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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「軍制」と「百済を救う役」

2025年02月23日 | 古代史
 「冠位制」が「冠位令」のもとのものである可能性があることを踏まえると、軍隊組織においても同様のことが考えられます。つまり「軍防令」的なものが存在していた可能性です。
 既に指摘していますが「百済を救う役」における軍隊構成において「軍防令」的なものの存在が推定されます。
 そもそも軍隊への兵を徴発しようとした場合、最も合理的で確実な方法は一つの集落や一つの地域から必要な人員を徴発することです。それは一定の人数が確保できるという点で優れています。任意にあちこち徴発して回るより下部組織に向けて徴発指示を出し、その指令により各地域で必要な人員を選出し供出するのが最も確実と言えるでしょう。これら一つの地域から選抜した人員により一つの部隊を構成すると各人共通の意識形成が容易であり、また言葉の問題も解決しやすいと思われます。つまり方言」の違いを吸収できるからです。
 軍隊という重要な組織において言語によってコミニュニケーションがスムースにとれないとすると大きな問題になる可能性があり、部隊を構成する人員が一つの言葉一つの方言でまとまっていた方がずっと「制御」しやすいのは当然です。これらのことを考えると「百済を救う役」において各地域から徴発された部隊で全体が構成されていたことまちがいないものと思われます。その部隊構成の人数が「二万七千人」という数字が現われる理由として、それが選抜された地域の数と関係していることとなるのは必然です。
 もともと、各地域にはその地を牛耳る権力者がおり、彼とその地域を防衛するための兵力は以前からあったものと思われますが、「評制」の全国的施行により(それは「官道整備」と関わるものと思われますが)「倭国王権」の支配が全国に透徹するようになったものと思われ、中央から諸国への軍事力の展開が可能となったことと、それとは逆に諸国からの農作物を始めとする物品の徴収あるいは搾取が可能となったほか、「直接」的兵力調達が可能となったものと思われます。これらは「直接統治体制「の構築と関係しています。
 それまでの「地域的ボス」(これを一般には「在地首長層」という言い方をするようです)だけが「兵力」保持できるものであったものが、この「評制」施行により「倭国王」が直接的に「兵力」を確保することが可能となったものと考えられます。そして、これらの兵力のうちの一部は「筑紫」(=畿内)の外部防衛線を形成するものとして徴発されたものであり、このような人々が「防人」(戌人)と呼ばれた人たちです。 
 この「兵力」確保については、この「評制」施行時点ではまだ「八十戸制」であったと考えられ、その時点ではまだ本格的な「軍制」は定められていなかったと見られますが、「遣隋使」が派遣されて「隋制」が導入されて以降「五十戸制」に変わったものと見られ、それによって「戸制」が「軍制」に関連させられることとなったと見られます。
 つまり「後の」『養老令』によると「軍隊組織」の基本である「隊」(一隊)の人数は「五十名」であり、これは「一戸一兵士」で選出するのが「基準」とされていたのではないかと推測されるものであり、それは「二〇一二年六月」に「大宰府」から発見された「戸籍木簡」でも「兵士」と書かれた人物は一名だけであったことからも理解できると思われます。つまり、この事はこの時点以降「評」や「評督」そして、その頂点にいたと考えられる「都督」など「軍事的組織」と「戸制」とが強く結びつくこととなったと考えられるものです。
 当時「一隊五十人」を基礎単位とする「軍制」があったと考えられるのは、『書紀』で「蘇我入鹿」についての描写で「五十人」の兵士に警護されている様子が描かれていることからも推測できます。

「(皇極)三年(六四四年)冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。谷。此云波佐麻。稱男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鈎數十以備火災。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。『恒將五十兵士続身出入。』名健人曰東方■從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」

 この記事の「五十」というものが「多数」を意味するのか「実数」なのか微妙ですが、「兵士」の数として書かれており、「軍制」と「五十」という数が関係しているように見えることを考えると、「五十戸制」と「軍制」との関連の中で考慮すべきものと思われ、そうであれば、この「年次」(六四四年)において(後の「軍防令」のような)「軍制」に関するルールが既にあったらしいことが推定されるものですが、それはこの年次に先行する時点である「七世紀前半」において「五十戸制」がすでに存在していたことを強く示唆するものです。
 このように「蘇我氏」は「私兵」を所有しており、それは国家の軍隊と同様「五十戸制」に則っていたことが推定され、自家の領地とされる場所から「私兵」を徴集する権利を有していたものと見られます。
 「評」の戸数については、『常陸国風土記』に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、それは『隋書俀国伝』から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七百五十~八百」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八百人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」に「折衝府」的意味合いが持たされるようになったということではなかったでしょうか。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では多くの「戸」において「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して「一戸一兵士」という基準が国内に適用されていたと考えられるものです。
 また、『持統紀』に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。

(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。
 以上のことを想定すると前述した「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 前述したように「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけです。しかしそれがなぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定があり、そのことからも明確となっていますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないかと推測できくす。つまり、後の「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるます。
 つまり「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。つまり「一隊」が「一里」に対応していると思われ、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねません。
 多分もっと重要なことはすでに述べたように「言葉」の問題もあったと思われます。つまりその隊のリーダー的存在を彼等の中から選抜していたとみられますが、その場合指示号令を理解できる集団でなければならず、別の「里」からの人が混在していた場合、言葉(方言)が異なってしまう可能性があり、コミュニケーションが不十分となったとすると軍隊として統一的行動をとるのに支障が出る可能性があるでしょう。そう考えると一隊が一里である必要があることとなりますから、必然的に隊の構成人数と戸数とは関連が深いこととなります。
 上の推定の傍証として以下があります。
 『天武紀』には「防人」の遭難記事があります。

「天武一四年(六八五)十二月乙亥四条」「遣筑紫防人等飄蕩海中 皆失衣裳。則爲防人衣服以布四百五十八端 給下於筑紫。」

 この記事の中では「防人衣服」として「布四百五十八端」が支給されたと書かれていますが、「衣料」としては「一反」(端)がおよそ「一着分」と考えられますから、この数字はそのまま「四百五十人分強」のものであることとなります。「船」の「乗員」の数としては、『書紀』に記載された「白村江の戦い」などの際の推定される「船の数」と「兵員数」から考えて、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほど乗り込んでいたのではないかと考えられますから、三隻分の兵士の数に相当すると思われます。
 後の「防人」に関する「駿河国正税帳」などの史料によると、「防人」として「徴発」され「帰国」する人数は計「十一国」の約「二千名」とされています。その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。病気や死亡、あるいは帰国の費用捻出ができなかった(往復に要する費用は全て自前ですから)などの理由により当初徴発した人数よりも減少していることが推定されますから、実際にはこりよりかなり多くの人が防人として徴発されたと思われます。
 この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「評」を構成する「戸数」と等しい「七五〇人」であったと推定すると、その類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算されるものであり、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。つまり「倭国王」の周辺地域を防衛するシステムとしてはその選抜される兵士の数はそれほど多くはなかったとみられますが、上に見たように「戦闘」に参加するという事態が発生した場合はそれが徴発される割合は一気に「一戸一兵士」と増加するわけです。いずれにしても推定によれば一つの「国」から一つの軍を構成していたものと思われ、『持統紀』などに見える「唐」に捕囚の身であった人が帰国した記事などに反映していると思われます。

(六九六年)十年…
夏四月壬申朔…
戊戌。以追大貳授『伊豫國』風速郡物部藥與『肥後國』皮石郡壬生諸石。并賜人■四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地

ここでは「伊豫国」と「肥後国」から徴発された人がいたことが窺えますが、彼等は「伊豫軍」と「肥後軍」として編成された部隊の一員であったと思われます。それを示唆するものが「伊豫軍印」というものです。これは「愛媛県四国中央市土居町天満」という地に所在する「八雲神社」の伝来品です(いつどのような経緯でもたらされたものかは不明)。素材は「銅製」の鋳造印で、サイズが一辺が36.9mm、全高24.6mm、重さ50.8g、背面中央部に直立した楕円形の穴がある把手がついたものです。字体は「六朝風」であるとされています。
 この「印」は国内では他に例を見ないものであり、通常「律令制」下の諸国の「軍団」に支給された「軍団印」の一種と考えられているようであり、「健児の制」が採用された平安時代のものとするようですが、同様に「健児の制」が布かれた他の地域で「軍印」があるというわけでもなく、それほど確証のある議論ではありません。
 実際には他に現存する軍団印とは様式を全く異にしています。他の例では「団印」となっており「軍印」というのは確認できません。
 たとえば「筑紫」地域には「御笠團印」と「遠賀團印」という銅印が現存していますが、あくまでも「團印」であって「軍印」ではありませんし、つまみ部分には「穴」がなく「環鈕」とはなっていません。またサイズについても全く異なりそれらは一辺が40mm、高さが高51mmとなっています。(これは「天平尺」つまり「唐大尺」」によるとされます)このような「印」が律令に基づいて作られたとするとそれとは別の「規格外」のものが造られたはずがないともいえるでしょう。
 この「伊豫軍印」の規格はその寸法から考えて「南朝」の規格によったものと思われ、(南朝では歴代にわたり一寸が24.5mm程度であったと推量されます)、各々一寸五分(辺)と一寸(高さ)ではなかったかと思われます。
 「伊豫軍印」がこのような「南朝」(中国)の規格に沿っていたとするとそれが作られ、配布(授与)された時期として「遣隋使」以前が想定されるでしょう。なぜなら「遣隋使」以降「隋制」が多く導入されたとみられるからであり、南朝の規格は「隋」において暫時廃止されていったとされます。(当初は並行的に使用されたらしい)
 このような「銅印」について中国の史書を見てみると以下の例がありました。

「…超武、鐵騎、樓船、宣猛、樹功、剋狄、平虜、稜威、戎昭、威戎、伏波、雄戟、長劍、衝冠、雕騎、佽飛、勇騎、破敵、剋敵、威虜、前鋒、武毅、開邊、招遠、全威、破陣、蕩寇、殄虜、橫野、馳射等三十號將軍,『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶』,朝服,武冠。并左十二件將軍,除並假給章印綬,板則止朱服、武冠而已。
建威、牙門、期門已下諸將軍,並『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶』,朱服,武冠。板則無印綬,止冠服而已。其在將官,以功次轉進,應署建威已下諸號,不限板除,悉給印綬。
千人督、校督司馬,武賁督、牙門將、騎督督、守將兵都尉、太子常從督別部司馬、假司馬,假『銅印環鈕』,朱服,武冠,墨綬,獸頭鞶。
武猛中郎將、校尉、都尉,『銅印環鈕』,朱服,武冠。其以此官為千人司馬、道賁督已上及司馬,皆假墨綬,獸頭鞶。已上陳制,梁所無及不同者
陛長、甲僕射、主事吏將騎、廷上五牛旗假吏武賁, 在陛列及備鹵簿 ,服錦文衣,武冠,毼尾。陛長者,假『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶。』」(隋書/志 凡三十卷/卷十一 志第六/禮儀六/衣冠 一/陳)

 これは「南朝」「陳」の例ですが、「銅印環鈕」(他に「黒綬」「朱服」「獸頭鞶」など)は将軍や司馬、都督など軍を率いる立場の者達に授けられており、それはこの「伊豫軍印」も同様であったという可能性を示唆するものです。(この伊豫軍印も「銅印環鈕」に該当します。)
 ただしここでは「印」の規格について触れていませんが、北朝の「(北)周」では「皇帝」の「印璽」について「蕃國之兵」に供するものを含めて「方一寸五分,高寸」であったと書かれており、これと同一規格であることが注目されます。

「皇帝八璽,有神璽,有傳國璽,皆寶而不用。神璽明受之於天,傳國璽明受之於運。皇帝負扆,則置神璽於筵前之右,置傳國璽於筵前之左。又有六璽。其一「皇帝行璽」,封命諸侯及三公用之。其二「皇帝之璽」,與諸侯及三公書用之。其三「皇帝信璽」,發諸夏之兵用之。其四「天子行璽」,封命蕃國之君用之。其五「天子之璽」,與蕃國之君書用之。其六「天子信璽」,徵蕃國之兵用之。六璽皆白玉為之,『方一寸五分,高寸,螭獸鈕。』」(隋書/志第六/禮儀六/衣冠 一/後周)

 これは「北朝」の規格であるわけですが、「北朝」では「北魏」以来「漢化」政策を実施していましたから、「北朝」は基本的にその制度や朝服等を「魏晋朝」及びその後継たる「南朝」に学んだと考えられます。このことは「伊豫軍印」が「北朝」の規格に準じているように見えるのは実際には「南朝」の規格に沿ったものということを意味する可能性があることとなり、「百済」等を通じて「北朝」系の規格を学んだというより、直接「南朝」との関係として考えるべきことを示すものかもしれません。
 ちなみに「軍団」という印は日本独特のもので中国では例外なく「軍印」です。多く確認できるものが「将軍印」であり、これを保有しているものが「将軍」であることを保証するものです。(印は元々それを保有している人物や組織の権威を保証するものですから)
 さらにここに書かれた「印」という字の書体が「楷書」であるとして後代のものという議論もあるようですが、「楷書体」は「六朝」時代からあり「伊」「豫」「軍」という他の字の書体も併せて全体として「六朝風」と言う評価が妥当すると思われ、後代のものと断定するには疑問が出るところです。
 このような「軍印」が各地の「国」の軍事的最高権力者に授与されていたとみれば、少なくとも「倭国」つまり「筑紫日本国」の統治範囲の中には(「伊豫」は確かに統治範囲に入っていると推測できます)この「軍印」を所有する「将軍」(或いは「司馬」「都督」など)がいたこととなり、また彼等の配下に各「評」から選抜された「兵士」がいたということとなるでしょう。(ちなみに「中国ではこのような「印」は帯に「綬」でぶら下げられていたものであり、常時身につけていたとされます。そしてその「印」がそれを所有する人物の地位と権威を保障するものであったものであり、当時の倭国においても「威信財」として機能したとみるべきでしょう。)
 このような体制が存在していたとするとそこに「軍防令」的な制度がすでにあり、「冠位令」と共にそれらを包含する総合的な「令」があったことが窺えるものです。
コメント

「鎮将」と「都督」(改)

2025年02月17日 | 古代史
 以下はかなり前に書いたものですが、現時点での理解している内容にバージョンアップした内容として書き換えを行いましたので投稿します。
 
 改めて列島支配の権力の推移を概観すると、「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「東方直接統治」の失敗により「日本国」が「「難波日本国」と「筑紫日本国」に分かれる形となって、その後「百済」を巡る戦いで「筑紫日本国」が一度滅びる形となって以降、「難波日本国」による列島支配があり、その後帰国した「薩夜麻」を中心とした旧「筑紫日本国」勢力によりいったん「倭王権」に戻り、その後それも「大地震」と「大津波」の影響などにより崩壊することとなった結果再度「難波日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定ています。
 この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった「百済を救う役」であり「白村江の戦い」です。この戦いでは「倭国(筑紫日本国)側」の全面的敗北となったものですが、それは「高句麗(高麗)」の敗北とつながっています。それに関連して「百済鎮将」という名称が『書紀』に見えます。

「(六六七年)六年…
十一月丁巳朔乙丑。『百濟鎭將』劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この「鎮将」については通常「占領軍司令官」という通称的なとらえ方がされているようですが、「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされます。また「百済」制圧後は「熊津」に置かれた「都督府」が旧「百済」の地域全体を総管したものであることから考えても「百済鎮将」の「鎮」とは具体的には「都督府」を示す意義であり(「安西四鎮」など他の使用例も同様)、このことから「百済鎮将」とは「熊津都督」を意味する正式な用語であることがわかります。
 この「鎮」「将軍」という語に関して、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名です。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物悰看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここに現れる「鎮西」という用語を後代のものと見る立場もあるようですが、上のような「隋」「唐」の用語使用法との関連で考えるとこれはこの時点で使用されていたと見るのが実際には相当と思われることとなります。その意味でこの「鎮西筑紫大将軍」という記事は「筑紫都督府」の存在とつながるものとも言えます。つまり「筑紫」に「唐」により「大鎮」が置かれ、「都督」として「大将軍」が任命されていたとすると整合するとも言えそうだからです。もっともそのようなことは想定できません。もし「大鎮」が「筑紫」に置かれたとすると当然「鎮将」たる「都督」が任命され、その役職として「将軍号」を持った人物が配置されると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなるはずです。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たりません。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきでしょう。確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われます。しかし、私見ではそうとは考えられません。
 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられます。それは第一に危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることです。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えません。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難でしょう。「熊津」でも「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲んで「劉仁願」は窮地に陥っています。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないというべきです。
 また通常「都督府」がおかれる場所はそれが戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものですから「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるものの、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味で設置する条件を満たしていないと思われます。
 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来いつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけです。その意味で「百済」と「高句麗」については征討の対象であったわけであり、征討後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったものとみられますが、元々「倭」は討伐の対象ではなかったと思えます。
 「倭国軍」と「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭国」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものです。このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえます。
 この人質を取る作戦は結局を功を奏さず、「高麗」への援軍という形で軍を派遣していたため「唐軍」と直接戦うこととなったものであり、その意味で人質作戦はそれほど効果はなかったものですが、その一方で「新羅」と直接は戦闘にならないようにしていたものであり、それは「高宗」から「璽書」を下され「危急の際には「新羅」に助力せよ」と指示されたことに反しないようにしていたことが窺え「唐」から「朝敵」とみなされないようにしていたこともまた確かと思われます。(「難波日本国」に対して「新羅」を攻めるように指示していたのは彼等に対して「璽書」が下されたわけではないことが重要だったからと思えます。)
 しかしいずれにしても「倭」は当面の敵ではなかったものであり、当初から「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったと思われ、「高麗」地域で直接戦闘になったことは確かではあるものの、そのことで「倭国」と全面的に戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われます。そうであれば「倭国」に「都督府」を設置する意義が認められず(ということは「都督」を任命する意義も認められないということになります)、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われるのです。
 これについては「都督府」が「難波日本国」が「政治的・軍事的空白」となった「筑紫日本国」に対して行った行動であり、「都督」としては上に見たた『善隣国宝記』に引用された「海外国記」にあるように「鎮西筑紫大将軍」というがそれに該当すると考えます。「鎮西」という用語自体がそもそも設置主体が「筑紫」より「東」に存在することを明確に示しており、それに該当するのは「難波日本国」しかないといえます。
 「都督」は「大将軍」でもあるわけであり、このように政治的呼称やその役割にしても「唐」を範としていることは明確であり、「鎮」についても上に見たように「辺境」に対する防衛施設としての呼称であると思われ、すでに「難波日本国」としては「筑紫」地域を「辺境」扱いしていることが窺え、興味深いものです。
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