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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「都督」と現地人について

2020年09月20日 | 古代史
 「都督」と「都督府」について考えてみます。
 唐はその領域拡大政策の元、周辺国に従属を強い、それに逆らったり抵抗すると軍を送りこれを制圧し、その後の統治については、「都護府」を置きまたその下に「都督府」を置くことでその「版図」を拡大していました。そして「都護」には「唐」側から適材を送り、「都督」は現地の人間を充てるというのが常套でした。
 半島の場合「高句麗」制圧後「平壌」に「(安東)都護府」が置かれ、その下に「都督府」が六カ所置かれたとされます。その一つが「熊津都督府」であるというわけです。『書紀』に出てくる「都督府」記事はこの「熊津都督府」と、同じ文章中に出てくる「筑紫都督府」が見えるのがただ唯一の例です。
 この「筑紫都督府」について「唐」が設置した、さらに『書紀』に出てくる「筑紫君薩夜麻」についてその帰国は「都督」としてのものであったという議論があります。しかしこの「筑紫都督府」が「唐」が設置したものというならその上部組織である「都護府」はどこに置かれたのでしょう。半島に置かれた「安東都護府」がそうだというなら「都督府」が一カ所増えることとなります。そもそも海を越えた場所に「都督府」を設置した例がないことと「都護府」がどこなのかという問題は議論されていないようです。
 しかもこのようないわゆる「羈縻政策」として「都督府」をおいた場合は、その統治範囲に「州」も設置し、そこには「刺史」を配置したとされています。つまり単に「都督府」を設置し「都督」を任命しただけでは「政策」として不十分であり、機能を発揮しているとは言えないわけです。しかし「白村江の戦い」以降のどこかで列島内部にそのような行政制度の改変があったとはどのような史料からも窺えません。

 また「都督」の人選についても、当然ながら「現地の人間」であれば誰でもよいというわけではなかったものです。基本、戦いの相当早い段階で「帰順」し、「唐」に対し忠誠を誓うというようなストーリーがない人物は充てられなかったものです。それはその人物の「信用」と関わってくることだからでしょう。「都督」が「唐」として重要な地域を統治するのに重要なキーパーソンであることを考えると、「唐」から見て疑わしい人物やその行動に不審があるような人物はそもそも充てられないこととなります。
 たとえば「太宗」と「突厥」の関係からもそれは窺えます。「太宗」の場合「突厥」との戦い後「都督」にしているのは、戦いが始まる以前や戦いのごく初期から帰順した「突厥」の人物だけです。後に高位の将軍になるような人物でも戦いが本格化して以降帰順した人たちは「都督」にはしていません。
 これは次代の「高宗」も同様であり、「唐-新羅」連合軍が「百済」とぶつかった時点以降早期に帰順した「百済禰軍」は「将軍」に抜擢されていますし、同じタイミングで降伏したと見られる「黑齒常之」も高位の将軍として遇されています。しかし彼等も「都督」としては考えられていなかったようです。
 また「太子隆」は確かに早期に帰順していますが、「唐」の軍勢が城に迫ってからの降伏でしたから、その意味では「都督」としては不適かもしれません。実際、当初は「唐」側の人間が「都督」として赴任しています。(「王文度」や「劉仁願」など)これは「百済」の人材に「都督」として適当な人物がいなかったことの表れであり、「扶余隆」の就任はある意味「やむを得ない」事情(ほかに代わりがいない)によるものであったと思われます。もっとも、彼の兄弟や父である「義慈王」は最後まで抵抗を続けたものであり、その彼等とかなり早い段階で袂を分かっていますから、そのことも彼が「都督」として「旧百済」の地を治めることが可能であるという理由付けとしてあったかもしれません。

 「薩夜麻」の場合にも、彼が「都督」として帰国したとするには「自ら帰順し、唐皇帝に忠誠を誓う」という行動が不可欠であるわけですが、その割には彼は「唐人」の計について「本朝」に伝えようとしていたことなどもあり、「唐」側の人間として活動していたようには(少なくとも当初は)見えません。そもそも他の倭人達と一緒に「軟禁」されていたような人物が後に「都督」として帰国したと想定するには「無理」があるのではないでしょうか。
 また自ら帰順した場合、早期に唐の官職が与えられ、唐の軍事組織に組み込まれ活動することとなりますが、「薩夜麻」の場合はそのようなことがあったようにはみえません。(『書紀』の帰国時の記事にも「唐」の官職名は書かれていませんし、唐側史料にはそのような記述が全くありません。)
 本来戦いの中で最後まで抵抗した場合などは「捕虜」となるものであり、通常は「官」とされ漢代の「金日禅」のように「馬飼い」など下賤の仕事を義務づけられた者もいたようです。「薩夜麻」についても同様であったのではないかと思われますが、彼は「持統」の「詔」の中身から見て「唐軍」によって捕虜となり、「唐国」まで連行されていたものというより「新羅軍」により「捕囚」となって「熊津」周辺のどこかに「軟禁」されていたのではないかと考えられます。

また彼が早期に帰順したのであるなら帰国ももっと早かったと思われます。
彼が帰国したとされるのは六七〇年であり、これは百済はもとより、白村江の戦いで倭国軍が敗北してからずいぶん時間が経過していますし、高句麗が滅ぼされてからも二年ほど経過していることとなり、このような帰国の遅れが示すものは、彼が「簡単に帰順しなかった」ことを表すものと思われます。(「三千里の流罪」となっていた可能性があるでしょう。)そう考えれば彼が「都督」として帰国したとはいえないといえます。

 そもそもすでに指摘していますが「都督府」記事は「薩夜麻」帰国以前ですから、「薩夜麻」が「都督」かどうかということと、「都督府」が「唐」が設置したものかという話は本来全く別の事柄と考えます。
コメント

「壬寅年」木簡について

2020年09月20日 | 古代史
 久しぶりに投稿します。四月以降仕事量が急増して全く時間がとれなくなってしまっていました。(現時点においてもあまり変わりはないのですが)

 古田史学の会の古賀氏のブログで「壬寅年」木簡についての記事が出ていました。それによれば滋賀県の「西河原宮ノ内遺跡」から「壬寅年」と書かれた木簡が出ており、それは氏の解釈では「大宝二年」と表記されるべきはずのものが「近江朝廷」の存在が影響して「古制」のままの表記となったとされています。

「・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉」西河原宮ノ内遺跡 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会

 確かに他の地域の木簡からは「大宝」が紀年に使用されたものが出ており、その意味ではこの「壬寅年」木簡は異例です。しかし「大宝二年」のはずが「壬寅年」という表記になったと見られるのはこれだけではありません。既に指摘していますが『続日本紀』の中に「壬寅年」表記が出てきます。

(七〇四年)慶雲元年…
五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。又免『壬寅年』以往大税。及出神馬郡當年調。…

 この場合は『続日本紀』記事中であり、「近江朝廷」との関連は不明と思われます。少なくとも直接つながらないように見え、古賀氏が考察した理由とは異なる事情を措定する必要があるでしょう。(「詔」つまり「天皇」の言葉の中にあるため「大宝二年」と書き換えることができなかったということが考えられます。「聖武天皇」の詔の中に出てくる「白鳳」「朱雀」という年号表記と同様の事情が考えられます。)
 このことについてはすでに述べましたが( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8afbc1c43dc67eb552a8c4011700b631 )、『続日本紀』の中で「年」が干支で表されているケースはこの「壬寅年」を除けば全て「七〇一年以前」であり、まだ「律令」で「年号」を日付の表記に使用することが決められていなかった時期のものに限られています。そのことからこの「壬寅年」については「七〇二年」ではなく「干支一巡」繰り上がった「六四二年」と推定しました。この「西河原宮ノ内遺跡」から出土した木簡についてもそこに書かれた「壬寅年」という年次の真の時期として「六四二年」と考えることができるのではないでしょうか。

 「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことはこの「壬寅」という干支が表す年次も同様である可能性を含んでいるものです。またこの「西河原宮ノ内遺跡」は「貸稲」という文言が書かれた木簡が出土したことで有名です。その「貸稲」については以前当方も考察したことがあります。( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/08de5a066c092706751c0639de3b5880 ほか)
 そこでは「貸稲」という制度について、用語としては「孝徳紀」に初出するもののそれが運用されていたのはそれをかなり遡上する時期からと考察したものであり、その意味からも木簡に書かれた「壬寅年」が「六四二年」であったとして不自然はないと考えられることとなります。(表記法が古制であるのも当然と言うこととなりますし、同様に「干支」が書かれた他の二つの木簡も干支一巡遡上して考えるべきこととなります)

 繰り返しになりますが、『続日本紀』の「壬寅年」については、この「壬寅年」が「七〇二年」つまり「大宝二年」を表すとして、なぜ「大宝二年」なのか、この年次で区切る意味はどこにあるのか、この年次に何があったのか、これらの疑問を説明できる理由が見当たりません。『続日本紀』を見ても「大宝二年」以前の「大税」を免ずる理由が不明といえます。まして「壬寅年」というようになぜ「干支」で表記しているかという点を誰も説明できていません。
 これらのことから実際には公文書の日付(年)表記に「干支」を使用していた時代の記事を移動していると見るのはそれほど荒唐無稽ではないと思われます。
 すでにこの前年に来訪した新羅使が伝えた新羅王の死去記事について( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8ff7a32526645aa792979ccb60e0aeb9 他)で考察しており、そこでは一般に理解されている「孝昭王」ではなく四十八年遡上した「真徳女王」であると見たものですが、これと同じ流れの移動記事と考えられるでしょう。(移動年数が異なるのは「孝昭王」の死去年次に無理に合わせたためとみています)

 結局すでに見たように「壬寅年」が「六四二年」を指すとした場合、この「大赦」が置かれてしかるべき年次、及び「大税」を免除してしかるべき年次としては、その「基点」となっている「壬寅年」からそれほど下らない年次を想定すべきであり、『続日本紀』で「慶雲」への「改元」に伴う「大赦」とされていることからのアナロジーとして同様の「改元」時点を措定する必要があるものと思われ、先の論ではこれを「大化」への改元に伴うものと推定したものです。
 (以下該当する「孝徳紀」の記事)

(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…

この中の「貸稲」をやめるという文言(以下のもの)が、「免『壬寅年』以往大税」という表現につながるものとみたものです。

「…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。…」

 この「貸稲」は「吉備嶋皇祖母」つまり「皇極」の母の「吉備姫王」が所有する土地からのものであったものであり、上の「改新の詔により「元本」を(当然「利子」も)「免ずる」としたと見るのが相当であり(「徳政令」と言うべきものとなります)、その表現は「免『壬寅年』以往大税」と書かれた『続日本紀』記事とよく重なるといえるのではないでしょうか。
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