goo blog サービス終了のお知らせ 

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「法隆寺金堂釈迦像」及び「薬師像」の光背銘文について

2018年05月16日 | 古代史

 ところで、一部の議論の中に「法隆寺釈迦三尊像光背」の銘文に使用されている「年次」が「後代」の追刻ないし「偽造」であるというものがあります。(※1)(小川伸之「法隆寺金堂本尊について」『史学』第四十三巻一九七〇年五月 慶應義塾大学など)
 この「銘文」以外にも「法隆寺旧蔵」の弥勒菩薩像の台座銘文なども同様であり、これらの表記については「七世紀半ば以降」のものであるとされているわけですが、そのような議論の根拠とされているものが「歳次(干支)~年」や「歳在~」という年次表記が見られることにあるとされます。
 この「歳次~」或いは「歳在~」という表記法については、これを「七世紀半ばに始まる表記法」とされるわけであり、それが見られることから、そこに書かれた「年次」そのものを疑うという立場になるわけです。しかし、「中国」の例で言えばこの「歳次」ないし「歳在」というのは『後漢書』『宋書』など各時代の代表的な史書の「伝統的」表記法であり、かなり古くから存在したものです。(当然「唐代」に編纂された『隋書』にも見られます)

『宋書』の例
「本紀第一 武帝上」
「高祖武皇帝諱裕,字德輿,小名寄奴,彭城縣綏輿里人,漢高帝弟楚元王交之後也。…高祖以晉哀帝興寧元年『歳次』癸亥三月壬寅夜生。及長,身長七尺六寸,風骨奇特。家貧,有大志,不治廉隅。事繼母以孝謹稱。…」

『後漢書』の例
「列傳第二十五 鄭玄」
「五年春,夢孔子告之曰:「起,起,今年歲在辰,來年『歲在』巳。」既寤,以讖合之,知命當終,有頃寢疾。時袁紹與曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。遺令薄葬。自郡守以下嘗受業者,縗絰赴會千餘人。」

『隋書』の例
「列傳第二十三 許善心
「『歲次』上章,律諧大呂,玄枵會節,玄英統時。尊未明求衣,晨興於含章之殿。爰有瑞爵,翱翔而下。載行載止,當扆宁而徐前,來集來儀,承軒墀而顧步。夫瑞者符也,明主之休徵;雀者爵也,聖人之大寶。謹案考異郵云。…」

 このような表記法が中国に於てそれほど「特殊」ではないとすると、長年中国と通交していた「倭国」においても、同様に使用されていたとしても不思議ではないと思われます。このような表記法が倭国内に流入した時期もかなり時期的に遡ると考えられ、いわば「歴史的」使用法とも言えるものです。つまり、「七世紀半ば」を遡る時期の「文献」等にそれが見いだされたとしても、あながち不自然ではないといえることとなるでしょう。
 逆に言うと、そのような「表記法」が活発に使用される時期がもしあるとすれば、中国との間に使者のやりとりがあり、「文化的刺激」を受けた時期を想定すべきと思われますから、それを考えると逆に「七世紀初め」という時期はその条件に十分適うものと考えられます。
 この時期はすでに明らかなように「遣隋使」とそれに対する「返答使」が相互に往復した時期であり、またその「隋」からは多くの制度や法体系を学んでいることが明らかになっていますから、そのような流れの一環として「歳次」「歳在」というような日付表記法が導入され、使用されたと考える事は不自然ではありません。公的であるかどうかを問わず、「文書」や「光背」などにそのような「物言い」が使用されたとしても、それがその時代に「マッチ」した表記であることは疑い得ないものです。

 同じく「法隆寺金堂」に座している「薬師如来」の光背銘についても、そこに「歳在…年」という表記があり、これも同様に「七世紀半ば」を遡らないという意見があるようですが、この場合は更に「書体」(書風)と「文体」の問題も重なっているようです。
 この「薬師如来」の「光背」の「書体」は以前から所説があり、「定説」といえそうなものがありません。ただ、一部には「隋」から「初唐」の頃ではないかという見方もありますが、全体としては「前例」がない、つまり「独自」のものという認識が多いようです。
 また、「敬語表現」に関わる部分が「国語表現」となっている部分が多く、これは一般に「新しい」、つまり「後代的」であるという見方が通常ですが、(たとえば「天皇」に関する事について「大御身」「大身病」「大命」「大王」等の「大」表記が使用されていますが、このような表記は「日本風」であり「中国流」ではないと考えられます。)このような表記は、むしろ「漢文」を正確に理解していない、ないしは「漢文」で表現し切れていないという見方もできると考えられ、逆にかなり早期のものという捉え方もできるのではないでしょうか。その意味では「書体」が他に類例が少ないあるいはみられないとされることと関係しているかも知れません。

 普通「倭国」における「書体」(書風)は「中国」から「経典」などが渡ってきて、それを「写経」などするうちに、その経典の書体が一般化するという流れが想定されており、その意味からはそのような時期において「独自」というのはかなり考えにくいものといえます。それは「写経」などで「書体」をコピーするまで十分な「期間」が足りていないということも考えられ、「敬語表現」と同様かなり遡る時期を想定すべきである可能性を示唆するものです。
 これについては「漢文風の表現法によつては自らの敬意を満足しえず、また仏の尊貴が天皇の尊貴とならび考えられる時期」というのがこの「銘文」が書かれた時期として想定しうるという意見(※2)もあり、「大化改新」(六四五年)を遡上しない時期を推定されていますが、しかし、「天皇」号の使用開始時期、及び「天皇」つまり「倭国王」の権威が最大化され、また「仏」への尊敬が「倭国王」と変わらぬ程度まで上昇した時期というと、ただ一つ「阿毎多利思北孤」及び「利歌彌多仏利」が「倭国王」であった時期以外にないと考えられるものであり、この「銘文」はそのような時期に書かれたと推定するのが正しいと思われます。。

(※1)小川伸之「法隆寺金堂本尊について」(『史学』第四十三巻一九七〇年五月 慶應義塾大学)
(※2)東伏見邦英「法隆寺金堂薬師如来像管見」(京都大学文学部吏学科研究室『紀元二千六百年記念史学論文集』所収)


(この項の作成日 2012/11/24、最終更新 2013/05/10)(ホームページ記載記事を転記)


中国で発見された『維摩経疏』残巻について

2018年05月16日 | 古代史

 『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「(内大臣)鎌子」が「呉僧元興寺福亮法師」から『維摩経』の講説を受けたことが記されています。

『扶桑略記』
「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」

『日本帝皇年代記』
「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」

 また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。

『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日
「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」

 ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「家財」を投じていたことが窺えます。ここには「福亮」の名前はありませんが、ここでいう「講説」が「福亮法師」による「維摩経」講説を示すのは間違いないものと思料します。
 この時「福亮法師」が講説した内容が、「維摩経疏」に拠っていたという可能性はあると思われます。
 「講説」は「読経」するというより「経」の「奥義」を説明するものですから、少なくとも彼の「原稿」として『維摩経疏』のようなものがあったと考えるのは不自然ではありません。このために書かれたか、この「講説」の内容をまとめたものを『維摩経疏』としたかは不明ですが、この時点で『維摩経疏』が存在していた可能性が高く、そうであればその『維摩経疏』の「冒頭」には「元興寺」という所蔵寺院名が書かれたであろう事は想像に難くないと思われます。

 ここで出てくる「福亮法師」というのは、「法起寺塔露盤銘」にその名前が「聖徳太子」との関連で出てくるなど、「聖徳太子」に関わる人物と考えられています。
 彼を『三経義疏』、特に『維摩経疏』を著した人物として推定する考え方もあり、それは彼が「呉僧」であるとする資料が多いことも理由の一つのようです。「呉」つまり「南朝」の領域からの「渡来人」であるとすると、『維摩経疏』を含む『三経義疏』が「南朝仏教」に準拠している事とはつながるとも言えます。
 これら『三経義疏』は基本的に「南朝」の「光雲法師」などの建てた説を「本義」として採用していることが特徴であり、この『維摩経疏』なども著した人物は南朝と深い関係のあった事が窺えるものです。
 しかし、近年の研究(石井公成氏などのもの(※))により『維摩経疏』を含む『三経義疏』には「変格漢文」が多く、中国人の手によるものではないということが言われています。このことから、「福亮法師」の直接の手になるものとはいいにくいこととはなるでしょう。(ただし日本滞在がかなり長期に亘ったことは確かですから、母国語を「忘れた」と言うことはないとは言えませんが)
 このように『維摩経疏』を含む『三経義疏』についてその「著者」の正体が取りざたされているわけですが、少なくとも明確な事は『法華義疏』が「法隆寺」に伝来していたことであり、その『法華義疏』の(第一巻を除く)各巻冒頭に「法隆寺」と書かれていて、所蔵されていたのが「法隆寺」であることが示されていることです。

 ところで、『維摩経疏』については「二〇一二年」になって、中国に「断片」的資料があることが報告されました。それが「北京大学図書館蔵敦煌文献」第二冊の「鳩摩羅什」訳「唯摩詰経」巻下残巻です。この「末尾」に以下の文章があることが「韓昇氏」により報告されたのです。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
   「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 「韓昇氏」の報告によると、この二行に関しては本文とは筆跡が異なること、「経蔵法興寺」という部分だけが更に別の字体であり、これについては「拙劣」と表現されています。このことから「韓昇氏」は、いずれも後代に追加されたものという判定を下しているようです。
 上に見たように『維摩経疏』は当初「元興寺」にあったのではないかと推察したわけです。しかし、そう考えると、「残巻」の末尾に書かれた「経蔵法興寺」という記載は「矛盾」となるわけですが、一般には「元興寺」と「法興寺」は同一であるとされており、そうであればこの二つの寺院名の違いは問題ではないこととなります。しかし「法興寺」と「元興寺」が「同一」であるという主張は「平城京」遷都後に行なわれるようになると考えられ、それまでは『書紀』以外の資料には「元興寺」以外の寺名は現れません。「元興寺」と「法興寺」とが「同一」であるというのは「平城京」遷都以降に作り上げられたものであり、「偽伝承」であると考えられます。(『書紀』も基本的には同じ思想と推測されます)

 ところで、『法華義疏』の「第一巻冒頭」には「鋭利な刃物」で切り取られた部分がある事が確認されています。(表層部分だけが切り取られています)そこには僅かに「墨」の跡が確認されるだけで元々何と書いてあったか残念ながら不明ですが、古田氏も指摘するように(※)、本来そこには「所蔵」していた「寺院名」が書いてあったと思われます。それは「第二巻冒頭」以降の巻には「法隆寺」という寺院名が書かれている事からも明白です。
 先にも述べたように『維摩経疏』の冒頭には「元興寺」という寺院名が書かれていたであろうと推測したわけですが、その「類推」から考えて、この切り取られた『法華義疏』の「第一巻冒頭部」に書かれてあった寺院名も「元興寺」という寺名ではなかったでしょうか。それは、「法隆寺」の元々の名前は「元興寺」であったと思われるからです。

 前述したように「元興寺」という寺院は、同じく「勅願寺」と考えられる「法隆寺」と同一であったと推定されるわけです。このことは、「元興寺」に「福亮法師」もおり、『維摩経疏』もあったと考えられるにも関わらず、『法華義疏』が「法隆寺」に伝来していた理由にもなるものです。   
 『法華義疏』第一巻の冒頭にもし「法興寺」とあったのなら、そもそも切り取る必要がないと思われます。現にこの「中国」で発見された「残巻」には「法興寺」と追書されています。この部分は「古賀氏」がいうように、「後代追記」(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするはずという論理からいえば、『法華義疏』の切り取られた部分に「法興寺」と書いてあったであろうと仮定することは「残巻」の示す状況と矛盾することとなります。(もちろん「法隆寺」とあったものでもないでしょう)
 とすれば「法隆寺」でも「法興寺」でもない「寺名」がそこに書かれてあったことになり、可能性の高いものは「元興寺」とあったものではないかということとなります。
 つまり、なぜ「切り取られる」事となったのかというと、この「元興寺」という寺名は、「八世紀」以降(平城京遷都以降)の寺名とされているわけですから、「七世紀初め」という時期に「書いた」とか「写した」という書物に「元興寺」と出てくることは、「あってはならないこと」であったからであり、このため「切り取られる」事となったと思われます。
 つまり「七世紀初め」という段階で既に「元興寺」は「実在」していたものであり、この段階以前に『法華義疏』等の『三経義疏』は書かれたものと考えられます。そして、それらには各々の「冒頭部分」に「元興寺所蔵」いうことが書かれていたものと考えられるものです。
 そして、「八世紀」以降、「元興寺」に対して「法興寺」との「同一化」が図られた後『法華義疏』の冒頭(「第一巻」)から「元興寺」という寺名部分が切り取られたものであり、『維摩経疏』はその末尾に「法興寺」と「追記」の形で「所蔵寺院名」を書き換えられ、(冒頭部分がもし残っていたらそこには「元興寺」とあったか、『法華義疏』同様やはり「切り取られて」いるかどちらかであると考えられます。)「国外」に持ち出されたものと推定されます。
 『法華義疏』の第二巻以降に「法隆寺」とあることや、『維摩経義疏』の「末尾」に「法興寺」とあるのはいずれも「後代追記」であると考えられ、「八世紀」以降の「平城京」に「元興寺」が作られた時期以降に行なわれたものであると思われます。

 また「丈六銅仏」が当初「元興寺」に納入されたものの、すでに見たように「阿毎多利思北孤」の発病を契機として「釈迦三尊」が改めて「本尊」として「元興寺」に入ることとなったため、「追い出される」形で「丈六銅仏」は「飛鳥寺」に入ったものと見られます。これを踏まえ、「寺名変更」の時点でこの「飛鳥寺」に対し「法興寺」という寺号が改めて与えられたと思料します。それは「阿毎多利思北孤」に対する敬意の表現であり、彼の「勅願」により納入された「丈六銅仏」がその時点で存在していた「飛鳥寺」に対して、「法興寺」という「阿毎多利思北孤」の「法号」を寺名とする「破格」の扱いを与えることとなったと思われます。
 更にこの後「八世紀」に入ってから、「元興寺」隠蔽策として「法興寺」と「元興寺」の同一化が図られたものであり、それは「丈六銅仏」の存在と「法興寺」という「阿毎多利思北孤」に強く関連した寺号から考えてかなり「容易」であったと思われるものであり、この時点以降「元興寺」という「寺名」について、『後に与えられた「法興寺」の別名』という言い方をすることが可能となったものです。

 また複数の資料に「六五八年付近」で「元興寺」という「寺名」が現れており、また、「年輪年代測定」などから推定される「法隆寺」の建築年代が「六七〇年代後半」とされていることから考えて、「寺名変更」の「詔」の出された年次として「六七九年」という年次は基本的に肯定できるものであり、この年次に「寺名改定」が行なわれることとなった理由の一つが「元興寺」の移築という事業にあったものと考えられるものです。
 移築された以降の寺院については「元寺名」は捨て、新寺名とするという「ルール」でもあったものかと思われ、「法隆寺」と寺名を新たにつけることとなったと思われますが、このように「倭国」を代表する寺院(勅願寺)である「元興寺」でさえも「寺名」が変更となったのですから、他もかくあるべしということで、他の寺院についても同じように「寺名変更」を行う事となったという経緯ではなかったでしょうか。

(※)石井公成「三経義疏の語法」(『印度学仏教學研究』第五十七巻第一号二〇〇八年十二月所収)


(この項の作成日 2012/11/12、最終更新 2014/03/16)(ホームページ記載記事を転記)


「法隆寺」創建本尊について

2018年05月16日 | 古代史

 「法隆寺」には「薬師三尊」と「釈迦三尊」及び「阿弥陀三尊」があります。「釈迦三尊」は「光背銘」に「法興年号」が使用されているので有名ですし、また金堂の中央にあります。この三尊がこの金堂の、と言うより「法隆寺」の中心であるのは間違いありません。
 「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたのですが、完成半ばで「上宮法王」は死去してしまいます。完成は「上宮法皇」が亡くなった翌年三月のことであったようです。
 ところで、その中には「懐愁毒」という用語(言い回し)が出てきます。これは『大方便仏報恩経』という経典に典拠があるもののようです。(※)

「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」

 これによれば「如来」(釈迦)が天に昇り亡き母のために説法をしていた留守の間、「優填大王」は「心懷愁毒」つまり、恋慕の情が深く心を包んだため、牛頭栴檀(香木)で「釈迦」の姿を写した像を作って礼拝供養し、まるで「釈迦」がそこにいるかのようであった」と書かれています。
 これが書かれた「大方便仏報恩経」は「六朝末」から「唐」にかけて広く読まれたものです。これは「法華経」と共に倭国に流入していたと考えられ、この「釈迦三尊像光背銘」の文章はそのような教養の元に書かれたものと考えられます。
 この銘文は「太后が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示しているようです。このことから「上宮法王」という人物が「釈迦」に擬されていたということが明らかになったものと思料します。
 この用語の解析から考えても、「釈迦三尊」は「鬼前太后」が亡くなられた後から造り始められたものであることが分かりますが、そのことは「創建時」の「本尊」は「別」であったことを示します。では、それは「寺内」にある別の「仏像」なのかと考えるとそうでもなさそうです。たとえば「薬師三尊」であったかというと、それは違うようです。この「薬師三尊」はその「様式」や「鋳造技法」の面からは、もっと「新しい」と考えられ、七世紀後半の作と考えられています。
 また、「阿弥陀三尊」は「平安時代」に(最後に)加わったものであることが明らかになっています。
 さらに、「法隆寺」で「秘仏」とされてきた「救世観音」と「百済観音」が「本尊」であるとする考え方もありますが、いずれも「菩薩」であり、「如来」ではありません。(この「救世観音」と「百済観音」は「阿毎多利思北孤」の太子である「利歌彌多仏利」とその「皇后」であるという可能性も考えられるでしょう。)
 その創建が「隋帝」からの「訓令」による「法華経」推進であったとすると「本尊」としては「釈迦仏」ないしは「阿弥陀仏」であったと想定するのが正しいでしょう。そう考えると、「元々の本尊」といえるものは、この「法隆寺」の中には存在していないこととなります。そのことは、この「法隆寺」が「他所」からの「移築」であること、「法隆寺」という寺名が「寺名確定」の「詔」が出された後のものであると考えられることなどから、「本尊」は今現在は失われたか、あるいは別の寺院に納められているという可能性が考えられます。
 これについては「六〇六年」に「元興寺」の金堂に「丈六仏像」を納めたという記事を考える必要があるでしょう。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰(八日)。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」
 
 この記事は「仏陀」の誕生日である「四月八日」に併せて「仏像」を金堂に納めるという計画であった事を示すものですが、また、後半に書かれている「自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」という文章からも「灌仏会」と「盂蘭盆会」がこの時から始まったという事を意味すると考えられます。
 「灌仏会」は「釈迦」の誕生日を祝うものですから、この時の「仏像」納入というものが「釈迦」に対する「信仰」を表すものであることを示すものと思われ、このことからこの時納められた「銅像」は「釈迦像」であったことを示すものと思われます。しかし、この時納入された「仏像」は二体であり、一体は「繍仏」でした。これは「繍帳」であったと考えられますが、そこに描かれたものは「阿弥陀来迎図」のようなものではなかったでしょうか。そう考えるのはすでに見たように「法隆寺」の創建と「法華経」の伝来に深い関係があるからです。
 
 当時の「倭国王」が「法華経」に共感したのはなぜかと言うことを考えると、「阿弥陀」と「自分」という存在が「相似形」であることを意識したのではないかと考えられます。
 「阿弥陀如来」は元々西方の国の「王」であったとされ、「民」を救うためには「政治」だけでは足りないとされ、「修行」され「悟り」を開き「如来」となられ、多くの人々を救ったとされているのです。
 このような「大乗」の教えはそれまでの「小乗」の教えと違い、自分が助かるだけではなく、多くの人々を救済するという「王」としての自らの「統治」の根本を為すテーマに合致するものであったものと思われます。
 このことから「主仏」としては「銅仏」として「釈迦仏」を戴き、「副」としては「繍帳」に「阿弥陀仏」を描き、これらを「内陣空間」に配置していたのではないでしょうか。

 「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型として知られていますが、その表面下部の「須彌座」部分には「阿弥陀如来」と考えられる像が描かれています。実際の「金堂」空間はこれを発展拡大したものが配置されていたと考えられ、それと「釈迦銅仏」の双方を「本尊」としていると思われます。その際の「釈迦仏」の「脇侍」としては通常(後の「釈迦三尊像」のように)「薬王」「薬上」両菩薩であると考えられるのに対して、この時は「救世観音」と「百済観音」と言う、「真影」つまり「倭国王」の実際の姿とその「后」を「模した」観音像を配したものと推定されます。
 「救世観音像」が「菩薩」や「如来」の伝統的な面貌ではないことからも「真影」という伝承は正しいと言えるでしょう。その顔についていえば、「唇」や「鼻」「眉」などに古来の理想的な「仏」の容貌は窺えず、かなり個性的なものとなっており、これは明らかに実物の人間を写したと考えられるものであり、これは当時の「倭国王」(利歌彌多仏利か)の実際の顔を表すものではないかと推量されるものです。

 「阿弥陀如来」がこの金堂の本来の「主仏」であったことは「金堂」が本来「東面」していたと考えられる事からも分かります。
 現在の金堂は「南面」しており、その内陣に「釈迦三尊像」が置かれ、「西側」の壁に「阿弥陀三尊像」、「東側」の壁に「釈迦三尊像」という配置形式になっています。しかし、「昭和の大修理」の結果から当初は「南北」方向を長手にした「東面金堂」であったことが推測され、この場合は「内陣」の中央に「阿弥陀繍仏」が置かれていたという可能性が強いといえます。それは寺域の「西」側に「南北」方向に配置された金堂はその本尊に向かうと「西方浄土」を向くこととなるわけであり、そのことからこの金堂の「本尊」(少なくとも「釈迦仏」と同格)が「阿弥陀仏」であったという可能性が強いと考えられるからです。
 その後「阿毎多利思北孤」の病が進行するに従い、伏して起き上がることが出来なくなり、臣下の目に入ることがなくなったことから、「釈迦」が「天に昇り母に説法」していた伝承になぞらえ、「尺寸王身」の「釈迦仏像」を造り、それを代わりに礼拝することとしたとみられます。
 こう考えると「阿毎多利思北孤」の死後もその製作を止めなかったという理由も分かります。亡くなって会えなくなればかえってその必要性は高まるからです。
 また現在の「金堂」が「東西」方向に向いているのは、造られた「釈迦像」が「尺寸王身」という「阿毎多利思北孤」本人を模しているからと考えられ、その場合「釈迦像」は「倭国王」そのものであったわけですから、「天子は北面する」という思想から「南面金堂」へ変更したという可能性が考えられ、その場合、すでに「筑紫」にあった段階で「金堂」の向きが変更されたという可能性が考えられます。

 また現在の脇侍については、鎌倉時代に書かれた『古今目録抄』において「薬王・薬上菩薩」とされています。
 これについては「亀田孜氏」の研究(※)があり、そこではこの「脇侍」は「法華経」の「薬王菩薩本事品」などに基づくものであり、『「法華経」を信仰する女性は死後に阿弥陀の極楽浄土に往生できるとある』と指摘しています。また、「脇侍」本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているとされ、それは「薬王菩薩本事品」の「女人の往生者は「蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているとされます。

「法華経 薬王菩薩本事品」
「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」

 この「法華経」の内容に基づき、「脇侍」が造られているとされており、そのことからこの両「脇侍」が「女人」を表しているとするのです。つまり、これらは「阿毎多利思北孤」の「生母」である「鬼前太后」と、「王后」である「干食王后」を表していると見られるとの指摘であり、強く首肯できるものです。


(※)亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」(『仏教芸術』132号1980年)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/01/11)(ホームページ記載記事を転記)


「法隆寺」と「元興寺」

2018年05月16日 | 古代史

 『書紀』の「元興寺」への「丈六仏」の納入に関して、天皇以下諸臣に至るまで「共同發誓願」したのとほぼ同じ「形式」の出来事が「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘にも書かれています。

(以下「釈迦三尊像」の光背銘を抜粋)
「…法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間…」

 ここでは、「太后」が亡くなり、「法皇」も病に倒れ、「王后」も「疲労」してしまうと言う状態になったので、「王后王子等及與諸臣懐愁毒共相發願」したとされています。「元興寺」の例と同じように「皇太子以下諸臣に至るまで」という「勅願」に準じるレベルのものであり、「共同發誓願」と「共相發願」というように文言も似通っています。このことから、この「法隆寺」も「勅願寺」であったのではないか、と考えられるものであり、「両寺院」(「釈迦三尊像」が納められるべき寺と、「丈六仏像」が納められていた寺)とは、同一であった可能性が示唆されます。少なくともこの二つの寺院は「性格」の非常によく似たものであることは間違いないでしょう。
 「法隆寺」が「勅願寺」、つまり「倭国王権」に直結する「寺院」であると言うことは、その「建築方式」を検証することでも判明します。

 川端俊一郎氏の研究(※)により「法隆寺」には、その設計に際して「営造法式」が適用されていると推定されています。
 「営造法式」」とは十二世紀初頭に「北宋」の「李明仲」がまとめたものですから、もちろん「法隆寺」が「営造法式」に基づいて造られているはずはないわけですが、「営造法式」の内容はそれまでの中国建築技術の集大成であると考えられており、その建築基準や技術は南北朝時代まで遡るものと考えられ、「法隆寺」の建築時点でも建築の際の基準として機能していたことが推定できます。
 またこの「営造法式」はもっぱら寺社建築に適用されるものであり、そこで「一等材」とされる材は各代によってやや異なるとされ、それが「隋・唐」の時代であるなら「唐尺」(=隋尺)である「29.6センチメートル」が基準値とされており、以下「法式」により等級が各々決められているとされます。
 「法隆寺」の場合はその建物構造から考えて「殿堂法式」であると推定されています。このような「建物」は日本では「法隆寺金堂」と「五重塔」だけであるとされています。「殿堂法式」は間口の広い、梁の長い、規模の大きい建物に使用されるものであり、「勅願寺」にふさわしい規格であることが理解できます。(ただしその寸法が「川端氏」が云うように「南朝尺基準」であるかは現在不明と言えます。)
 こう考えてくると、「勅願寺」が「複数」あったと言うこととなりますが、それはありうるのでしょうか。「王」の「勅願」というのは「重大」であり、それはある意味「選ばれた」存在であると考えられるものです。
 たとえば「法隆寺」の「釈迦像」などについて考えても、そのような経緯で作られた「釈迦像」などは他のどこにも存在していません。この「法隆寺」という寺院において「特別」にこの「釈迦像」が「王后以下諸臣に至るまで」の総意で作られているものであり、そうであれば「勅願寺」としてはこの当時「法隆寺」だけが存在していたこととなると考えられます。
 このことから、「元興寺」と「法隆寺」は実は、「同一」の寺院を指すと推定されるものであり、「寺名」の違いはその使用された「時期」の違いであると考えられるものです。
 これに関しては大越氏の研究(「法興寺研究」『市民の古代』第七集 古田武彦とともに 一九八五年所収」)があり、そこでは『天武紀』に出された「寺名確定」の詔について言及されています。結論への当否は別として、これは重大な示唆を受けるものであり、これにより「元興寺」は「法隆寺」の元々の寺院名であり、『天武紀』に記された「寺名」確定の「詔」により「切り替り」があったものと思料します。

 「(天武)八年(六七九年)夏四月辛亥朔乙卯条」「詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」

 本来「寺名」はその宗派で重んじる「経典」に由来しているかそれが建てられている場所によるかのいずれかと考えられますが、いずれにしろ基本的には「自称」であると考えられるのに対して、この記事は「定」という言葉が示すようにそのような「未定」あるいは「不確定」であって「通称」あるいは「自称」のレベルであったような寺名を「国家」として「命名」した事を示すものであり、この時点で、「寺院」が「国家」の管理に入ったことを示します。それはその直前に「寺封」記事があることでも分かります。「寺」に対して「国家」が「補助」を行うということは、全ての「寺院」が「半ば国有化」されたようなことを示すと考えられ、その時点で「私寺」と「官寺」「勅願寺」などの「差」がなくなった事を示すのではないかと考えられます。
 これを示すと思われるのが、『七代記』の記事です。それによれば「上宮太子」が「造立」した寺院が「八個所」あるとされ、そこでは以下のように書かれています。

「上宮太子造立寺合八所 四天王寺時俗爲荒陵寺 法隆寺時人名爲鵤僧寺 法興寺時俗呼爲鵤尼寺 法起寺時人喚爲池後寺 菩提寺時人喚爲橘尼寺 定林寺世人名爲立部寺 妙安寺世人名爲葛木尼寺 廣隆寺時俗号爲蜂岡寺 已上依日本記等略抄出其梗概耳」

 ここでは「時俗爲」「時人名」「時俗呼」等々「通称」とも言うべき名称と「正式名称」と二つ書かれていると考えられ、「時」という表現からも、これらの「通称」が当初行われていたものが、後代になってこれらの「正式名称」が定められたものという推測が可能であり、その根拠としては上に見た「天武」の詔が考えられるものです。
 『聖徳太子傳補闕記』にも以下のように「斑鳩寺」「蜂岡寺」として出てきますが、これらの「名称」がその時代には寺院名として使用されていたことが窺えます。

「…『斑鳩寺』被災之後 衆人不得定寺地 故百濟入師率衆人 令造葛野『蜂岡寺』 …」

 そう理解するならば「法興寺」も「法隆寺」も「後代」の「定められた寺院名」であることとなり、たとえば「法興寺」を移築して「法隆寺」としたとははなはだ言いにくくなります。
 また、「法興寺」についてはそもそも「通称」として「斑鳩尼寺」とされているのに対して、『書紀』の記事によると当初から「僧(法師)」が住持していたとされており、食い違いがあります。
 しかし、『元興寺縁起』を見るとその創建に関与して「丁未年」(五八七年)「用明天皇二年」に「百済」から使者が訪れ、彼が「『法師寺』(尼僧ではなく男性の僧の寺)を作るべき」と「天皇」に語った事から、建てられる事となったと書かれています。これによれば、それまでに「尼僧」の寺(尼寺)が存在していたことを示しており、それが「法興寺」の「前身寺院」なのかも知れません。

『元興寺伽藍縁起併びに流記資財帳』
「…然るに久しからざる間、丁未年、百濟の客來たる。官の問いて言いしく、「この三尼等、百濟國に度り受戒せんと欲す。この事云何にすべきや」と。時に蕃客(あたしくにのつかい)答えて曰く、「尼等が受戒の法は、尼寺の内に先ず十尼師を請(ま)せて已に本戒を受け、即ち法師寺に詣り十法師を請す。先の尼師十と合せて二十師が所に本戒を受けるなり。然るに此の國は但尼寺有りて法師寺及び僧無し。尼等、若し法の如く爲さんとせば、法師寺を設け、百濟國の僧尼等を請いて受戒せしむべし」と白しき。…」
 
 近年発見された「資料」である『日本帝皇年代記』には「寺院名」がかなり多数出てきます。これらはいずれも「初出」の段階で必ず「創建」が語られています。しかし、「元興寺」には「創建伝承」が書かれていません。同様に直接的な「創建」に関する記事がない「善光寺」については「善光寺如来」が出現したという言い方で「間接的」に語られています。そうすると、『年代記』中に「寺名」が登場する「寺院」の中で「創建」が語られていないのは「元興寺」だけとなります。

(以下『年代記』中の「元興寺記事」)
①己巳(光元)五(六〇九年) 百済国沙門慧弥・道欣来朝、居元興寺、/太子製勝鬘経疏(この記事は『書紀』に同様の記事があります。)
②壬子白雉 依長門国上白雉也、/元興寺仁王會并最勝講始之
③戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識
 
 他の寺院(「四天王寺」「蜂岡寺」「橘寺」「大安寺」「山階寺」「(崇)福寺」「観音寺」(観世音寺)「禅林寺」(當麻寺)「薬師寺」「大官大寺」「興福寺」「長谷寺」そして「法隆寺」)については、その「創建」が記されているのに対して、「元興寺」は上のように複数の記事があるのにも関わらず、「創建記事」が欠けているのです。(逆に「法隆寺」はその創建が語られているもののそれ以降は一切登場しません。)
 つまり「年代記」中では「いつの間にか」「元興寺」はそこにあるということとなります。これは『書紀』などで「太宰府」が同様の扱いとなっていることを想起させるものです。このような「重要」な官衙なり寺院なりが「いつのまにか」建っていると言うことはあり得ず、それが書かれていないのは、その創建について語ることが「タブー」となっていたことを示唆します。(「法隆寺」の創建が語られていることからも、後の時代の「建前」により書かれているという点は隠せません。)
 
 つまり、推定に拠ればこの「寺名確定」の「詔」が出された時点で「元興寺」から「法隆寺」へと寺名が変更になったものと見られるわけです。
 その後「八世紀」以降の「日本国王権」により「元興寺」と「法隆寺」との間の関連を断ち切り、「法隆寺」と「斑鳩寺」の同一化及び「法興寺」と「元興寺」の同一化が図られたと考えられます。
 冒頭に述べたように「複雑」な「寺号」の変遷とその共存は、「元興寺」を巡る事実関係に「隠蔽」せざるを得ないものが背後にあることを強く示唆するものです。(平城京に存在している「いわゆる」「元興寺」は、そのためにこしらえた「寺院」であり、「本来」の「元興寺」とも「飛鳥寺」とも全く関係のない寺院であったと思料します。)それは「法隆寺」が倭国王の勅願寺であり、「筑紫」に存在していたという事実を消去する目的であったと考えられます。その目的のために、「斑鳩寺」が焼亡したことを幸いとしてこれとの同一化を目論んだと見られるわけです。このため、「公的記録」において、「焼亡」した時期をずっと後代のことと「潤色」し、「斑鳩寺」とのつながりを「連続」と見えるように細工したと推定します。

 そもそも「平城京」の「元興寺」には『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』という資料が残されていますが、それには明確に「元興寺」と「寺名」が書かれていること、つまり「国家」により「認定」された「正式名」が「元興寺」であるということが示されているにも関わらず、『書紀』の中に「法興寺」と「元興寺」さらには「飛鳥寺」が混在しており、またその中で最も「出現数」が少ないのがその「元興寺」という寺名であるという不審点を考えると、上に述べたような「法興寺」や「飛鳥寺」と「当初」の「元興寺」とは「別」の寺院であるということは明白であると思われます。

 「高麗国王」から「貢上」された(というよりは「倭国側」から招請したものと思われますが)「慧灌法師」は「元興寺」に住していたとされています。

「…百済仏法傳日域。後至推古天皇御宇三十三年乙酉。経七十四年當大唐高祖武徳八年乙酉。此年高麗国王貢僧慧灌来朝。此乃三論學者。随大唐嘉祥大師。受學三論而来日本。是日域界三論始祖。…至第三十七代聖主孝徳天皇御宇。乃請『元興寺』僧高麗慧灌法師令講三論。」(『三国仏法伝通縁起(中巻)』より)

 また「福亮法師」も先に述べたように「元興寺」に住していました。また彼の息子とされる「智蔵法師」の弟子の「道慈」「智光」「禮光」も「元興寺」にいたものです。
 さらには「道照」(道昭)も「遣唐使」として「白雉年間」に派遣された後、帰国後は「元興寺」に禅院を造りそこに居していたとされます。
(以下は「道昭」が死去した際の『文武紀』に書かれた「伝記」様のものです)

「文武四年(七〇〇年)三月己未条」
「道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。甞弟子欲究其性。竊穿便器。漏汚被褥。和尚乃微笑曰。放蕩小子汚人之床。竟無復一言焉。初孝徳天皇白雉四年。隨使入唐。適遇玄弉三藏。師受業焉。…於『元興寺』東南隅。別建禪院而住焉。于時天下行業之徒。從和尚學禪焉。於後周遊天下。路傍穿井。諸津濟處。儲船造橋。乃山背國宇治橋。和尚之所創造者也。和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。…」

 彼らはいずれも「国家」の権力の元に派遣され、また来倭したものであり、「国家」が強く関与しているのは明らかですが、そのような場合「常住」する場所としてはいずれも「元興寺」と記されています。このことは「元興寺」という寺院が「官寺」の中でも「最高」の地位、つまり「勅願寺」であったことを如実に示すものと思われます。
 しかし、「元亨釈書」には「福亮法師」の「息子」である「釋智藏」について、「入此土居法隆寺。」つまり「帰国」してからは「法隆寺」に所在していたとされていることが注目されます。上に見たように彼の場合、「父」である「福亮法師」もその師匠である「慧灌法師」もさらには「智蔵」の弟子達も全て「元興寺」に所在していたわけですから、彼が帰国して以降当然「元興寺」に居するのは当然と思われる中で、記事では「法隆寺」にいたとされるわけですから、ここに「元興寺」と「法隆寺」とが同一の寺院であるということが示されていると思われます。


(※)川端俊一郎『法隆寺の物差し』ミネルヴァ書房二〇〇四年


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2013/04/04)(ホームページ記載記事を転記)