以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」派遣され、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国にとして認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。(「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定)
その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令」として制定していたものが「薩夜麻帰国」からの「王権」の移動等により途絶していたものの復活としたものではなかったかと考えたわけですが、そうであれば「評」から「郡」への切り替えというものが「制度」の切り替えであり、その「制度」が「近畿王権」の元で行われていたものの復活ではないのかという推論へとつながります。
従来から言われていて、私も同様に考えていましたが、「評制」と「郡制」は「評」と「郡」の名称の違いだけではなく「制度自体」の違いであるのは明白です。しかしではなぜ「郡制」になったのか、なぜ「近畿王権」主体の「新日本国」では「郡制」なのかという問いにつながっていませんでした。つまり「新日本国」は全くの新しい王権ではなく以前からあったものの再構成であり、復活であったとみれば、「大宝令」「冠位制」「郡制」等の制度は以前の「近畿王権」つまり「難波日本国」の段階ですでに備わっていたものではなかったかという見地にはその時点では到達していなかったものです。
すでに冠位制で述べたように「大華下」等の冠位制は「筑紫日本国」の制度であり、東国直接統治をもくろんだ段階でその統治範囲に入った近畿王権に対して適用された制度とみたわけですが、行政制度についても同様ではなかったでしょうか。すでに「近畿王権」による「郡制」が彼等の統治範囲に対して施行されていたものであり、そのような中で「倭国」の直接統治範囲に入ったことで「倭国」の行政制度である「評制」が施行されたものであり、さらにその下部の組織として「五十戸制」が施行されたものと思われるわけです。これらの「制度」のうち「評制」は部分的には(点的対象として)すでに施行されていたものであり、淵源は「半島」にあると思われます。ただしその下部組織としての「五十戸制」は「遣隋使」以降「隋」からの情報を元に制定されたものであり、これらが本来の「倭国領域」つまり九州島とその外部の近隣領域に対して施行されていたものであり、これを近畿王権の領域に対して適用したものと推定するわけです。
ただし、これらは「百済を救う役」と「白村江の戦い」等により「倭国」つまり「筑紫日本国」が「政治的」「軍事的」な空白となって以降「難波日本国」が列島全体の統治を開始した時点では「近畿王権」の制度には切り替わらず、そのままそれらは継続されていたものです。推定によると「庚午年籍」も「郡制」ではなく「評制」の制度の元のものであったと思われます。それはすでに全国的な制度となっていた「評制」についてそれを切り替えるのに要する手続き等等が膨大であり、よほど準備を入念に行う必要があったものであり、そのような事情から先延ばしされていたと思われますが、それの準備段階で「薩夜麻帰国」という一種想定外の事案が発生しその後旧王権に列島支配の実態が移ったため、それらが行われないまま八世紀に至ったものと推測します。このあたりの事情に通っているのが『古事記』の前文」です。そこには以下の言葉があります。
於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 連柯并穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 德冠天乙矣
於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採 然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上
ここで太安万侶が書いたように「小治田宮」までしか記憶あるいは記録されたものがなくそれ以降の「近畿王権」の王についての記録がないということとなります。上の「序」が「天智」が王権を奪取する経緯について述べていると考えれば必要であったものは彼以前の資料であったものであり、それ以降は書かれる必要がなかったということとなります。そしてその編纂事業が中断していたというわけであり、それをここに再開したいということを述べているわけです。
古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。それを「書」として編纂するには彼の記憶を文章に落とし込む必要があります。それは彼の記憶力の問題もあると思われますが、一通りにできるものではなく時間がかかる事業であったと思われるわけですが、それが中断していたというわけです。
時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」(つまり「難波日本国」)が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。
「然運移世異 未行其事矣」
ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。
以上のように『古事記』の編纂の途絶と再開という流れはそのまま「郡」やそれを含む制度全体の再開と復活につながるものであり、それらは軌を一にして「新日本王権」の「天智王権」の復活として再現されたものと思われるわけです。
その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令」として制定していたものが「薩夜麻帰国」からの「王権」の移動等により途絶していたものの復活としたものではなかったかと考えたわけですが、そうであれば「評」から「郡」への切り替えというものが「制度」の切り替えであり、その「制度」が「近畿王権」の元で行われていたものの復活ではないのかという推論へとつながります。
従来から言われていて、私も同様に考えていましたが、「評制」と「郡制」は「評」と「郡」の名称の違いだけではなく「制度自体」の違いであるのは明白です。しかしではなぜ「郡制」になったのか、なぜ「近畿王権」主体の「新日本国」では「郡制」なのかという問いにつながっていませんでした。つまり「新日本国」は全くの新しい王権ではなく以前からあったものの再構成であり、復活であったとみれば、「大宝令」「冠位制」「郡制」等の制度は以前の「近畿王権」つまり「難波日本国」の段階ですでに備わっていたものではなかったかという見地にはその時点では到達していなかったものです。
すでに冠位制で述べたように「大華下」等の冠位制は「筑紫日本国」の制度であり、東国直接統治をもくろんだ段階でその統治範囲に入った近畿王権に対して適用された制度とみたわけですが、行政制度についても同様ではなかったでしょうか。すでに「近畿王権」による「郡制」が彼等の統治範囲に対して施行されていたものであり、そのような中で「倭国」の直接統治範囲に入ったことで「倭国」の行政制度である「評制」が施行されたものであり、さらにその下部の組織として「五十戸制」が施行されたものと思われるわけです。これらの「制度」のうち「評制」は部分的には(点的対象として)すでに施行されていたものであり、淵源は「半島」にあると思われます。ただしその下部組織としての「五十戸制」は「遣隋使」以降「隋」からの情報を元に制定されたものであり、これらが本来の「倭国領域」つまり九州島とその外部の近隣領域に対して施行されていたものであり、これを近畿王権の領域に対して適用したものと推定するわけです。
ただし、これらは「百済を救う役」と「白村江の戦い」等により「倭国」つまり「筑紫日本国」が「政治的」「軍事的」な空白となって以降「難波日本国」が列島全体の統治を開始した時点では「近畿王権」の制度には切り替わらず、そのままそれらは継続されていたものです。推定によると「庚午年籍」も「郡制」ではなく「評制」の制度の元のものであったと思われます。それはすでに全国的な制度となっていた「評制」についてそれを切り替えるのに要する手続き等等が膨大であり、よほど準備を入念に行う必要があったものであり、そのような事情から先延ばしされていたと思われますが、それの準備段階で「薩夜麻帰国」という一種想定外の事案が発生しその後旧王権に列島支配の実態が移ったため、それらが行われないまま八世紀に至ったものと推測します。このあたりの事情に通っているのが『古事記』の前文」です。そこには以下の言葉があります。
於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 連柯并穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 德冠天乙矣
於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採 然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上
ここで太安万侶が書いたように「小治田宮」までしか記憶あるいは記録されたものがなくそれ以降の「近畿王権」の王についての記録がないということとなります。上の「序」が「天智」が王権を奪取する経緯について述べていると考えれば必要であったものは彼以前の資料であったものであり、それ以降は書かれる必要がなかったということとなります。そしてその編纂事業が中断していたというわけであり、それをここに再開したいということを述べているわけです。
古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。それを「書」として編纂するには彼の記憶を文章に落とし込む必要があります。それは彼の記憶力の問題もあると思われますが、一通りにできるものではなく時間がかかる事業であったと思われるわけですが、それが中断していたというわけです。
時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」(つまり「難波日本国」)が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。
「然運移世異 未行其事矣」
ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。
以上のように『古事記』の編纂の途絶と再開という流れはそのまま「郡」やそれを含む制度全体の再開と復活につながるものであり、それらは軌を一にして「新日本王権」の「天智王権」の復活として再現されたものと思われるわけです。