古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(13)あるいは「隋」の改元と「九州年号」

2014年09月30日 | 古代史
 「隋」の「改元」と「倭国」の「改元」の年次が一致していることが従来から言われています。

(隋) -(倭国「九州年号」)
「開皇」-「鏡當」
「仁寿」-「光元」
「大業」-「願轉」
「義寧」-「なし」
「皇泰」-「倭京」(ただし「皇泰」は「唐」の「武徳」と重なっており、国家権力が実質的に「唐」に移っていたことを考えると、「九州年号」の「倭京」改元は「武徳」と整合しているというべきでしょう。)

 これは「倭国」の「隋」への「傾倒」を示すものと理解できると思われます。「隋」と同じ年次に改元されているのはその情報が倭国にもたらされ、しかもそれに反応し追随したことを示すものと思われるわけであり、それは当時の「倭国」が「隋」を「皇帝」の国として尊崇する立場になっていたことを示すと同時に、そのような情報伝達ルートが存在していたこととなります。

 「開皇」改元時点では前年十月と十二月及び明けて正月に「百済」と「高句麗」が「朝貢」しています。また「仁寿」改元時点では「史書」には見えませんが「大正大蔵経」の中に納められた「慶舍利感應表」には「高麗」「百済」「新羅」と揃って朝貢し、「舎利」を分けてもらうよう請うていることが記されています。
 記事内容から見てそれは「仁寿元年」の「十月十五日」以前ではなかったかと考えられ、「六月十五日」の「詔」を出した日付近でこの三国の使者が「長安」に来ていたことが窺えます。この時の彼らの(しかも三国揃っての)訪問は偶然だったのでしょうか。

 たとえば「開皇」改元の時点は「隋」成立という重大な局面でもあります。この時当然周辺諸国へ「使者」あるいは「伝令」とでも言うべきものが遣わされたものと思われます。
 「隋書」(帝紀)によれば、すぐ近くの「高麗」よりも遠距離の「百済」が先に来ています。また「契丹」や「突厥」などの遠距離の国も同様に「高麗」より先に来ています。これは遠距離あるいは絶域の国には優先的に伝え、近隣諸国には後から伝えたことをしめすものではないでしょうか。
 また、「仁寿」改元は「仏舎利」の頒布により「仏塔」(卒塔婆)を建てるという事業を国内外に行おうとしたものであり、関係諸国に事前に伝えられて当然と言えるでしょう。
 これは「文帝」の誕生日である「六月十三日」を期して行われたものであり、その日を期して参集すべきという通達があって不思議はないと思われます。それを示すのが以下の記事です。

(「慶舍利感應表並答」)「…覽王公等表悚敬彌深。朕與王公等及一切民庶。宜更加剋勵興隆三寶。今舍利眞形猶有五十。所司可依前式分送海内。…」

 これを見ると「王公」が「朕」の前にいることが推定され、「文帝」の主催した儀式に「海内」の諸国が参列している様が窺えます。
 このように関係諸国(冊立された封国)には「建国」あるいは「皇帝」の代替わり、さらには重要な事業の発議という時点で関係情報が伝えられていたのではないかと思われ、特に「百済」は「帯方郡公」という地位を「北斉」時代から与えられており、半島では「高句麗」と「百済」には優先して情報が伝達されていたと見られますが、「新羅」や「倭国」は「百済」を通じて「隋」などの改元情報などを聞き知っていたと言う事はそれほど想定困難なことではないのではないかと推量します。
 「隋」が行う各種イベントには上に見るように「海内」つまり「国内各諸国」と「国外」の「封国」には招集がかかったと思われるものの、「倭国」のような「域外慕国」には声がかからなかったという可能性もあるでしょう。この「仁寿」の舎利頒布の際に「倭」が登場しない理由もそこにあるのではないかと考えられます。

 「倭国」は確かに「半島」の三国のように「封」じられることはなかったものであり、そのことから「自主独立」的立場であったと理解されることが多いようですが、それは単に「絶域」であることを理由に「隋」から「封国」となることの必要性を重視されなかったからというのが真相ではなかったでしょうか。
 もし「封国」となると、「倭国」に変事があった場合(例えば蝦夷などとの関係が悪化し戦争等が起きるなど)、「隋」は「魏」時代の「張政」のように「告諭」するなどの軍事的影響力を行使する必要性が出て来ますが、この「隋初」という時点ではまだ「南朝」が征服されておらず、「隋」の支配力には限界があったものであり、「倭国」などへの軍事力展開を想定すると、現実的ではないと判断されたのではないでしょうか。
 やはりあまりに遠方の「国」は「封国」とするより「域外慕國」として緩い支配に置く方が賢明であると考えた可能性が強いと思われます。
 それは「倭国」においても特に意志に反したものではなかったと思われ、ある種双方の合意の元であったと思われます。
 「倭の五王」の場合は特に半島における統治実績の追認を求めたものであり、かなりその意味で「強気」の部分があったものと思われます。しかしこの時の「倭国」は「半島」に対する権益はすでにかなり失われていたと思われ、わずかに「半島南側」の一部程度が彼らの影響範囲であったと見られますから、このような状態で「統治事績」を誇るようなことはやはり出来ず、統治の範囲として「新羅」や「秦韓慕韓」などを標榜するというようなわけにはいかなかったと思われます。
 そもそも「隋」への遣使自体が「倭国」側からのかなり積極的なアプローチを示すものであり、当時の渡海の困難さなどを考えると、「対等外交」などを標榜するためというより、もっと「切実」な事情を想定させます。つまり、「遣隋使」の目的や意義はあくまでも「倭国内」の支配強化のためのツールを入手するためのものと思われ、それを「隋」に求めたということであり、「隋」を先進国であり大国としてそこから文物制度等を摂取・吸収するためのものであったと考えられますから、「隋」の制度変更などに敏感でなかったとすると一種の矛盾といえるでしょう。
 もし「倭国」が「隋」から「封」じられたとすると「隋」の暦や年号を使用することは当然ですが、「封じられなかった」ことで、自国年号の使用を継続することとなったものと思われます。しかし、「改元」のタイミングは合わせることとなったと思われ、それは「隋」においては「改元」が政策の変更等を伴うことであったためと思われます。これに「倭国」側の「改元」を合わせることで「倭国」においても「隋」と政策等を整合させる意義があったのではないでしょうか。

 その「隋」の改元は「仁寿」をのぞけば皇帝の代変わりの時点です。皇帝の代が変わるということは「国家」にとって画期であり、種々の制度や政策の変更を伴う場合がほとんどです。当時の「倭国」が「隋」をいわば「宗主国」として考えていたとすると、同様に「制度」「政策」等に変化・変更があってしかるべきこととなり、その場合「改元」することで国内にその趣旨を知らしめることができると思われますから、そのような方法は当然選択したと想定できることとなります。
 また「仁寿」改元についていえば、その理由となった「仏塔」建立事業の全国展開は「仏教国家」としての「文帝」の政治の頂点ともいうべき事業であり、「阿育(アショカ)王」あるいは彼に自らを擬した「梁の武帝」に自らをなぞらえたものと思われます。「封国」となっていた周辺諸国は当然それに対応することとなったでしょう。
 「封国」ではなかったものの「倭国」においてもその情報が(特に「百済」から)もたらされたものと思われ、当然同様に国内に同様な仏教政策の展開を試みることとなったであろうことが推察されます。

遣隋使と遣唐使(12)

2014年09月29日 | 古代史
 この「隋初」の遣使記事は「隋書」にも「書紀」にも(明確には)書かれてはいないわけですが、「倭国」からの使者が朝貢したとすると、それまで「北朝」には全く遣使していなかったという歴史的経緯を考えても、「倭国」からの使者が単独で「隋」に朝貢したとは考えにくいと思われます。その場合「倭国」からの使者は(当然)「百済」に同行した可能性が遥かに高いと思料します。そう考える根拠の一つは「百済王」が「隋」から「帯方郡公」を授かったという事実があることです。
 
(「隋書/帝紀/巻一 高祖 楊堅」より)「(開皇元年)冬十月乙酉,百濟王扶餘昌遣使來賀,授昌上開府、儀同三司、帶方郡公。…」

 また、これを遡る「北斉」の時代にも同様に「帯方郡公」の爵号を受けています。

(「北齊書/帝紀第八/後主 高緯/武平元年」より) 「(武平元年)二月癸亥,以百濟王餘昌為使持節、侍中、驃騎大將軍、帶方郡公,王如故。…」

 ご存じのように「帯方郡」とは「後漢」の末に「公孫氏」により設置されそれを「魏」が承認したという経緯があり、その後「朝鮮半島」(特に「南半分」)に対する統治の役割を持った出先機関として機能していました。
 当時の「倭国」は「魏」に対して朝貢したりあるいは「狗奴国」との「戦い」の仲裁を求めたりする際には「帯方郡」を経由していたものです。このような「歴史的事実」を踏まえた形で「隋」あるいは「北斉」の出先機関としての「帯方郡治」という機能を「百済王」が代行しているという「形式」をとっていたと推察されます。

 この時点で「倭国」が「隋」と国交を開始することを図ろうとするならば「隋」の大義名分を認めるしかなく、「帯方郡」としての機能を「百済」が代行しているという「建前」を無視することはできなかったでしょう。
 そう考えると、「倭国」からの「隋」に対する国交が「魏」の時代同様「帯方郡治」(に擬された「百済国」)を経由したものとなるであろうことは容易に考えられるところです。つまり「百済」からの使者が「倭国」の使者を同行(というより「引率」と言うべきか)していたとするという可能性は充分考えられるものと思われます。
 
 「隋書」など正史には「開皇二年」以降は「煬帝」の時代まで「百済」が遣使した記録がありませんが、実際には「仁寿年間」に「文帝」が「舎利塔」を各地に建てるという、後の「倭国」の「国分寺」につながるような事業を企図した際に、「高句麗」と「百済」「新羅」が揃って「舎利」を分けてくれるよう「請うた」という記事が「記録」(※)にあります。このときは「文帝」の誕生日に併せて行われたものであり、そうであれば「予定」が事前に立てられていたこととなりますから、「隋」から「伝令」のような形で出席指示ないしは要請があったと見るべきこととなります。このとき「百済」からつまり彼らはこの時点では確実に「文帝」の元にいたわけであり、正史にはないものの確かに使者は送られていたこととがわかります。このことから、これ以外にも「遣使」の事実があったと推定することが可能と思われます。
 これについては「貞観修史」という事業遂行において「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得ないという状況となったわけであり、やむをえず「開皇起居注」から記事を移動して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。

 つまり記録にはないものの「倭国」からは確かに使者が派遣され、それは「百済」の使者に同行したとみられるわけですが、それは「小野妹子」が帰国途中に「百済国内」で「国書」を盗まれたと主張していることにも現れています。
 これは「隋初」における初めての遣使ではないものの、「隋」からの帰国が「百済」経由であったことを示すものであり、それは「往路」においても同様に「百済」を経由したことを示唆するものですが、「隋書」の「裴世清」派遣記事にも「…上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、…」と書かれており、そこには「百済」を経由したことが明確に書かれています。このことは「倭国」と「隋」の間の往復には「百済」を経由するのが通常であった事を示すものであり、特に初めての使者の際には「百済」に同行と仲介役を依頼したという可能性が強いと考えられるわけです。
 「三国史記」には「百済武王」の「九年」に「春三月 遣使入隋朝貢 隋文林裴奉使倭國 經我國南路」とあり、この記事では「百済」の使者が「隋」に送られたという記事と、「裴世清」の「倭国」への使者派遣が同年次で書かれており、(但し年次そのものは「隋書」に従ったものと思われますが)、「經我國南路」という記述とも併せ、「倭国」からの使者(これは「小野妹子」か)が「百済経由」で「隋」との間を往復したことを示唆するものであり、その際には「百済」の使者を伴っていた可能性を補強するものでもあります。またそれは「隋」の改元と「倭国」の改元が同年として行われているらしいことにもつながると思われます。

(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表
「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」



遣隋使と遣唐使(11)

2014年09月28日 | 古代史
 以上見てきた見地については「新唐書日本伝」にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。
 「新唐書」日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
 この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
 しかし、記事を見るとその位置が「書紀」に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。

(新唐書日本伝)
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古,次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦綫冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀蘤,長八寸,以多少明貴賤。…』

 先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は「隋書」を下敷きにしたものと見られますが、「書紀」とは大きく齟齬します。
 そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは「隋書俀国伝」の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、「書紀」では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも「書紀」ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
 これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した「隋書」にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、「隋書」の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。また、「中国側」の資料には「用命」の別名が「阿毎多利思北孤」であったとされていたこととなるわけですから、彼の遣使が(これが「用明」の時代であるのが正しいとすると)、「開皇始」のことであったことの傍証となるものと思われます。

遣隋使と遣唐使(10)

2014年09月28日 | 古代史
 「隋書俀国伝」の「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。

「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」

 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。

(隋書卷十五 志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭)「…始開皇初定令置七部樂。一曰國伎、二曰商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」

 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけですが、その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っていることが注目されます。これが「倭国」からの使者がもたらしたものと考えれば、その使者が派遣されたのは「開皇の始め」つまり「隋初」と考えざるを得なくなります。(前王朝である「北周」や「北斉」の史料には「倭国」が現れませんから、それが「隋代」以前に伝わっていたとはいえないでしょう。)
 さらに「隋書」を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。

「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作樂,今也其時。朕情存古樂,深思雅道。鄭、衞淫聲,魚龍雜戲,樂府之?,盡以除之。今欲更調律呂,改張琴瑟。且妙術精微,非因教習,工人代掌,止傳糟粕,不足達神明之,論天地之和。區域之間,奇才異藝,天知神授,何代無哉!蓋晦迹於非時,俟昌言於所好,宜可搜訪,速以奏聞,庶覩一藝之能,共就九成之業。」仍詔太常牛弘、通直散騎常侍許善心、祕書丞姚察、通直郎虞世基等議定作樂。…」

 ここでは「文帝」が「制禮作樂,今也其時。」と語っていることからもわかるように「楽」を定めるとしています。この時点は「南朝」を滅ぼし「中国」を統一した時点であり、ここで南朝の「楽」が「隋」にもたらされたものです。(この「南朝」の「楽」が「七部楽」の「二」にいう「商伎」と考えられているようです。)
 これを契機に「七部楽」を「儀礼」に使用する正式なものとして制定したものと見られます。これら「七部楽」に採用された各「伎楽」は「勢力下」に置かれた地域の「楽」であり、それは「南朝」の楽のように「征服」によってもたらされるケースや、「高麗」などの楽の場合は「北魏」による「燕」などの東方勢力を征服したこととの関連が考えられる場合などがあります。「倭国」の「楽」が「雑楽」として組み込まれているのは、明らかに「外交」による成果であったと思われ、「倭国」が「隋」の成立以降「朝貢」を行うという(「隋」にとって)「画期的」出来事が反映したものと思われます。
 これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国を経由して伝わった、いわば「間接的」なものというような解釈は困難でしょう。「制度」として定められたと言うことは、いわば「フォーマル」なものであり、正式な「外交」の成果としてもたらされたものと考えるべきでしょう。それは「倭国」に限らず、他の楽も各国からの「正式」な(公式な)ものとして「隋」にもたらされたことを推定させるものであり、そうであれば少なくともこの「開皇九年」という「隋初」段階(あるいはそれ以前)に「遣隋使」が送られていたことの証左とも言えるものではないでしょうか。
 またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らして」の「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。つまり、この「鼓角を鳴らす」という「楽」は逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと考えられるわけです。
 そもそも「鼓『吹』」あるいは「鼓『角」を鳴らす」というものは「戦い」に関するものであり「日本」の戦国時代に「ホラ貝」を鳴らすことで自陣に対する指示などを伝達していたらしいことが知られていますが、その原型は「鼓吹」にあったと考えられ、「旧唐書」などにも「鼓吹」が「軍楽」であるという内容の記事が見られます。

(舊唐書 志第八/音樂一)『…景龍二年,皇后上言:「自妃主及五品以上母妻,并不因夫子封者,請自今遷葬之日,特給鼓吹,宮官亦準此。」侍御史唐紹上諫曰:「竊聞鼓吹之作,本為軍容,昔黃帝涿鹿有功,以為警衞。故掆鼓曲有靈夔吼、鶚爭、石墜崖、壯士怒之類。自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,所以恩加寵錫。假如郊祀天地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案架。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈得接於閨閫。準式,公主王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、綵帷、錦障之色,加至鼓吹,歷代未聞。…』

(舊唐書/列傳第八/柴紹 平陽公主 馬三寶)『…(武徳)六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂,公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹。…」』

 この二つの例ではいずれも周囲から「鼓吹」は「軍楽」であるから「婦人」の葬儀には使用できないとしており、また後の例では「高祖」はそれを承知している発言(高祖曰:「鼓吹,軍樂也。…」)をしています。このことから「裴世清」を迎えた「鼓吹」も「軍楽」としてのものであった、つまり「裴世清」を「軍」が出迎えたと考えられることとなるでしょう。
 これに関しては「隋書」に「楽制」が定められたことが書かれています。

(隋書/卷十五 志第十/音樂下/隋)「(開皇)十四年三月,樂定。」

 これによればこの「開皇十四年」(五九四年)という時点で「楽制」が定められたというわけですが、この中で「鼓角」による「楽」についても定められたものと考えられます。
 「渡辺信一郎氏」によれば(※)「隋書俀国伝」に「倭王遣小阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎」と書かれている部分については「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのがこの「五九四年」であるとされ、これについては傾聴に値すると思われるものですが、それを踏まえると「大業三年」記事に書かれた「倭国」の歓迎の様子はこの新しく造られた「楽制」が早速「倭国」に伝えられ、それを実地に応用したものではなかったかと考えられることとなります。
 そのような「楽制」の伝来があった時期は少なくとも「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事からもこの年次以降であることが窺えます。つまり「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられること、またそれは「隋皇帝」からの「下賜」としてのものであったという可能性が高いことを示すものです。
 そう考えた場合この「鼓角」が下賜された時点というのは「国交開始」時点の「遣隋使」ではなく(その時点は「隋初」でありまだ「楽制」が定められていないと考えられるため)、その後「楽制」(楽隊)が制定された後に再び「遣隋使」が派遣され、彼らに対して下賜されたと考えなければならないこととなります。つまり「開皇年間」に「遣隋使」は「楽制」制定以前と以後の少なくとも二回派遣されていたと考える必要があるでしょう。


(※)渡辺信一郎「中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流」文理閣 二〇一三年)

遣隋使と遣唐使(9)

2014年09月26日 | 古代史
 「大業三年記事」についてその真の年次から移動されている可能性を考えたわけですが、その疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。
 この「開皇二十年」記事を正視すると、ここでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」や「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしているのかを聴き取らせています。これらのことは「国交」が始められた時点における情報収集の一環であったと思われ、それは「国書」などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。
 このような事項を聴取した上で書かれたものが、「推古紀」に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。そこでは「使人大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として「隋書」に書かれているものではないかと考えられるわけですが、そう考えると「推古紀」記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられることとなります。
 この「開皇二十年記事」の中身の大半は「所司」に問われた「遣隋使」が口頭で倭国の風物について答えたものであり、それを中心として「所司」が改めてまとめたものを史料として残したと言うことであったろうと推察されます。  すでに「推古紀」記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですが、その内容と合致する「開皇二十年」記事も基本的には「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになると思われます。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料において)「国交開始」のための「倭国」からの「遣隋使」派遣という事態を承けて、「返答使」として「倭国」に遣わされたという可能性があることとなるでしょう。その際に「国書」を持参したというわけです。
 似たような例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。

(舊唐書/列傳第一百四十八/西戎/天竺國)
「…貞觀十五年,尸羅逸多自稱摩伽陀王,遣使朝貢,太宗降璽書慰問,尸羅逸多大驚,問諸國人曰 自古曾有摩訶震旦使人至吾國乎。皆曰 未之有也。乃膜拜而受詔書,因遣使朝貢。太宗以其地遠,禮之甚厚,復遣衞尉丞李義表報使。尸羅逸多遣大臣郊迎,傾城邑以縱觀,焚香夾道,逸多率其臣下東面拜受敕書,復遣使獻火珠及鬱金香、菩提樹。…」

 つまり「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
 この例からは「倭国」からの「遣隋使」に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと思われ、それが「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、「天竺国」と同様の行為がなされており、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることにも注目されます。)

 さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であったという可能性もあるでしょう。なぜなら「蕃客」との接客対応は「鴻臚寺掌客」の本来の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの職掌そのものであったと見られるからです。
 「後漢書」にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。

(後漢書/志第二十五 百官二/大鴻臚)
「大鴻臚,…及拜諸侯、諸侯嗣子及四方夷狄封者,臺下鴻臚召拜之。…」

 これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られる経緯として「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「裴世清」本人であったことが重要視されたという可能性があると思われます。