古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

久しぶりの「月」…本年

2022年06月17日 | 宇宙・天体
暖かくなって天体(といっても現時点では月だけですが)の写真を撮るのにやっと適した環境になってきました。







少しずつ、ほんとに少しずつ…。風景が変わり始めています。


写真データは今年の6月7日、8日に、9日に撮影したもので、いつものように20cmシュミットカセグレンにスマホを接続したものです。(アイピースは複数種類を使用しており、またバーローレンズ入れて強拡大しているものもあります)
コメント (2)

平城京と藤原京及び難波京の関係について

2021年12月18日 | 古代史
以下は以前書いたもの(「平城京遷都の実態と藤原遷都との比較」2018年12月11日 )の書き直しですが、「難波津」に関する部分を書き足して再構成したものです。
 
『扶桑略記』には「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあります。

「和銅三年庚戌三月辛酉。始遷都于平城。従難波宮。移御奈良京。定左右京條坊。…」(『扶桑略記』より)

 『日本帝皇年代記』にも同様に「奈良」(平城京)への遷都記事に「難波」からという表現が見られます。

「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(『日本帝皇年代記』(上)より)

 これらの記事はあたかも「平城京」の前の「都」は「難波」にあったかのようです。これらは『書紀』『続日本紀』とは明らかに異なるものですが、それらの記述を絶対視しないのであれば、これも検討のまな板に載るべきものです。
 ところで、これらの記事には「藤原京」が脱落しています。つまり「遷都」は「藤原京」からではないというわけですが、これが単に錯誤であると見るより「藤原京」に対する私たちの考え方を変えるべきではないでしょうか。つまりこれらの記事の背景にあるものは「藤原京」が「新日本王権」から見て「他の王権の京」であるという事実ではないかと考えられるのです。
 つまり「新日本王権」に直接つながる「京」の系譜として「難波京」があったものであり、「藤原京」は直接つながるという性格のものではなかったものと見られるのです。
 『書紀』によれば「藤原京」は「持統」の宮(京)として造られたとみられますが、『書紀』という存在は「新王朝」成立後「前王朝」について史書をまとめるという中国歴代の前例に倣った結果作られたものと見るのが相当であり、その意味で「新日本王権」からみて「持統」の王朝は「前王朝」であり、「藤原京」は自分たちの「京」ではないと考えたとして不思議ではありません。それは「藤原京」が完成する間もなく廃棄されたという歴史的経緯からもいえます。

 また「飛鳥」の周辺地域に存在していた「有力氏族」の「邸宅」等と見られる建物群の廃絶時期について重要な指摘がされています。これらは、「平城京」が完成する時点まで継続しているように見られ、「藤原京」の完成時期と考えられている「七世紀末」という時点を過ぎて継続していることが確認されています。つまり「藤原京」では「京域」内への「宅地移転」などが行われなかったと見られ、従来これらのことについては「不審」とされ、「京師」の形式が確立する段階ではなかったのではないかという推測がされることがありました。しかし「難波宮」の火災記事を見ても「宮域」の至近に「官人」の居宅があったものであり、そこからの出火が飛び火して延焼したらしいことが書かれていますし、同じ「難波宮」において「鐘」が時刻を表すものとして鳴らされ、それに応じて「朝庭」への出仕が行われたとされていることを考えると、そのような「鐘」の音が聞こえる範囲に「官人」の居宅がなければならないことは明らかであり、その様な事と「藤原京」の状態は整合していないことは明らかです。このことは「藤原京」が本当に統治の中心地として機能していたのが問われるものです。
 出土した木簡の解析によって「藤原宮」の「東面回廊」の完成は「七〇三年」以降であり(註)、また『続日本紀』の記事によれば「七〇四年段階」で宮殿予定地には民家があったとされます。

(七〇四年)慶雲元年…十一月…壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。

 しかし「遷都」については『書紀』に「六九五年」の年次で書かれているわけであり、これはまず「掘立て柱建物」を「大極殿」(というより「内裏」)として「藤原京」内の「どこか」に建て、そこに天皇(この場合「倭国王」)が居する状態となった時点で、「遷都」と称していると思われます。それは「中務省」に関する木簡が「大極殿」の中からは出ておらず、至近の「官衙地域」から出てくることにもつながっていると考えられます。
 「中務省」に関連する木簡が大量に出土するのは「宮域」の外部(左京七条一坊付近)からであり、この付近に「中務省」が存在していたことを想定させるものですが、「中務省」と「天皇」とは本来直結しているものであり、「天皇」の言葉を直接「詔」として文書を作成するというのが役目であることを考えると、この時この至近に「仮宮」として「内裏」が存在していたことを推定させるものです。そして「七〇四年十二月」以降以降「掘立柱」ではなく「礎石建物」として「大極殿」を作り始めたとみられるわけですが、完成はいつのことだったでしょうか。

 「平城京」の各所の建物及び部材は「藤原京」から移築あるいは運ばれたものと見られていますが(註)、その中でも白眉といえるものは「大極殿」です。
 この「平城京」の大極殿は「藤原宮」の大極殿を移築したものであり、また「恭仁宮」の「大極殿」もさらにそれを移築したものと判明しています。しかも、「考古学的調査」の結果『続日本紀』に示す「平城京遷都」と記された「和銅三年」(七一〇年)(以下の記事)にはまだ「大極殿」も、それを取り巻く築地回廊も未完成であり、それどころかその場所は「整地」さえされていなかったと見られています。つまりこの時点では「平城京」で「元日朝賀」を行なう事は不可能であったと見られています。

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔条」「天皇御大極殿受朝。隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎兵。引隼人蝦夷等而進。」(続日本紀より)

 また同月十六日記事では「重閣門」の存在が書かれています。

「丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。」

 この時の儀式はこのような「門」が存在していた場所で行われたわけですが、上で見るようにこれは「平城京」ではないこととなるわけですが、では「藤原京」でのことなのでしょうか。しかしそう考えるには「疑い」があります。というのはこの時「藤原京」はすでに「解体」作業が始まっていたのではないかと思われるからです。
 上の記事の三年前の慶雲四年「七〇七年」には以下の記事があります。

「(慶雲)四年六月(七〇七年) 庚寅。天皇御『東樓』。詔召八省卿及五衛督率等。告以依遺詔攝萬機之状。
秋七月壬子。天皇即位於『大極殿』」

 「元明」の即位年である「七一〇年」時点では「大極殿」は存在していないわけですが、「元正」の即位時点である「七一五年」には確かに「大極殿」は「平城京」に存在していたと考えられますから、「大極殿移築完了」まで最大で「五年」(七一〇~七一五)を要しているように見えます。ただし「聖武」の時代「恭仁宮」への移築は「二年」程度で完了しているようですから、この時もその程度とみることもできるかもしれません。しかし「藤原京」の場合「大極殿」は「移築」ではなく「新築」であり、「設計」も含めると明らかに「移築」よりも時間がかかったと考えられ、予定地内の宅地の移転だけでも相当日数を要するはずですから、どんなに早くても「七〇五年」の年頭付近から作り始めたとものとみられますが、そうとすると「即位の儀式」が行われた「七〇七年」の正月まで「二年以内」に作らなければならないこととなります。これでは移築と何ら期間が変わらないこととなりますが、新築の方が時間がかかると考えるのが相当ですから、その場合かなり困難なスケジュールといえます。
 一般には「和銅三年」記事が「藤原宮」におけるものであるなら、その三年前の上の記事も当然「藤原京」でのできごとと考えられているようですし、その前条の記事の「東楼」とは「藤原京」「発掘」で明らかになった「楼閣」を指すと考えられてきたようですが、建築スケジュールから考えてそうとは断言できなくなっているといえます。
 記事に見るようにこの時「天皇」は「東楼」に「御」しています。しかし「飛鳥浄御原」には「楼閣」(しかも東西揃ったもの)なるものが存在していたという考古学的証拠も資料的にも確認されていません。実際に「東楼」が存在していたのは「前期難波宮」においてであり、発掘で確認された「楼閣」(東西のうち「東側」のもの)がそれに当たると考えるべきでしょう。つまり「元明」は「藤原京」ではなく(もちろん「飛鳥浄御原」でもなく)、「前期難波京」において「即位」したと考える方がよいということとなります。そう考えると「和銅三年」の「大極殿」も同様に「難波」であったと見るべきでしょう。
 これらのことは「文武」「持統」はその在位期間のほとんど(あるいは全部)を「仮宮」としての「内裏」で統治したという事となり、「藤原宮御宇」という言葉の実態が示されることとなったと思われます。このように「平城京」の完成時期との時系列として考えると「藤原京」時代は圧倒的に短期間であることとなり、本当に「宮殿」として使用されたのか「都」は真に「藤原京」であったのか、重大な疑問が出てくるでしょう。
 もし「藤原京」が「未完成」のまま「解体」され、その施設資材が「平城京」建設に転用されたとすると、「宮殿」は使用されなかったこととなりますが、その時点付近で「宮」(京)として使用されていたのはどこであったのかということになります。
 「飛鳥宮」では「首都機能」が貧弱であり、ここでは官僚達が公的業務をこなすことは出来なかったものと思われますから、集約的に官僚統治機構が備わっていたのはこの当時「難波京」しかなかったと思われ、そうするとこの「平城京」完成時点での「首都」機能は「難波京」にあったということとなるものですが、それを示すのが上に見た「元明」の「即位」の場所の推定であり、『年代記』等の記事ということとなるのではないでしょうか。
 「和銅三年」記事において「征隼人大将軍」として派遣された「大伴旅人」が隊列を成しています。彼らが「大隅国守」の殺害に端を発した「反乱」を制圧して戻ったとみれば、行きは船であったと推定されていますから(水夫に褒美が出ています)、当然帰りも船であったわけであり、「筑紫」との往還の基地であった「難波津」に入港したこととなります。その彼らが凱旋したとみれば、至近にあった「難波宮」がその舞台となったとして自然であり、「和銅三年」記事が「難波宮」のものとして合理的に理解できます。
 「難波」には「兵庫」があったわけですから(「百済を救う役」においてもそこから「軍器」が供出されているとみられます)、反乱制圧に使用した「軍器」はそこに返却・収納されたものとみられ、いずれにしても「難波京」に戻ったとして当然と思われるわけであり、そのことは「七一〇年」の「元日朝賀」の儀式は「難波京」で行われたとみることを示します。
 ただしこの「難波宮」は(『書紀』によれば)「六八六年」に火災に遭い、その後使用できる状態ではなかったと考えられていますが、確かに発掘された「壁土」の中には、「強い熱」を浴びたと思われるものが含まれていたり、建物の「柱穴」の底から同じように「強い熱」を浴び「焼土」となったものも発見されているなど、「火災」で「焼亡」した、というのは考古学的に証明されているようです。しかし実際には「難波宮」は「部分的」にでも復旧されていたのではないかと考えられます。それを示すように『続日本紀』に(『文武紀』)「難波宮」への行幸記事があります。

「文武三年(六九九)正月癸未廿七。(中略)是日幸難波宮。」
「文武三年(六九九)二月丁未丙戌朔廿二。車駕至自難波宮。」(いずれも『続日本紀』より)

 この時の行幸の目的ははっきりしませんが、「釈迦」の命日である「二月十五日」を挟んでいますから、「涅槃会」を行ったのではないかと考えられ、「難波宮殿」でそれら「儀典」の類を行なったものと考えられます。
 また三週間ほどの長きに亘り滞在していることから、この時点の「難波宮」にそれなりの設備があったと考えざるを得ません。当然側近だけではなく、ある程度高官の官人たちも同行していたと考えられ、その間の「執務」や行幸の本来の目的に関する「儀典」などが行われたものと考えると「難波宮」がある程度「機能」していたと考えざるを得ないものです。
 「難波宮殿火災」の記事にも「唯兵庫職不焚焉。」とあり、「兵庫」とは「武器」の他「儀典」に必要な物品などを収容する倉庫とそれを管理する職掌を指しますから、それらがここにあり、且つそれは無事であったとされているわけであり、「仮復旧」さえできれば、「儀礼」「式典」の類を行うための最低条件は整っていたものと考えられます。
 さらに「難波宮殿」の東方に所在していた、いわゆる「東方官衙」の中に「大規模建物」の遺構があり、それが「威儀、格式」の高い建物の遺構である可能性が指摘されているところからもここは何らかの「宮殿」建物と考えられ、また火災の形跡が確認されていないことからも「難波宮殿」の火災後も「使用可能」であったとみられ、「儀典」などをここで行うことは十分可能であったと思料されます。それら「儀典」の代表的なものが「元正」が行ったという「元日朝賀」であり「即位の儀式」と思われるわけです。
 その後も「聖武天皇」は幾度か「難波宮」へ行幸していますが、明らかに「後期難波宮」の着工前や着工途中の行幸記事があり、さらにこの時点で「難波宮」に詰めていた官僚がいたことを示唆する記事もあるなど、「聖武」の治世期間においても依然「難波宮」が使用可能であり、また「平城京」とならび必要な官人が配置されるなど「陪都」としての機能があったことが強く示唆されます。
 すでに議論があるように(註)「儀典」特に「元日朝賀」や「即位」などは「大極殿」だけで行われるものではなく、その南側に存在する施設や「朱雀大路」など京域全体を利用して行われるものであり、それらが「藤原京」で行うことが可能であったかというと当時「藤原京」にそれら全て揃っていたのかという点が問題となります。
「藤原宮」は完成後間もなくあるいは未完成の内に解体が始められ、部材は「平城宮」の建設に転用され、「大極殿」も移築されるなど実際には使用されなかったものであり、その意味では「平城宮」への移築が完了するまでは「藤原宮」で「儀典」を行うということが可能であったとは考えられず、そのことからも「難波宮」を「儀典」の場として使用していたものであって、「平城宮」に遷都する以前における「京」は「難波」であったと見るべきことを推論しました。

参考資料
小澤毅『日本古代宮都構造の研究』青木書店二〇〇三年
植木久『難波宮跡』同成社二〇〇九年
木下正史『藤原京』中公新書二〇〇三年
奈良文化財研究所『平城京第一次大極殿』二〇一〇年
関山洋「大極殿の成立と前期難波宮内裏前殿」(第1回都城制研究集会 「宮中枢部の形成と展開-大極殿の成立をめぐって-」(二〇〇七年三月二十四日奈良女子大学での報告 「前期難波宮」より)
竹内亮『藤原宮大極殿をめぐる諸問題』都城制研究(2)二〇〇九年
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那須評督韋提の石碑について

2021年12月06日 | 古代史
 山田氏のブログを久方ぶりに訪れて意外な記事を見つけて驚きました。そこには当方が書いた「那須直韋提評督」に関する論が掲載(引用され)一度はそれに従うものの、服部氏からのコメントに応じて全面撤回しているように見える記事がありました。しかしその根拠というのが「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されないというものでした。
 この記事及び服部氏のコメントには失礼ながら全く従えません。『「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されない』という一文には二重の意味において疑問があります。一つは「評督」が「官職」であると断定していること。一つは「碑文」という第一級資料よりも『書紀』を優先しているように見えることです。

 そもそも「評督」が「官職」であるというのは何に拠ったのでしょうか。『書紀』には「評督」は全く現れませんから、『書紀』の中に類例を求めることはできませんので、他の資料と思われますが、管見した範囲では確認できませんでした。「国造」に対して「賜」例はありますが、だからといってここでも「(被)賜」の対象が「国造」であり「評督」は「賜」の対象にはならないとは言えないはずです。
 『書紀』に「官職」を「賜う」例がないということと、「評督」が「官職」であるというのは直接は関連しないものであり、それを関連付けるには別の証明なりが必要と思います。
 『書紀』では「権力側」からの記述である「賜」例しか出てきませんがここでは上に書いたように「被賜」という受け身形です。(私見ではこの碑文は朝廷からの文書を引用しているとみていますが、もらった側がその立場で朝廷からの文書の文章を変えているという可能性もあるでしょう)この両者をストレートに比較するのが適当なのかがそもそも疑問ですが、もっとも気になるのは『書紀』にないからという理由が先に立っているように見えることです。
 この『石碑』という第一級資料に「賜」という表記が(「被賜」という形であっても)存在している意味を考えるとき、当時「評督」は「賜」対象であったという考え方も可能なはずであり、それは「評督」が「官職」か否かとは別の問題として考えられなければならない性格のものでしょう。「評督」についてアプリオリに「官職」と決めてさらに『書紀』を見て「賜」用法を探るというのは論理進行としてかなり問題なのではないでしょうか。
 「国造」が「賜」対象であることは確かかもしれませんが「評督」はそもそも現れないのですから「賜」の対象なのかどうなのかは不明というべきなのでしょう。そうであれば「被賜」の対象は別の根拠で判断するのが正当と思うのですが、いかがでしょうか。

 この「碑文」には「国司」ではなく「国造」であることから『書紀』の表記法と一線を画しています。『古事記』が「国造」としているところを『書紀』が「国司」としている例がありますが、多くの場合「国司」表記となっているのに対してここでは「国造」表記となっています。仮に「評督」が「国造」になったというのであるならその「国」とは「令制国」のそれなのか『常陸国風土記』に書かれたような「小国」としての「国」なのかが重要と思います。実際には「那須」という一小領域に関してのものであり「令制国」のそれではありません。本当にこの段階で「国造」(それが『書紀』のいう「国司」ならば)なぜ「下野」ではなくその一辺境に過ぎない「那須」なのかというのも疑問です。そのような小領域の「国造」を「被賜」されたことが「石碑」を建てるほどの誉れなのでしょうか。
 以前にも書きましたが、「難波朝廷天下立評」という事業の存在が史料(皇大神宮儀式帳)に書かれていますが、その時点で「国造」が全て「評督」に代わったわけではありません。『三代実録』にも『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』という記載がありますが。これも同様全ての「国造」が廃止されたということではなく、新たに「国造」を任命することはなくなったとみるべきであり、列島支配の主要な組織の一員としては重要ではなくなったことを意味すると思われるわけです。
 『持統天皇の伊勢行幸記事にも「国造」に「冠位」を「賜」したという記事があり、この時点で「国造」が存在しているのは明らかです。

(六九二年)六年…
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。天皇不從諌。遂幸伊勢。『賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。』并兔今年調役。…

 彼らは「屯倉」の管理者という存在ではないためそのまま「国造」として残った人たちと思われるわけです。官道の延伸に伴い重要拠点としての「屯倉」が設置された場合その管理者として「評督」が置かれたものとみられますので、「国造」と「評督」は並立していることとなります。(その意味でも「国造」と同様「賜」の対象であったと考えても不審はないように思います。)
 ただし以前の記事でも触れたように、木簡などでもこの「永昌元年」という時期に「国造」を「賜」されるというような例が見あたらないこと、そもそもこの時期の木簡に「国造」が表記された例そのものが皆無であり、「評制」が施行されている間に「国造」が同時並列的に『制度』として施行されていたとは考えにくいものです。(上に見るように「永従停止」とされているわけですから)あくまでも「七世紀」においては「評」という「制度」が施行されていたものであり、「国造」は「評制」が行われるようになって以降「制度」としては施行されていなかったとみるしかなく、そのようなものを「賜」したり「授与」するとは考えられないということです。
 また「屯倉」は物資の集積と権力者に対する発送という任務があり、その意味で「国家権力」に近い存在であり「国造」とは重みが違います。「那須直韋提」の子供達が「石碑」を建てたという中に「より重要な地位に「那須直韋提」が就いたこと、国家中枢とのつながりができたこと」を誇れることとした意義が認められ、そうであるなら「(被)賜」の対象が「国造」か「評督」のいずれかであるかは明らかなのではないでしょうか。
 以前の記事にも書いたと思いますが、「阿蘇氏系図」(田中卓著作集二巻付図 異本阿蘇氏系図)には「朱鳥二年」(六八七年)という段階で「評督」を授与されたことが書かれています。
 そこには「角足」《朱鳥二年二月為評督/改賜姓宇治宿禰》とあり、またその前代として「真理子」《阿蘇評督》という表記があります。
 この記事の意味するところは「朱鳥二年」(六八七年)という年次に「阿蘇角足」を「評督」としたこと、その時点で「賜姓」されたことを示しています。さらに、彼の前代の「真理子」も「評督」でしたから、「角足」への継承を認めたと言う事となると思われますから、この「評督」が「世襲」が可能な種類のものであり、「終身」その地位が保証されていたとみることができるでしょう。そのようなものは「賜」の対象としてふさわしいのではないでしょうか。一般に「賜」とされたものは「返却」の必要がない、いわば「もらったもの」というケースがほとんどと思われます。だからこそ「世襲」が可能であったと思われ、それは後の「郡司」やその後の「郡大領」等に継承されたと思われます。彼らも基本的には在地勢力であり「世襲」でした。これら「郡司」の前身としては(「国造」からもあったでしょうけれど)「評督」とのつながりの方が重要ではなかったでしょうか。そのことは「評督」が「賜」の対象であった可能性を強く示唆するものです。
 この「阿蘇評督」記事と「那須直韋提」の記事を比較すると、「那須直韋提」のケースが「評督」であったものが「国造」へというものであったとすると「阿蘇角足」の例と著しく異なることとなるという指摘の以前させていただいています。これらは年次も似通っており、国家権力の行動として共通の原理が働いているとすると、その任命には共通の意味があったと見るべきであり、そう考えればかたや「評督」へ、かたや「国造」へというのは理解しにくいものと考えます。
 また上記「阿蘇氏系図」によれば「評督」の遙か以前には「国造」であったことが書かれており、これらを信憑すると「国造」から「評督」へという流れが存在すると考えられますから、これらを総合して考えると、「評督」であったものが「国造」を授与されたとは考えにくいという考察をしておりますが、それは現時点でも依然として有効と考えています。
 「国造」を自称していたものが「評督」を与えられ、その地位と権利を「追認」されさらに権力中枢とのパイプができたと考えたからこそ「石碑」を建てる動機となったとみる私見には根拠なしとしないと思います。
 この件に関しては以前からいくつか記事を書いていますのでそれらを確認していただければと思います。
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「鈴」と「熊」

2021年11月28日 | 古代史
 この頃札幌でも頻繁に「熊」が出没し油断も隙もないというのが実際ですが、それを見ていて、『魏志倭人伝』には「熊」がいるとは書かれていないことが気になりました。

「其地無牛馬虎豹羊鵲」

 記事の中では上に見るように人畜に害を及ぼす可能性のある動物として「虎」「豹」が挙げられており、それらはいないと書かれていますが「熊」がいないとは書かれていません。このことから当時の「倭」の領域にも「熊」がいるという解釈もありますが、この動物表記は「大陸」や「半島」にいる動物との比較という説もあり、そもそも「半島」では以前から南半分つまり旧「新羅・百済」領域という古代の帯方郡以南には「熊」が少ないという研究もあり、そのことから考えて「熊」が比較対象の範囲に入っていなかったということが考えられます。
 つまり「熊」はいたはずだが「魏使」の視野には入っていなかったこと及び「倭人」からの聞き取りの中にも「熊」に関する情報がなかったということが考えられます。つまり当時の「倭」領域には「熊」の存在が希薄であるということです。それを裏付けるように現在国内の「ツキノワグマ」の生息分布を見てみると明らかに「東」に偏っています。
 各種の「ツキノワグマ」に関する論文などからの理解では、西日本には極めて希薄であり、それはかなり以前からその傾向があったと推定されているようです。たとえば「九州」には現在「熊」はいないとされているようですが、元々少なかったものが「大戦」時期前後に絶滅したと推定されています。
 そもそも「ツキノワグマ」は「ブナ林」のような「冷温帯林」や「中間温帯林」にその生息域があるとされており、東北と中部地域にかなり特異的に分布しているようです。
 西日本では「冷温帯林」や「中間温帯林」そのものが非常に少なく「中国」「四国」の山間部や「紀伊半島」地域などにわずかに残る程度であり、「ツキノワグマ」はそこに「孤立」的に生息しているとみられます。
このようなことは過去と余り変わらない傾向と考えられるわけです。

 ところですでに述べたように「北海道」や「東北」などで熊の出没例が増えていますが、林間作業や山菜採りなど熊と出遭う可能性のある地域で行動する場合「鈴」を鳴らすように、という注意が一般的です。何か鳴るものがあれば熊は警戒して近づかないと思われているようですが、このような「ノウハウ」は最近形成されたものではないとみるのが相当です。なぜなら「熊」も「人」もこの列島に遠い過去から生きてきたものであり、その接触が不幸な結果にならないように工夫してきたと考えるのが当然だからです。
 ところで「関東圏」によく見られる出土品として「鈴」があります。「鈴釧」「鈴鏡」等振れば「音」が出るもののようですが、出土範囲としては平野部など人が多く居住する地域というよりやや山間部の入り口付近の遺跡から出土する例が多いようです。この「鈴」は実は「熊よけ」なのではないでしょうか。
 もちろん「音色」の神秘性もあり、「祭祀」に使用されたとみられるわけですが、その「祭祀」は一般に考えられるような「豊僥」をもたらす「神」に対する感謝等の農業祭祀というより、その前代の「狩猟時代」の記憶を保存しているのではないかと思われ、その「鈴」の効能や「祭祀」の「本義」は「熊」に対するものであり、「鈴」を作る技術が伝来した時点(「古墳時代」と思われますが)で、「熊よけ」の意義を込めて使用を始めたものではないでしょうか。
 つまり「縄文時代」を通じて「山野」で猟をする場合があったはずであり、そのような場合「熊」に遭遇しないように「熊よけ」に何か鳴らすものがあったとみられますが(それがどのようなものであったかは不明ですが「土鈴(どれい)」がそうであったという説もあります。)、それが「鈴」が流入した時点で取って代わられたものと思われるのです。
 ただし「縄文」以降「平野部」の拡大(「縄文海進」の後退による)、平野部での生活に暫時移行していく中で「熊」との遭遇機会も減少するなかで「鈴」に対する意識も変化していったものとは思われます。(一部にはそれ以降「鏡」祭祀に取って代わられたという意見もあるようですが、「鏡」は祭祀に使用されたとは思われず死後「墓」に入れられる程度のもの以上ではなかったと考えています)


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「シリウス」と「桜井天体」

2021年11月28日 | 宇宙・天体
 つい最近「桜井天体」というものがあるのを知りました。これは一九九六年に日本のアマチュア天文家桜井幸夫氏によって発見されたもので、通常非常に暗い天体がゆっくり明るくなったものです。これが変光星や新星現象と異なるのは元になった星が「白色矮星」であり、増光時「赤色巨星」になっていたことです。これは以前に「白色矮星」となっていた天体が、後期熱パルス(ヘリウム殻フラッシュ)という現象の結果、膨張して「赤色巨星」になったと考えられているものです。
 「白色矮星」は「赤色巨星」の進化の先にある天体であり、この場合いわぱ「後戻り」したことになります。
「赤色巨星」が「白色矮星」へと「進化」する過程においては、中心部で核融合反応の主役である「水素」が枯渇してくると「反応」そのものが低下し、発生するエネルギーが減少することとなりますが、そうなると自分自身の質量を支えられなくなり、中心に向けて重力崩壊を起こします。質量が大きい場合は「白色矮星」ではなくより密度の高い「中性子星」になりますが(もっと大きければブラックホールになる)、質量のそれほど大きくない星が「白色矮星」になる際にはいわゆる「新星」現象を起こし、周囲に大きなエネルギーと水素ガスを中心とした物質の放出がありますが、生成された「白色矮星」には燃え残りとでもいうべき「ヘリウム」が溜まっており、これが高温と高圧の元で(主に表面で)ヘリウムから金属元素を生成する核融合反応が起き、それにより光度が上がるとともに発生したエネルギーにより膨張する結果「赤色巨星」へと逆行することとなります。ただし白色矮星の中心部での核融合反応はすでにほぼ停止状態ですから、表面のヘリウムによる核融合反応が低下すると再度白色矮星に戻るものです。

 桜井氏が発見した「桜井天体」もそれ以降確認された「桜井天体」も全て単独星であり、周囲に物質が拡散すると基本的にはその拡散はそのまま進行してしまい、遠方から見ると「惑星状星雲」として観測されることとなります。ただしこの「桜井天体」と同様な状況は「連星」特に主系列と白色矮星という組み合わせの時にも発生すると思われます。つまり連星系の伴星である「白色矮星」は以前「赤色巨星」であったものであり、燃え残りのヘリウムがまだ残っている場合、条件さえ整えば「桜井天体」化する可能性があるものが存在して当然と思われるわけです。そしてそのような状況は「シリウス」星系にもあり得るものと思われ、シリウスB(伴星)においても「桜井天体」化する可能性があると思われますが、それが現実に起きたと(当方が)推定しているのが「紀元前八世紀」及びそれ以前の段階です。

 資料等によれば「シリウス」は「シリウス」と呼ばれるようになる「紀元前八世紀」より前の段階ですでに「赤かった」ようであり、それが「明るくなった」のが「紀元前八世紀」と推測されます。(そのため、その時点で「シリウス」(燃えさかるもの)という命名が行われたとみられる)
 このことは「紀元前八世紀」を遡る相当以前から「白色矮星」から「赤色巨星」へと変化していたことを示すものであり、それが再度「白色矮星」へと戻っていく契機となったものが「紀元前八世紀」であり、その時点で「新星爆発」現象によく似た状況があり、その結果表面付近の物質が強い輻射により周囲へ吹き飛び、その結果「白色矮星」へと戻ったとみられますが(その際周囲に「宇宙線」をばらまいたとみているわけです)、通常の「桜井天体」と違うのはシリウス星系が「連星」であったことであり、周囲へ拡散した物質は主星である「シリウスA」が吸収してしまい、周囲に星間ガスとしては非常に少ない量しか残っていない状態となったものと思われるものです。そのことはシリウスAに金属元素(赤色巨星の中心部で作られる)が多いという観測とも矛盾しません。

 重ねていいますが、「紀元前八世紀」付近に全地球的な「気候変動」(単なる寒冷化ではない)が起きたと推定され、その原因として「宇宙線」の増加があったと推測しているわけですが、私見においては「宇宙線によるエアロゾルの増加」が気候変動に結びつくという研究を重視しています。そしてその「宇宙線」の発信源として「シリウスB」を想定したわけです。そのことは「炭素年代測定」における暦年補正のグラフによく表れており、「紀元前八世紀」付近の放射性炭素の残留量が多いと考えられることにつながるものです。これが「太陽活動」の低下によるものとは思われないと考えられるのは「シリウス」に対しこの時期広い範囲でいろいろな意味で注目されるようになったことがあり、たとえば「ローマ」における「ロビガリア」祭祀の始まりと「シリウス」の関係や、「ギリシア」におけるこの時点での「シリウス」(燃えさかるもの)という命名、「エジプト」における「シリウス」と「太陽」とが同時に昇る「ヘリアカルライジング」という現象を起点とする「暦」の使用開始など等々いくつかの「シリウス」に対する捉え方にこの時期「画期」というべきものがあったとみられることがあります。(「バビロニア」における「シリウス」を含む天体観測とそれを元にした「暦」の始まりが「紀元前八世紀」であることを含む)
 古史料に出てくる「シリウスが赤かった」という記録がそれなりの正当性があるとすれば、現実に今「シリウス」が白いという事実と向き合う必要があり、それは即座に「シリウスB」という「白色矮星」についての理解に改革を施す必要があるものです。その意味で「赤色巨星」に一時的になっていたという「桜井天体」仮説は有力と思われるものです。

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