古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「蝦夷」と「朔旦冬至」

2021年03月28日 | 古代史
 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、このときの「使者」が「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
 そうであれば『新唐書』に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。

 また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明ですが。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。
 「魏晋朝」においては「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたとされており、これを視野に入れて「顕慶礼」でも「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使は「冬至の祭典」に列席するために渡唐したとみられるわけですが、その十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたと見られることとなります。そのように期間が空いているのはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維蠲」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之〈忄+壽〉再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/冣澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。

(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする『新唐書』の記事配列に反することとなりますが、『新唐書』の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)

 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。
 「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
 「蝦夷」が統治範囲に入ったと云うことをアピールする意味があったとすると、「日本」への改元にも「東国」への領域拡大という政治的変化が反映しているという可能性があるでしょう。それは上の『仏祖統紀』の記載にも現れています。

(再掲)「蝦夷 。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也。」

 この文章は周辺各地域の国情などを記した巻にあるわけですが、そこでは「蝦夷」についての記事でありながら「日本」という国号変更について記されており、そのことは「変更理由」として「蝦夷」との間に関係(の変化)があった事を示唆しており、蝦夷の地域を版図に編入したという自負の現れを示している事が推察されます。

 またこのような「六四〇年」の「朔旦冬至」を「倭国王権」が意識していたであろうことは「舒明天皇」の「百済大宮」の完成が「六四〇年十月」であったとされていることでもわかります。

「(六三九年)十一年…秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。」

「(六四〇年)十二年…冬十月…是月。徙於百濟宮。」

 もちろんこれは「十一月一日朔日」に「新宮」で「冬至」の儀式を行うためのものであったと思われ、「新宮」の完成はそれに間に合わす意味があったものと思われます。(新宮の南郊で行うものであったか)

以上旧ホームページより加筆して転載

「伊吉博徳」の記録に出てくる「蝦夷」について

2021年03月28日 | 古代史
斉明紀に遣唐使として派遣された「伊吉博徳」の記録によれば、唐の皇帝に謁見する際に「蝦夷」の人間を連れて行き、同時に謁見したことが書かれています。

秋七月朔丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。

しかしこの文面には疑問があります。それは以下に続く「伊吉博徳」の記録と微妙に「合わない」からです。

天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。

これによればこのとき伊吉博徳等遣唐使に同行したのは「熟蝦夷」とされていますが、この問答が行われた「六五九年」の前年と四年前に「蝦夷」に対して饗応した記事があります。

(六五五年)元年…
秋七月己已朔己卯。『於難波朝』饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人。津刈蝦夷六人冠各二階。

(六五八年)四年…
秋七月辛巳朔甲申。蝦夷二百餘詣闕朝獻。饗賜贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階。渟代郡大領沙尼具那小乙下。或所云。授位二階、使検戸口。少領宇婆左建武。勇健者二人位一階。別賜沙尼具那等鮹旗廿頭。鼓二面。弓矢二具。鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上。少領青蒜小乙下。勇健者二人位一階。別賜馬武等鮹旗廿頭。鼓二面。弓矢二具。鎧二領。授都岐沙羅柵造闕名。位二階。判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙奈具那検覈蝦夷戸口與虜戸口。

 (この二つの記事は「重出」という指摘もあります)「六五五年」記事では「蝦夷」として二種類書かれており「北」(越)と「東」(陸奥)が朝献したとされていますが、その記事の中では「越」に対して「柵養蝦夷」、「陸奥」に対して「津刈蝦夷」という呼称が用いられているようです。
 また「六五八年」記事では「柵養蝦夷」として「渟代郡」の人物が充てられており、それ以外には「津軽郡」などの呼称がされており、これは「都加留」を指すと思われます。
 これらを見ると「東」つまり「陸奥」の「蝦夷」に対して「津刈」という呼称が用いられており、これが「伊吉博徳」の記録に出てくる「遠者名都加留」であるとすると、連れて行ったという「熟蝦夷」とは「柵養蝦夷」のことであった可能性が高いと思われます。
 「熟」とは「育つ」「こなれる」等の意味があり、「倭人」に対して「慣れた」という意味合いで用いていると思われますが、他方「柵養」とは「柵」(当時の「城」あるいは「砦」)の中に養われているという意味であり、帰順した「蝦夷」のことと解釈されます。意味上の共通点からもこの「柵養蝦夷」が「熟蝦夷」であることとなりますが、それが冒頭の文面と食い違っているのは指摘したとおりです。そこでは「陸奥蝦夷」とされていますからこれでは「津刈」つまり「都加留」となってしまいそうです。
 この食い違いは別の資料からも言えます。後代史書ではありますが、『佛祖統紀』という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二〇三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを『仏祖統紀』の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあります。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と『新唐書』記事とが同じ事実を記したものとは思われないからです。

 『新唐書』には「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事を見る限り実際におこなったと見られ、かなり注目されるイベントであったと考えられます。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べると実は全く異なる事と理解できます。
 『新唐書』の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、上に見るように「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、食い違っています。
 「伊吉博徳」の遣唐使記事の前の「地の文」に出てくる「蝦夷」については「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが明記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし『新唐書』では「蝦夷亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦夷」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。「陸奥」は上に書かれているように本来「陸道奥」であり、これを見ても「道」でつながっていなければならないはずですが「海島」となると「陸道奥」とは明らかに異なると言えます。そうであれば他に「島」に住む「蝦夷」という形容の可能性があるものは「北海道」しかないのではないでしょうか。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、『新唐書』の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。(ただしこの時期に「北海道」の「蝦夷」が勢力下に既に入っていたとはやや考えにくいことは事実ですが)
 またこの「伊吉博徳書」と同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると『新唐書』の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期には前後二つの時期があったこととなるでしょう。「儀礼」の一環として新しい「皇帝」により遠方の地域の人物を謁見させるというものがあった可能性もあります。(「周代」に箕氏朝鮮に引率案内された「倭人」の例を想起させます)
 ただしいずれも「朔旦冬至」の年であり、これは「唐」から「招集」されたと見るのが相当と思われるものです。そう考えるとこの「六五九年」の時に「遣唐使」に随行した「熟蝦夷」とは「前年記事に出てくる「渟代郡大領沙尼具那」と「少領宇婆左」の二名であったものではないでしょうか。もっとも「遣唐使船」は二隻に分乗していたようですから、可能性としては「大使」の乗る船には「沙尼具那」とその妻、「副使」の船に「宇婆左」とその妻が乗船していたものて推測され、「唐皇帝」に謁見できたのは「副使」の船に乗っていた「宇婆左」の方ではなかったかと思われることとなります。

 「伊吉博徳」達の「遣唐使」が派遣されたのは「六五九年七月」とされ「十一月一日」に行われる「冬至の会」に出席する予定であったと思われますが、その一年前の七月に蝦夷が朝献してきたというわけですが、これは「偶然」ではなく「唐」から「冬至の会」への出席要請があったことを下敷きに考える必要があり(少なくとも前年には伝えられるものと思われます)、「蝦夷」を随行させる意味で王権に「目通り」させたものではなかったでしょうか。
 つまり「柵養蝦夷」から選抜した人物(推薦があったであろうと思われます)を随行させる目的で朝献と称して「朝廷」に連れてきたものであり、彼等を随行させることで「支配領域」の広さを印象として植え付けることが有益と考えたものと推量します。そう考えるのは「百済」と「新羅」の関係が悪化し、「新羅」が「唐」に援助を求めたという情報が「百済」の使者からもたらされた可能性があるからです。
 「斉明朝」になってから幾度か「百済」から使者が来ており、最新情報を得ていたと見るのは自然です。「百済」と接近していた「倭王権」にとって(斉明の夫であった「舒明」は「百済大宮」を造ったとされるほか亡くなったときは「百済の殯」と称されたと書かれているなど非常に「百済」に近い王権であったと思われます。)「新羅」と「唐」が協力するとした場合「百済」及び「倭国」にとっていい方向の展開とは言えなくなるわけであり、その「抑止」対策の一貫として「蝦夷」の引率を考えたという可能性が高いと思われ、その前段階として「六五八年」の「蝦夷」の朝献があるのではないでしょうか。
 加えて「遣唐使」を派遣した同じ「六五九年」には「阿部臣(比羅夫か)」により「討蝦夷國」という征討作戦を行っています。

(六五九年)五年…三月戊寅朔。…是月。遣阿倍臣。闕名。率船師一百八十艘討蝦夷國。阿倍臣簡集飽田。渟代二郡蝦夷二百四十一人。其虜卅一人。津輕郡蝦夷一百十二人。其虜四人。膽振鉏蝦夷廿人於一所而大饗賜祿。

 その中では引率した二人の住居がある「渟代」を含む領域と戦った結果「捕虜」となった人たちも併せて「大饗賜祿」したとされ、支配領域をさらに拡張しようという意志が見えるようです。(ただし戦ったという割には捕虜が少なく、すでに多くの蝦夷の人々は帰順意志を持っていたように思われ、それはすでに「「渟代郡大領沙尼具那」と「少領宇婆左」」を代表として朝献した人々が、大多数の蝦夷の意志を代表していたことが窺えます)
 この戦いを踏まえ「柵養蝦夷」の二人を「帰順した蝦夷」の代表として「唐」に随行させたものと思われるものです。