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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「巫覡」と障害者

2018年01月21日 | 古代史

以前「卑弥呼」の即位に関し、彼女の霊的能力が優れていることがその即位において重要な理由となったことを示しました。(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/76d7d086997902cc25c057198fa5fcf7)。
 私見では当時の「邪馬壹国」統治範囲において「大疫」が発生し収束のめどが立たなくなったことがそのような「霊能力者」が「王」として登場することを促したと見たわけですが、その際そのような霊的能力の優れた者は実生活においてはほぼ無能であるという論旨を展開しました。
 そもそも当時の霊能力者(巫覡)という存在そのものが、あるものは幼少であり、あるものは身体あるいは精神に正常でない部分があるという可能性があることを推察したわけですが、そのことについて古典上に同趣旨の記事を確認しましたので報告します。

「歲旱,穆公召縣子而問然,曰:「天久不雨,吾欲暴而奚若?」曰:「天久不雨,而暴人之疾子,虐,毋乃不可與?」「然則吾欲暴巫而奚若?」曰:「天則不雨,而望之愚婦人,於以求之,毋乃已疏乎?」「徙市則奚若?」曰:「天子崩,巷市七日;諸侯薨,巷市三日。為之徙市,不亦可乎。」(『禮記 檀弓下』より)

 これによれば「旱」(ひでり)が続いたので「穆公」が「縣子」に「尩」を傷つけようとしたり、「巫」を傷つけようとしたりしていますが、これはそのような習俗が以前から行われていたことを示します。ここでは「尩」と「巫」が並べて検討されていますが、「尩」については「疾子」とも称されていますから、何らかの不具を抱えていた人であることが覗われます。それと「巫」とが同列に扱われているわけです。
 同様の例は『春秋左氏伝』にも確認できます。

「二十一年…夏,大旱,公欲焚巫、尫。臧文仲曰:「非旱備也。脩城郭,貶食省用,務穡勸分,此其務也,巫、尫何為?天欲殺之,則如勿生。若能為旱,焚之滋甚。」公從之。是歲也,饑而不害。」(『春秋左氏伝僖公二十一年条』より)

 ここでも「巫、尫」が同列に扱われており、共に「大旱」という事象に対し「焚」つまり焼き殺すことが検討されています。
 このように天変地異などの災厄に対し「巫」(巫覡)と「疾子」つまり身体に不具合のあった人が同じ扱いをされているわけですが、さらに時代を遡上すると「巫覡」そのものが身体に障害のある者であったことが記されています。

「相陰陽,占祲兆,鑽龜陳卦,主攘擇五卜,知其吉凶妖祥,傴巫跛擊之事也。」(『荀子王制篇』より)

 ここには「巫覡」の職掌とでも言うべきものが示されていますが、その「巫覡」については「傴巫」と「跛擊」というように並び称されており、「傴」とはいわゆる「せむし」のことであって、それも含む身体障害者であったと思われますし、「跛擊」とは「跛」つまり足の不自由な「撃」(覡)であったと思われますから、いずれからも「巫覡」が身体に障害のある者であったことが推察できます。

 これらから先に検討した「卑弥呼」「壹與」についてやはり実生活において何らの能力も有していないと推察したことが妥当なものであったことが明らかとなったと思われ、その意味で「佐治」していたという男弟の存在が非常に重要であったことが「邪馬壹国」という存在を解析検討する上で外せない要素であると考えられるわけです。(推測によれば「壹與」即位以降においても「卑弥呼」の男弟が変わらず「佐治」していたと見られます)

 

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「戸」と「家」の違い(追加)

2018年01月20日 | 古代史

 遅れましたが、御覧いただいている皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 ところで、すでに『「戸」と「家」の違い』(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/27518e7d3ed01868110a16b22c89b0e2)などで触れましたが、『魏志倭人伝』に現れる「戸」と「家」については「戸」が制度としてのもの、「家」については「家(いえ)」と内実は異ならないとみました。今回『養老律令』やその解説書(但し公的なものではない)である『令集解』でも「戸」と「家」はほぼ同義で使用されていることを確認しましたので報告します。

 たとえば『養老律令』の「戸令」では「(戸主条)凡戸主。皆以家長為之。」とあり、「家」の長が「戸」の「主」であるとされているわけですから、「戸」の内実が「家」であることが示されていると思われます。
 また『令集解』の「戸令」の条でも「戸謂。一家為一戸也。」とあり、ここでは明確に「戸」と「家」が同義であることを示されています。
 『養老律令』やその前身の『大宝律令』でも(多分それ以前の古律令においても)その母体は隋・唐の律令にあるのは明らかですから、「戸」と「家」についての関係も隋・唐に淵源すると思われますが、その隋・唐の律令はその時点で目新しく造られたものではなく、究極的には(秦)漢・魏・晋時代の律令につながっています。その意味で魏の使者が使用した「戸」と「家」の意義と大きくは異ならないはずであり、基本的な制度あるいは構造として、いわば制度としての「戸」の構成要素の主たるものは父母妻子兄弟という自然発生的な家族関係が中心にある「家」というものであったとおもわれるわけです。 
 また先に見た『養老律令』の「戸令」にも課役の義務がないものとして「不課。謂。皇親。及八位以上。男年十六以下。并蔭子。耆。癈疾。篤疾。妻。妾。女。家人。。」とありますが、これらは「家長」の率いる「戸」の構成要因として書かれているように思われますから、「父母妻子」以外に「家」の中に寝食を共にする者がいたことを示唆するものであり、それらが一つの「戸」として行政の網がかかっていたことを示します。この状態も「三世紀」の「卑弥呼」の時代に遡上する可能性は否定できないと思われるわけです。

 ただし、この「子」と「家」が常に等しい内実を持ちまた数量的にも等しいということではなかったと思われ、それは『倭人伝』でも「…有屋室、父母兄弟臥息異處。…」とあり、「家」の実態が「父母兄弟」が基本的単位であることを示しているものの、同じく『倭人伝』には「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」とあり、これら「四五婦」や「二三婦」の全員が一つ屋根の下に暮らしていたとも考えられませんから、彼等が一つの『家』を形成してはいないと思われ、この時点ですでに「戸」と「家」が異なる場合もあったことが推定できます。さらに「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」と書かれていることから、「妻子」というのが「家」であり、それを含む複数の「家」で構成される「門戸」というものが存在していたことを推定させますが、この「門戸」が『倭人伝』の中に多く見られる「戸」と同義であると見るのは間違いではないでしょう。

 これらからいえることは「家」の内実に関わらず「戸」と「家」はほぼ等しいと思われるものの、場合により複数の「家」を含む場合もあったらしいことと推察されるものです。いずれにしても「戸」というものがいわば制度としての形而上的存在であり、外からそれと分かるものではなかったのは確かであり、魏使が「戸」を把握できなかった場合「家」で代用せざるを得なかったというのもまた確かでしょう。

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