古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

朔旦冬至と伊勢神宮

2025年01月25日 | 古代史
 伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間(これは「章」と称されていたもの)を示すものです。
  「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」(太陽暦と太陰暦の日数が同じになる年数を言う)という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますが、この「諸蕃」とは「化外」にあたる周辺諸国を意味する呼称ですから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたものですが、域外諸国まで集まっているということは「唐王権」から「招集」がかけられていたという可能性を想定することが妥当であることを証するものでしょう。域内諸国は例年「正朔」つまり暦の頒布を受けるためにこの冬至である十一月一日には集まっていたはずですが、この時は彼ら以外にも絶域の諸国も含め招集されていたものと思われるわけです。
 遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとみることもできるでしょう。つまりこの「伊勢神宮」の式年遷宮の年数が当初十九年に一度であったということは、単に「伊勢神宮」にとってというだけではなく「倭国王権」にとって重要であったことを意味するものと思われるのです。
 ところで「式年遷宮」の当初の形が「十九年」に一度であったということは、この「暦」における「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。
 「章」は「朔旦冬至」で始まり、次の「章」の始まりである「朔旦冬至」までが一区切りであるわけです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものではないでしょうか。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

① 持統四年(六九〇)/② 和銅二年(七〇九) 十九年/③ 天平元年(七二九) 二十年/④ 天平十九年(七四七) 十八年/⑤ 天平神護二年(七六六) 十九年/⑥ 延暦四年(七八五) 十九年/⑦ 弘仁元年(八一〇) 二十五年/⑧ 天長六年(八二九) 十九年/⑨ 嘉祥二年(八四九) 二十年/⑩ 貞観十年(八六八) 十九年/⑪ 仁和二年(八八六) 十八年/⑫ 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「章」と関係しているというのは諸氏によって指摘されていますが、その意味として「十九年」という「章」の期間が一種の「エネルギーサイクル」であり、その一サイクルを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。しかし「章」が中国においては「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までとしていることを踏まえると、「倭国」においてもそれを踏襲しなかったとすると不審であり、最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているというのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているといえます。
 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものであったからです。(「甲子朔旦冬至」には二種類有りその年が「甲子」であるという場合と、その冬至の日が「甲子」であるという場合です。六四〇年は後者です。)
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては『旧唐書』『新唐書』とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただしこの時は「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)
 ただし『資治通鑑』によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより意義のあるものとしようという意識が見受けられるものです。
 「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)
 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,?防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,?儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕?經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊?之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文增損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非?紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維?謹献書於/郎中使君〈閣下〉維?言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之?再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不?服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/?澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
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倭国王権の東方進出と「改新の詔」

2025年01月20日 | 古代史
 私見では「改新の詔」とそれと一体となって出された各種の「詔」について、いずれも「倭国」と「倭国王」がこの地域と人々に対して「直接統治」を行う宣言としてのものと理解しています。たとえば「東国国司詔」があります。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」

 この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「直接統治」の宣言の意義として行われたものです。それがさらに顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造等先自收斂。然後分進。修治宮殿。築造園陵。各率己民隨事而作。易曰。損上益下。節以制度。不傷財害民。方今百姓猶乏。而有勢者分株水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主、兼并劣弱。百姓大悦。」

 ここでは特に「仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又割國縣山海林野池田。以爲己財。」の部分が注目されます。そこでは「天皇ごとに」置かれた「標代民」という存在と、「其臣連等。伴造。國造」が置いた「己民」というものが書かれており、この両者については従来「並列的」に存在しているという理解が大勢であったものです。しかしそれでは文意が通らないのは明らかです。もしそう理解するなら「毎天皇時。置標代民。」と云う文が前置されている意味が不明となってしまうでしょう。
 ここは明らかに「標代民」という存在が「其臣連等。伴造。國造」によって「窃取」されており、それが彼らの「己民」とされていて「恣情駈使」されているということを糾弾している文章であると理解すべきです
 「標野」というものが「薬草」を採集するために「区画」された領域を示すものであると考えられることの類推から、この「標代民」というものも、他から「区画」され「天皇」のために特別に配置された「人民」を示すと考えられますが、それが「窃取」され、「恣意的」に使用されているということと理解できます。それはその直後の対句的文章である「又割國縣山海林野池田。以爲己財。」という中にも現れており、「國縣山海林野池田」は本来私的なものではなく「倭国王」の所有にかかるものであるのにも関わらず、それを「割いて」「己財」としていると非難しているわけです。そして今後その様な事態(実体)を認めないという宣言であると思われます。
 従来からもこの宣言における「権力」は「所有権」として発せられているもののそれは全ての諸豪族の権利を上回る「公権力」として発動されていると見るべきという考え方がありましたが、それは「正鵠」を得ていると云うべきであり、ここにおいて「強い権力」が発現したこと、そのような「権力者」がこの列島に発生したことを示すものと考えられます。言い換えればこの時点で東国を含めた地域が「直接統治領域」に入ったことを示すものであり、それまでの「宗主国」(「直接統治領域」)と「附庸国」(「諸国」)といういわば「封建制」的な国内体制であったものが、あたかも「始皇帝」のように列島全体を「直接統治」するフェーズへと移行したことを示すものです。
 その直前の「東国国司詔」では「凡國家所有公民。大小所領人衆。」という表現が見られ、「公民」以外に「人衆」がいたという事を示していますが、その実体は「大小」(これは諸豪族を指すと思われる)の所領となっていた本来「公民」であったものを指すと思われます。
 ここでこれらの詔を通じて表明していることは、全ての民は「公民」であり、「諸豪族」の配下にあるような「民」も本来は全て「天皇の民」であると言う事でしょう。(このことからこの時点の「公民」の中には「奴婢」も入るべき事が判ります。それは「公地公民制」の象徴である「班田制」において「奴婢」にも「班田」が与えられていることからも理解できます。)
 しかし、もちろんこれはその「詔」を出した時点における「大義名分」が言わせる言葉であって、その現在時点における「大義名分」を過去に押し広げたものであるといえます。しかし、その直後に出された「改新の詔」ではややニュアンスが異なっています。

 「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。仍賜食封大夫以上各有差。降以布帛賜官人百姓有差。又曰 大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。」

 ここでは「伴造國造村首所有部曲之民處處田庄」について、それが本来「倭国王」のものであるという非難はされておらず、その存在を認めつつ、今はそれを廃止して「食封」に変えるという事を宣言しています。つまり「所有権」が誰に帰するものかはここでは敢えて触れていないわけですが、それはそれ以前に出した「詔」に対する反発が強かったからではないしょうか。つまり「改新の詔」では実体を認める立場に微妙に変わったと考えられます。「窃取」や「横取り」などの感覚はある意味「被害者的」なものであり、また一方的でもあるわけで、それは元々統治能力の低下と関連しているわけですから、諸豪族に対して非難するいわれは本来ないわけです。
 「改新の詔」以前に「東国国司」などを通じて各諸国に伝えられたこのようなある意味一方的な情報に対してかなりの反発があり、その結果既定方針は変えないものの「諸豪族」の元の「部曲」(私奴婢ないしは家人)というものの存在を認めた上でそれを廃止するという事としたものと思われます。
 「六世紀後半」までの「倭国」はその「統治権」はかなり狭く、せいぜい西日本が統治エリアに入っていたものの、東国にはその権威は及んでいなかったと見られます。他方、後の新日本国王権となる「近畿王権」もまだ弱小であって、東国に広く統治権を及ぼすような権威は持っていなかったと見られます。
 この様な状況を総括して云うと「六世紀後半」までの「倭国」は、全国的な立場で見ると、その諸国への権威は間接的であり、また「緩やか」であったと見られるわけです。
 『常陸国風土記』など見ても「古」は「各」「クニ」に「別」や「造」などが配置されていたとされていますが、彼らは「九州倭国王朝」の権威を認めながらも、彼らに何らかの拘束や束縛はほとんど受けずに各々の「クニ」を統治していたと見られます。このような「倭国中央」と「諸国」の関係はあたかも「南北朝」以降の「中国皇帝」とその周辺諸国の関係に近似しており、「倭国王」が「将軍号」を貰い「倭国王」である旨の「承認」を「中国皇帝」から受けていたように、各諸国は「倭国中央」から「別」や「造」の地位を認めて貰い「直」などの「姓」をもらう事で「倭国」の「周辺諸国」としての地位を確固とする、という手法を用いていたと考えられます。
 これは「諸国連合」とも違い、「緩い封建制」とでも言うべき状態と思われ、各諸国がほぼ自立していた状態であると思われます。「諸国」にとって「九州倭国王朝」は「天朝」であり、遠くの存在であって日常の政治とは隔絶していたと考えられます。
 しかし、この「改新の詔」時点で始めて「東国」などに対して「(直接)統治権」を確立したわけであり、それは「中間管理的権力者」の存在を許さないという以下の詔の一文からも明らかです。

「「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「…天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。…」

 ここでは明確に「王」が直接「万民」を使役すると宣言しています。つまり、従来各諸国に(この場合「クニ」か)存在していた「別」や「造」という存在を飛び越えて、この時点で始めて彼らは直接的な統治権を奪取、確立したのであって、それ以前にはそのような強大な権力は保有していなかったと見られることとなります。
 このような状況は、これが「改新の詔」と呼称されているように、また『書紀』では「蘇我氏」を打倒した「クーデター」により成立した政権であるところの「孝徳天皇」の「詔」として出されていることでも分かるように、彼らは「革命政権」であったと見られ、そのこととこれら「詔」が語る背景とは重なっていると言えるでしょう。このような「革命」が成功した要因は「警察・検察」という「治安維持」に関する勢力を手中に収めたからであり、それを「諸国」に展開可能とする「官道」の整備との関連が重要であったと思われます。各諸国においてはいわば半ば独立した権力者としてその統治範囲に独自制度を敷いていたということが考えられますが、「倭国王」が直接統治するということになればそれ以降は「倭国」の制度が改めてその統治範囲に施行されることとなり、たとえば「冠位制」などについては従前のものとは別に「倭国」の冠位を授与されることとなり、言ってみれば「二重に支配される」形となったこととなりそうです。本来はその時点でその地域の権力者が人々を支配することはなくなり、倭国王の直接支配の元に存在することとなったはずですが、それほど簡単かつスムースに支配に交替が行われるはずもなく、暫定的に「二重支配」という状況が発生したものと思われます。
 また「部民」にとってみればそれまでともすれば中間搾取者がいる状態で「複数の支配者の元の存在であった可能性がありますが、「倭国王」が直接支配すると云うことになれば、支配と搾取が幾重にも課せられることはなくなった訳ですから、この「革命」は歓迎されたものと見られます。
 「改新の詔」以前には「奴婢」と「部民」の大部分は実質なにも変わらないものであったとみられますが(「鳥飼部」「馬飼部」に典型的なように「奴婢」と同様「入墨(黥)」がされていたと見られる)、「改新の詔」以降は「間人」のような「雑戸」となって下層ではあるものの「良人」として「奴婢」からは区別されるようになり、「歴史的段階」としては一ステップ進んだものと言えるでしょう。
 それまでは「良民」や「奴婢」など「万民」が仮に「公民」であったとしても、諸国に配置した「別」や「造」によりその運用は負託されていたものであり、それは容易に彼らの「己民」つまり「私民」という扱いになり、また認識されることとなったと思われます。
 「別」や「造」などは「豪族」と呼ばれる存在であったとみられますが、この「革命」において彼らの存在や彼らの私民の存在を認めないということと、『常陸国風土記』に云う「惣領」により「我姫」を「八国」に分割再編したという事は、その事業内容において共通していると思われます。このような再編が「別」や「造」の権威を破棄するものとなり、「大国」としての「国」の誕生とそこに配置されることとなった「国宰」の権威を絶対化するものとなるのは当然とも思われ、『常陸国風土記』の記事はこの「詔」の内容が実行に移された時期と実態を示すものと考えられ、これらはほぼ同時期に行われたことを示唆するものと云えるでしょう。
 「部民制」というものについては、その起源が「五世紀」代にあり、当時は「倭国王権」と強くつながっていた民であり、当時の「武装植民」(屯田兵)として派遣されたような存在もいたと思われますが、多くは領土拡張の際に「捕虜」とされた人々であり、彼等は「奴婢」となり、特定の氏族に使役される形で「部民」とされていったものと思われます。本来は彼等は「倭国」という国家に直属するものであったはずですが、それが年代を過ぎると「倭国王権」の統治が「弛緩」するところとなり、「現地権力者」の使役するところとなっていったものと思われます。
 「倭国王権」の力を示す後続の行動や勢力が減退したり消滅したりしてしまったという実体が発生したことがそのような地方権力の成長を促す原因となったと思われます。そのような「諸国」と「倭国王権」との「つながり」が切れてしまうような「典型的」な出来事と言うのが「磐井の乱」であったのではないでしょうか。
 この「乱」は「筑紫」という「倭国王朝」の中心部と言うべき場所が、「物部」により占拠、制圧されてしまったことを意味すると考えられ、このことから「九州倭国王朝」の力が「東国」などに及ばなくなったと見られます。その結果、「起源」としては「倭国王権」と結びついていた「部民」さえも「地方勢力」の配下となって「己民」とされていったという経過を招くこととなったものでしょう。
 この「改新の詔」では「犯罪人」以外の「奴婢」を「良民」へと解放し「入墨」も廃止したものですが、それはひとつに「班田農民」として「租」を負担させる意義があったと見られます。この時点でかなりの「奴婢」が「良民」へと身分が変わったと思われ、彼等が「田作」をすることにより国家としての「租」生産能力のアップと、それが国家への収入という形で現実化することを期待したものと思料します。これらの「革命」王権としての政策はその先進性が当時としては過激といえ、内外の納得や同意が得られにくいものであったことも確かです。そのため早々に倭国王権は内部崩壊を起こすこととなります。
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近畿王権の官位制

2025年01月12日 | 古代史
 以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で東宮監門郭丈挙から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使『大華下』高玄理。大使『小錦下』河邊臣麻呂。副使『大山下』藥師惠日。判官『大乙上』書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官『小山下』書直麻呂。『小乙上』崗君宜。置始連大伯。『小乙下』中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。…」

ここに出てくる冠位の内「大錦上」「小錦下」は『書紀』では「六六四年」に制定されたという「冠位」の中に初めて現れます。

「(六六四年)三年春二月己卯朔丁亥。天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。『大錦上』。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。『小錦下』。大山上。大山中。『大山下』。小山上。小山中。小山下。『大乙上』。大乙中。大乙下。『小乙上』。小乙中。『小乙下』。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。…」

 これに対し「大華下」はそれ以前の「大化五年」(六四九年)の冠位制に現れるものです。

「(六四九年)大化五年…二月。制冠十九階。一曰。大織。二曰。小織。三曰。大繍。四曰。小繍。五曰。大紫。六曰。小紫。七曰。大華上。八曰。『大華下』。九曰。小華上。十曰。小華下。十一曰。大山上。十二曰。『大山下』。十三曰。小山上。十四曰。『小山下』。十五曰。『大乙上』。十六曰。大乙下。十七曰。『小乙上』。十八曰。『小乙下』。十九曰。立身。」

 これで見るようにそれ以外の「大山下」以下は両方に現れるため、いずれの冠位かは不明と言えます。本来は年次から言うと「大華下」が正式の冠位と言えそうですが、なぜ後年になって制定された冠位がここに書かれているのが問題となっているわけです。つまりこの冠位の方が正しいとすると遣唐使として派遣された年次が『書紀』に書かれたものとは実際には異なっていたのではないかという疑念につながるものであり、それは即座に「日本国」としての初めての遣唐使の派遣年次につながり、『三国史記』や『新唐書』に書かれた「六七〇年」という年次が「日本国」としての初めての「遣唐使」ではなかったのかという一部の意見の根拠となっているようです。
 これは確かに一見すると「矛盾」であり、無視できない性質のものです。これについての私見は「近畿王権」には独自の「冠位制」があったというものです。つまり元々「近畿王権」は「倭国王権」の直轄統治領域の外であり、「諸国」(附庸国)として存在していたと思われます。このような場合「本国」つまり「直轄統治領域」の内部の「制度」等をそのまま「諸国」で採用しなければならないという制約はなかったものであり、「職掌」や「冠位」などについては基本的にその「諸国」の中である程度自由に決めて良いというものではなかったでしょうか。「封建制」というものはそもそもそういう特徴を持っていたと思われ、「直接」統治するという際の事情とは大きく異なっていたものと思われます。
 「直接統治」する場合は国中が同じ制度の中で行政が執行されるものであり、そのような場合と「封建制」における緩やかな統治とは大きく異なるものであったとみるべきです。すると「諸国」であった時点の「近畿王権」にも独自の制度があり、また独自の冠位制があったとみるのが自然です。それが「倭国」の東方政策により難波に拠点を設け東国を含めた直接統治をしようとした際にそれまで「附庸国」であった「近畿王権」が「直接統治領域」にはいったことから彼らに対し「倭国王権」の内部つまり以前の直接統治領域で行われていた「官位制」を適用したために改めて冠位が与えられたとみられ、それが「大華下」という「冠位」であったと思われるわけです。
 この「冠位」は「大錦上」に比べ一段階低い冠位となっており(「大錦上」が七番目なのに対し「大華下」は八番目)、「新たに「版図」つまり直接統治領域に入った勢力に対し彼らの内部で行われていた冠位よりも意図的に低い冠位を与えたことが推定できます。これは「倭国」(筑紫王権)の近畿王権に対する一種の差別的政策ではなかったでしょうか。(このあたりもこの時の倭国王の政策に対して反感を買う一因であったかもしれません)
 つまりこの段階で「旧近畿王権」の関係者は二種類の冠位を持っていたという可能性が考えられます。
 この「大錦上」という「冠位」がここに書かれているのはこの段階ですでに彼らが保有していたものだからであり、その後「天智」つまり「難波日本国」が「倭国」つまり「筑紫日本国」のいわば「滅亡」により政治的・軍事的空白となった「筑紫」地域(つまり「倭国」)を含む列島を統一したことから改めて本来の自己の制度である「大錦上」を含む制度を列島全体に(というより「旧倭国」領域に対し)敷衍したのが「六六四年」であったと思われるわけです。これを示すのが「六五九年」に派遣された伊吉博徳」達の遣唐使達であり、彼らは「小錦下」「大山下」という冠位を持っていたことが『伊吉博徳書』に書かれています。

(六五九年)五年…秋七月朔丙子朔戊寅。遣『小錦下』坂合部連石布。『大仙下』津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。『小錦下』坂合部石布連。『大山下』津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。…」

 彼らはこの時唐皇帝から「日本国天皇」について消息を聞かれており、そのことから彼らは「日本国」つまり「難波日本国」の関係者と推定しました。つまり「博徳」達旧近畿王権関係者はすでにこの「六六四年」以前から「大錦上」のような冠位を授与されていたと思われるわけです。
 「大華上」等が「倭国」つまり「筑紫日本国」の制度であると思われるのは「百済を救う役」で派遣される軍の第一陣が「大華上」等の冠位を持っていることから言えると思われます。

(六六一年)七年…八月。遣前將軍『大華下』阿曇比邏夫連。『小華下』河邊百枝臣等。後將軍『大華下』阿倍引田比邏夫臣。『大山上』物部連熊。『大山上』守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使『大山下』狹井連檳榔。『小山下』秦造田來津守護百濟。

 このうち「阿倍引田比邏夫」は『公卿補任』によれば「斉明朝で筑紫大宰」であったとされており、まだ「倭国」つまり「筑紫日本国」が健在時点で「大宰」とされていますから、明らかに「倭国」側の人間であり、その彼が「大華下」とされていることからもこの「大華下」という冠位が「倭国」の制度であったことが知られます。

慶雲二年条 中納言 従四位上  阿倍朝臣宿奈麿    四月廿日任。不経三木。/後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子。」(『公卿補任』より)

 ただしここでは「大錦上」という冠位であったと記されていますが、彼はこの「百済を救う役」で戦死したと考えられていますから、このような死後追贈の場合は最終冠位より高くするのが通例ですから、「大華下」より一段高い「大錦上」として「難波日本国」の制度を適用したものと推測します。
 他にも『公卿補任』からは「難波朝」において「大華上」という冠位が行われていたことが覗えます。

大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿   三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部『大華上』物部宇麿之子。

大宝二年条    参議    従四位上    高向朝臣麿         同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿『大花上』国忍之子。

 ここで言う「難波朝」が「倭国」の東方進出に伴うものであり、近畿を含め東国を直接統治しようとした「朝廷」を指すものであるのは明白で、その「難波朝」において「大花上」という冠位制が施行されていたのは、それが「倭国」の制度であったことを示すものです。

大宝二年条    参議    従四位上    高向朝臣麿         同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿「大花上」国忍之子。

大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿   三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部「大華上」物部宇麿之子。

 ちなみに先の記事で「大華下」という冠位を持っていた「安曇比羅夫」が次の記事では「大錦中」と言う冠位に変わっているのが注目されます。

(再掲)
(六六一年)七年…八月。遣前將軍「大華下」阿曇比邏夫連。「小華下」河邊百枝臣等。後將軍「大華下」阿倍引田比邏夫臣。「大山上」物部連熊。「大山上」守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使「大山下」狹井連檳榔。「小山下」秦造田來津守護百濟。

(六六二年)元年…夏五月。大將軍「大錦中」阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 すでにこの時点で「倭国王」たる「薩夜麻」が捕囚の身となっており、彼に指示を下せる立場の人間が「倭国」内にはいない中で誰の指示により出撃するのかと言えばそれは「筑紫」に出張ってきていた「難波日本国」の「天智」以外なく、そうであれば「天智」が彼の立場で改めて冠位を授与して出撃させたとみれば矛盾はないと言えます。ちなみに「大華下」と「大錦中」は同じく上から八番目であり、冠位の高低がないこともまた、とりあえず冠位を付与したという体の緊急的措置として首肯できるものです。
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「倭京」とは「難波京」か

2024年12月30日 | 古代史
 『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか、という文を先日書きました。そこでは八世紀に入ってから新日本王権が「日本」について「やまと」と読むという、これはいわば宣言とも言えるものですが、逆に言うとそれ以前は「日本」は「やまと」ではなかったこととなると指摘しました。そしてそれと同様の理由で「倭」には「やまと」という読みの指定がないのだと書きました。つまり「倭」や「やまと」ではないというわけですが、そうなれば「倭京」は「やまとの京」ではなくなるわけであり、「倭姫」は「やまと姫」ではないこととなります。それらはいずれも歴代中国から見て「倭」と認定されていた国に冠せられる語であり、国内的には「筑紫」を中心とした領域であることもまた既に指摘しています。これらから「倭京」が本来「筑紫の京」であることは明確ですし、「倭姫」が「筑紫の姫」であることもまた明確と言えるでしょう。
 しかし「倭国」つまり「筑紫」に中心を持っていた権力が東方に進出し難波に副都として「京」を作った際に「日本」と国号を定めたと考えていますが、そうであれば「倭京」も移動したという可能性もあるように思います。つまり「難波」が新しい「倭京」となっていたという可能性です。
 「倭」が対外的に使用される国名であってまだ日本が国名として「唐」の承認を得ていないとすれば「難波京」が対外的に「倭京」という名称になったとして不自然とは言えないこととなります。国内的にも「倭京」の方が通用していたとも言えるでしょう。そうであれば「壬申の乱」において「難波京」が全く姿を見せない理由も明らかと言えます。
 「難波京」には「兵庫」つまり「武器庫」があったはずであり、それを誰も利用しようとしていないのはなぜかという疑問があったものですが、それは「倭京」という呼称で姿を現していたということであれば了解できます。
 この「倭京」についていうと、『書紀』では『孝徳紀』に「難波京」への遷都後に初出します。また『二中歴』の「都督歴」には「蘇我日向」が「筑紫本宮」で「大宰帥」として任命されたという記事があります。この記事は『書紀』では「筑紫本宮」という語が脱落した状態で現れますが、基本的には『二中歴』の記載が真実と見るべきであり、「筑紫」に「本宮」があったとみるべきこととなります。さらにこの記事は「倭京」初出時点に近接しており、「倭京」という呼称が使用されるようになる事情と「筑紫本宮」とが強く関連した事象であることを推察させるものです。これらから「倭京」とは「筑紫京」(筑紫本宮)ではないことが言えるでしょう。そして「難波遷都」後に「倭京」が出現することからも「難波京」がこの時点付近で新たに「倭京」となったということが言えそうです。
 以前「倭京」と「古京」が同一というのは不自然だという指摘をしました。(「大伴吹負」が「倭京将軍」と呼称されているが彼が守っているのは実際には「古京」であるという点など)
 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。これは「倭京」と「古京」が別の「京」を指すと考えればその疑問は氷解します。つまり「倭京」が「難波京」で「古京」が「筑紫京」とみれば理解が可能なのです。
「古京」に関しては以下のように記事中に表されています。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 「倭京」には「留守司」が置かれていたのは明らかですが(「高坂王」と「坂上直熊毛」)、上に見る「古京」にはそのようなものが置かれていたようには見えず、この点でも「倭京」と「古京」は異なる存在であったと考えられるものです。また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは「矛盾」といえるものです。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。
 「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位しない間に「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はありません。このことから、この時点において「倭国王」が生存している事を示しますが、その「倭国王」とは「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし留守司を任命したのが彼であるなら「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。
 彼が「近江京」にいるにもかかわらず「倭京」があり、そこに「留守司」がいるということになります。「遷都」した結果「近江京」という存在になるわけですから、「近江京」はいわば「倭京」のはずです。しかし記事からは「近江京」は「倭京」とも「古京」とも違う位置にあったものであり、そう考えるとこの時の「倭国王」は誰でどこにいるかということとなります。「大海人」でも「大友」でもないとすれば(天智がすでに死去しているという前提ならば)可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合でしょう。
 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。

「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。」

 これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「明日香」に「留守司」を配置する理由が不明です。なぜなら「明日香」は「倭京」とは思われないからです。すると冒頭に説明したように「倭京」が「難波」であり「古京」が「筑紫」であったというケースが最も考えやすいと思われます。
 「難波」は私見では「難波日本国」の拠点とも言うべき場所であり、ここが「当時」倭京とされていたとみれば「倭姫」は「倭京」にいるからこそ「倭姫」であると言えるわけです。そして「天地」死去後「殯」のために「古京」たる「筑紫」に戻るという決断をしたものとすれば「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「古京」つまり「筑紫」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
 「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「古京」つまり「筑紫」のどこかではなかったでしょうか。この記事では「新宮での殯宮」記事の日付は天智死去後「八日目」の出来事ですが、既に指摘したように「山陽道」を馬で行けば「筑紫」まで容易に到着できる日数です。
 「八世紀」段階の史料を見ると「山陽道」には(「筑紫」周辺の十一駅を加え)六十二駅あったとされます。『養老令』では「緊急」の場合(これは「海外から邦人が帰国した場合など」も含むとされています)「早馬」の使用が認められていたものであり、その場合は「一日十駅」の移動を認めていますが、これであれば「筑紫」~「難波」の移動に必要な日数は「一週間」程度ではなかったかと考えられます。(また実距離としても一日40km程度の行程を考慮すると「馬」に乗れば問題なく移動可能と推量できます。)
 「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたものであり、それは「古京」たる「筑紫」のことであったと考えられることとなります。
 『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后の出身地である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。つまりここで「新宮」を造ったとすればそれはそれまでの宮殿とは全く別の場所に造ったことを示唆するものであり、「倭姫」の場合も自らの出身地である「筑紫」の至近に「新宮」を作ったとすると、そこで「殯」の儀式を行っていたと考えられるのです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなります。
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2024年度年末総括と古代史セミナー

2024年12月29日 | 古代史
 いつもこのブログを見てくださっている方(どれほどいらっしゃるかよくわかりませんが)には厚くお礼申し上げます。
 今年も押し詰まってきていますが、今年のもっともエポックメーキングなことは11月に行われた古田史学の古代史セミナーです。
 この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせていただこうと思っていたものです。(この時点でレジメとして送ったもの)
 この時点でシミュレーションした段階では普通に話すスピードであれば収まっていたのですが、その後(10月の中旬ぐらい)新しい知見がいくつか得られたことからそれを盛り込む必要ができてしまい、それに伴ってボリュームが一気に増大した結果「あふれ」が発生したものです。つまり時間に対して有り余る内容を盛り込んでしまった結果、趣旨が拡散したことととなりうまく伝わらなかった部分が多かったように思います。
 ただし「七世紀倭国の外交について」という趣旨からは当然「倭国」から「日本国」への転換という部分がもっとも触れるべき点であり、これが実際には短いタイミングで行われたことではないことから、その経緯を説明しようとすると時系列的にも触れるべき点が多くなってしまうのはある意味当然であり、その一部だけをピックアップするのでなければ情報量が多くなってしまい時間内に収まらないのもある意味当然でした。これらについては事前の検討が不十分と言えばその通りで、そういう意味では反省もありつつ、講演をするという目的がなければこの新しい知見は得られなかったと思われ、その意味でこのセミナーには深く感謝しています。

その新しい知見についてはすでにブログにアップしていますが、箇条書き的にまとめると、
①『旧唐書』の「日本国伝」記事と対応するのが『書紀』の「白雉四年」の遣唐使記事であるという点、
②この時の「遣唐使」が「日本国」としての最初のものであるという点
③『旧唐書』に言う「日本国は倭国の別種」という表現は、この時の「日本国」の使者の発言を疑った結果、「日本国」が「倭国」とは別の国であると「唐」として理解したということを意味すること
④これ以降「日本国」と「倭国」は並行して存在していたと「唐」として考えていたこと
⑤「倭国」は「難波」に宮殿を作った段階で「東国」に対して直接統治することを考えていたものであり、その時点で「日本」と国号を変更していたこと(これは「ひのもと」と読んだ可能性が高い)
⑥しかしこの時の「倭国王」の斬新で急進的な施策が周辺の反発を生み、離反された結果、倭国王がその座を降りてしまったこと
⑦その空位となった難波宮殿を「近畿勢力」が占拠、乗っ取ってしまた結果、本来の「日本国」とは別に「難波日本国」が生まれ、彼らが「遣唐使」を送ったとみられること(これが『旧唐書』に書かれた「日本国伝」の情報源となった)
⑧「伊吉博徳」の「遣唐使」も「日本国」としてのものであること(つまり彼は「難波日本国」の関係者とみられること)、この時同時に「倭国」(唐から見て)つまり「筑紫日本国」の使者も「唐」から招聘を受け派遣されていたこと
⑨「唐」が戦った相手はあくまでも「倭国」であり、「日本国」ではなかったこと(「倭国」と「日本国」は別なのだから)
⑩「百済を救う役」では「百済」から「倭国」つまり「筑紫日本国」に応援要請がきたこと、それに応じ「筑紫日本国」の「王」は「難波日本国」に対して「新羅」を攻めるよう指示したこと(斉明の詔は「百道」についての表現から薩夜麻が出したとみる方が正しい、また「倭国」は「唐の「高宗」から「一旦急あれば「新羅」を支援するように」と言う「璽書」を下されており、これに反する訳にいかなかったため)
⑩「薩夜麻」は「唐軍の捕虜」となったという表現から「新羅」を攻めるのではなく「高麗」への援軍に出動したと考えられること。
⑪そこで「大伴部博麻」と一緒に捕虜になっていることから「大伴部博麻」が「薩夜麻」の「親衛隊」のひとりであったとみられること、「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊であり、常に行動を共にしていたと見られることからこの時も「大伴部」を率いて「倭国王」の護衛をしていたと思われること。
⑫『公卿補任』には「大伴御行」と「大伴安麻呂」が「五男、六男」と書かれており、彼らの上に複数の兄弟の存在が措定されるが『書紀』に記事がなく、彼らの動向について「薩夜麻」の護衛として「高麗」に行き、あるいは戦死したと思われること
⑬「百済を救う役」で捕虜となった人物の帰国記事から出征したのがほぼ九州と四国等の周辺地地域からであり、近畿等の地域からの派遣がなかった可能性が高いこと
⑭このことも含め「倭国」の統治領域の範囲として「筑紫」を中心とした地域が措定されること、及び『隋書俀国伝』記事の行程から「九州島」とその周辺が「倭国」の「直轄統治流域」と考えられること、さらに「倭の五王」のひとりである「武」の「南朝」皇帝への上表文からも「倭国」の範囲として「九州島」とその東方地域である「四国」と「中国」地方の半分程度が措定されることなどから、その領域の中心と考えられる「筑紫」において「君」と称されている「薩夜麻」が「倭国王」(筑紫日本国王)であったと考えるべきこと
⑮彼らが高麗で戦死したり捕虜となったりした結果「筑紫」において軍事的空白が埋まれ、それを埋めるように「難波日本国」が「筑紫」地域を軍事的に制圧した結果、彼らが「都督府」を設置したと思われること。その「都督」としての表現が『善隣国宝記』に引用された「海外国記」に出てくる「鎮西筑紫大将軍」という呼称と思われること、
⑯その後「唐」が「薩夜麻」を帰国させ再度「倭国王」として列島を統治させようとしたらしいこと、その際「日本国天皇」と「倭国王」へと2通の国書を持参し提出しており、「倭国」と「日本国」が別であるという認識をこの時点でも保持していたことが明確となっていること
⑰「薩夜麻」が「倭国王」として再度「統治」の実権を振うことに対して、「難波日本国」の一部が反旗を翻した結果「壬申の乱」が発生し「唐」の意志を体した「薩夜麻」が勝利し「天武」として統治を再開したこと
⑱その後「大地震」と「大津波」により疲弊した「薩夜麻日本国」を「持統」が継承したがそれは旧「難波日本国」勢力の支持があっものですが、「持統・文武」死去後は「難波日本国」が列島の全権を掌握し「やまと」と国号の呼称を変更したとみられること。
⑲「藤原宮」は「持統・文武」の旧王朝の都であったものであり、「延喜式」に見えるように「元明王権」は明確に「旧王権」否定して新王朝を開始したものであり、「文武」は「近畿勢力」の「傀儡」として存在していたとみられ、新日本王権の開始は「平城宮」遷都を以て完了したと思われること。

以上の流れを新たな知見として確認したのが本年の収穫と言えます。
また来年も何か新しいことを発見したり確認したりできたらいいなと思っています。

来年も多くの方のアクセスをお待ちしています。では皆様良いお年を。
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