「磐井」に関する『風土記』の記事では「豪風暴虐」という語が使用されており、この意味については「継体天皇」から派遣された「近江毛野」に対して従わなかったことを示すというのが通説ですが、それには異議があります。
「…古老傳云當雄大迹天皇之世筑紫君磐井豪強暴虐生平之時預造此墓…」(『釋日本紀』卷十三に引用された逸文)
この文章のつながりから考えて彼がなぜ「不偃皇風」とされるのかは、その次に書かれた「生平之時預造此墓」つまり、生前に墓を造ったことと関係があるように感じられます。 この記事は、亡くなる前に墓を造るということが限られた層の人々にだけ許されていた可能性が高いことを示すものですが、確かに中国では本来「寿陵」と称され、「皇帝」にだけ許されたものであったわけです。また少なくともその配下の高位の官にだけ許されたものと思われます。そのようなことが一地方官である「国造」という立場の「磐井」が行ったとするわけであり、それを強く非難した形の記事なのですが、逆に言うとそのことは「磐井」の地位の高さを示すものといえるでしょう。
彼は記事では「国造」とされています。確かに「筑紫」など「九州」の各国は当時から後の「令制国」程度の広さがあったと見られ、その意味で他の地域の「国造」に比べて冠位は高かったと推量しますが、いずれにせよ「下級官吏」であり、後代の冠位でも「五位」程度であって、「宮殿内」にやっと昇殿できる程度であったと思われますから、「生平之時預造此墓」というようなことが可能であったはずがありません。
しかも、このようなものを造るのには費用も時間もかかるのに、それを途中で停止させられなかったこととなりますから、実際には彼という存在が「至高」であったことを示すものとみられるわけです。そしてそれは「裁判」の場を示す「並べもの」からも伺い知れるものです。
『風土記』の記事では「…石人石盾各六十枚交陣成行…」とされていますが、この石人達は「磐井」の墓に付随しているわけですから、彼を近衛兵の様な立場で護衛する部隊を模したものであり、その編成単位が六十人であったことを示すものと思われる訳です。
この人数が彼の統治領域から選抜したものであったとした場合、彼以前の統治者である「武」の統治領域がどうであったか、彼以後の「阿毎多利思北孤」がどうであったかを知る必要があるでしょう。
「武」の場合「南朝」の皇帝に提出した上表文に「…東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國…」とあります。しかし「半島」の「前方後円墳」の消長から考えて、「武」以降「半島」からはほぼ撤退したであろうことが推察されますから、国内で支配している国数としては「東の五十五国+西の六十六国」、つまり「百二十一国」となります。
また「阿毎多利思北孤」の場合は『隋書俀国伝』に「…有軍尼一百二十人…」という記事があることが参考になります。この「軍尼」が管掌している領域はその構成戸数等から考えて明らかに「評」あるいは「国」の領域と同等であり、「百二十国」が彼の統治下にあったと見ることができます。
結局「武」の領域も「阿毎多利思北孤」の領域もほぼ変わらないと見られるわけであり、その意味でその中間に位置する「磐井」の領域もやはり「百二十国」程度ではなかったかと見られるわけですが、そう考えたとき「親衛隊」とでも言うべき部隊の構成人数が「六十人」であるらしいことは理解しやすいものといえます。
結局この「磐井」の墓に造られていた「六十枚の石人と石盾」は、彼の統治領域である「百二十国」ほどの領域から集めた精鋭部隊を示すものであり、彼らを「親衛隊」的立場として配置していたことを示すものと見られます。
この点については以前『隋書俀国伝』で後宮に「多数の女性がいる」とされることを含め考察した内容が参考となります。
「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」
これら彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われることを示しました。つまり『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよそ「半数」が、「釆女」として彼らの子女姉妹から一人ずつ選出していたように思われるとみたわけですが、同時に「残りの半分」からは「男子」つまり「舎人」あるいは「兵衞」が出されていたものではなかったか推察したわけです。そしてこれら選出された「兵衛」の中から更に「優秀」と思われる人物について(十人に一人という割合か)「王」の側近として護衛の役を果たしたと見れば(これが「武」の上表文で「義士虎賁」とされたものか)、彼らが「六十人」の部隊として「墓」に造形されることとなったものとみられるわけであり、そのような「護衛役」の部隊を所有していたこと自体が「磐井」の統治の実態を示すものといえるでしょう。
『書紀』に書かれた「継体」が「物部麁鹿火」に授けたという「…長門以東朕制之。筑紫以西汝制之…」という言葉の裏にも「長門以東」に「磐井」の支配地域があったことを含んでいるのは明らかです。 以前『続日本紀』に書かれた「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻」という記事と、『隋書たい国伝』に示された当時の倭国の総戸数として(計算上)「九万六千戸」あるという考察から、当時の「倭国」の支配領域として「四国」半分と中国地方の1/3程度あるいはもっと少ない領域となる可能性が高いと推定しました。 「庚午年籍」は「一巻一里」で構成されていますから「筑紫諸国七百七十巻」という巻数は「里(五十戸)」の数を表すとみたわけですが、この「庚午年籍」は「評制」下の戸籍であったものであり、「評」の戸数として七五〇戸程度で構成されていたとみるべきですが、「七百七十」という巻数が示す「筑紫諸国」の「評」の数は約「51」となります(770×50÷750≒51)。この「評」は以前「国」であったと見られますが、「評」がそのまま「郡」へと横滑りした場合、「郡」の数もほぼ同数となると見られ、実際に『和名抄』で確認すると「筑紫・豊・肥(肥前)」の部分で「52」となり、ほぼ整合します。実際にはこの「評」の数は「武」の上表文に現れる「西服衆夷六十六国」という国数より少なく、「筑紫・豊・肥」全体でちょうど「66」になり、同数となります。つまり「武」の時点では「西」とされる「筑紫」を中心とした地域(直接統治領域)は後の「筑紫諸国」と呼ばれた領域より広く、実体としてこの時点では「肥後」が含まれていたことが強く推定できます。もっともこれは当時の「倭国」の中心が「肥後」にあったとする立場からは当然ともいえます。
さらに「武」の上表文で「東征毛人五十五國」とされている領域は、『書紀』で「継体」の言葉として出てくる「長門以東」が該当すると思われ、同様に『和名抄』で確認すると「讃岐・伊豫・長門・周防・安芸・出雲」で郡数として「54」となります。この推測の示すところは以前の結論と大差なく、やはりこの「武」の時点においても「倭国」の領域(直接統治領域)は「九州」北半部及び「四国」と「中国地方」の1/3程度と見てほぼ間違いないことを示すものといえるでしょう。