古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「磐井」の墓と「国数」

2019年10月10日 | 古代史

 「磐井」に関する『風土記』の記事では「豪風暴虐」という語が使用されており、この意味については「継体天皇」から派遣された「近江毛野」に対して従わなかったことを示すというのが通説ですが、それには異議があります。

「…古老傳云當雄大迹天皇之世筑紫君磐井豪強暴虐生平之時預造此墓…」(『釋日本紀』卷十三に引用された逸文)

 この文章のつながりから考えて彼がなぜ「不偃皇風」とされるのかは、その次に書かれた「生平之時預造此墓」つまり、生前に墓を造ったことと関係があるように感じられます。 この記事は、亡くなる前に墓を造るということが限られた層の人々にだけ許されていた可能性が高いことを示すものですが、確かに中国では本来「寿陵」と称され、「皇帝」にだけ許されたものであったわけです。また少なくともその配下の高位の官にだけ許されたものと思われます。そのようなことが一地方官である「国造」という立場の「磐井」が行ったとするわけであり、それを強く非難した形の記事なのですが、逆に言うとそのことは「磐井」の地位の高さを示すものといえるでしょう。

 彼は記事では「国造」とされています。確かに「筑紫」など「九州」の各国は当時から後の「令制国」程度の広さがあったと見られ、その意味で他の地域の「国造」に比べて冠位は高かったと推量しますが、いずれにせよ「下級官吏」であり、後代の冠位でも「五位」程度であって、「宮殿内」にやっと昇殿できる程度であったと思われますから、「生平之時預造此墓」というようなことが可能であったはずがありません。
 しかも、このようなものを造るのには費用も時間もかかるのに、それを途中で停止させられなかったこととなりますから、実際には彼という存在が「至高」であったことを示すものとみられるわけです。そしてそれは「裁判」の場を示す「並べもの」からも伺い知れるものです。

 『風土記』の記事では「…石人石盾各六十枚交陣成行…」とされていますが、この石人達は「磐井」の墓に付随しているわけですから、彼を近衛兵の様な立場で護衛する部隊を模したものであり、その編成単位が六十人であったことを示すものと思われる訳です。
 この人数が彼の統治領域から選抜したものであったとした場合、彼以前の統治者である「武」の統治領域がどうであったか、彼以後の「阿毎多利思北孤」がどうであったかを知る必要があるでしょう。
 「武」の場合「南朝」の皇帝に提出した上表文に「…東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國…」とあります。しかし「半島」の「前方後円墳」の消長から考えて、「武」以降「半島」からはほぼ撤退したであろうことが推察されますから、国内で支配している国数としては「東の五十五国+西の六十六国」、つまり「百二十一国」となります。
 また「阿毎多利思北孤」の場合は『隋書俀国伝』に「…有軍尼一百二十人…」という記事があることが参考になります。この「軍尼」が管掌している領域はその構成戸数等から考えて明らかに「評」あるいは「国」の領域と同等であり、「百二十国」が彼の統治下にあったと見ることができます。
  結局「武」の領域も「阿毎多利思北孤」の領域もほぼ変わらないと見られるわけであり、その意味でその中間に位置する「磐井」の領域もやはり「百二十国」程度ではなかったかと見られるわけですが、そう考えたとき「親衛隊」とでも言うべき部隊の構成人数が「六十人」であるらしいことは理解しやすいものといえます。
 結局この「磐井」の墓に造られていた「六十枚の石人と石盾」は、彼の統治領域である「百二十国」ほどの領域から集めた精鋭部隊を示すものであり、彼らを「親衛隊」的立場として配置していたことを示すものと見られます。
 この点については以前『隋書俀国伝』で後宮に「多数の女性がいる」とされることを含め考察した内容が参考となります。

 「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」

  これら彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われることを示しました。つまり『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよそ「半数」が、「釆女」として彼らの子女姉妹から一人ずつ選出していたように思われるとみたわけですが、同時に「残りの半分」からは「男子」つまり「舎人」あるいは「兵衞」が出されていたものではなかったか推察したわけです。そしてこれら選出された「兵衛」の中から更に「優秀」と思われる人物について(十人に一人という割合か)「王」の側近として護衛の役を果たしたと見れば(これが「武」の上表文で「義士虎賁」とされたものか)、彼らが「六十人」の部隊として「墓」に造形されることとなったものとみられるわけであり、そのような「護衛役」の部隊を所有していたこと自体が「磐井」の統治の実態を示すものといえるでしょう。

 『書紀』に書かれた「継体」が「物部麁鹿火」に授けたという「…長門以東朕制之。筑紫以西汝制之…」という言葉の裏にも「長門以東」に「磐井」の支配地域があったことを含んでいるのは明らかです。  以前『続日本紀』に書かれた「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻」という記事と、『隋書たい国伝』に示された当時の倭国の総戸数として(計算上)「九万六千戸」あるという考察から、当時の「倭国」の支配領域として「四国」半分と中国地方の1/3程度あるいはもっと少ない領域となる可能性が高いと推定しました。  「庚午年籍」は「一巻一里」で構成されていますから「筑紫諸国七百七十巻」という巻数は「里(五十戸)」の数を表すとみたわけですが、この「庚午年籍」は「評制」下の戸籍であったものであり、「評」の戸数として七五〇戸程度で構成されていたとみるべきですが、「七百七十」という巻数が示す「筑紫諸国」の「評」の数は約「51」となります(770×50÷750≒51)。この「評」は以前「国」であったと見られますが、「評」がそのまま「郡」へと横滑りした場合、「郡」の数もほぼ同数となると見られ、実際に『和名抄』で確認すると「筑紫・豊・肥(肥前)」の部分で「52」となり、ほぼ整合します。実際にはこの「評」の数は「武」の上表文に現れる「西服衆夷六十六国」という国数より少なく、「筑紫・豊・肥」全体でちょうど「66」になり、同数となります。つまり「武」の時点では「西」とされる「筑紫」を中心とした地域(直接統治領域)は後の「筑紫諸国」と呼ばれた領域より広く、実体としてこの時点では「肥後」が含まれていたことが強く推定できます。もっともこれは当時の「倭国」の中心が「肥後」にあったとする立場からは当然ともいえます。

  さらに「武」の上表文で「東征毛人五十五國」とされている領域は、『書紀』で「継体」の言葉として出てくる「長門以東」が該当すると思われ、同様に『和名抄』で確認すると「讃岐・伊豫・長門・周防・安芸・出雲」で郡数として「54」となります。この推測の示すところは以前の結論と大差なく、やはりこの「武」の時点においても「倭国」の領域(直接統治領域)は「九州」北半部及び「四国」と「中国地方」の1/3程度と見てほぼ間違いないことを示すものといえるでしょう。


「杖刀人」と「呪禁」

2019年10月08日 | 古代史

 「稲荷山鉄剣」の「杖刀人」は「呪禁」を職掌とする立場の人物(医官)という「田ノ井貞治氏」の説に賛意を表したわけですが、この「鉄剣」の「杖刀人」と「倭の五王」の最後の王である「武」が南朝皇帝に提出した上表文とはリンクしている、あるいは共鳴しているといえます。

(以下「武」の上表文の一部)

「宋書」「順帝昇明二年(四七八年)遣使上表曰、…臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、『歸崇天極』、道遥百濟、裝治船舫。…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、『白刃交前、亦所不顧。』若以帝徳覆載摧、此彊敵克、靖方難無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸假授、以勸忠節。詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」

 ここにみるように「武」の上表文には「歸崇天極」とあり、また「白刃交前、亦所不顧」ともありますが、これは「道教」を通じて「南朝皇帝」に対して臣従する意と、「北斗」を剣に書くとどんな敵にも負けないという「道教」にもとづく信仰のようなものがあったことを示唆するものです。
 また「杖刀人」が「呪禁」的存在であり、「鉄剣」に書かれていた「杖刀」が「正倉院」の「呉竹鞘杖刀」のように「北斗」が描かれているようなものであったとすると、どちらも「道教」的雰囲気の中にあることとなります。
 また、それは年次も近接していることからも明らかともいえます。
 「武」の上表文は「四七八年」であり、「鉄剣」に書かれた「辛亥年」は「四七一年」と見るのが有力です。この事はそこに使用されている語や思考法等が共通していることを示唆するものですが、ともにそこに「臣」が存在しています。
 「鉄剣」ではそれ以外の単語が「万葉仮名」で表記されているのに比べ、「臣」は「万葉仮名」で書かれてはいません。この事から「臣」はそのままで「正式表記」であろうと思われると同時に「漢語」であると考えられます。
 「武」の上表文でも「臣」が自称として使用されており、このことは「服従すべき相手」に対する下位者としての自称として「臣」が使用されていることとなりますが、それが同様の使用例として「鉄剣」に現れているわけです。この事は「臣」という用語がかなり普遍的となっていたことを示すものです。
 また。このことは『風土記』の中で「磐井」の墓の様子を記した部分の説明に「刑法」の用語が「漢語」で表記され、また発音されていたであろうと推察されることとつながるものです。

「筑後國風土記曰上妻縣々南二里有筑紫君磐井之墓墳…周匝四面當東北角有一別區號曰衙頭衙頭政所也其中有一石人縱容立地號曰解部前有一人形伏地『號曰偸人』生爲偸猪仍擬決罪側有石猪四頭『號贓物贓物盜物也』…」(『釋日本紀』卷十三に引用された逸文)

 ここに書かれた「偸人」「贓物」は明らかに「刑法」の存在を前提として考えるべきものであり、またこれが「磐井」の生前の時のこととして書かれていますから、このような一種「時代の転換」の始まりが「武」の時代付近であったことが推察されます。
 「磐井」の墓にそれが石人達により掲示されていることからもこのような制度等が当時の倭国において「画期的」であったことを示すものであり、逆に言うと「磐井」とその前代の「武」の時代以前には明確な制度として確立していなかったことを示すものです。

 既に論じたように「武」の時代以前に「仏教」は「百済」より伝えられていたものの、それが「王権」の信仰となるのに時間がかかったことが推察されます。「仏教」の伝来以降でも、それ以前から倭国内に存在していた「巫覡」による「託宣」あるいは「厭魅」が俗でも王権内でも主流であったと思われるわけです。『隋書たい国伝』時点でさえも「俗」は「巫覡」を信じているとされているぐらいです。「王権」の内部ではその「巫覡」を「杖刀人」と称していたものではないでしょうか。

 そもそも「杖刀人」は「仏教」の影響下に成立した官職名ではありません。「中国」にも「半島」にも「杖刀人」という用語も役職も存在していないのです。このことはその時点の倭王権のあり方及び国内における人々の意識や習慣中で「仏教」の位置がかなり低かったことを示すと思われます。それが転換する「契機」は「七枝刀」の伝来ではなかったでしょうか。
 「七枝刀」はそこに書かれた「銘」からもその形状からも「呪術」的存在であり、これが「百済」から「贈与」あるいは「提供」されたとされるわけですが、それが単に贈られただけではその効能を発揮することはできないはずです。当然「呪禁」を職掌とする立場の者が併せて派遣されたものではなかったかと推察できるでしょう。

 当時「百済」では倭国の応援により高句麗と対抗していましたが、高句麗の南下政策が進行するにつれ「倭国」は(南朝との関係悪化に伴い)撤退することとなりました。半島にあった倭国勢力あるいは新倭勢力の象徴であった前方後円墳も放棄されるなど、既に「百済」では「仏教」的雰囲気に染まりつつあったものです。当然「百済」においては「七枝刀」の作成とその贈呈においても「仏教」の影響下において行われたものと推察されることとなるでしょう。
 既に考察しましたが、「七枝刀」の背後に『請観音経』の影が感じられるわけですが、そのようなものが「倭国」に贈呈された場合「倭王権」では本来は「杖刀人」により「破邪」や「厭魅」が行われるはずなのでしょうが、「杖刀人」はその扱いに苦慮したものではなかったでしょうか。それは従来定められていた儀礼の範疇に入らないものであったからであり、そのようことが想定できるとすればこの時「七枝刀」と共に「百済」から「仏教関係者」が来たであろうこと、そのなかには「呪禁」を職掌とする立場のものがいた蓋然性が相当高いものと思料します。

 仏教との関連で医薬や「破邪」や「厭魅」を専らとする職が生まれたものであり、それが「呪禁」であつたものです。
 仏教が中国、そして「百済」に渡る際に、それ以前より存在した「巫覡」による医術(治療術)がそのまま仏教と融合したものです。その際に特に「法華経」と親和性が高かったが、初期仏教で成立が早かったと思われる「薬師経」をとり込んで「法華経」が成立したものです。 「薬師」信仰は現世利益的な旧来の精神的状況に整合するために作り出されたものであり、初期仏教に付随した「現世利益」的特性があったと思われます。
 「卑弥呼」の場合と同様祭祀(宗教)の責任者は「医術」を行使する存在という側面があります。「現世利益」が意識としてある限り、宗教にはそれが要求されるわけです。これをとり込む形で「法華経」が成立したと思われ、その結果「呪禁」「呪禁師(士)」は「経典」に存在する事となったと思われます。

 「百済」から派遣された「呪禁師(士)」により「仏教」的雰囲気の中で「七枝刀」を使用して「治療」と「厭魅」が行われたものと思われ、そのことが「倭王権」に影響を与え、「仏教」の受容を正式に決定したものとおもわれますが、それに伴い「杖刀人」から「呪禁師(士)」へと変化があったものではないでしょうか。

 更に『二中歴』の解析からの検討で「太陰暦」の使用開始と「結縄刻木」の停止が「四八一年」のできごとではなかったかと考えていますが、この年次も鉄剣銘の四七一年(辛亥年)や「武」の上表文提出年次である「四七八年」と近接しています。

『明要 十一 元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』

 この「結縄刻木」の停止は「万葉仮名」の制定とリンクしているものであり、「倭語」を「万葉仮名」により表記するようになった時点を示すと考えられますが、その重要な契機となったものは「仏教」の「王権」による受容であり、この年次付近で「杖刀人」が廃止され「百済」に倣い「呪禁師(士)」へと変更されたものではなかったでしょうか。  このように「武」の時代に「仏教」が「王権」の信仰するところとなり、王権の内の制度などにもそれが反映していったことは想像に難くないと思われますが、そのことと「拡張政策」の方針変更とは整合していると思われ、世の中は彼までの「倭の五王」による統治が一定の平和を生み出し、国内的には一見「武力」が必要なくなったと見られたという可能性もあるでしょう。そのような情勢の変化が「仏教」の存在感を生み出したともいえるし、「済」「興」と連続して死去した原因として「疫病」が考えられるとすれば従来の「杖刀人」の方法論では対応できない事態が発生したと判断され、『請観音経』という「疫病救済」に特化した経典の導入という形で「仏教」が「呪禁」とともに受容され、倭国において「杖刀人」に変わる立場を獲得したとも考えられます。