 『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。それを「書」として編纂するには彼の記憶を文章に落とし込む必要があります。それは彼の記憶力の問題もあると思われますが、一通りにできるものではなく時間がかかる事業であったと思われるわけですが、それが中断していたというわけです。

時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣

 このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」(つまり「難波日本国」)が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。

「然運移世異 未行其事矣」

 ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。
  
 以上のように『古事記』の編纂の途絶と再開という流れはそのまま「郡」やそれを含む制度全体の再開と復活につながるものであり、それらは軌を一にして「新日本王権」の「天智王権」の復活として再現されたものと思われるわけです。
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「評」と「郡」について

2025年03月19日 | 古代史
 「評木簡」つまり「評」が制度として行われた期間に「評」が記載された木簡の多くは「五十戸」という制度も併せて書かれています。
(以下例を示す)

①  三形評三形 五十戸 生部乎知◇調田比煮一斗五升?  031  荷札集成-134(木研18-  飛鳥京跡)
② 丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈 五十戸 造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
③ 丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区)
④ 知夫利評由羅 五十戸 加毛部乎加伊加鮓斗 031 荷札集成-169(飛20-28 藤原宮西方官衙南地区)
⑤ 尾張海評堤田 五十戸   032 飛鳥藤原京1-191(荷札 飛鳥池遺跡北地区)

 この「評」という制度は『書紀』では決して記載されていません。明らかに隠蔽されています。「評」ではなく「郡」でり、「評督」ではなく「郡司」あるいは「郡大領」であったように書かれているわけです。これは「日本」が歴史の当初から「やまと」であるように装っていることと結びつきます。さらに「近畿王権」に独自の冠位制があったと推定したこととも結びつきます。つまり「郡」は元々「近畿王権」の統治範囲に使用されていたものではなかったでしょうか。
 「評制」が隠蔽されているということからこの制度が「筑紫日本国」つまり「倭国」の制度であったものであり、「五十戸制」も同様であったと思われます。
 栃木県大田原市に今も残されている「那須の国造韋提碑」には冒頭「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜…」という文章があり、ここに出てくる「評督」については「飛鳥浄御原宮」が「下賜」したこととなっています。
 この「飛鳥浄御原宮」という存在についてこれが「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」を指すとは考えられません。なぜなら彼等は上に見たように徹底的に「評」を隠蔽していたはずであり、この「評督」を授与したが彼等ではないのは明白でしょう。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である『書紀』に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。「評」という制度を徹底的に「隠している」彼等が、それほど忌み嫌った制度をここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないからです。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)段階で「九州倭国王権」が「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
 このように「評」や「五十戸」制は「筑紫日本国」(倭国)の直接統治領域内に施行されていたものであり、東国を直接統治するという段階で「東国」(近畿王権の統治領域を含む)に「冠位制」と共に「評制」を敷き、また「五十戸制」を施行したものです。
 『皇大神宮儀式帳』に「難波朝廷」が「天下立評」したとされているのは、この段階です。「難波朝廷」は倭国が東国へ進出した際の朝廷であり、この「天下」とはもっぱら「東国」を指すものであったと思われるわけです。その意味でも「改新の詔」とは「東国」に対して出された「詔」と考えるべきです。「東国国司詔」なども併せて出されていることなどからもそれは明らかです。この時点で「副都」を造り、そこを拠点として「東方」に対し直接統治体制を築こうとしたものと推察します。そのために「筑紫」から「遷都」したものです。
 ところで「改新の詔」の中で「三十戸から仕丁を出していたものを五十戸に変える」とされています。

「…凡仕丁者。改舊毎卅戸一人以一人充廝也。而毎五十戸一人以一人充廝。以諸司。以五十戸仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。…」

 これはそのすぐ前にある「…凡五十戸爲里。…」という規定と相まって、それ以前に「三十戸法」が行われていたたことを推定させます。しかしながら『隋書俀国伝』を見ると少なくとも「六世紀末」では「八十戸制」であったことが窺え、それがその後「隋」から制度を取り入れ「五十戸制」になったものであり、そのことが木簡から確認できることと一種「矛盾」しているようです。つまり「倭国」の統治範囲では「八十戸制」であったものが早い段階で「五十戸制」に代わったものであり、それを考えると「三十戸制」は近畿王権の制度であるということとなるでしょう。それはこの「改新の詔」が「東国」に向けたものという性格からも言えることです。
 また「仕丁」という制度も近畿王権にはすでにあったことになります。つまり既に指摘しているように「近畿王権」はその統治範囲にそれなりのシステムを導入していたものであり、それが例えば「冠位制」であり、「三十戸制」であり「仕丁」の制度であったと思われます。
 当然それだけではなく多様な制度が導入されていたと思われますが、いずれも中国に始原を持つものであり、同様に中国を手本として制度を構築していた宗主国であるところの「倭国」における制度と共通のものがあったとして不思議ではありません。
 八世紀に入りこの近畿王権につながる勢力により新日本国が作られるわけであり、そこで「評」を止めて「郡」にすることとなったわけですが、それは「近江令」から「大宝令」へとつながることと深い関係があることとなるでしょう。それらは「天智」への回帰という流れの中にあるものであり、以前の制度であった「郡」の復活ということとなるでしょう。
コメント

「大宝令」と「浄御原令」(再度)

2025年03月16日 | 古代史
 以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。
 改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。「唐」の時代、初代皇帝「李淵」(高祖)のはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選んでいます。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。
 これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。(「隋代」に「文帝」(高祖)により「大学」が廃止されていたもの)
 それが「永徽令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。
 さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが「長孫無忌」などにより奏上されたものであり、「高宗」はこれを受け入れて「顕慶令」を公布します。ここでもう一度「太宗」の時代の古制に復したこととなります。そして、これがそれ以降定着したものです。
 「日本令」は「唐令」に準拠したとされていますが「浄御原令」も「大宝令」も全く失われておりかなりの部分不明ではあるものの、「大宝令」は「浄御原朝廷の制」を準正としたとされており(『続日本紀』による)、復元作業が行われている現在「大宝令」も「浄御原令」も通常は「永徽令」がその根拠令とされているようです。しかし以前考察したように現存している「養老律令」の「学令」には「釈奠」の祭祀の対象として「孔子」と「顔回」が選ばれており、これは「永徽令」とは食い違っています。
 
学令 釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。『釈奠於先聖孔宣父』。其饌酒明衣所須。並用官物。

また『令集解』の「古記」においても同様の記述があります。

【学令 釈奠条】
釈奠於先聖孔宣父
…古記云。孔宣父。哀公作誄。且諡曰尼父。至漢高祖之曰宣父。…」

 これによっても祭祀の対象として「先聖孔宣父」とあり、「古記」でも同様であるので(「古記」は「養老令」というよりそれ以前の「大宝令」の注釈書ですから)「大宝令」の「学令」でも同様に「祭祀」は「先聖孔宣父」つまり「孔子」に対し行われていたこととなります。つまり「大宝令」そのものが「貞観令」あるいは「顕慶令」に準拠していたと考えるべきこととなるわけです。
 また「延喜式」の中では「釈奠」の対象は「先聖」として「文宣王」が選ばれています。これは玄宗皇帝により開元二十七年に孔子に対し追号されたもので、「養老令」にあるとおりこの時点でも変わらず「先聖」は孔子であったものです。これは「顕慶令」やそれ以前の「貞観令」と同じであったものであり、それが変わらず後代まで使用されていたことを示すものです。

「…以次出。其祝版燔於斎所。祝文維某年歳次月朔日。守位姓名敢昭告于『先聖文宣王』。維王固天攸縦。誕降生知。経緯禮楽。闡揚文教。余烈遺風。千載是仰。俾茲末学。依仁遊芸。謹以制幣犠斎。粢盛庶品。祗奉旧章。式陳明薦。以『先師顔子』配尚饗。維某年歳次月朔日。守位姓名敢昭告子『先師顔子』。爰以仲春。/仲/秋。∥率遵故実。敬修『釈奠子先聖文宣王』。惟子庶幾體二。徳冠四科。服道聖門。実臻壷奥。謹以制幣犠斎。粢盛庶品。式陳明献。従祀配神尚饗。…」(延喜式)

 「開元令」に「文宣王」とあることから「延喜式」は「開元令」に拠っているといわれていますが、基本は「養老令」の施行細則であり、「開元令」も「養老令」も実際には「顕慶令」(および「貞観令」)に拠っていることとなります。ではそれ以前の「浄御原律令」ではどうであったかと言うことが問題になるでしょう。
 以前は「大宝令」と「浄御原令」とはそれほど違いはないのではないかと言われていましたが、最近の研究では両者の間には差がかなりあることが指摘されています。
 「浄御原令」の時代には条文も簡素であったものであり、「大宝令」が条文に「式」部分を含むものであったものが「浄御原令」ではそれがなく、別途「式」様の「詔」を出しているのが確認できます。
以下持統の「詔」です。

(六九一年)五年…
冬十月戊戌朔。…
乙巳。詔曰。凡先皇陵戸者置五戸以上。自餘王等有功者置三戸。若陵戸不足。以百姓充。兔其徭役。三年一替。

この条文に良く似たものが『延喜式』にあります。

凡山陵者。置陵戸五烟令守之。有功臣墓者。置墓戸三烟。其非陵墓戸。差点令守者。先取近陵墓戸充之。

この文は「大宝令」の以下の部分に該当するものです。

喪葬令 先皇陵条 凡先皇陵。置陵戸令守。非陵戸令守者。十年一替。兆域内。不得葬埋及耕牧樵採。

「延喜式」は文字通り「式」であり、これは「令」の施行細則を意味するものですが、上の「持統」の「詔」は一見してわかるように「式」としての「詔」と理解できます。そうすると「詔」では「非陵戸」以降の部分が言及されていないこととなり、「浄御原令」の条文として復元されるものは「非陵戸」以降の部分を除いた部分ではないかと推察され、この部分の有無が「大宝令」と「浄御原令」の差になっていると思われることとなります。
 つまり「浄御原令」は「式」部分をその「令」の中に含んでいないとともに「大宝令」として復元されたものと文章が異なると言えるわけです。
 つまり「浄御原令」は「大宝令」とは異なり、「顕慶令」には準拠してないことが想定できます。そうなると当然「顕慶令」以前の「法令」に準拠しているとみられるわけですが、それは当然「貞観令」ではないこととなり(「釈奠」で考えれば「顕慶令」と同じであるため)、考えられるのは「永徽令」あるいは「武徳令」でしょう。(「隋」では学校を廃止したことから「釈奠」は行われなかったとみられ「隋令」を下敷きにしたとは考えにくいと言えます)

 また『続日本紀』では「大宝」と「建元」する時点で「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。つまり「浄御原令」の中の「冠位令」あるいは「公式令」には「位記」に関することが決められていたという可能性があります。
 また「位記」が存在していたとすれば当然その書式も定まっていたこととなるでしょう。つまり「公式令」に表されたものがほぼその当時の「位記」の書式を示しているとみられます。
 「養老令」の「公式令」の「奏授位記式条」によれば「六位以下」に冠位を授与する場合の書式は以下の通りです。

「太政官謹奏/本位姓名〈年若干其国其郡人〉今授其位/年月日/太政大臣位姓〈大納言加名。〉/式部卿位姓名」

 これによれば「日付」は後方に来ます。
 ところで「那須直韋提碑」にはその碑文に以下のように書かれています。

 「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜」

 この文章については、私見ではそれが「朝廷」からの「任命文書」に沿って書かれたものと理解しています。この任命を「栄誉」と考えたがゆえに「碑文」が書かれたとするならそこから直接引用して当然だからです。当然この文書の書式は任命元である「浄御原朝廷の制」(浄御原令)としての「位記」の書式に則ったものであったはずですから、その記述順序はその時点の『公式令』によったものとみるべきでしょう。
 この文章を見ると「日付」が先頭にありその後に任命する側である「浄御原朝廷」と「本位姓名」から「今授其位」と続きますが、上に見た「養老令」の順序とは明らかに異なります。これは以下に見る「評制」下の木簡とよく似ており、その意味でもこの時点の(「浄御原令」の)『公式令』の「書式」を表現しているとみるべきでしょう。それを示すようにこの「碑」を立てた日付は以下のように「干支」で表されています。あくまでも「私的」な行為の場合は「干支」が使用されているわけであり、冒頭の日付が「私的」なものではないことが窺えます。

「…歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云…」

 たとえば「評」木簡の中で日付を記したものは全て先頭に来ています。一例を挙げます。

「甲午(六九四年か)九月十二日知田評阿具比里五木部皮嶋養米六斗」 (031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区)

(奈文研木簡データベースよりピックアップしたもの)

 「評制」施行時期はあきらかに「浄御原令」施行下を含んでいますから、この木簡の書式が「浄御原令」の何らかの「定め」に拠っていたことは確かと思われます。つまり「公式令」において「大宝令」と「浄御原令」は異なる内容であったこととなるでしょう。それを示すようにその後の「郡」木簡には日付が後ろに書かれたものがみられるようになります。(以下一例)

「美濃国山県郡郷〈〉三斗十月廿二日〈〉 」( 033 平城宮7-12775(木研23 平城宮第一次大極殿院西面築地回)

この木簡の書式も何からの定めに拠ったと考えれば基本は先に見た『養老令』の『公式令』がその候補として上がるでしょう。
 同様のものとして「多胡碑」では「干支」が日付に使用されていますが、「公式令」にほぼ合致しています。この碑文も大部分が公式文書の丸写しと思われますので「公式令」に合致しているのは当然と言えます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

 また上に見た「那須直韋提碑」では日付を表す年次が「永昌元年」と「唐」の「武則天」時代の年号が使用されています。しかし『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」の「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「儀制令 公文条 凡公文応記年者。皆用年号。」

「凡公文応記年者。皆用年号。
釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 つまり「大宝令」では「公文」(公的文書を言うか)には「年号」を使用するようにとしているもののそれ以前にはそのような規定がないというわけです。
 この「碑文」は「公式文書」から引用したものと推定しているわけであり、そこには日付として「年号」が使用されており、しかも「唐」の年号が使用されているわけです。その意味でも「浄御原令」は異質と言えます。

 ところで「持統」の「大嘗祭」は「六九一年十一月」に行われたと『書紀』にありますが、洞田一典氏によれば、「持統」の「大嘗祭」は実際には「六九〇年十一月」に行なわれたものであったと「復元」されています。(※)つまり「大嘗祭」実施と共に「暦」の改定及び「周正」へ変更を行ない、「十一月」を「歳首」(年の初め、つまり「一月」)と変更したため、結果的に「大嘗祭」は「一月」に行なわれたこととなったと推測されています。そして、そのような原資料の状況を、「八世紀」の『書紀』編纂者が「不審」として「翌年の」「六九一年十一月」と「誤って」表記されたと考えられたのです。つまり「大嘗祭」は「仲冬中卯の日」に行なわれたはずという「観念的解釈」に縛られた結果、一年繰り延べた記事を作成したと考察されています。これは「生年」の次の年を名前にするという命名法に影響を与えたとみるとその考察が正当であるのが判明します。
 またこの時の「歳首」変更は、「唐」の「武則天」が行なったものに倣ったものという推測もされており、「持統」の「唐」への傾倒がかなり強かったことをうかがわせます。
 それまで「天武」在世中はそのような傾向は見いだせなかったものであり、「持統」の時代になって大きく変化した部分であると思われます。「唐」の年号の採用も同じ流れではないかと考えられるわけですが、いずれにしても基本は「年号」を公文書には使用しないというのは当時の原則であり常識であったものです。
 「古記」の説明によれば「年号」の代表例として「大宝」が上がっており、それ以前のものには言及がありません。それ以前にも「年号」はあったはずですが(例えば「大化」や「朱鳥」など)「古記」の念頭にはそれらの「年号」や「浄御原令」が存在していないこととなりますが、それは「他王朝」のことであったからではないでしょうか。自分たちの王朝の前身ではないというわけであり、そのため例として上がっていないということではないかと思われます。
 また「弘仁格式」にその名が見えないということも言われています。確かに「弘仁格式」の「序」を見ると「国法」の変遷を見ると「十七条憲法」に始まり、「近江令」の次に『大宝律令』「養老律令」となっています。

「弘仁格式序」
「…乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇條、国家制法自■始焉。降至天智天皇元年、制令廿二巻。世人所謂近江朝廷之令也。爰逮文武天皇大寶元年、贈太政大臣藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻、令十一巻。養老二年、復同臣不比等奉勅更撰律令各為十巻。今行於世律令是也。…」
 
 これで見る限り「浄御原令」は平安の時代においてすでに学者達からは全く無視されているようであり、あたかも存在していなかったかの扱いです。これも「他王朝」の「律令」という感覚が彼等の時代までに形成されていたことが窺えます。

 また「治天下」と「御宇」の使用の差にも「浄御原令」と「大宝令」の差が現れているように思われます。
 「持統」の時代に「新羅」から来た「弔使」に対する「勅」の中に「治天下」が現れます。

(六八九年)…
五月癸丑朔甲戌。命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級飡金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔『難波宮治天下天皇』崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳飡金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於『近江宮治天下天皇』崩時。遣一吉飡金薩儒等奉弔。而今以級飡奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。…。

 この「詔」の中では「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されています。
 「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この『持統紀』を除けば)最後は『孝徳紀』です。ただし、『孝徳紀』の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
 それに対し同様の意義として「御宇」も見られます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)『孝徳紀』です。(ただし「詔」の中に現れるものです) 
 この『孝徳紀』の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。例えば『古事記』は「推古」の時代までしかありませんが全て「治天下」で統一されています。
 中国の史書の出現例も同様の傾向を示し「治天下」は古典的用法であるのに対して「御宇」は「隋」以降一般化した用法であると考えられます。
 『大宝令』以降に「御宇」の例が見られることと、この「持統」の詔において「治天下」が使用されているということは「浄御原律令」時点では「御宇」という使用法がまだ発生していないことを示すものであり、「大宝令」と「浄御原令」の差がここにも現れているといえます。
 ただし「文武」の即位詔に以下の文章があります。

「…仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利…」

 ここに現われる「田租」「雑徭」「庸」「大税」という用語は「養老令」と共通であり、この「詔」時点ではまだ「大宝令」が施行されていない状況であることを踏まえると、これらの用語が「浄御原令」下のものであるのは確実であり、後の「大宝令」などと同様の条文があったことを推察させます。つまり「租庸調」という税制度や「稲」を貸し付ける「出挙」に近い制度があったことが窺えるものですが、これらは「唐代」以前からすでにあったと思われ、それが古典的と思われる「浄御原令」にあったとして不思議ではありません。当然「大宝令」にもあるものであり、それが直接の継受関係を表すことにつながらないのは当然です。
 これらのことから「浄御原令」は「大宝令」と異なり、「顕慶令」や「貞観令」に準拠していないことが推察されるわけです。しかし「永徽令」はその時点で新しくかなり整った形式を持っていたと考えられるため古典的と思われる「浄御原令」の準拠法令としてはふさわしくないように思われ、そうするとさらに時代的に遡上した「武徳令」がその準拠法令として考えられることとなるでしょう。この「武徳令」はそれ以前の「開皇令(律令)」を範としたとされていますから、かなり古典的である可能性があるでしょう。
 既に『日本書紀』の「日本」と『日本書紀』編纂段階の「日本」とは別の国であると指摘しました。後者は「日本」と書いて「やまと」と読むものであり、前者は「日本」と書いて少なくとも「やまと」とは読まず、推測によれば「ちくし」と呼んだかあるいは「ひのもと」と呼んだかです。当然そこで造られた「律令」は「継受関係」にはないということになります。
 「難波日本国」の律令は「難波日本国」の設立時点以降の産物であり、その内容構成が相当程度新しいものであったであろうと考えられるのに対して、「筑紫日本国」の律令は遙かそれ以前から作られていたと推察されます。
 「筑紫日本国」は「倭国王朝」であり、東方統治のため難波に進出する以前から「律令」が造られ運用されていたと考えられますから必然的にその律令は古典的であるはずであり、その構成はかなりシンプルなものであったと思われます。これらを念頭において考えてみると「天智」の「近江令」はその内容が新しいと思われるのに対して「浄御原令」は「持統」の王朝が「筑紫日本国」であったと思われることを含んで考えるとかなり「古い」内容構成ではなかったかと思われることになります。
 そもそも「倭国」は「宗主国」であり、「近畿王権」を根底に持つ「難波日本国」は「旧小国」(『旧唐書』の表現」)であって「附庸国」であったものであり(『隋書俀国伝』の表現によれば「竹斯国以東は俀に附庸している」とされ、当然「近畿」も「竹斯国」の「東」に存在しているわけですから「附庸国」であることとなります)、その「附庸国」よりも後に「宗主国」に律令が作られたとはとても考えられないこととなります。上に見た数々の徴証はまさにそのことを明証するものであり、天智という「難波日本国」の王が作成公布したという「近江令」は「大宝律令」に直結する性格があるのに対して「浄御原令」はそれらとは関係なく存在していたとみられることとなります。これらはそもそも「別の王朝」の律令なのです。
 「天智」が「筑紫」の空白を利用して列島全体を統治する際に「近江令」を公布したものですが、その後「薩夜麻」が帰国し再度「筑紫日本国」が列島全体を支配するに及んで「近江令」は中断あるいは撤廃されたとみられ、その代わり「筑紫日本国」が以前施行していた「律令」を再度施行したものと思われそれが「浄御原令(律令)」であったとみれば実態と整合的です。さらにその後の「元明」時点において「近江令」的なものを復活させたとみればそれが「大宝令」であったとみるのが相当ではないでしょうか。「元明」は「天智」の実の娘ですからその父が一度は作成公布した「近江令」を復活させたと見れば理解できるものです。

※.洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う -『持統周正仮説』による検証」「『新・古代学』古田武彦とともに」 第五集 二〇〇一年 新泉社
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近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

2025年03月10日 | 古代史
 以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使『大華下』高玄理。大使『小錦下』河邊臣麻呂。副使『大山下』藥師惠日。判官『大乙上』書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官『小山下』書直麻呂。『小乙上』崗君宜。置始連大伯。『小乙下』中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。…」

ここに出てくる冠位の内「大錦上」「小錦下」は『書紀』では「六六四年」に制定されたという「冠位」の中に初めて現れます。

「(六六四年)三年春二月己卯朔丁亥。天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。『大錦上』。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。『小錦下』。大山上。大山中。『大山下』。小山上。小山中。小山下。『大乙上』。大乙中。大乙下。『小乙上』。小乙中。『小乙下』。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。…」

 これに対し「大華下」はそれ以前の「大化五年」(六四九年)の冠位制に現れるものです。

「(六四九年)大化五年…二月。制冠十九階。一曰。大織。二曰。小織。三曰。大繍。四曰。小繍。五曰。大紫。六曰。小紫。七曰。大華上。八曰。『大華下』。九曰。小華上。十曰。小華下。十一曰。大山上。十二曰。『大山下』。十三曰。小山上。十四曰。『小山下』。十五曰。『大乙上』。十六曰。大乙下。十七曰。『小乙上』。十八曰。『小乙下』。十九曰。立身。」

 これで見るようにそれ以外の「大山下」以下は両方に現れるため、いずれの冠位かは不明と言えます。本来は年次から言うと「大華下」が正式の冠位と言えそうですが、なぜ後年になって制定された冠位がここに書かれているのが問題となっているわけです。つまりこの冠位の方が正しいとすると遣唐使として派遣された年次が『書紀』に書かれたものとは実際には異なっていたのではないかという疑念につながるものであり、それは即座に「日本国」としての初めての遣唐使の派遣年次につながり、『三国史記』や『新唐書』に書かれた「六七〇年」という年次が「日本国」としての初めての「遣唐使」ではなかったのかという一部の意見の根拠となっているようです。
 これは確かに一見すると「矛盾」であり、無視できない性質のものです。これについての私見は「近畿王権」には独自の「冠位制」があったというものです。つまり元々「近畿王権」は「倭国王権」の直轄統治領域の外であり、「諸国」(附庸国)として存在していたと思われます。このような場合「本国」つまり「直轄統治領域」の内部の「制度」等をそのまま「諸国」で採用しなければならないという制約はなかったものであり、「職掌」や「冠位」などについては基本的にその「諸国」の中である程度自由に決めて良いというものではなかったでしょうか。「封建制」というものはそもそもそういう特徴を持っていたと思われ、「直接」統治するという際の事情とは大きく異なっていたものと思われます。
 「直接統治」する場合は国中が同じ制度の中で行政が執行されるものであり、そのような場合と「封建制」における緩やかな統治とは大きく異なるものであったとみるべきです。すると「諸国」であった時点の「近畿王権」にも独自の制度があり、また独自の冠位制があったとみるのが自然です。それが「倭国」の東方政策により難波に拠点を設け東国を含めた直接統治をしようとした際にそれまで「附庸国」であった「近畿王権」が「直接統治領域」に入ったことから、彼らに対し「倭国王権」の内部つまり以前の直接統治領域で行われていた「官位制」を適用したために改めて冠位が与えられたとみられ、それが「大華下」という「冠位」であったと思われるわけです。
 この「冠位」は「大錦上」に比べ一段階低い冠位となっており(「大錦上」が七番目なのに対し「大華下」は八番目)、「新たに「版図」つまり直接統治領域に入った勢力に対し彼らの内部で行われていた冠位よりも意図的に低い冠位を与えたことが推定できます。これは「近畿王権」の冠位が最高位のものが「倭国」では二番目であったことの反映と思われます。つまり近畿王権№1は倭国王権№2というわけです。当然ともいえるものですが、「倭国」(筑紫王権)の近畿王権に対する一種の差別的政策でもあったことを示すとも言えるかもしれません。(このあたりもこの時の倭国王の政策に対して反感を買う一因であったかもしれません)つまりこの段階で「旧近畿王権」の関係者は二種類の冠位を持っていたという可能性が考えられるわけです。
 つまりこの「大錦上」という「冠位」がここに書かれているのはこの段階ですでに彼らが保有していたものだからだと思われます。これを示すのが「六五九年」に派遣された伊吉博徳」達の遣唐使達であり、彼らは「小錦下」「大山下」という冠位を持っていたことが『伊吉博徳書』に書かれています。

(六五九年)五年…秋七月朔丙子朔戊寅。遣『小錦下』坂合部連石布。『大仙下』津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。『小錦下』坂合部石布連。『大山下』津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。…」

 彼らはこの時唐皇帝から「日本国天皇」について消息を聞かれており、そのことから彼らは「日本国」つまり「難波日本国」の関係者と推定しました。つまり「博徳」達旧近畿王権関係者はすでにこの「六六四年」以前から「大錦上」のような冠位を授与されていたと思われるわけです。その後「天智」つまり「難波日本国」が「倭国」つまり「筑紫日本国」のいわば「滅亡」により政治的・軍事的空白となった「筑紫」地域(つまり「倭国」)を含む列島を統一したことから改めて本来の自己の制度である「大錦上」を含む制度を列島全体に(というより「旧倭国」領域に対し)敷衍したのが「六六四年」であったと思われます。

 「大華上」等が「倭国」つまり「筑紫日本国」の制度であると思われるのは「百済を救う役」で派遣される軍の第一陣が「大華上」等の冠位を持っていることから言えると思われます。

(六六一年)七年…八月。遣前將軍『大華下』阿曇比邏夫連。『小華下』河邊百枝臣等。後將軍『大華下』阿倍引田比邏夫臣。『大山上』物部連熊。『大山上』守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使『大山下』狹井連檳榔。『小山下』秦造田來津守護百濟。

 このうち「阿倍引田比邏夫」は『公卿補任』によれば「斉明朝で筑紫大宰」であったとされており、まだ「倭国」つまり「筑紫日本国」が健在時点で「大宰」とされていますから、明らかに「倭国」側の人間であり、その彼が「大華下」とされていることからもこの「大華下」という冠位が「倭国」の制度であったことが知られます。

慶雲二年条 中納言 従四位上  阿倍朝臣宿奈麿 四月廿日任。不経三木。/後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子。」(『公卿補任』より)

 ただしここでは「大錦上」という冠位であったと記されていますが、彼はこの「百済を救う役」で戦死したと考えられていますから、このような死後追贈の場合は最終冠位より高くするのが通例ですから、「大華下」より一段高い「大錦上」として「難波日本国」の制度を適用したものと推測します。
 他にも『公卿補任』からは「難波朝」において「大華上」という冠位が行われていたことが覗えます。

大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿   三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部『大華上』物部宇麿之子。

大宝二年条 参議 従四位上 高向朝臣麿   同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿『大花上』国忍之子。

 ここで言う「難波朝」が「倭国」の東方進出に伴うものであり、近畿を含め東国を直接統治しようとした「朝廷」を指すものであるのは明白で、その「難波朝」において「大華上(大花上)」という冠位制が施行されていたのは、それが「倭国」の制度であったことを示すものです。

 ちなみに先の記事で「大華下」という冠位を持っていた「安曇比羅夫」が次の記事では「大錦中」と言う冠位に変わっているのが注目されます。

(再掲)
(六六一年)七年…八月。遣前將軍「大華下」阿曇比邏夫連。「小華下」河邊百枝臣等。後將軍「大華下」阿倍引田比邏夫臣。「大山上」物部連熊。「大山上」守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使「大山下」狹井連檳榔。「小山下」秦造田來津守護百濟。

(六六二年)元年…夏五月。大將軍「大錦中」阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 すでにこの時点で「倭国王」たる「薩夜麻」が捕囚の身となっており、彼に指示を下せる立場の人間が「倭国」内にはいない中で誰の指示により出撃するのかと言えばそれは「筑紫」に出張ってきていた「難波日本国」の「天智」以外なく、また「天智」にしても自らの支配下にないものに命令を下すことはできないわけですから、「阿曇比邏夫連」も「天智」の指揮下に入ることを選んだものと思われ、「天智」により冠位を授与して出撃させたとみれば矛盾はないと言えます。
 ちなみに「大華下」と「大錦中」は同じく上から八番目であり、冠位の高低がありませんが、これは一つに「天智」が自らとその王権をすでに実体がなくなった倭国と同等の地位に立ったという意識からのものと思われます。また、とりあえず冠位を付与したという体の緊急的措置としても首肯できるものです。

 このように「近畿王権」には「倭国」の直接統治領域に入る前から「冠位制」が独自に敷かれていたと考えられるわけですが、そのことは即座に「官位令」的なものの存在を措定させます。つまり「官位令」に基づき「冠位制」が敷かれていたのではないかと考えられるわけであり、そのような「令」の集大成としての「近畿王権の制」というものがあってしかるべきではないかと思われるわけです。ちなみに「倭国」側にも全く同じことがいえ、「倭国律令」とでも言うべきものがこの時点であったとして何も不思議ではないといえるでしょう。
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「諱字」と『書紀』編纂(改)

2025年03月02日 | 古代史
以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。

 唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。

『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍郎各一人。都官尚書統都官侍郎二人,刑部、比部侍郎各一人,司門侍郎二人。度支尚書統度支、戸部侍郎各二人,[一]戸部侍郎「 戸部 」當作「民部」,唐人諱改。下同。…』(「隋書/志第二十三/百官下/隋」より)

「…大業元年,遷大理卿,復為西南道大使,巡省風俗。擢拜戸部尚書。[一] 戸部 據本書煬帝紀上當作「民部」,唐人諱改。…」(「隋書/列傳第十六/長孫覽 從子熾 熾弟晟」より)
 
 その後「戸部」は「度支」「司元(太常伯) 」「地官」と変遷しましたが、結局「戸部」に戻りました。(七〇五年)
 しかし、我が国では「民部」は「戸部」等に変えられることなくそのまま使用され続けました。「民部省」や「民部卿」「民部」という呼称が『書紀』にも『続日本紀』にも出てきます。(『持統紀』『天武紀』『天智紀』等)また「養老律令」においても同様に「民部省」等の用例が多数確認できます。
 また、「唐」では「世」の字も「代」に変えられたものです。
 以下の例では「世」がそのまま「世」と表記されていて、それは「諱」を避けて「代」と表記する例と違うというわけであり、それは「唐」以降変えられたものと解釈しているわけです。

「閏月辛巳,皇太后竇氏崩。丙申,葬章德皇后。 燒當羌寇隴西,殺長吏,遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世等討破之。越騎校尉趙世等討破之 按:集解引錢大昕說,謂趙憙傳、西羌傳「趙世」並作「趙代」,蓋章懷避唐諱改之,此作「世」,又唐以後人回改。 」(「後漢書/本紀 凡十卷/卷四 孝和孝殤帝紀第四/和帝 劉肈 紀/永元九年 [底本:宋紹興本])

 この「代」と表記するものが「李賢」による注が施された『後漢書』であり、これが『書紀』には引用されていないという訳です。(これが引用されるようになるのは「平安時代」であり、その時点までには『李賢注後漢書』が伝来し利用されるようになったと見られます)
 そもそも『書紀』には「世」字は頻発しており、枚挙に暇がないほどです。「観世音経」「観世音菩薩」という呼称などの他多数の「世」の例が確認できます。ここでも「世」の字が避けられていないことがわかります。つまりこれらのことは『書紀』の編纂において「李賢」が注を施した『後漢書』を見て書いたというわけではないことを示すものであると同時に『書紀』全体を通じて「唐代」の「諱字」は全く避けられていないと云うことを示します。(ただし、「武則天」時代には「李王朝」から「武王朝」に代わったことを受けて「世」も「民」も諱字とはしなかった事実があります。そのことが反映しているという可能性はあるかもしれません。(ただし上に見たように「民部」が元の「民部」に戻ったというわけでもないわけです)
 このようなケースがどのような理由によるか想定すると、「参照」されていたのは「李賢」が「注」を施す以前の『後漢書』か、あるいは『後漢書』によく似た文章を持つ別の「書」(『東観漢紀』など)であったと考えるわけですが、それがどちらであってもそれが「倭国」に伝来したのはかなり早い時期を想定しなければなりません。
 たとえば「范曄」が表した『後漢書』についていえば『隋書経籍志』に既に『後漢書』が含まれており、(当然「李賢」の注が施されたものではない)『書紀』編纂時点で『隋書』を参照していたのは確かですから、その時点で『後漢書』も参照していたと考えても不思議はないわけです。『隋書』伝来時点(これがいつかは不明ですが、『書紀』編纂時点よりは以前であることは間違いありません)で『後漢書』だけは伝来しなかったとも考えにくいものであることは確かです。
 また『東観漢紀』という史書は「范曄」が『後漢書』を書く段階で参考にしたと見られる書ですから、その『後漢書』が伝来していたなら当然『東観漢紀』も伝来していたと思われることとなります。そしてそれは「李賢」が注を施す「高宗」の代以前のこととならざるを得ません。『日本国見在書目録』にも「范曄」の『後漢書』が記されていますから、かなり早い段階で入手していたのは間違いないでしょう。
 これについては「類書」の使用が有力視されており、『後漢書』や『東観漢紀』などから集められた文章で構成された『華林遍略』という類書からの引用が考えられていますが(これも『隋書経籍志』にも『日本国見在書目録』にも記されている書物です)、これであっても「南朝」(梁)の時代のものであり、その伝来がかなり早かったと想定しなければならないのは同様です。
 「李賢」が注を施した『後漢書』が注目されたのは「開元年間」のこととされていますが、当然「李賢」在命時には重要視されていたものであり(「則天武后」以降無視ないし否定されていたものです)、それが「倭国」に伝来していたとして不思議はないわけですが、実際にはそれは『書紀』の編纂には使用されなかったわけです。
 これは『書紀』編纂に何が使用されたかという問題と共に当時の倭国王権の意識がどこにあるかが問われるべきものと思われます。

 「諱字」が避けられていない史料によって『書紀』を書いたということと、『書紀』編者がそもそも「諱字」を意識していなかったと見られることは軌を一にする出来事と考えられます。依拠した「史書」に「諱字」があった場合、「諱字」の存在を知っていたなら書き換えて当然のはずが、そうしていないのは「諱字」を知らなかったか、あるいは「無視」ないしは情報が「視野に入っていなかった」かではないでしょうか。しかし、知らなかったというのは本来は考えにくいわけです。それは『書紀』の編纂に「唐人」が関わっていたと云う説があるからです。(森博達氏の議論)
 彼らは「百済を救う役」の際に「捕虜」となった「唐人」であるとされますが、それは「六六〇年代」のことであり、「顕慶二年」(六五七年)にはすでに「世」と「民」を諱字とするという高宗の「詔」が出ているわけですから、彼らがそれを知らなかったとは考えられないでしょう。それは彼らが「朝廷内」にその居場所を見つけたことにも通じています。そのことは彼らが一介の兵士ではなく「唐」本国から派遣されていた官僚であった可能性が高いことを示すものですが、もし彼らがそのような身分であったならら当然「諱字」について承知していたはずですから、彼等が編纂に携わったなら避けるべき「諱字」が実際には使用されている理由が不明となります。
 これについて整合的説明をしようとすると、「李世民」の「諱字」が避けられていないのは、「高宗」が「通達」を出す以前の史料によって『書紀』が編纂されているからと考えられることとなるでしょう。
 ところで『書紀』が参照したと思われる『隋書』の『俀国伝』が含まれている「列伝」の成立は「唐代」の「六三六年」ですから、当然『書紀』の編集はこの時点付近以降で行われたこととなります。
 上に見た「六五七年」の「「世」と「民」を諱字とする」という通達以前であるという推定と重ねて考えると、「六四〇年付近」がもっとも『隋書』のもたらされた時代として措定可能でしょう。私見ではこの時「高表仁」が派遣されたと見ていますが、この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)

 この時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明であるわけですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書紀(史生)など(状況によっては「軍関係者」も)総勢十数名はいたはずです。「隋代」の「裴世清」の来倭の際にも十数名が来たとされます。(以下の記事)

「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)

 しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。その時全員が「高表仁」と一緒に帰国したのでしょうか。
 「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。
 通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
 「高表仁」が「表(国書)」を提出せず帰国したということは、このときの判官はそのことを阻止できず、是正できなかったこととなるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。
 そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国する事を選択せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたということも考えられるでしょう。
 「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。そう考えれば、この時残留した唐人が律令策定に参画したと見れば「諱字」を避けていないのも当然となるでしょう。そしてそれが「續守言」「薩弘恪」の両名ではなかったかと考えられるわけです。
 彼らは後に律令策定に参画しているところを見ても、それほど下級の出身であったとは思われず、その彼らが参加したとされる「白村江の戦い」はその「高宗」の「詔」から数年を経ているわけですから、彼等のような唐人がそれを知らなかったはずがないと思われます。にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる『書紀』で「世・民」という「諱」が避けられていないこととなります。上に見たように可能性としては「世・民」の諱を避けていないのはその様な通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられ、その場合、彼ら唐人は「高宗」の「詔」以前から倭国にいたということとなりますから彼らは「戦争捕虜」ではなかったとは考えるべきこととなります。そうであれば戦後も帰国せず政権中枢にいる理由も納得できるでしょう。
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