古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

大地震とその復興策

2018年06月10日 | 古代史

 「六七八年」と「六八四年」に二つの大きい地震が日本列島を襲いました。

「六七八年」には「筑紫大地震」が発生しました。

 「(天武)七年(六七八)十二月・是月筑紫國大地動之、地裂。廣二丈。長三千餘丈。百姓舍屋毎村多仆壊。是時百姓一家有岡上、當于地動夕以岡崩、處遷。然家既全而無破壊。家人不知岡崩、家避。但會明後知以大驚焉。」

 更にこれに引き続くように「六八四年」には「東南海地震」と推定される大地震が列島を襲いました。

 「(天武)十三年(六八四)十月壬辰(十四)逮于人定大地震。擧國男女唱不知東西。則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝數。由是人民及六畜多死傷之。時伊豫湯泉沒而不出。土左國田苑五十餘萬頃沒、爲海。古老曰「若是地動未曾有也。」

 さらに、上の文章に続けて以下の文章が書かれています。

「是夕有鳴聲如鼓聞于東方。有人曰 伊豆嶋西北二面自然増益三百餘丈、更爲一嶋。則如鼓音神造是嶋響也。」

 この記述は「南海地震」と必ず「対」で発生する「東海地震」の発生を示唆しているようです。
 「南海地震」と「東海地震」は時には「同時」、時には「二年」ほどの間をおいて過去必ず発生しているものであり、この時も「同じ日」に発生したものと推察されます。(地震の遺跡が東海地域を中心に確認されています)

 この二つの大きい地震では記載内容に違いが見られます。そもそも「六七八年」の筑紫地震は「発生日」が明確には書いてありません。後日、伝聞による情報により記載したように受け取られます。(報告書を見て書いたような)つまり、地震があった際には「倭国中枢部」では甚だしい揺れを感じなかったという事でしょう。それに対し「六八四年」のいわゆる「白鳳地震(東南海連動地震)」では発生日や地震についての描写がより詳しいと思われますし、その描写の中で「擧國」という表現があり、「国中」に被害があった事を示しています。また、「白鳳地震」の際の描写の方が「臨場感」があり、これは「藤原京」や「難波京」においてもかなりの被害があったのではないかと思われるものです。
 このことはこの時の「倭国中枢」が「筑紫」にはなかった事を示しているように思えます。つまり「筑紫大地震」の記載の異様に簡素なことが示す真実は、「筑紫」に倭国の本拠がなかったことを示すものであり、この段階では「副都藤原京」に「倭国王権」が居在していたという可能性が高いと思われます。

 「六七八年」に発生した「筑紫の地震」が「活断層」の活動による直下型地震であり、二〇一七年に発生した熊本地震と同様非常に強い「縦揺れ」があったものの、影響を受ける地域が割合狭く限定されるのに対して、「南海」「東南海」「東海」三連動地震は、いわゆる「海溝型地震」であり、海底に震源を持ち、津波と強い「横揺れ」が特徴であって、広い範囲に影響が及ぶものであったと考えられます。このため、倒壊した建物の数や被害の程度は圧倒的に「六八四年地震」の方が大きかったものと推定されます。
 『書紀』にも「諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝數」とあるように、たとえば「回廊」の壁が倒壊した状態で出土した「山田寺」などがそうと推定されているように、近畿方面の各官衙や寺院などに多大な被害があったことが推測されます。
 「掘立柱式建築」にしろ「礎石建物」にせよ、長い周期の横揺れには弱かったと考えられ、近畿では倒壊した建物が多数に上ったと見られます。

 この地震は「巨大」地震であり、また「その被害」が「広範囲」に渡ったことと思われ、このため諸国は大打撃を受け、疲弊したことと考えられます。「難波」や「飛鳥」でもかなりの倒壊した建物などがあったものと考えられ、復旧もなかなかままならなかったと推定されるものです。
 この時の「大地震」は二〇〇年ほどの周期で繰り返して起きているものであり、その履歴を検討するとマグニチュードに換算して9.0にかなり近い値も想定すべきほどの巨大なエネルギーを繰り返し放出していて、現代においても「中央防災会議」の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」が出した「まとめ」によると(二〇一二年七月の中間報告による)、「東日本大震災を超え、国難ともいえる巨大災害」という位置づけをされているようです。
 この「白鳳」の地震においてもそれに匹敵する巨大さであったのではないかと考えられ、そこからの「復興」には多難な道のりがあったことを想定させます。
 『二中歴』の「年代歴」の「朱雀」の項には「細注」として「兵乱海賊始起」(「戦いで世の中が乱れ、海賊が始めて起きた」)ということが書かれていますが、その原因のひとつはこの「地震」によると考えられ、国内体制が大きく動揺した結果、生活に苦しむ人々が多量に発生したことが「反乱」を起こす人たちや、「海賊」を生むこととなったのではないかと推察されるものです。

 このように、四国、近畿、東海地方に多大な被害を与えたと考えられる災害が発生したわけですから、「倭国王権」としては政権運営に非常に影響したものと考えられます。
 この「大地震」の直後に「朱雀」改元が実施されますが、それまで「改元」の理由としては「遷都改元」であったものであり、それは本質的に「遷都」に関わる「邪」を払い「福」を招く意義があったと見られますが、ここでは「地震」によって疲弊した現状から再び立ち上がることを「祈願」したものと推察されます。そして、当時の「倭国王朝」は疲弊した諸国を救うために諸々の施策を実施していくわけです。

 この地震による被害は「第一次藤原京」においてもかなりの程度であったと思われ、損傷が大きかった「宮殿」を放棄し「都城中央部」付近に改めて「宮殿」を造ることとしたものと思われ、その際に「筑紫宮殿」に合わせ、「礎石造り総瓦葺き」建物へと造り替えをすることとなったものと推量されます。
 「宮域」が変更になったため、排水ルートなどにおいても変更が加えられた結果、下層条坊のかなりの部分が改廃され、新しい都城が造られることとなったものでしょう。また、この「第二次藤原京」建設については、「震災」により、家や仕事を失った人々に対する「失業対策」的公共事業の意味合いがあったという可能性もあると思料されます。

 さらに「倭国王権」は、上に見たように「六七八年」の「筑紫地震」の直後には諸寺院の創建あるいは「薬師寺」や「元興寺」の移築を行なうなどの施策を実行しますが、(これは呪術的意味合いがあったものと推量しますが)、さらに「六八四年」の「連動地震」の後の「六八五年」には各地に使者を派遣し、諸国の状況を視察させ、それを踏まえて「朱鳥元年」(六八六年)に「徳政令」を発布しますが、これも同様な意図の元のものであったと推定されます。

「(朱鳥)元年(六八六年)七月…
丁巳。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。乙酉年十二月卅日以前。不問公私皆兔原。」

 さらに翌年には、前年実施した「徳政令」の第二弾がでます。

「(持統)元年(六八七年)秋七月癸亥朔甲子。詔曰凡負債者自乙酉年以前物莫収利也。若既役身者不得役利。」

 つまり、「借金」の元本についての「免除」の詔勅が出され、翌年には「利息」についても免除する詔勅が出されているのです。またすでに「労働」による「借金」返済の方法に至っているものについても「利息分」については免除する、という内容でした。これは「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。
 「役身折酬」とは『養老令』「雑令」に定めがあるものであり、「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。

(以下『養老令』雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」

(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」

 この「六八六年」という段階では「大宝令」はもとより「浄御原律令」も未成立であったはずですが、「貸稲」が行われ利息がそれに伴うという現実が実際には「弥生」以来行われていたことが推定できるわけですから、債務を返済できなくなった人々も必ず一定数発生したと思われるものです。それらの人々に対する返済方法として「労働の対価で払う」という方法も必ず行われていたであろう事も理解できます。それを「律令」によって制度化したものと思われるわけです。
 この「朱鳥」の二回にわたる「徳政令」によって、「役身折酬」を行なわざるを得なかったものも全て解放されることとなったものと思われるわけです。

 このように「筑紫大地震」に引き続き「白鳳大地震」が発生したことにより、人々の「負債」が大量に増加し、「多重債務」を抱える人々が多量に発生したものと思われるものであり、このため地震からの「復興」のためには、民衆の負担を減らす必要があると考えた「倭国王権」は、「元本」と「利息」の「免除」という思い切った策を行ったものと思われるわけです。しかし、「人心の安定」と国内体制の収拾を狙って行ったこれらの施策も、逆に「債権者」の立場から言うと「大問題」であり、かえって体制が動揺する原因を作ってしまい、内部に不穏分子を多数抱える事態となったものではなかったかと思われます。
 これらの「債権者」は「公私を問わず」という表現からも、「大土地所有者」を含んでいたことは明らかであり、その主要な人々は地震等の影響が少なかったと考えられる「東山道」(「美濃国」以東)周辺や「関東」地域などの「諸国」の権力者達ではなかったかと考えられます。
 「東国」には既にみたように「諸王」「諸臣」の「封戸」も「西国」から振替えられており、「東山道」など「古代官道」の整備が完了した結果として「東国」の「支配強化」が行われていたものですが、さらに「藤原京」の「造り替え」という事業が重なるなどの負担増があった上に「徳政令」により債権も回収できなくなったしまったわけですから、「東国」の権力者達の「倭国王権」の支配に対する「反発」はかなり強くなったことが推定されます。


(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2017/10/05)

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「下層条坊」の性格について

2018年06月10日 | 古代史

 この「第一次藤原京」の整備時期としては本来かなり早い時期からスタートする予定であったと思われますが、「半島情勢」など「不確定要素」がかなりあったため、延び延びとなっていたという可能性もあります。
 少なくとも「六七〇年代前半」から始められたものと考えられ、「タイミング」としては「唐」「新羅」との戦いで捕囚生活を送っていた「薩夜麻」帰国後のことと考えるのが自然です。そして、それはやはり「唐」の軍事力を強く警戒した結果の「副都」整備事業であったと考えられるものです。

 「薩夜麻」は「唐」(「熊津都督府」至近の地か)に「捕囚」となっていたものと考えられ、「唐」軍の脅威を肌にしみて感じていたものでしょう。それは解放された後も強く抱いていたものであり、帰国後早速「難波」に続く「副都」を建設することとしたと考えられます。
 その「唐」の脅威というものは一部現実のものとなり、「六七〇年代半ば」には「唐」と「新羅」との間の争いが本格化することとなります。
 「六七四年二月」に「唐」の高宗は「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、これ以降「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったと見られます。

「(文武王)十四年(六七四年)春正月 入唐宿衛大奈麻德福 傳學術還 改用新法。王納高句麗叛衆又據百濟故地使人守之。唐高宗大怒 詔削王官爵 王弟右驍衛員外大將軍臨海郡公仁問 在京師立以爲新羅王使歸國。 以左庶子同中書門下三品劉仁軌爲 林道大摠管 衛尉卿李弼・右領軍大將軍李謹行副之 發兵來討」

 さらに翌年(六七五年)明けてすぐには以下のような事情が記されています。

「(文武王)十五年(六七四年)…二月 劉仁軌破我兵於七重城 仁軌引兵還 詔以李謹行爲安東鎭撫大使 以經略之 王乃遣使 入貢且謝罪 帝赦之 復王官爵 金仁問中路而還 改封臨海郡公 然多取百濟地 遂抵高句麗南境爲州郡 聞唐兵與契丹・靺鞨兵來侵 出九軍待之」
 
 このように「新羅」は「唐」と対立状態となり、「文武王」の謝罪により一時的に収まったものの、火種はくすぶったままであったようです。

 そもそも「難波副都」建設の趣旨も、同様の意味があったと考えられますが、「筑紫」という「海外」からの勢力の直撃を受けやすい場所からの「待避」のための「疎開」場所としての性格が強いものと考えられます。
 「筑紫」や「難波」のような「海に面する」という地理条件は通常は交通の便がよいと思われていたものと思われますが、このような「対外的軍事緊張」状態が発生した際には、逆に「危険」と考えられたものと推量され、その結果内陸に入り込んだ「明日香」の地を「副都」として選ぶこととなったものと考えられます。それが「下層条坊遺跡」として確認される「第一次藤原京」であったのではないかと推察されるものです。
 そして、その一応の完成が『書紀』の「六七七年」のこととして書かれている「筑紫」から「赤烏」が献上されたという記事時点ではなかったでしょうか。

「(天武)六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。是日。大赦天下。
己卯。新甞。
乙酉。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」

 上の記事では「筑紫」から「赤烏」が献上されたとされていますが、この献上されたという「赤烏」は、「太陽の中には三本足の烏(カラス)がいる」という中国の伝説によって「太陽」を意味する言葉でもありますが、ここでは「鏡」のことではないかと考えられます。
 「鏡」が「太陽神信仰」において、「太陽」の象徴として考えられ、使用されているのは周知と思われるところですが、ここでも同様に「太陽」(赤烏)が「鏡」を意味するものと考えられ、「赤烏」が献上されたということは、即座に「三種の神器」のひとつである「鏡」が「奉られた」と言うことを意味すると考えられます。しかもそれは「筑紫」から「奉られた」とされているところから考えて、これは「副都」「藤原京」の完成に関係していると考えられるものです。
 この「赤烏」献上記事と似た例としては「六八三年」に同じく「筑紫大宰」(「丹比眞人嶋」とされる)から献上された「三足の雀」との関連が考えられます。

「(天武)十二年(六八三年)春正月己丑朔庚寅。百寮拜朝廷。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢三足雀。」

 この記事は「即位」に関するものと推量されますが、そのような場合や「遷都」などの場合において「皇帝(天子)の権力の象徴」として「朝庭」の「分与」的意味があると考えられ、そのように権力を分け与えられた「副都」が持つこととなる地位と正当性の保証を、「王権」のシンボルである「鏡」を「配布」することで、「副都」が「首都」と同等あるいはそれに次ぐ「正統」な権力関係にあることを示していると推量されるものであり、この時の「三足雀」は「赤烏」とほぼ「同義」ではないかと思料されるものです。
 例えば「副都」の朝廷から「法令」等を発布してもそれが「首都」から発布されたものと同じ意味を持つと言うことが周囲から理解されなければなりません。それを前もって保証するためのこととして、「正統性」の付与と言うことが必須であったのではないでしょうか。
 
 また、「筑紫」からの「赤烏」献上の際に「新嘗祭」が行なわれたように書かれていますが、これもそのような「正統性」付与の儀式の一環であったと理解されるものです。
 これと関連していると考えられる「木簡」が「飛鳥池遺跡」から出土しています。そこには「丁丑年十二月三野国刀支評次米」とあり、ここに書かれた「丁丑」という年次は、上に見るように「新嘗祭」を行ったと『書紀』に書かれた「六七七年」と推定されていますが、「次米」というのが「新嘗祭」や「大嘗祭」で行う儀式のために奉納される「米」を表す「悠紀」「主基」の「主基」を表すものと考えられます。「次」というのが「主基」を表すのは『書紀』に以下の前例があります。

「(天武)五年(六七六年)九月丙寅朔。…
丙戌。神官奏曰 爲新甞卜國郡也。齋忌 齋忌此云踰既 則尾張國山田郡。『次 次此云須岐也』 丹波國訶沙郡。並食卜。」

 このことから、この「木簡」に書かれた「次」も「新嘗祭」に奉仕する意味があると考えられます。
 この「新嘗祭」は「副都」「藤原京」で初めて行なわれたものであるように理解され、実質的な「大嘗祭」であったと思われます。
 こうして、「藤原京」が「副都」として「認証」されたこととなったと考えられますが、この時点で「第一次藤原京」が建設され「条坊」が造られていたとすると、「六八〇年」という時点で「薬師寺」が既にあった下層条坊とそれに付随する街区(建物類)を改廃したその上に建てられていることの説明にはなるでしょう。

 そして、その直後の「六七八年」に「筑紫大地震」が「北部九州」を襲いました。

「(天武)七年(六七八年)十二月・是月筑紫國大地動之、地裂。廣二丈 長三千餘丈。百姓舍屋毎村多仆壊。是時百姓一家有岡上當于地動夕以岡崩處遷。然家既全而無破壊。家人不知岡崩家避。但會明後知以大驚焉。」

 この地震により「筑紫周辺」に多大な被害があったと推定されるのは、「久留米市」にある「筑後国府」遺跡においても「液状化」の跡が確認されることなどの点から確認できます。この時点で存在したであろう「諸官衙」などもかなりの損害が出たのではないかと考えられ、その復興事業に着手することとなったと考えられます。
 これ以降被害を受けた「筑紫都城」を「地震」などから「強化」する方向の整備が行なわれることとなったと考えられ、これがいわゆる「大宰府政庁Ⅱ期」に相当するものと考えられます。
 その内容としては「宮殿」は「掘立て柱板葺き屋根」から「礎石造り総瓦葺き」へと整備されたと見られますが、それは当時の考えとしては「耐震性能」のアップという点に重きを置くことが主眼であったのではないかと思われます。そのおおよその整備完了が「六八〇年代半ば」と考えられ、「第一次藤原京」と「筑紫京」とが連続して整備が行なわれることとなったと思われます。

 また、この二つの「都城」ではいずれも「総瓦葺き」になったことも共通しています。(ただし「第一次藤原京」で「瓦葺き礎石造り建物」が造られたあるいは造られる予定であったとは思われません。それは「藤原京」が建てられるその時点では「筑紫」も「難波」もまだ「掘立て柱に板葺き」のままであり、「副都藤原京」で先行して「礎石造り瓦葺き」として設計されたとは考えにくいからです。そう考えるよりは「筑紫」が先行してその後「礎石造り瓦葺き」へ変わったと見て、それに「第二次藤原京」が追随したと考える方が整合性が高いものと思料します。)

 「大宰府政庁」遺跡から確認されることとして「Ⅰ期」「Ⅱ期」とも「北辺」に「宮域」を持つタイプとして造られているのが確認できます。但し「プレⅠ期」とでもいうべき「Ⅰ期古段階」を遡上する時期の「大宰府」は「南朝」に影響されたと見られる「周礼方式」つまり「都城」の中心部付近に「宮域」を設けるタイプであったことが確認されますが、その後「隋」からの影響によると考えられる「都城」の「北辺」に宮域がある形式へ変更され、移動が行われることとなったものです。そのような形態をとっていた「首都」と新たに作られた「副都」とで都城タイプが異なるのは不自然ですから、この「第一次藤原京」も「筑紫京」や「難波京」にならって「京域」の「北辺」に「宮域」を設定する方向で整備が計画されたものと考えるのが自然です。それを示すように「藤原京」の「宮域」と確認されている「都城の中央付近」の「下層」からは「道路」が検出され、「宮域」内には「道路」が当初張り巡らされていたことが明らかになっていますが、そのことはそのような場所に「宮域」を建設するような計画が元々はなかったことを示していると思われます。
 この事は「別の場所」すなわち「京」の北辺に「宮域」が一旦設けられたか、あるいは設けられる計画であったという可能性が考えられるところであり、それであれば「筑紫都城」との整合性も自然なものとなると思われます。(実際には「遺跡」の「下層条坊」からはそのようなものは確認されていませんが、当初想定の「京域」の外(特に北方)からも「条坊」が確認されており、より広域の「京」であったことが推定されることとなっていることを考えると、そのような場所に当初「宮域」が設定されたという可能性も想定できると思われます。少なくとも、発掘している範囲がまだまだ狭いことを考えると発掘調査の今後を注視する必要があるでしょう)

 この「副都」建設とその「副都」への「遷都」というものが現実にあったと想定されるのは、「六七六年」に各氏への食封対象地を「西国」から「東国」へ振替えるという「詔」が出ていることに現れています。

「(天武)六年(六七六年)四月辛亥 勅 諸王諸臣被給封戸之税者除以西國 相易給以東國。」

 これが少数の氏族に対するものではなく、「諸王諸臣」というように対象範囲がかなり多いことからも、「封戸」の対象地域を、それまでの「西国」から「東国」に変えるということの中には「都」(京師)の地域が「西」から「東」へ「移った」(副都遷都)と言うことが示されていると考えられるものです。
 この「詔」を「承ける」様に各地から多量の物資が「藤原京」に向けて送られる様になったと見られますが、「藤原京」遺跡から出土している木簡を見ると、それまでの「五十戸」に変えて「里」表記が行われるようになります。(特に「三野国」で顕著に切り替わるもの)
 その切り替わりは一般には「六八〇年」から「六八三年」の間のどこかと考えられており、これは「(第一次)藤原京」が完成し、そこへ「遷都」したことを示唆するものでもありますが、同様のものとして「飛鳥京遺跡」や「石神遺跡」などから「六七七年以降」急に、年次として「干支」が書かれた「荷札木簡」が増えるとされることがあります。
 それまでは非常に少なかったものが「六七七年」以降突然増加するわけです。ただし、「藤原京遺跡」からはほぼ出ないことが確認されています。しかし「藤原京」という「副都」に集積・配送されるはずの木簡が「飛鳥京遺跡」から出るのは不審と言えそうですが、それは「第二次藤原京」建設の際に一旦「飛鳥京」に待避されたと考えると納得できるものです。つまり、「仮の官衙」として「飛鳥京」周辺の建物が利用されていたと言うことが考えられます。
 (「藤原京」から「年次」として「干支」が入った木簡が出始めるのは「六九五年」以降であり、この時期以降激増します。これは「第三次藤原京」とでも言うべき最終整備が行われていたのではないかと考えられ、「藤原京」内部に「仮の官衙」ができ、そこで執務を始めたらしいと推定されます。「中務省」なども同様であったと思われます)

 「元興寺」が移築され、「明日香」の地で「法隆寺」となるタイミングはこの「第一次藤原京」完成とほぼ同時であり、この「副都藤原京」建設と「筑紫大地震」の影響が関連があり、また重大であったことが示唆されます。
 では「第一次藤原京」はなぜ「改廃」され「第二次藤原京」が建設されることとなったのでしょうか。それを考える上で重要なものは『書紀』に書かれた「六八四年」の「南海大地震」であると思われます。


(この項の作成日 2012/12/12、この項の最終更新 2013/03/04)

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藤原京とその「下層条坊」について

2018年06月10日 | 古代史

 「藤原京」の発掘により、その下層から「街区」が発見され、既にそこに「条坊」が形成されていたことが明らかになっています。つまり、「藤原京」の「条坊」が形成される「以前」に「別」の「条坊」(街区)があったものであり、「藤原京」はその「条坊」やそれに伴う「溝」などを破壊し、埋め戻して造られていることが明らかとなっているのです。
 この「下層条坊」と同じレベルからは「藤原京」を南北に貫く大溝が確認されており、そこからは「壬午年」(これは「六八二年」と推定されています)という干支が書かれた木簡が出土しています。
 これらのことから「藤原京」の当初建設時期というものもかなり前倒しで考えるほかないこととなるでしょう。(さらに、下層条坊にも「二期」存在することが近年確認され、「前期」のものは「天武朝初年」つまり「六七二年付近」まで遡上するという見解も出ているようです)
 これら「下層条坊」については、余り大きな問題と捉えていない向きも多いようであり、「飛鳥京」の拡大領域とするものや、官人達の住居としての領域というような捉え方以上のものではないようですが、「条坊」というものが「京師」つまり「都」と不可分のものであるとされていることを考えると、「藤原京」が造られる以前に既にここに「京」(京師)があったという帰結にならざるを得ないのではないでしょうか。つまり「第一次藤原京」と言えるものが先行して存在し、その後それを破棄して「第二次藤原京」が形成されたと考えることができると思われるのです。そう考えた場合は今度は「藤原京」の完成時期とのズレが問題となるでしょう。
 つまり、「藤原京」は『書紀』によると「六九五年」に完成したとされ、又『二中歴』ではこの「六九五年」を「大化」改元の年としており、それは「宮殿」の完成を意味するものという捉え方が多元史論者の間に多くあるようです。しかし、遺跡から発掘されたいくつかの事実は、それらとは一見整合していないと考えられるものが確認されています。

 「藤原京」完成時期に関する疑問のひとつは「遺跡」から発見された「木簡」の解読からです。それによれば「七〇〇年」を越える時期の木簡が「回廊」(「築地塀」)の基礎部分から発見されており、この事は「回廊」の完成がそれを下る時期になると言う事を示すものですが、それと「見合う」と思われるのが『続日本紀』の記事です。その「七〇四年」の記事によれば「宮域」とされた場所には多数の「烟」(戸)があったことが記されています。

「慶雲元年(七〇四年)十一月…壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。」

 この記事は、この地域、場所においてそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、「七〇四年」という段階で「やっと」「宮地」が定められ、そのためにそこに居住していた人々を立ち退かせたことが記されているのです。このことは『書紀』に示す「藤原京」建設に関する工程の「信憑性」を疑わせるのに十分であると思われます。

 また上の記事と関係していると考えられるのが「宮域」の外部(左京七条一坊付近)から「中務省」に関連する木簡が大量に出土していることです。この付近に「中務省」が存在していたことを想定させますが、「中務省」の本来の職務が天皇に直結するものであり、天皇の言葉を詔書や詔勅の原案となる文書として作成するというのが本職の役所であることを考えると、宮域内にその仕事場がないとすると「不審」極まるものです。しかもそれらは「大宝二年」(七〇二年)付近のものばかりなのです。このことはこの「大宝二年」という段階ではまだ宮域(宮殿)が整備されていなかった事を推定させるものであり、上の『続日本紀』の記事を裏付けるようです。

 同様に「不審」と考えられるのが「瓦」の製造時期とその「瓦窯」の存在していた場所です。
 「藤原京」に使用されている「瓦」についてはその分類などの研究が行われていますが、それによれば「初期」の段階では「奈良盆地外」に「瓦窯」があり(香川県など)、ある程度長距離を運搬していたものが、途中から「瓦窯」が近い場所である「奈良盆地内」に造られるようになり、そこから大量に製造されるようになっていったものとされています。しかし、常識的に考えて、「瓦」は「重量物」ですから、長距離運搬は本来避けるべきものと思われ、「初期」の段階で「藤原京」の近く(奈良盆地内)に瓦窯を造らなかった意味が不明です。
 また其の「笵」(型)についても当初は各瓦窯で別々の「笵」であったものが「奈良盆地内」に展開された各瓦窯では「同笵」となると云う特徴があるとされます。このように「瓦」に関してはその時期と製造体制が大きく「二期」に分かれると考えられています。
 また「奈良盆地外」で製造された「初期」のタイプの瓦はもっぱら「回廊」に葺かれたと見られるのに対して、「奈良盆地内」の瓦窯で造られた瓦は「大極殿」など主要建物に葺かれたと見られています。つまり「回廊」が先に完成し、その後「宮殿本体」が建てられたと見られるのです。
 上で見たように、「藤原京」の建設開始時期が実はかなり早かったとなると、上に挙げた事実は「矛盾」すると言えるでしょう。

 そもそもこの時点では一般的には「首都」は「奈良」の「飛鳥浄御原」であるとされているわけですが、ご存じのようにここには「条坊」が敷設されてはいませんでした。「都」にもない「条坊」が、「都」以外の場所にあったと考えることなどできないはずですが、これに関しては「飛鳥」を「京」と見なし、「藤原京域」がその「京」の一部であったとする、いわば「詭弁」ともいえる理解が横行しているようです。しかし、それは「京」「京師」という用語の「原則」に反するものであり、「そうとでも考えないと説明が付かない」と言うべき「次元」の低い議論であると考えられます。事実に率直に向き合うと、上に見たようにこの場所に「条坊」が存在していると言うことは、「飛鳥(明日香)」が「京師」でもなく「都」でもないことの事実の裏返しであることは明白であると思われます。
 またこの「街区」については「諸資料」に何も書かれておらず、もしこれを「明日香京」なるものの「外延」とするならば、「首都」の拡張という重要事項について史書が何も触れていないこととなり、それははなはだ不審となるでしょう。

 それではこの「下層条坊」が示す「第一次藤原京」の整備というものはどのような性格のものであったと考えるべきでしょうか。
 上に述べたようにそれは「京師」そのものであり、そのことから「倭国王権」による「難波」に続く「副都整備」であったと考えるのがいちばん妥当な考え方といえるでしょう。それはこの「藤原京」という「条坊」の基準となるものが「中ッ道」などの「古代官道」であったことからも分かります。「古代官道」はその構造やその造られた範囲と言うところからも「統一権力者」の手になるものであるのは明らかであり、その「古代官道」を基準線として造られている「藤原京」が「倭国王権」の直轄事業であったと考えるのは不自然ではありません。
 『書紀』の『天武紀』に「複都制」の「詔」が書かれていますが、そこには「…又詔曰 凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者。各徃之、請家地。」とあります。つまり、これによれば「副都」は「両参」つまり「二ないし三個所」造る予定であったものであり、その最初が「難波」だといっているのです。そのことから「難波」以外にも副都が計画されていたとしても全く不思議ではなく「難波」の次は「「藤原」の地(明日香真神原)」であったという可能性は大であったと言えます。

 またこの「藤原京」については「宮域」が「条坊」から「独立」している事が指摘されています。そこでは「宮域」の外部に「濠」が築かれ、またその内側にはかなりの「閑地」が「スペース」として確保されています。そのようなことにつながるのが「飛鳥」の周辺地域に存在していた「有力氏族」の「邸宅」等と見られる建物群の廃絶時期です。これらは、「平城京」が完成する時点まで継続しているように見られ、「藤原京」の完成時期と考えられている「七世紀末」という時点を過ぎて継続していることが確認されています。
 つまり「藤原京」では「京域」内への「宅地移転」などが行われなかったと見られ、従来これらのことについては「不審」とされ、「京師」の形式が確立する段階ではなかったのではないかという推測がされることがありました。しかし、「難波宮」の火災記事を見ても「宮域」の至近に「官人」の居宅があったものであり、そこからの出火が飛び火して延焼したらしいことが書かれていますし、同じ「難波宮」において「鐘」が時刻を表すものとして鳴らされ、それに応じて「朝庭」への出仕が行われたとされていることを考えると、そのような鐘の音が聞こえる範囲に居宅がなければならないことは明らかであり、その様な事と「藤原京」の状態は整合していないことは明らかであり、このことは「藤原京」が本当に統治の中心地として機能していたのが問われるのではないでしょうか。
 
 これらのことはこの「藤原京」が「倭国王権」の「副都」であり、「行政」のための「都」(京師)であったことを示すと考えると理解しやすいと思われます。つまり「京域」内には「倭国」からいわば「出向」の形できていた「官人」が(だけが)居住していたものであり、行政執行に必要最低限の人間が居住していたと考えられます。そう考えれば、「宮殿」のスペースが周囲から独立しているように見えるのも理解しやすいといえるでしょう。それは「倭国王権」の出先としての「副宮殿」ですから、周囲の住民や「有力氏族」達と「一線」を画するのは当然ともいえるものです。(これは「外国」に設けられた現在の「大使館」によく似ているといえるでしょう。そこでは「治外法権」つまり当地の法の枠の外にあるものであり、一種超越しているわけです。また周囲に居住している住民は当然「大使館」とは関係のない人々ですから、彼等が敷地内に引っ越ししてくるようなことも無いというわけです。)


(この項の作成日 2012/12/12、この項の最終更新 2017/06/24)

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「天武」時代の不穏な情勢について

2018年06月10日 | 古代史

 『天武紀』の記事をよく読むとそれまで見られない異例な記事が目に付きます。それは「怪異」であり、また「謀反」を思わせる記事です。それらは「人心」が「王権」(というより「天武」という人物に対してでしょうか)、「離反」している風情が感じられる記事群でもあります。
 そこでは「当麻君広麻呂」と「久努臣麻呂」の朝廷出仕が禁じられ、その後特に「当摩君広麻呂」が「詔」に従わなかったためという理由で、官位が剥奪されるという事件が書かれています。しかも、その理由が書かれておらず、何が起きたのかがあたかも「伏せられて」いるようです。またその直後「三位麻績王」が流罪となるなど、複数の人間が関連した事件があったようです。

「(六七五年)(天武)四年…二月乙亥朔…
己丑。詔曰。甲子年諸氏被給部曲者。自今以後除之。又親王。諸王及諸臣并諸寺等所賜山澤嶋浦。林野陂池。前後並除焉。
夏四月甲戌朔…
辛巳。勅。小錦上當摩公廣麻呂。小錦下久努臣麻呂二人。勿使朝參。
壬午。詔曰。諸國貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以下應與貸。
…丁亥。小錦下久努臣麻呂坐對捍詔使。官位盡追。
庚寅。詔諸國曰。自今以後制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
辛卯。三位麻續王有罪。流于因播。一子流伊豆嶋。一子流血鹿嶋。」

 この記事の流れを見ると、「三位麻續王」の事例はそれ以前に出された「曲部」という私兵や「山澤嶋浦。林野陂池」について「返納」せよという命令と関連しているように感じられ、それを不服として何らかの行動に出た可能性が高いと推測します。(この流罪の中身を見ると本人よりも子供の方が遠距離に流されているように思われ、子の謀反に「麻績王」が連座したという可能性が考えられます。)
 同様の「不満」を持っていた人々はかなり多かったものではなかったでしょうか。それを示すようにこの後「筑紫太宰三位屋垣王」を流罪とする事件が発生しています。

「(六七六年)五年…九月丙寅朔…
乙亥。王卿遣京及畿内。校人別兵。
丁丑。筑紫大宰三位屋垣王有罪。流于土左。」

 これを見ると「屋垣王」に対する処罰を行う前に、「京及畿内」に対し「王卿」を派遣して「兵」つまり「弓矢」「刀剣類」などが揃っているか、使用可能かなどについて調べさせています。(もちろん不備があれば是正させたものでしょう)「屋垣王」に対して「流罪」とする措置を下したのはその二日後です。このことは「屋垣王」に対する嫌疑が「軍事的なもの」であることを窺わせますが、それは「屋垣王」がその時「筑紫大宰」であったというところにも現れているようです。

 「壬申の乱」時の「近江朝廷」が当時の「筑紫大宰」である「栗隈王」に対して軍事行動を促したこと、またそれを彼が拒否したことなどによっても、「筑紫」に相当な兵力があった事が窺え、「筑紫大宰」が反乱の中心となる可能性があること、それが実行に移されると「王権」に対して強い軍事的圧力になりうると考えられたものとみられ、だからこそ「不穏」な情勢があるとみて「筑紫」地域の軍事的トップの人物を「流罪」としたという経緯が推測できます。この事から「屋垣王」が過剰に軍事力を貯えていたと言うことが考えられ、(それは「麻績王」と同様「私兵」などがそうであったとみられます)それを脅威と見た王権(天武)からいわば武装解除を命じられたということではなかったでしょうか。
 この「屋垣王」の軍事行動の動機はそれ以前に「流罪」となっている「麻績王」と同質のものと思われ、「天武」に権力と財の集中を嫌う勢力が一定の数いたことを推測させるものです。ここで「流罪」とされた「麻績王」「屋垣王」はいずれも「三位」という位階を持っていたように書かれていますが、これは「諸王」の中でも相当な高位であり、そのような彼らの離反というのは「王権」にとってはかなりプレッシャーとなったことが考られます。彼等を「流罪」としたのはそれらの勢力に対する「見せしめ」の意味もあったのではないでしょうか。

 また、「ある人が宮の東の岡に登り人を惑わすことを言って自ら首をはねて死んだ」という事件があり、「この世当直であった者全てに爵一級を賜った」と書かれています。これはあたかも「口封じ」が行われたかのようです。

「(六七五年)四年…十一月辛丑朔癸卯。有人登宮東岳。妖言而自刎死之。當是夜直者。悉賜爵一級。」

 ここでこの人物が何を口走ったかは不明ですが、「天武」の「正統性」に関わる秘密に関わる事ではなかったでしょうか。
 
 さらに「諸王・諸臣が賜った封戸の税は京より西を止め、東国に替える」という指示が出され、東国の税負担が増加したことがわかりますが、その後、下野国司から「凶作のため調の納期が守れず、子供まで売ろうとするほどなので猶予すべき」という奏上があったにもかかわらず、認められなかったことが記されています。

「(六七六年)五年…夏四月戊戌朔辛亥。勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。
…五月戊辰朔庚午。宣。進調過期限國司等之犯状云々。
甲戌。下野國司奏。所部百姓遇凶年。飢之欲賣子。而朝不聽矣。」

 このように、倭国政策は「東国に厳しい」ものであったと思われます。

 また、新たに「都」を造ろうと土地を放棄させたのにもかかわらず、造られなかった、という記事もあり、この直後「杙田史名倉」という人物は「天皇を誹ったため流罪」となるという事件まで発生しています。

「(六七六年)五年…是年。將都新城。而限内田薗者不問公私。皆不耕悉荒。然遂不都矣。或本。無是年以下不都矣以上字。注十一月上。

(六七七年)六年…夏四月壬辰朔壬寅。杙田史名倉坐指斥乘輿。以流于伊豆嶋。」

 ここで明確に「天皇に対する流言飛語」という罪名が明らかになったものが出て来ますが、他の処罰例もほぼ同じであったものと推定されます。(ここで「流罪」となって流された場所が「伊豆島」とされており、これは「麻績王」の一子と同じ場所ですから、彼も「名倉」同様「流言飛語」という罪名であったのかもしれません。)
 このように政府高官に「流罪」になるものが出てくるなど、非常に不安定な政権となったわけですが、そうなった理由としては「凶作」と「壬申の乱」という天下を二分した戦いの後遺症とでもいうべきものがあったものとみられるわけであり、倭国中枢の疲弊及びそれを補填するための「東国支配の強化」というものがあるようです。
 上の「詔」でも「東国」などの「国司」がその責務を全うしていないとして厳しく指弾しているわけですが、その裏には「東国」の「権力者」達がその後「評督」となっていったと思われるわけですが、彼等当時の王権(天武)に対し「非協力的」であったことがその理由として考えられ、彼等が「近江朝廷」に近い勢力として少なくとも主要な支援勢力ではなかったことがあると思われます。そもそも「東国」は「阿毎多利思北孤」段階でも「倭国王権」にすぐには従わず、「前方後円墳」の築造を継続していたことで知られます。彼等はその多くが「壬申の乱」という戦いにおいて「近江朝廷側」についたものであり、その後も「天武」に対して屈服せず不穏な動きを見せていたものと思われるわけです。「倭王権」はこれらについて恫喝と懐柔を駆使して統治しようとしていたことが窺えるものです。
 
 またこの傾向は後まで続き「聖武」の時代に至っても「国分寺」造営(実際には「塔」を立てよというもの)の「詔」についても決められた期日を守らない国司がほとんどであったことにつながります。(これを守ったのは西日本の地域に限定されていたもののようです)
 このとき「聖武」はやむを得ず「郡司層」にその指示の相手を変え、さらに開墾した土地を公有ではなく私有としてよいというバーターとも言うべき緩和条件を出さざるを得なくなり、これはその後律令制の変質と崩壊を招くことにつながってしまうこととなります。


(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2018/06/10ブログ記事へ転載の際に加筆)

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『帝皇年代記』における「壬申の乱」と「乙巳の変」

2018年06月10日 | 古代史

 『日本帝皇年代記』について考察しているわけですが、この史料は性格の異なる各種の原資料から「再構成」され書かれていると思われるわけであり、それはこの「年代記」という史料を考察する上で重要な意味を持っていると考えられますが、現行『日本書紀』を「原資料」とはしていないのではないかと疑われる余地があります。それはたとえば「壬申の乱」の記述を見ると明らかです。
 「天武天皇」の「(白鳳)壬申十二」の条の欄外上部には以下のようにあります。

「或記云、天智七年東宮出家居士乃山之時、大友皇子襲之、春宮啓伊勢国拝、大神宮発美濃・尾張之兵上洛、大友皇子発兵而於近江之国御楽之皇子遂被誅畢、其後東宮還大和州即位云云」

 この記事からは「或記云」という形で「壬申の乱」に触れられており、しかも『書紀』と違い、「春宮」が「伊勢神宮」に知らせ、その結果「伊勢神宮」(大神宮)が「尾張」「美濃」の軍勢を派遣したとされています。「大友皇子」も「近江」で「御楽之皇子」という正体不明の人物に追われて最後を迎えるとされています。(ここは少々文脈が不明であり「御楽」が「近江」の地名(紫香楽)であるという可能性もあります)

 このことについては『万葉集』に「柿本人麻呂」による「高市皇子」に対する「挽歌」があり、そこでは「度会の斎宮」から「神風」が吹いたとされています。

(万葉一九九番歌)「…渡會乃  齊宮従  神風尓  伊吹<或>之 …」

 このような表現も「伊勢神宮」からの援助を表すものとも言えそうです。
 また、「斎宮」として「大伯皇女」が派遣される際の諸資料の記述も参考になります。

(『年中行事秘抄」「伊勢齋宮事」)
「天武天皇白鳳元年四月十四日、以大來皇女献伊勢神宮。依合戦願也。」

(扶桑略記)
「天武天皇二年四月十四日、以大來皇女献伊勢神宮。始為齋王。依合戦願也。」

(『日本書紀』天武天皇元年六月)
「丙戌、且於朝明郡迩太川辺、望拝天照大神。」

 等々、「壬申の乱」において「伊勢神宮」の助けがあったこと、その見返りに「大伯皇女」が「斎宮」として差し出されたことがわかります。
 つまり『書紀』など諸資料には「伊勢神宮」に対して「勝利」を祈念し、その結果に対して「大伯皇女」が遣わされたとするわけですが、実際には「神の加護」と言うより、実態として「軍勢」を派遣したからこそ「東宮」なる人物が戦いに勝利できたものであり、そのことを感謝して「皇女」が派遣されたとされていることがわかります。
 また、その直前の「白鳳十一年」(辛未)には以下のような書き方がされています。

「(白鳳)辛未十一 役行者上金峰山、…天智之皇子出家入吉野宮、此義未審」

 この文章の末尾に「此義未審」つまり、「詳細不明」と書かれているわけですが、これは「大海人」が「吉野」に出家したという「壬申の乱」の発端となる話のことと理解されるものであり、ここから始まる「壬申の乱」についての現行『日本書紀』の記事は「内容」が最も詳しく、最も行数を割いて書かれており、これを「未審」という一語で済ますことは本来出来ないはずです。(しかも天智の皇子と表現されており、現行『日本書紀』とはその点でも食い違います)
 この「壬申の乱」について古代においてすでに異説があり、事実関係の認識に混乱があったことはこの「年代記」中の他の以下の二つの記事でも分かります。

 「(白鳳)乙卯十九 或云此年大友皇子起叛逆」

 「(朱雀)甲申 依信濃国上赤雀為瑞、去年十一月受禅、不受出家居吉野山、大友皇子事也…」

 これらの記事はいわゆる「壬申の乱」が、「大海人」の反乱ではなく、主役は「大友」であったという説や「壬申」に起きた出来事ではなかったという複数の「説」或いは「伝承」があったことを示すものです。
 また、記事中には以下のものもあります。

「(命長)六 或本大化元年、六月帝即位…」

 ここでは「蘇我」を打倒した「大化改新」(乙巳の変)についての記事が「本文」として一切ありません。僅かに「或本」という表現で現行『書紀』の内容を彷彿とさせることが書かれていますが、重要な位置付けとしては扱われていないと見られます。
 「大化の改新」も「壬申の乱」も「八世紀」以降の「新日本国」にとっては重要且つ画期的な出来事であったはずであり、(それは『続日本紀』において、これらの事に関する功績に対して改めて褒賞が行われていることでも明らかでしょう)これらのことが明確・詳細に記されていないということを考えると、この「年代記」の「編集」には現行『日本書紀』は参照されていない可能性が高いと思われます。
 「帝皇」の「年代記」を書こうとする人物が『書紀』を見ないとか知らないとか、或いは知っていても「或記」というような表記、表現を『書紀』に対して使用するというようなことは全く考えられるものではなく、このように「年代記」の中で『書紀』の存在が希薄であるのは、この記事の原資料となったものが現行『書紀』が編纂される「以前」のものであるという推測が可能であると思われます。
 つまり、この「編集時点」(年次としては不明ですが)において参照された現行『日本書紀』の以前の「記録」(資料)には「大化の改新」もなければ、「壬申の乱」もなかったと考えざるを得ないこととなります。
 
 以上から、この「年代記」の原資料の一部については、現行『日本書紀』が編纂され、まとめられる以前のもの(これがいわゆる『日本紀』かどうかは不明ですが)と考えられ、逆に言うと現行『日本書紀』及びそれと「連続性」が保たれている『続日本紀』の編纂は、従来考えられているよりかなり遅い時期に行われたのではないかと推察されることとなります。
 さらに言えば、現行『日本書紀』に書かれた事がその時代の「事実」であるかどうかはこれらから考えて全く保証できないものであり、かなりの潤色・改定が成されたものが現行『日本書紀』であると推察されることとなります。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2012/11/11)

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