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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

2025年04月06日 | 古代史
 以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」による派遣(外交権を取得したと自負したもの)と、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国として認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。「近畿王権」の当初の意図はあくまでも「倭国」の後継者というものであったものが、「唐」からも「さらには「筑紫」の勢力(これは旧倭国でありその後「筑紫日本国」として存在したと推定)からもそうとは見なされず、「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定し、また「筑紫日本国」からはあくまでも「副都」としての「難波」であるとの認識が継続していたと推定しています。
 その際「冠位制」について「近畿王権」にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令」として制定していたものが「薩夜麻帰国」からの「王権」の移動等により途絶していたものの復活としたものではなかったかという考えと合体し、そうであれば「評」から「郡」への切り替えというものが「制度」の切り替えであり、その「制度」が「近畿王権」の元で行われていたものの復活ではないのかという推論へとつながります。つまり「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至ったものです。
 従来から言われていて、私も同様に考えていましたが、「評制」と「郡制」は「評」と「郡」の名称の違いだけではなく「制度自体」の違いであるのは明白です。しかしではなぜ「郡制」になったのか、なぜ「近畿王権」主体の「新日本国」では「郡制」なのかという問いを持ち得ませんでした。つまり「新日本国」は全くの新しい王権ではなく以前からあったものの再構成であり、復活であったとみれば、「大宝令」「冠位制」「郡制」等の制度は以前の「近畿王権」つまり「難波日本国」の段階ですでに備わっていたものではなかったかという見地にはその時点では到達していなかったものです。

 すでに冠位制で述べたように「大華下」等の冠位制は「筑紫日本国」の制度であり、東国直接統治をもくろんだ段階でその統治範囲に入った近畿王権に対して適用された制度とみたわけですが、行政制度についても同様ではなかったでしょうか。すでに「近畿王権」による「郡制」が彼等の統治範囲に対して施行されていたものであり、そのような中で「倭国」の直接統治範囲に入ったことで「倭国」の行政制度である「評制」が施行されたものであり、さらにその下部の組織として「五十戸制」が施行されたものと思われるわけです。これらの「制度」のうち「評制」は部分的には(点的対象として)すでに施行されていたものであり、淵源は「半島」にあると思われます。ただしその下部組織としての「五十戸制」は「遣隋使」以降「隋」からの情報を元に制定されたものであり、これらが本来の「倭国領域」つまり九州島とその外部の近隣領域に対して施行されていたものであり、これを東国直接支配という段階に至って近畿王権の領域に対して適用したものと推定するわけです。
 ただし、これらは「百済を救う役」と「白村江の戦い」等により「倭国」つまり「筑紫日本国」が「政治的」「軍事的」な空白となって以降「難波日本国」が列島全体の統治を開始した時点「近畿王権」の制度に切り替わったかというとそうではなく、それらが継続していたと考えられるわけです。その意味で「庚午」つまり「六七〇年」に作成されたとされる「庚午年籍」も「郡制」ではなく「評制」の制度の元のものであったと思われます。それはすでに全国的な制度となっていた「評制」についてそれを切り替えるのに要する手続き等が膨大であり、よほど準備を入念に行う必要があったことから先延ばしされていたと思われます。「冠位制」などと違って「宣言」したらそれですむというわけにはいかないものであり、ある意味「物理的」な変更となるものですから、それ相応の「準備」及び「調査」というものが必要であり、必要なシステムと組織を事前に造っておくことが求められていたと思われます。しかしそれが完了する前に「薩夜麻帰国」という一種想定外の事案が発生し、その後旧王権であるところの「筑紫日本国」に列島支配の実態が移ったため、それらが行われないまま八世紀に至ったものと推測します。このあたりの事情に通じるものが『古事記』の「序」です。そこには以下の言葉があります。

「…大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上…」

 この太安万侶の言葉によると「小治田宮」までしか記憶あるいは記録されたものがなくそれ以降の「近畿王権」の王についての記録がないということとなります。上の「序」についてはすでに「天武」ではなく「天智」が王権を奪取する経緯について述べていると考えたわけであり、そうであれば彼に必要なものは「彼以前」の資料であったものであり、それ以降は書かれる必要がなかったということとなります。

「…於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣…」

 そしてこれによればその「推古紀」までの「諸家之所帝紀及本辭」を勘案し「削僞定實」して、「正統」となるべきもの決定してそれを残すという事業を「天智」が行おうとしたがその編纂事業が中断していたというわけであり、それをここに再開したいということを述べているわけです。

 古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
 『五経正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたとされているのに対して、『古事記』の場合は「天智」が列島を「筑紫日本国」に代わって全面的に統治する「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがないという事態が想定され、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。それを「書」として編纂するには彼の記憶を文章に落とし込む必要があります。それは「太安万侶」の以下の文にもあるように「漢字」をいかに駆使して日本語としての文を成立させるかがなかなか困難であったものであり、一通りにできるものではなく時間がかかる事業であったと思われるわけですが、それが事情により中断していたというわけです。

 「…然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改…」

 このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」(つまり「難波日本国」)が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会が失われたという「やむを得ない事情」によるものと思われます。それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。

「…然運移世異 未行其事矣…」

 ここでは「理由」も何も示されず、ただ時が経ち世の中が変わってしまったので「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。
  
 以上のように『古事記』の編纂の途絶と再開という流れはそのまま「郡」やそれを含む制度全体の再開と復活につながるものであり、それらは軌を一にして「新日本王権」の「天智王権」の復活として再現されたものと思われるわけです。

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