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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

国分尼寺と筑紫尼寺

2018年05月17日 | 古代史

 肥沼氏のブログを中心に「国分寺」の起源について深い検討がされています。そこでは聖武天皇の国分寺造営の詔に先立って各地にすでに「塔」が建てられており、それが古代官道などと同様「正方位」を示しているのに対して、明らかに後出する「伽藍」については「磁北」が基準と思われ、正確な北を示していないことが指摘されています。そのことは「古代官道」の建設時期と同様初期国分寺(塔)の造営が七世紀初頭まで遡るものではないかという疑いを抱かせるものです。それについてはすでに「仁寿年間」に「隋」の高祖(楊堅)により各州に対して出された「塔」造営の詔に触発されたものとみるのが相当ということを示しました。「隋」の場合、それらの中心伽藍として「大興善寺」というものが「大興城」つまり「長安」に存在していました。そうであれば「倭国」においても「国分寺」の本家あるいは頂点としての寺院が(首都の中に)当初存在したはずですが、それが「元興寺」ではなかったでしょうか。そう考えるのは『二中歴』と『日本帝皇年代記』の二つの記事からです。

『二中歴』では「最勝王経」の転読が「諸国」で行われていることが書かれています。

「白雉九 壬子 国々最/勝会始行之」(『二中歴』)

 これによれば「白雉年間」に「国々」で「最勝会」が初めて行われたというわけですが、「国々」で行うという表現が「国分寺」の存在を前提にしていると考えるのは自然です。
 その「国分寺」の頂点の寺院としては『日本帝皇年代記』の以下の記事が参考になります。

「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會■最勝講始之」(『日本帝皇年代記』(中))

 これによれば「白雉年間」に「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が初めて行われたとされます。『帝皇年代記』の特徴として無主語の場合は行為の主体はその時点の「倭国王」(「天皇」)によると考えられますから、この記事も国家として行った事を示します。これを『二中歴』と重ねて考えると、この時点の「最勝講」は「元興寺」を頂点として諸国でも同様に行われたものとみられることとなるでしょう。
 ところで、「最勝講」や「最勝会」は「金光明最勝王経」という経典と関係していると一般に考えられていますが、この経典は八世紀に入ってから「唐」の「義浄」によって訳されたものであり、この記事時点ではまだ成立していなかったと見られていますから、その意味では不審があるわけですが、「金光明経」そのものはすでに「北陵」の「曇無籤」によって五世紀には成立しており、それが早期に伝わっていたらしいことが知られています。この「金光明経」についての「講」や「会」を「最勝講」や「最勝會」とこの時代に称していたかは疑問ですが、『二中歴』の編集時点の「常識」として「金光明経」とは即座に「金光名最勝王経」であるという認識に拠ったものかもしれません。さらに、それが「金光明経」であったとしてもそれについての「講」などが行われなかったと積極的に考える根拠はありません。

 そもそも「国分寺」の正式名称(聖武の詔にあるもの)は「金光明四天王護国之寺」というものですからその中心経典は「金光明経」であったものであり、この経典についての法会が「国分寺」で行われたという『二中歴』や『日本帝皇年代記』の記事は当然といえるものです。それは後代にも同様に「最勝王経」の転読が「諸国」の「国分二寺」に対して行われていることからも推察されます。

(一二六三年)(弘長三年)〔諸国〕亀山天皇が諸国「国分二寺」に対し、最勝王経の転読を命じた宣旨を出す。そこでは礎石不全ならば便宜の堂舎を点じて梵席を設け、施供には正税を宛てよとあります。(『公家新制』、『鎌倉遺文』八九七七号による)

 私見ではこの「国分寺」の本来の中心寺院は「元興寺」であったと見るわけですが、すでにこの「元興寺」がその後「法隆寺」となったということを述べました。その「法隆寺」は別名「法隆学問寺」と呼ばれたとされます。確かに「元興寺」という寺院は「隋」や「唐」への留学僧などが帰国後そこに常住したという記事もあるように、学問の修行や集成の場であったことが推測されるものであり、それは「法隆学問寺」という(その後の)名称に違わぬものであったと推測できるわけです。
 ところで、すでに述べたように「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」が「筑紫」の「筑紫尼寺」より「鐘楼」を(というよりたぶん伽藍全体を)移設して「檀林寺」と称したとみたわけですが、この「檀林」という名称は「僧尼の修業の場」を示す用語であり、それは「学問寺」とほぼ共通した表現であると考えられるでしょう。そしてそれは「檀林寺」というよりその前身の「筑紫尼寺」の性格や実態を表すものではなかったかと考えられるわけです。

 「筑紫尼寺」の鐘楼は「観世音寺」のものと同一規格であり、その製造時期もほぼ一緒ではなかったかと推測したわけですが(銘文のある「筑紫尼寺」のものの方が僅かに後出するか)、下の記事によれば「白雉」年間の「最勝会」記事に遅れること(多分)数年程度で「観世音寺」が造られたとされるわけですが、当然ほぼ同時期に「筑紫尼寺」も造られたということとなります。

白雉九 壬子 国々最/勝会始行之
白鳳廿三 辛酉 対馬銀採/観世音寺東院造
 
 後の記事では「観世音寺」が作られたのがいつかは明確ではありませんが、明らかに「諸国」において行われたという転読の場ではなかったこととなります。このことは「観世音寺」という寺院がその時期からもその名称からも「国分寺」創建とは違った性格のものとして造られたらしいことが推測できますが、他方「筑紫尼寺」については「尼寺」としての「国分寺」の頂点を成す存在として設置されたとみることができるのではないでしょうか。
 国分寺の先蹤とされる「隋」の「文帝」の例でも「仁寿」年間において「諸州」に寺院を造るようにとされている中で「神尼」つまり彼の育ての親とされる「  」の像と自分の等身像を配布したとされており、「尼寺」については特に指定してはいないものの、必然的に「神尼」の像を頂く「寺院」が別に造られることととなったものではなかったでしょうか。倭国において模倣する段階では同様に「尼寺」は当初視野になかったということが考えられ、その後「最勝会」が「国分寺」で行われた時点以降「尼寺」でもそれらのようなネットワークが必要であるという認識が王権の内部で形成された可能性が考えられます。
 そして、その中心として「筑紫尼寺」が造られたと見ることもできるでしょう。そのように「国分寺」との関連で作られたという意味から、「寺院名」として「筑紫」という国名が付されているとも考えられます。

 この「筑紫尼寺」はすでに考察したように当初は「九州」全体に対する「尼寺統括」ということをその責務としていたと思われ、その意味で「筑紫」という名称となったとも考えられます。(この時期すでに「筑紫」は「前後」に分割されていたはずですから)


(この項の作成日 2016/07/10、最終更新 2016/07/31)(ホームページ記載記事を転記)


「筑紫尼寺」の実在性

2018年05月17日 | 古代史

 「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)
 (現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)

 さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「尼寺」と判断できる寺が「筑紫」周辺にないことがあるとともに、『扶桑略記』の中に上の『続日本紀』とほぼ同文記事があり、そこでは『筑紫尼寺』という寺院名が「削除」されていることがあり、さらにもし「筑紫」にそのような寺院があったのなら「観世音寺」がそうであったように「大宰府管内」の「尼寺」を統括する立場にあったはずであるのに、それを裏付ける資料がないとされていることなどが挙げられています。(※)
 しかし『扶桑略記』のことで言えば『続日本紀』に比べはるか「後代史料」であり、書かれた時点ではすでに「廃寺」あるいは「移築」が行われた後であると思われますから、存在していない寺院となっていたことの反映として「筑紫尼寺」という寺院名が書かれなかったという可能性があります。
 そもそも『続日本紀』にないような独立史料ならともかくほぼ同内容の記事ならばその信憑性は「先行史料」である『続日本紀』が優先されてしかるべきと思われます。(『扶桑略記』はその時点の「常識」で書き換えられているという可能性が考えられるでしょう。)その意味では「筑紫尼寺」という表記は一概に誤記とはいえないと思われます。
 また確かに「仁明天皇」の代の『続日本後紀』の記録をみると、「観世音寺」(観音寺)が「国分寺」「国分尼寺」をはじめとする「大宰府管内の全ての寺院」を統括していたように書かれています。

「承和十一年(八四四)四月壬戌十条」「大宰府言。管大隅薩摩壹伎等國嶋司言。建國任職。大小是同。除災祈福。彼此不異。如今比國皆有講讀師之職。修正月安居等事。而件國嶋既無講讀之職。還失鎭護之助。加以國分二寺雜物。觸類夥多。既無綱維。令誰検領。望請准諸國之例。置講讀師者。府司商量。所陳有理。望請准管内諸國博士醫師之例。府司於觀音寺。与彼講師共簡試部内僧精進練行智徳有聞堪任講筵終始無變者。將補任之者。勅。講師者。依請補任。讀師者莫更置之。但安居齋會之日。依延暦廿五年三月格。以國分寺僧次第請之。」(『続日本後紀』巻十四より)

 このことからも「筑紫尼寺」という存在に対して疑問が発生するとされているわけですが、この記事が置かれた「八四四年」という年次の直前の「八四二年」には「嵯峨上皇」の「七七御齋」(いわゆる四十九日)が「檀林寺」で行われたという記事があります。

「承和九年(八四二)九月乙未四。修太上天皇七七御齋於檀林寺。」(『続日本後紀』より)

 この時点で「檀林寺」がすべて完成していたということではないとは思われるものの、明らかに主要な機能はすでに備わっていたものと思われます。さらに『続日本後紀』には「八三六年」という段階で「造檀林寺使」という役職の存在が書かれています。

(『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月壬午十四条」「壬午。右京少属秦忌寸安麻呂。『造檀林寺使』主典同姓家繼等賜姓朝原宿祢。」

 これらのことから考えてもし「筑紫尼寺」から「梵鐘」を「檀林寺」へ移したとすると、この時点以降「筑紫尼寺」関係の記事が消えて不思議ではないこととなります。逆に言うとそれ以前には「筑紫尼寺」がまだ存在していた可能性があることとなりますが、それを示唆するのがこの時点以前には「観世音寺」の統治権が「尼寺」には及んでいなかったと受け取ることのできる記事があることです。

「天長八年(八三一)三月乙巳七条」「乙巳。仏舎利五百粒、令大宰府観音寺講師光豊、安置彼府管内国分寺及諸定額寺。」(『日本後紀』巻卅九逸文(『日本紀略』)より)

 上の記事からは、この「八三一年」という段階では「観音寺」講師の権能は限定的であり、「国分寺」に対しては統括的立場にあるものの「尼寺」については記述されておらず、早い時期から「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督していたものとはいえないことがわかります。(「国分二寺」という言い方がされていないという点で、末尾にある「諸定額寺」の中に「国分尼寺」が含まれていたとは言いにくいと思われます。)
 つまりこの時点付近でまだ「筑紫尼寺」は存在しており、その「大宰府管内尼寺」に対する支配力もこの時点付近までは継続していたものではないかと考えられる訳です。その後「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督する立場に変ったというわけですが、それは「八三六年」に「造檀林寺使」が任命されていることと関係していると思われ、この年次付近で「筑紫尼寺」という存在が「廃寺」となって「筑紫」から消えたと考えると「八四四年」の記事との関連が整合するといえます。

 またこのことは「鐘」だけを移設したというより「伽藍」全体が「移築」されたと考えることも可能かもしれません。もとよりどちらの寺院も何らの遺跡も発見されておらず詳細が不明ですから、このような推定はほとんど「妄想」に近いかもしれませんが、可能性としてはありうると思われます。「移築」してしまうと「礎石」以外何も残らなくなってしまいますから、「諸史料」に「筑紫」周辺に「尼寺」の存在が確認できないというのも道理であることとなります。

 このような経緯で「鐘」が「檀林寺」に入ったとすれば、その後の鎌倉時代になっても宮廷の人たちは「檀林皇后」と呼ばれるようになる「橘嘉智子」という人物のイメージと共に、このような背景を(当然)よく承知していたはずであることとなりますから、『とはずがたり』において「後深草院」が「浄金剛院」の鐘の音を聞いてすぐに「観世音寺」そして「都府楼」へと連想して詠ずる場面にはそれなりの「必然性」があったと言うこととなるでしょう。


(※)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報大宰府学』第七号二〇一三年三月)によります。


(この項の作成日 2015/02/12、最終更新 2015/03/23)


「檀林寺」と「筑紫尼寺」

2018年05月17日 | 古代史

 ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるようです。

『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」

 ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)
 そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院名が記述されているのが注目されます。

『続日本紀』「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」

 ここでは「筑紫尼寺」という寺院が「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。

『続日本紀』「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 また同じ大宝元年の「太政官處分」の文章中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとされていますから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であったという可能性が高いと推量できるでしょう。
 また寺封に関する記述からもその創建などが「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」とほぼ同じ木型が使用されたとみることができるでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
 「由緒」も正しくまた「音高」も「黄鐘調」であったと思われるこの「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないでしょう。

 ところで「天智」が「母」である「斉明」の菩提を弔うために(「観世音寺」などと同様)創立した寺院に「川原寺」があります。この川原寺の遺跡を見ると「礎石」に「瑪瑙」が使用されているのがわかります。(白瑪瑙)このようなものに「瑪瑙」を使用するのは稀有であり、他に例がありません。そしてそれと関連しているように思われるのが、唐僧「義空」が帰国した後追って渡唐した「慧萼」という僧によって「碑」が書かれたとされることです。(『元享釈書』による)

「釋義空、唐國人。事鹽官齊安國師。室中推爲上首。
…敕迎空館于京師東寺之西院。皇帝賚錫甚渥。太后創檀林寺居焉、時時問道。官僚得指受者多。中散大夫藤公兄弟其選也。
萼再入支那、乞蘇州開元寺沙門契元、勒事刻『琰琬』、題曰日本國首傳禪宗記。附舶寄來。故老傳曰、碑峙于羅城門側。門楹之倒也碑又碎。見今在東寺講堂東南之隅。」

 つまり「慧萼」は「琰琬」に碑文を刻んだというわけですが、この「琰琬」が「瑪瑙」であるとする説があります。

「『壗嚢鈔』巻第十(三十六)」
「東寺ノ講堂二馬瑙ノ文ノアルハ何ナル物ソ。是碑ノ文也。嵯峨天皇ノ御時。義空ト云唐僧渡レリ。本朝ノ慧蕚法師、(原文『惠』とす)入唐留学シテ帰朝二同道スル所也。慧蕚在唐ノ時。同ク斉安国師二参テ禅ヲ聞ケル朋友也。然二天皇ノ后檀林皇后此宗ヲ試ミ給故二。東寺ノ西院ニヲカレテ常二法文ヲ尋聞召レケル。此御使ノ人々。又志シアリテ。参禅ノ仁モアマタアリケレハ。臣下ノ中二多ク得法人モアリケルニヤ。此義空帰国ノ後。慧蕚又渡唐シテケル。其後使船ニ付テ此碑ヲ送レリ。題テ云ク。日本国首伝禅宗記ト侍リ。是本朝二禅門得法ノ人多事ヲ讃ル文章也。」

 つまり『壗嚢鈔』によれば「禅宗」が「日本」で初めて行われたということを記念して碑文が書かれた際に使用された材料が「瑪瑙」であったとされます。
 ここでなぜ「瑪瑙」なのかということがあまり詮索されていないようですが、それは「檀林寺」にも「川原寺」と同様「瑪瑙」が要所に使用されていたものであったという可能性があり、それを踏まえて「瑪瑙」に碑文を書いたという可能性があるでしょう。つまり元々の「筑紫尼寺」には「瑪瑙」が使用されていたものであり、それは「川原寺」と同様のものであったと思われるわけです。

 実際には「唐招提寺」や「東大寺」の鐘も「黄鐘」をかなでるものであったと分析されていますが、それらは遠く奈良にあったものであり、京都にある「鐘」で「黄鐘」を鳴らすのは「浄金剛院」だけであったという可能性が考えられるところです。それは「兼好法師」が「凡鐘の聲は黄鐘調なる『べし』」というように、「あるべき」という表現をしていることにも現れているようです。つまり実際にはそのような寺院は少なくなってしまったものであり、それを「憂えて」の意見ではなかったかと推察されます。
 そう考えると当時の人たちの音高(音階)を聞きわける耳(音感)にも驚かされます。それは「天王寺」の「楽人」たちが「基音」の変動により「鐘」の音高が上下するという理由で基準音として一定の季節を定めていたという記述からもうかがえるものですが、それは「鐘」の材質である「黄銅」が気温変化に割と敏感に膨張収縮するという科学的な性質とも整合する話であると思われます。

 ところで「筑紫尼寺」は当然のこととしてその創建主体は「女性」であったことが推測できます。そして、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずであり、またその後「橘嘉智子」がその寺院を移築したという経緯から考えて「女性」として最高位にあったであろう人物を想定でき、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったと見るべきであり、「倭姫」であった可能性が高いと推量します。
 このように「天智」の皇后である「倭姫」の御願という可能性のある「筑紫尼寺」から少なくとも「梵鐘」は「檀林寺」に移建されたと考えられるわけですが、そのような行動の背景となっていたものは「橘皇后」の夫である「嵯峨上皇」の父の「桓武天皇」の時代に「天武」系から「天智」系への皇統の切り替えがあったとする、多く行われている諸論と関係があると思われます。

 「桓武天皇」はそれまで破られることのなかった「天武」の「国忌」の日の「廃務」を破り「任官・叙位」を行っています。さらに彼は「山稜」に対する「奉幣」も「天武」「草壁」などを無視して「天智」「志貴皇子」「光仁天皇」に対してのみ行うなど、明らかに「天武」に対する「軽視」と言うより「無視」と考えられる行為を行い、自身の先祖である「天智」への傾倒を明白に示しています。
 そして正式に「延暦十年」になり「国忌省除」が行われ、「国忌」から天武系の天皇達のものが排除されると共に「廃務」も行われなくなります。さらに「嵯峨天皇」になると「天武」の崩日つまり「九月九日」は「重陽節」という重要な儀式を行う日とされたものであり、完全に「天武」の国忌は無視されるようになっていました。
 この「九月九日」は「節」としては元々『養老令』には規定されていませんでした。

「雑令諸節日条」「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日。十一月大嘗日。皆為節日其普賜。臨時聴勅。」
 
 これを見てわかるように『養老令』は当初から「天武」の「崩日」を「国忌」としていたものであり、このため「重陽の節」という重要な儀式を行わない規定となっていたものです。これを「嵯峨天皇」は無視して「重陽の節」を行うようになったのです。
 これは既に述べたように「天智」に対する重視と裏返しのものであり、この時代には「天智」を「先帝」とする意識が高まっていたことが推察されます。
 「天武」に対する崇敬がなくなり、「天智」を「律令制」における初代皇帝とする考え方が起きていたことが「天智」の「勅願」を重視するものへとつながったと言うことが考えられ、それを具現化する一環として「筑紫尼寺」を「都」へ移すという行為が行われたと推定します。(ただし、それが「観世音寺」の移築につながっていないのは「大宰府管内」の諸寺の統括というある種政治的行為の管掌役を「天智」の勅願寺が行うべきと「嵯峨」が考えていたからではないかと思われ、そのため「観世音寺」は移築されなかったと推定します。)


(※)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報太宰府学』第七号)そこでは『扶桑略記』に「大宝元年八月甲辰日、太政官処分、近江国志我山寺封、起庚子年計満卅年、筑紫観世音寺封、起大宝元年計満五歳、並停止之」とあって「観世音寺筑紫尼寺」とう表記が変えられているようにみえ、これを根拠に『「観世音寺筑紫尼寺」の部分は「筑紫観世音寺」の誤りと考えられている。』とされ、『大宝元年段階で筑紫に封を施入されるような寺格の寺院は観世音寺を除いては史料的にも遺跡としても知られておらず、「筑紫観世音寺」の誤記とする考えは正しいと思われる』とされています。他方大宰府管内の「尼寺」を統括する「寺院」の存在が不明であるということもまた確かであるとされ、それを「観世音寺」伽藍の内部の「菩薩堂」とされる建物をそれであるという考えも示されていますが、それはかなり「矮小化」といえるものであり、推定される「尼寺」統括という機能を果たすためには、組織や人員等ある程度潤沢である必要があると思われ、本来独立寺院として考えるのが妥当と推察します。


(この項の作成日 2014/12/28、最終更新 2018/01/06)(ホームページ記載記事を転記)


「妙心寺」の鐘と「観世音寺」の鐘

2018年05月17日 | 古代史

 ところで『徒然草』には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

「再掲」(『徒然草』第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は(粗密波の場合)減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。
 つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
 実際に「妙心寺鐘」について正確にその音の高さを測定した記録があり、その解析によれば、基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測され、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となるとされますから、これは間違いなく「黄鐘」(こうしょう)に相当するものです。(※)
 つまり「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものであるというわけですが、その「基準音」は共に同じであるというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題でしょう。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により「改定」された「音律」を音階として使用していないことに注目すべきです。
 この「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけですが、同じ工房で「青銅製品」の鋳造も行っていたとして不思議はありません。そこで「梵鐘」が鋳造されていたとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは「不審」であるかも知れませんが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。

 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきでしょう。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったという事を示すものであり、それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 たとえば、『淮南子』には以下のようにあります。

「中央土也。其帝黄帝,其佐后土,執繩而制四方。其神爲鎮星。其獸黄龍,其音宮,其日戊己」
「黄鍾爲宮,宮者音之君也」
「甲乙寅卯木也。丙丁巳午火也。『戊己四季土也。』庚辛申酉金也。壬癸亥子水也」
(以上『淮南子』巻三「天文訓」より)

 これらによれば「中央は土」であるとされる他、音は「宮」,日は「戊己」などとされることや「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていること、さらには「中央」を表す「戊己」は「四季の土」であるというわけであり、結局「黄鍾」は「四季」を表すものということとなって、このような「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたものと推察されるわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発する必要があるとすると、あえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。それを示すように「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 このように「妙心寺鐘」にわずかに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「木型」から鋳造されたとみるべきであり、当然この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となります。
 ちなみにこの大鐘はどの寺院に使用されたのかというと、この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事がありますから、この「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。(ただしこれらの記事群には年次移動の可能性はありますが)

「(天武)九年(六八〇年)十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」

 この当時「勅願」ともいえる「寺院」はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上するとしたらこの「薬師寺」が最も適当と思われます。(ただし現在の「薬師寺」「新薬師寺」双方の「梵鐘」とも「八世紀」の鋳造と考えられていますから、この時の「梵鐘」とは異なると思われ、何らかの理由により失われてしまったと考えられます。)

 さらに言えばこの「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」など御願によるもの)にだけ納められたものではなかったでしょうか。
 このような「黄鐘調」の鐘は、上に見たように「淮南子」では「音之君」とされていますから、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があるでしょう。それはこのような「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来について考えた場合、「中国」(隋)からの使者が持参した物品の他に「寺院」とそれに関するものについても相当量の下賜物があったと見られ、その中に「梵鐘」もあったと推定されるからです。

 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであるのは間違いないところですが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。(寺院が造られたにも関わらず梵鐘が備わっていなかったとするとそれもまた大変不自然といえるでしょうから。)
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」あるいはその「近親者」の勅願(発願)であり、それが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。


(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)


(この項の作成日 2014/12/28、最終更新 2015/01/29)(ホームページ記載記事を転記)


「妙心寺」の鐘と「檀林寺」

2018年05月17日 | 古代史

 鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。

「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」

 ここでは天皇以下高貴の方々による楽器の演奏が行われたことが記されていますが、その中で「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
 この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「鐘」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえて詠じたというわけです。

「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無??/何為寸歩出門行」(『菅家後集』より「不出門」)

 これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。つまり聞こえてきた「浄金剛院」の「鐘」の「音」からすぐに「観世音寺」の「鐘」に想いが行ったというわけですが、それは音高つまり「鐘」の発する「音色」がこの「浄金剛院」と他の寺院とでは異なっていたことを示すものと思われ、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということをみな承知していたということもまた示唆されるものです。

 「浄金剛院」の「鐘」が奏でる音高は「黄鐘」であり、また「無常」を表すものであったものであるのに対して、当時の京都の他の寺院の「鐘」はその後時代を経て発生した「日本音階」により鋳造されていたものであり、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであったという可能性もあるところです。このことから「後深草院」以下諸々の宮人は「浄金剛院」の「鐘」が「観世音寺」の「鐘」と兄弟であり、それがもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものということをよく承知していたということが知られます。そのような事情がなぜ把握されていたのかということは「不明」としか言えませんが、これについて書かれたもの(※)では、元寇などの影響で「観世音寺」や「大宰府」についての知識が京の宮廷人たちにも知られるようになっていたからとされていますが、そのような理由だけでは「鐘」同士の関係などの「深い」事情は容易に知られないものと思われ、「周知の事実」とはなりえないものと思われます。つまり、何らかの明確な理由があるからこそ「浄金剛院」とその「鐘」についての「経緯」を「宮廷」の人たちはよく承知していたものと思われるわけです。

 「浄金剛院」の鐘は当初「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」が創建された際(八五〇年)に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものであり、その後その「壇林寺」が「廃寺」となって以降「浄金剛院」に移されたわけですが、「橘皇后」が「鐘」をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という「古音律」にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったものであったからではないでしょうか。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いに身を委ねたとされます。そのような彼女であれば「鐘」の音色にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。そのためどこかから「黄鐘調」の音高を発する「鐘」を探し出してきたものでしょう。
 しかも推測するにそれは「筑紫」など九州の寺院ではなかったかと考えられます。それは『徒然草』における「兼好法師」の記述として「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、『遠國』よりたつねだされけり。」とある部分からも推察されます。ここで「都」には「鐘」を「正しい音髙」つまり「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されますが、この「遠国」というのが「筑紫」であったという可能性は高いと思料します。
 この「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとは限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、仮にそれが同義であったと仮定すると、そのような「都」を遠く離れた場所で「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った「鐘」が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。それは「浄金剛院」の鐘が「筑紫」で鋳造されたものであることと深く関係していると考えられる訳です。
 (『徒然草』の中では「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されるものの、あえてその出所を伏せてあるようにも感じられます。)
 この「筑紫」周辺の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この「鐘」が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができると思われます。ただし、それが何という寺院であったかは不明ではあるものの、皇后の御願によって建てられる寺院に使用されるのですから、当然その「鐘」も「由緒正しい」ものであったはずであり、「太宰府」近辺の「旧王権」に近かった寺院が措定されるでしょう。


(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』29号一九九二年二月)


(この項の作成日 2014/12/28、最終更新 2015/01/08)(ホームページ記載記事を転記)