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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

怒りは心頭に「発する」のか「達する」のか

2015年08月24日 | 言語・文法など
 「怒り心頭に発する」という言い方があります。現代ではこれを「怒り心頭に『達する』」というように誤用されることがしばしばのようです。そしてたいていの場合は「これは間違いですから気をつけましょうね」的な解説がされています。この誤用が「なぜ」発生するかについて、解説した文章にはお目にかかったことがありません。
 人間というのは、ただ「間違い」だ、と言われたところでそうそう簡単に改まるはずがないと思われます。「間違い」を何とか減らそうとするならばその「間違い」が発生する「メカニズム」に焦点を当てなければならないでしょう。

 上の例の誤用の元となっているものは、「に」という助詞であると考えられます。「怒り心頭『に』」の「に」です。この「に」という助詞は現代ではほぼ「目的地」「到達地」しかあらわさない助詞であり、他の意味ではほとんど使用されないのです。たとえば「学校『に』行く」「彼女『に』会った」などです。英語的に表現すると「to」か「at」に該当するでしょうか。この「に」が使用されているため、この「目的地をあらわす」助詞に連結しやすい単語(動詞)が選ばれ、発音も似ているので誤用されてしまい、「発する」ことなく「達する」こととなってしまうのだと考えられます。

 と、ここまで考えたときにあることに気がつきました。それはこの慣用句を創出した(あるいは訳した)人物についてです。この人物にとって「に」という助詞は「紛らわしくなかった」のでしょう。もし「紛らわしかった」ならば、たとえば「に」ではなく「より」とか「から」などという助詞を使用したことと推察されます。つまり、彼にとっては「に」には「from」の意味しかなく、「to」や「at」の意味がなかったものなのではないでしょうか。このような人物は一体どこのどなたでしょうか。

 これについては「室町時代」の有名なことわざが頭に浮かびます。それは「京へ筑紫に坂東さ」という言葉です。「室町時代」にポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスが書いた『大日本文典』という「宣教師」向けの辞典に出てくるものですが、この言葉の意味は「目的地」をあらわす助詞として、「京」では「へ」を使うが「筑紫」では「に」を使い、「坂東」(関東)では「さ」を使用する、というものです。ところがこれより百年あまり以前に書かれた『実隆公紀』(西三条実隆による日記)には「筑紫と「京」が入れ替わって書かれており、「京ニ筑紫ヘ板東サ」となっています。
 
 『実隆公記』の「明応五年(一四九六年)正月九日」の条に「宗祇(これは有名な連歌師)談」として「京〈ニ〉、ツクシ〈ヘ〉、板東〈サ〉/京〈ニハ〉イツクニユク〈ナト云〉、筑紫〈ニハ〉イツクヘユクナト云、板東〈ニハ〉イツクサユクト云、…」(ただし「〈」、「〉」は小文字で書き表す意です)

 「宗祇」は各地を旅して回っていたようですから、各地の言葉の違いが印象に強く残ったものでしょう。「宗祇」も「三条西実隆」も京の人ですから、その彼が(彼等が)「京では…」として書いているこの記述はおよそ信用できるのではないかと思われます。このような慣用的使用法が彼らにとってなじみのないものであったなら、そのような一文があってしかるべきですが、「三条西実隆」はここでは特に異を唱えていません。
 またこの「実隆」や「宗祇」の時代から「百年ほど」経過すると「京」と「筑紫」で使用法が逆転するというのも考えにくいものであり、これは『実隆公紀』に書かれた記述の方が正しいのではないかと考えられるものです。
  『実隆公記』による「宗祇」の言葉を「助詞」の使用原則としてこの「怒り心頭に発する」という「慣用句」に適用すると、『大日本文典』から推定した結論とは逆に、この言葉の創作者あるいは訳者は「筑紫」の人物という可能性が出てきます。つまり、「目的地」あるいは「到達地」に使用されるべき「に」をここに使用して誤解を生まない、と考えるのは「京」以外の地域であり、また「坂東」のはずもないと考えられるからです。

 ところで「に」と「へ」という「助詞」の違いについては各種研究がありますが、「に」が広範に使用され、その意味も広いのに対して「へ」の方は「限定的」であることが知られています。
 たとえば「に」には上に述べた「到達地」「目的地」の他多くの意味があることが知られていますが、「へ」については「目的地」そのものではなくそこへの「方向」を示す意味があるとされ、また同時に「公的」な場における発言などある意味「堅苦しさ」が必要な場合に使用されるようです。
 これらは現代の用法であり、中世あるいはそれ以前はどうであったかやや不明ですが、「万葉集」などでは「に」の例が多く見られ「へ」は少ないとされます。
 その『万葉集』の中でも「に」は「目的地」の意味で使用されているのがほとんどであり、「出発地」の意で使用されているのは非常に少ないといえます。なぜなら当時「出発地」を表す助詞としては「従」(ゆ)があったからです。
 そう考えると、この「怒り心頭に」という言い方はかなり古いと考えられるものの、「万葉」の時代までは遡るものではなく、中世以降あるいは近代のものであるという可能性もあるでしょう。

 現在「標準語」として機能しているのは「東京語」ですが、それは上に見る「板東」の言葉とも当然違うと共に「江戸時代」に存在していた「江戸語」ともまた違うものです。
 それは明らかに「明治維新」による「薩長土肥」という「官軍」によるものであり、「漢音」中心とした「法律」などの官式用語として「筑紫」方言が使用され、公的な場で使用されたと見られることと関係しているでしょう。明治以来、「に」が表していた「目的地」「到達地」を表す意味は公的には「へ」に取って代わられたものですが、大多数を占める江戸市民はその影響を僅かしか受けなかったと見られ、非公式な場ではそれまでの「江戸語」が生き残り、それが「に」の多様性として生き残っているのではないでしょうか。
 このため、「怒り心頭に発す」という言葉についても「に」を「目的地を表す助詞」として認識するのが一般化したものと思われ、「達する」方へ誤用が多数を占めると言う現象が起きているものと推察します。
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古代の「成人」

2015年08月24日 | 社会・制度
 このたび18歳以上の男女に選挙権が認められるようになりました。高校三年生の一部はそれに該当します。それがいいことなのかどうかは簡単には言えませんが、成人の規定については変化しないということですから、社会全体にとって大きい影響があるとは見られないでしょう。

 ところで、日本では古代から(少なくとも律令制が施行されていた「奈良時代」)成人は満20歳以上とされていましたが、「(幼)小」は「15歳未満」とされ、「15歳」(数えの16歳)になると「大人」の扱いとなりました。(中丁と称したもの)

「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾」(『養老令』(戸令))

 たとえば「立太子」つまり「後継者」として選ばれるためには「15歳以上」であることが必要でした。「聖徳太子」も「日本武尊」も「中大兄皇子」も「16歳」(数え年)での活躍が資料に残されています。

「…是時廐戸皇子束髮於額。古俗年少兒年十五六間。束髮於額。十七八間。分爲角子。今亦爲之。…」(推古紀)
「…冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令?熊襲、時年十六。…」(景行紀)
「(六四一年)十三年冬十月己丑朔…丙午。殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子年十六而誄之」(舒明紀)

 また「推古天皇」は「十八歳」になって「結婚」しています。(これも数え年)

「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。」(推古即位前紀)

 これは「満17歳」以上になったという条件を満たしたことがその前提と思われますが、この年齢基準はその後も残っていたものと思われ、「元服」や「裳着」という習慣として残ったものです。旧民法規定の婚姻可能な年令の下限規定としても「男15歳女17歳」というものがあり、それもこの古代の制度が慣習化したものを規定としたものと思われます。

 また「倭国王」(天皇)として即位するには「成人」であることもまた必要でした。「幼少」でない場合、つまり「立太子」していた場合は「皇后」が「成人」までの期間「称制」したものです。(立太子もしていないような場合は『懐風藻』にみられるように群卿諸皇子などの合議によりどうするか決めていたもの)
さらに「初叙」の年齢は25歳とされていたものであり、この年齢に達しなければ「官庁」に出仕することができませんでした。

 ところで、20歳以上には「租庸調」や「兵役」の義務がありましたが、20歳以下にはそれはありませんでした。「班田」は幼小であってもであっても与えられましたが、「租」の負担義務は「成人」だけが負っていました。
 このような制度は元々原初的なものであり、律令制度施行以前において15歳という年齢が(男子としては)大人になるための境界条件として存在していたものと思われますが、律令制が施行された段階で、それが取り込まれ、「中丁」というものに形を変えて現われたものと推量します。(「隋・唐」の律令の影響と思われます)
 この段階以降「15歳以上20歳以下」の人間については「大人の権利」はありながら、「大人の義務」はないという状態となったものです。

 このような一種のモラトリウム期間が設けられたことにより、それが人間的成長を促し、「成人」になる準備期間として存在していたと考えられます。つまり、15歳になると、大人としての「権利」は認められ、それを行使するうちに自然と「責任感」がわき起こるという中で「制度」として「義務」が負荷されるという流れとなっているわけです。
 現状のように20歳までは大人としての「義務」も「権利」もなく、20歳になったところで「権利」と「義務」が同時に与えられるというのは「準備期間」がなく、戸惑いがあって当然とも思います。古代のシステムはその意味である意味合理的ではないでしょうか。
 その意味では「権利」と「義務」が表裏一体という考え方そのものが本当に正しいのかが問われているとも言えます。このような考え方は「市民意識」の成立と関係があり、西欧において「市民」としての「義務」と「権利」が確立していなかった時代に、「市民革命」を行う中で理論化され、構築されたものとも思えますが、それは「完成」された人間に対する「権利」と「義務」でした。
 そもそも西欧では「子供」に対してそれが完成されていないという意味で「人間」として扱うという観念が薄かったといわれ、宣教師などが日本を訪れ、子供に「自由」と「権利」が(もちろん完全ではないものの)あることに驚いていたという話もある位ですから、その意味で「子供」に対して人間性あるいは人権というものを承認していたと思われる日本の習慣や制度の方が合理的であったともいえます。

 まず「権利」が先に取得・行使される中でその後「義務」が背負わされるという流れは、人間の成長と社会規範とをかみ合わせるという意味でも考慮すべきものとも思えます。その意味では「日本」の古代からの習慣に目をやり、それを踏まえて考えて見るというのも必要なことかもしれません。
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「孝徳」と「文武」の類似(三)

2015年08月23日 | 古代史
 「孝徳」と「文武」には共通点があるわけですが、またこの両者にはパートナーとも言える人物がおり、それが共に「藤原氏」である点も確認できます。
 「文武天皇」は「藤原不比等」をパートナーとしましたが、「孝徳天皇」はその父である「鎌足」をパートナーとした模様です。
 『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」(鎌子)に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。

「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」

 このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。その後「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰臣」として諸官の上にある、としたのです。

「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(『孝徳即位前紀』)

 『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことを挙げ、その上で「不比等」に「食封を賜った」と書かれています。

「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」

 そもそも、ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状婆。…」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。この「難波朝」というのが「孝徳」の朝廷を指すと思われるわけであり、その意味で「孝徳」と「鎌足」の関係は「文武」と「不比等」の関係に重なると言えるでしょう。

 以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「書紀音韻論」で有名な森博達氏の分析が正しければ、「持統」の時代に『書紀』が一部作られていたこととなり、そうであれば「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果でしかないのではないでしょうか。
 「大伴」や「物部」の系譜を見ても「孝徳」に仕えたという記載が確認され、「孝徳」という人物が「七世紀半ば」の人物として「リアル」であるのは確かです。

 これらのことからも、冒頭に書いたように当初の『日本紀』は「七世紀前半」までであったと見られ、それに続くべき本来の『続日本紀』は『文武紀』(=『孝徳紀』)から始まっていたものと考えられるわけですが、そうであればその『日本紀』は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の治世までであった可能性が強く、九州年号の「命長」の末年である「六四七年」までが対象であったという可能性が高いと思料されます。

 上に推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。
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「孝徳」と「文武」の類似(二)

2015年08月23日 | 古代史
 「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされているからです。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それが理由で「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」自身が「日嗣」の座にあったこと(「天皇」であったこと)を示唆するものと思われます。

 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物でないことは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し新天皇が即位した時点における前皇后への尊称とされますから、この「皇太后」呼称は、「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「皇位」にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣ぎ」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。「懐風藻」の作者にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、そのような『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。
 本来「直系」云々は「即位」の際の継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)

 これが「高市皇子」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市皇子」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そして、この主張に異を唱えようとした「弓削皇子」を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。(「兄弟相承」という伝統ある形に戻そうというもくろみであったかも知れません)
 この「葛野王」の意見は多分に「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であるのが基本となっていることを念頭に置いたものと理解できるでしょう。
 『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」が次のように反論します。

「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶孼之窺窬,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)

 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったというわけです。これは「葛野王」が主張しているものと同じ意味、内容と思われます。
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「孝徳」と「文武」の類似(一)

2015年08月23日 | 古代史
 既に見たように『続日本紀』の編纂の上表文から考えて、「飛鳥浄御原宮」とは「七世紀半ば」の「倭国王」の時代を指すものと見ることができるものであり、当初の『日本紀』はその「前」つまり「七世紀前半」までしか書かれていなかったと見られることとなります。さらにそれに接続されるべき『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定できるものであり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったものです。
 これについては一般に(多元史観論者の中でも)これを「文武」が実在であり、「孝徳」が「造られたもの」という理解がされているようです。それは『孝徳紀』が「宣命体」の文章や「大宝律令」を背景とした記述などが推定され、そのことから「八世紀」の事実を反映したものという理解からのようです。しかし、それは「予断」「偏見」の類ではないでしょうか。つまり、その様なもの(「律令」的制度や文言あるいは「宣命体」の詔等)が「七世紀半ば」に「あったはずがない」といういわば固定観念に縛られている結果と思えます。というより「現行」の『続日本紀』を盲信しているものといったら言葉が過ぎるでしょうか。
 しかし、逆に考えれば、その差はいわば「たかが」数十年程度であり、それはそれほど「絶対視」出来るものであるかと考えると、そうではない見方があっても当然ともいえます。

 ところで『書紀』と『続日本紀』を見比べてみると、問題の「孝徳」と「文武」には多くの「共通点」あるいは「類似点」があるように思えます。以下にいくつか挙げてみます。
 たとえば、共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いている点です。
 「孝徳天皇」の場合は「皇極天皇」から、「文武天皇」は「持統天皇」からのいずれも「譲位」であり、またいずれも女帝です。また、「孝徳」の死後「斉明天皇」、「文武」の死後は「元明天皇」が跡を継いでいますがこれもまた女帝です。

 また両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。「孝徳」が「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「大化改元」は同じ月(十九日)に行われています。また「文武」は以下の資料にみられるように、「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年の初めから「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっています。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定することになりかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえます。
  
 さらに、共に「皇子」時点の名称は「軽」です。「孝徳天皇」は即位前「軽」皇子でしたが「文武天皇」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。

 また、共に予定された「皇太子」ではなく、また「即位」でもありませんでした。「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極天皇」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。元々「大兄」が「太子」つまり「後継者」を指す用語であったと見られることから考えると「孝徳」の継承順位はかなり低かったことが推定できます。これに対し「文武天皇」は「草壁皇子」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁皇子」は「皇太子」でしたが、他に「高市皇子」「川嶋皇子」「舎人皇子」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁皇子」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)
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