古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「投馬国」に関する事

2019年03月16日 | 古代史

 Sanmao様(山田様)のブログはいつも刺激を受ける記事であふれていますが、今回は石田泉城氏(「古田史学の会」の友好団体である「古田史学の会・東海」の関係者)の論について書かれており( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html )、そこでは『魏志倭人伝』に書かれた「投馬国」の位置に関して書かれていました。しかしその内容にやや異議があったことから以下のようなコメントをさせていただきました。

『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を示した山田様はこれをどう捉えているのでしょうか。なぜ「全陸行」ではないのかが明確でなければ「水行」とあるから「九州島の内部ではない」とは即断できないと思います。

私見を示すと、「半島」の移動は「本来は全水行」としたかったものの、危険な水域があったため「陸行」せざるを得なかったと見ています。
当時「沿岸航法」を採用する限り、遠距離移動は「水行」が最も適した移動手段であったと思われます。「陸行」するには「道」が必要であり、当時「半島」も「倭」も遠距離移動のための「道」が整備されていたとは思われないからです。
「陸行」の場合野生動物(狼、虎、野犬など)の危険もあり、さらに夜盗などに出会うことも想定する必要があります。悪天候にあっても避難場所があるかどうかさえ判りません。今のように方向指示があるわけでもなく、「陸行」がそれほど安定的な移動手段であったかは疑問です。
『倭人伝』の中には「行くに前を見ず」という表現もあり、「道路整備」がそれほど進んでいなかったらしいことが窺え、「陸行」には障害が多かったのではないでしょうか。ただ半島の場合「西南部」には島が多いことと陸地が複雑な出入りをしており、「沿岸航法」では座礁の危険性があると認識していたものではないでしょうか。そのため「陸行」に切り替えたものと考えています。いわば「やむを得ず」という形ではなかったでしょうか。
このことから「投馬国」の位置についての議論においても、「全水行」だから行き先が「島」であるとは断定できないとみています。たとえ「陸行」で行ける場所であっても「水行」の方が「安全」と判断されたからともいえる余地があるからです。』

 これに対して山田様から示された当方のコメントに対する山田氏のコメント「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html#comment-142360602 」及びその後掲載された論「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/2019-4841.html 」)を見て、違和感を感じました。私の論とかなり噛み合っていなかったからです。もちろん「ミスリード」してしまったのは私の方であり、何か誤解のある書き方をしたのかもしれないなと思っています。
 当方のコメントの趣旨は「郡治から狗邪韓国までが全陸行ではない」という基本認識から始まっています。文章から見て当初は「水行」しているのは明らかですから「郡治から当初水行」した後「陸行」に移っていることとなりますが、この最初の「水行」の持つ意味は何かというところに着眼したものです。なぜ最初から「陸行」ではないのかというところから「陸行で行けるところであれば陸行したはず」という石田氏の提示した主題と矛盾している実態があることについての言及がないことを指摘したものです。
 ということでの当方の論は「投馬国」の位置の問題というより、それを「島」と決めた石田氏の論についてのものであったわけです。しかし山田様の議論を見ていて「私見」がより深まったことは確かであり(それは山田様の論理進行とは異なりますが)、良い機会を与えていただいたことに感謝いたします。

 以前から当方は「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定していました。これに加え今回の議論の中でその「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性が更に明らかとなったと見ています。

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 」

 ここでは「伊都国」について「郡使往來常所駐」という書き方がされており、このことは「伊都国」がいわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのがその直後に書かれた以下の記事です。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 これらの記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)
 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきと考えます。
 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しています。またそれはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。
 また「私見」では、というより大方の意見もそうでしょうが、この行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみています。そうであるなら石田氏が提唱し山田様が賛意を表明したように、「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」には「郡治」から誰が案内したのかと考えてしまいます。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。
 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことを考えると、「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えられないこととなります。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「対馬国」でありまた「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」からのものではないと考えざるを得ません。
 また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その中に「投馬国」もあったという可能性が高いことを考えると、その「投馬国」も「一大率」の検察下にあったこととなりますから「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「投馬国」など「諸国」との間にあったとは思われないこととなります。それは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同一ですから、「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「一大率」の検察対象である「諸国」の中に入っていると理解すべきでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。

 ただし石田氏及び山田氏が特に問題とされた「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬については現時点で「名案」というほどのものはありません。ただ、上で推察したように「一大率」の「検査対象」の「諸国」の中に「投馬国」があると考えると、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ、この「諸国」の中にも「投馬国」は入っているはずですが、「投馬国」以外は全て「邪馬壹国」の「北」にあることは確かと思われますから「諸国」という概念で括ってしまうと「投馬国」が「伊都国」から見て「南」にあった場合でも、いわば「十把一絡げ」にされてしまったという可能性があり、本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略したのではないかと見ています。

 いずれにしましても考察を深める機会を与えて頂いたこと山田様及び石田氏に感謝する次第です。

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「医薬」と「銅鐸」と「出雲」

2019年02月26日 | 古代史

 『周禮』という古典があります。そこには「周王朝」の第二代の王である「成王」の摂政であった「周公」が死んだ際に、死後も祀りを絶やさぬよう、「天子の礼楽」を以ってせよ、という「成王」の指示が書かれている部分があります。そしてその「礼楽」とは「夷蛮の楽」を大廟に納める意であることが示されています。つまり「四夷」の中で特に「夷」(東)と「蛮」(南)の二方向だけが、奉納するべき天子の楽とされているわけですが、その理由は、「後漢」の「王充」が表した書「論衡」に書かれています。

「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)
「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)

 この故事にちなみ、「夷」「蛮」の領域には「周公」の治政の正しさが伝わったもので、そこからの奉納を「周公」が死んだ後も続けることが彼を「祀る」ことになると考えたものと推量されます。
 このとき貢納された「鬯草」あるいは「暢」(草)とは一種の「薬草」と思われ、これを食(服)すると長寿が期待されたというものです。
 この「貢献」は独自に行ったものではなく当時半島「箕子朝鮮」の影響あるいは指導に依ったという可能性が高いと考えられます。
 従来このような「縄文時代」の「貢献」などあり得ないと即断され、これらの話は「架空」というのが「定説」でした。それが単なる「先入観」に過ぎなかったことは「殷虚」の発掘の成果から明らかとなりました。
 発掘中の「殷」の都の遺跡から「甲骨文字」が書かれた亀の甲羅や牛の肩胛骨が発見されたものであり、そこには『史記』の「殷本紀」の記述と整合する内容が書かれていたのです。そしてそこに「箕氏」の名前も書かれていました。
 「箕氏」というのは「殷王朝」の有力者であったものが、「紂王」に憎まれ、「牢」に繋がれる身となっていたものであり、「周」の「武王」による「紂王」の打倒により解放されたものです。その後彼は周王朝(武王)から朝鮮に「封」ぜられ、東夷に「周王朝」への従順を説いたとされています。この功績により「倭人」が周王朝へ「貢献」する、ということが行われたとみられるわけです。そしてこのようなストーリーが『史記』に書かれたものですが、それを示す資料が「殷」の遺跡から出たというわけです。
 このことから「倭」の各地域に「周」の文物が導入され、「周」の制度に基づく官僚制度などを備えたクニも成立していたと考えて不思議はないこととなりました。
 「周」の「武王」の死後「成王」の即位を祝するために「箕氏」が「周」の都「鎬京」をめざし「殷虚」を通ったとされていますが(このとき「麦秋の詩」を詠ったとされる)、この時「箕氏」は「鬯草」を持参し「舞」を奉納することを予定していた「倭人」と一緒であった可能性が非常に高いと考えられます。彼はこのとき「倭人」を引率して「周」の都へ来たったものであり、「成王」の即位記念の「奉祝」として「倭人」を引き連れ朝見し「舞」と「鬯草」を奉納したと見ることができるでしょう。そしてこの時の「倭人」が「どこの」「倭人」かというのは、その朝貢物が「暢草」という一種の「薬草」であったとみられることから推測できます。それは「出雲」の王権です。

 そもそも『出雲風土記』には大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。その後も『続日本紀』等の史料には「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めていることなどが書かれ、「出雲」と「医術」の関わりが深いものである事及びその背景に「医」と「薬」に関する長い伝統があることを推定させるものとなっています。
 また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされていますし、『書紀』の「神代第八段一書第六」では「大国主」と共に人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。

「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩賴。」

 さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
 『伊豫国風土記』(『釈日本紀』に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
 『出雲風土記』にも後の「玉造温泉」へとつながる記事があります。そこに出てくる「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が言葉が話せずにいたものが「快癒」した事とつながっているものであり、「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られていることとなります。
 また「アイヌ」が狩りに使用していたことで有名な「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果があるものとされ、実用されていたようです。
 「トリカブト」を意味する「鳥頭」「付子」「木勇」については、いずれもその「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「於宇」と発音されていたものです)本来「出雲」の特産であったという可能性があるでしょう。『出雲風土記』の中でも「意宇郡」が最も多くの薬草記事があることもそれを示唆しています。このことから、「トリカブト」も「意宇郡」の特産であった可能性が高いと考えられます。

 これら「鳥頭」や「附子」は「漢方」の世界では古くから「鎮痛」「温熱」「利尿」など有効性の高い治療薬として著名であったものです。
 中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されていて、それは「五十二病方」と呼称されていますが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」(「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指す)関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われ、このような「医薬」についての知識が「倭」にかなり早期に伝えられていたとみて不自然ではありません。そうであれば「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのは漢代以前が考えられ、一番契機となった時点は「箕子朝鮮」により「周王朝」と関係ができた時点付近ではなかったでしょうか。

 当時は「医薬」の知識は現代の医者のように「技術的な」範囲に収まるものではなく、「呪術」とリンクした形で行われていたとみられますが、その「呪術」の一環として「銅鐸」があったという可能性があると思います。
 「銅鐸」が何らかの「祭祀」に使用されたとみる点ではおおよそ一致していると思われますが、それが具体的に示すものについてはあまり詮索されていないようです。
 そもそも「宗教」の原初的な意義は「現世利益」あるいは「現世救済」です。「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。
 当然「呪術」を行う「霊的能力」を持つと考えられた人物(祈祷師)に最も期待された能力は「病気」(あるいは「傷」)を治すことであり、その中でも「痛み」の解消であると思われます。「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられ、そのための「特効的」なものとして「トリカブト」が用いられたものではないでしょうか。
 つまり当時「祈祷師」は医者を兼ねているわけであり、「ムラ」などには「病院」のような場所があり、そこで「祈祷師」が病人に対し治療を行うわけですが、その際に「銅鐸」が鳴る中で「呪術的動作」などが行われ、「治療」も行われるということではなかったでしょうか。

 このような人物を示すものとして「弥生時代」の遺跡から「鳥人」と呼ばれる人物が描かれた土器などが出ることがあります。両腕に「翼」のようなものをつけた「女性」と思われる人物の絵が土器側面に線刻されているものです。この「絵」が具体的に何を示すのかについては現在まだ確定したものはありませんが、一般的に人体として示される形状ではないことが重要であり、明らかに何らかの特異な「衣装」を身に着けているらしいことが推定されています。それもまた「呪術」の一環であるように思われ、このような人物が「トリカブト」などを使用して「痛み」を軽減するような「呪術」を行う際に、「銅鐸」を鳴らす行為を行っていたとみることもできるのではないかと思われます。実際に「銅鐸」を鳴らす実験などを見るとかなり高い音がしており、ちょうど鈴のような音域にも感じられ、痛みや苦しみを持った人々にはヒーリング効果が期待できたのではないでしょうか。

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「天体写真」2

2019年02月19日 | 宇宙・天体

月や惑星は都会の明るい夜空でも撮れますので20cmクラスの望遠鏡でかなりの高画質の写真が撮れます。

木星の四大衛星(ガリレオ衛星)は動きが速いのでそれを見てるだけで面白いです。
下の写真は時間をおいて再度撮影したものを重ねたものです。時間差はせいぜい30分程度ですが、僅かに移動しているのがわかると思います。

 木星本体の模様はなかなか明瞭に捉えられません。

土星は肉眼では環の構造もそこそこ見えますが写真となると、なかなかシャープな映像になりません。

「修行」?がまだまだ不足のようです。

「肥沼様」も狙ってみませんか?

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天体写真

2019年02月18日 | 宇宙・天体

肥沼様のブログでこのところ月の写真がアップされています。

私も以前月の写真を撮るのが好きで、よく車に天体望遠鏡を乗せて光害の少ないところへ行って夜な夜な写真を撮っていたものです。近所の公園でも撮影したことありますが、物珍しげに近づいてくる人が多く、説明に忙しかったもので、近郊へ移動して撮影していました。
久しぶりに自分の撮った写真を見て懐かしく思っていました。(ちなみに今でも車には天体望遠鏡や双眼鏡やバッテリー電源などのセットが積んだままになっています)
その頃撮った写真の一枚が下のものです。(これは写真というより動画を撮ってそこから静止画として切り出したものを複数枚コンポジットしたものです。)
ちなみに撮影機材はセレストロン社製の20cmシュミットカセグレン望遠鏡にビクターのデジタルムービーを接続したものです。


今は公私とも忙しく図書館にもなかなか行けない現状であり、このように星や月を見る時間も取れなくなっていますが、そのうちまた行きたいですね。

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「荒神」信仰と「津波」

2019年01月27日 | 古代史

 「出雲」で「銅剣」が大量に発見された「荒神谷」という地名は近くに「荒神」の社があったことから命名されたといいます。その「荒神」信仰は神道や仏教というような区分とは異なり、かなり「土着」的信仰であったと思われています。その「荒神社」はほとんど「瀬戸内沿岸」に集中しており、「岡山」を筆頭に「広島」「島根」「兵庫」「愛媛」「香川」「徳島」「山口」などの他「島根」など日本海側にも一部数えられます。その祭神としては「道祖神」の他「奥津彦命」「奥津姫命」「軻遇突智神」といういわゆる「火の神」に類する神が選ばれており、「竈神」として俗間の信仰が深かったものです。また、その他「牛頭天王」との関係も深いとされています。

 これらを見て感じることはそもそもその信仰されている地域として「弥生中期」に発生したと思われる「大地震」「大津波」の被害が特に大きかった地域と重なっているように思われることです。それはまたこの時代に形成されたと思われる「高地性集落」の地域とも重なっていると考えられるものです。
 この事から「推測」として「荒神社」という信仰が発生する要因となったものは「大地震」と「津波」ではなかったでしょうか。それを示唆するのが「牛頭天皇」と関連があるとされていることです。「牛頭天皇」は「素戔嗚尊」が道教的信仰に変化したものであり、「祇園社」の祭神となっていますが、この「祇園社」と「祇園祭」の起源に関係しているとされているのが「貞観地震」と呼ばれている今からおよそ千百年前に起きた東北を襲った大地震とそれによる大津波です。

 これについては以前( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/2c625fee02e83df6b33a954595a744b7 )などで簡単な考察をしましたが、『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「貞観地震」の十二日後に「清和天皇」は「御霊会」を行うこととしたものであり、「逆鉾巡行」の儀式を行っています。それは「素戔嗚尊」に対する鎮魂の儀式であったものです。
 当時「素戔嗚尊」は「高天原」にいるとされ、また「高天原」は関東(東の地の果て)にいるとされていたものです。地震はちょうどその場所で起きたものであり、「素戔嗚尊」の「祟り」がその原因と考えられたもののようです。「荒神社」の祭神として「素戔嗚尊」に関連する「牛頭天皇」が関係しているとされているのも「大地震」等の天変地異がその背後にあるのではないでしょうか。それを示すのが「民間」において「荒神」に対する信仰として「あやつこ」と呼ばれる風習があったことです。これは子供の「お宮参り」の際に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」印や「犬」という字を書くというものです。これは「悪魔よけ」とされていますが、これは「祇園社」から発行される「お守り」に「宇迦之御魂之神」という名前と共に「×印」が書かれている事に通じるものであり、更に「荒神谷」の銅剣に記された「×印」につながっているのではないかと考えます。

 「荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。これらの「銅剣」は「武器庫」から出されたままの状態であったと推測したわけですが、「未使用」であったというわけではありません。それは「刃こぼれ」としか見えない傷が多くついていることから判断できます。これは「鋳造」の際に付着する「バリ」であるとする見解もあるようですが、そうではないと思われます。なぜならそのような「バリ」状のものは「刃」の部分にしか確認できないからです。「刃」以外には「バリ」らしいものが見えないようであり、握る部分だけバリをとったと理解するしかありませんが、それは合理的な理解とはいえないと思われます。 そう考えればこれは「刃こぼれ」と判断するべきであり、実際に使用されたと見ることができそうですが、そうであれば「×印」の意味も「荒神」信仰と同様「魔物よけ」であり、「戦い」の中で自分に対する危険を振り払う「呪術」として作用したと見ることができるでしょう。

 これらのことはこの「荒神」あるいは「荒神社」という存在と「魔除け」という一種の信仰がつながっていることを示しますが、それはこの「荒神」という存在が「祟り神」であることの裏返しではないかと思われるのです。
 「シリウス」に対する信仰の所でも触れましたが、本来の信仰は自然に対する「畏怖」に発するものであり、人間にはどうにもならないことが起きたときに、これを「祟り」つまり人間の何かの行いがその結果を招いたとする考え方となった可能性が高いと思われます。これを深く敬い、祭りを欠かさないことで「祟り」から逃れようとすることが原初的な信仰ではなかったかと思われるものであり(「太陽神信仰」もマウンダー極小期のように太陽活動に起因すると思われる気候変動がその契機と思われる)、この「荒神」も同様のものではなかったかと思われます。その「荒神」の集中している地域はすでに見たように明らかに瀬戸内周辺であり、この地域に何らかの「天変地異」が起きたことを推測させます。そして瀬戸内の「本州側」と「四国側」の両岸で同様に猛威をふるったとすると可能性が高いのは「大地震」とそれにともなう「大津波」ではなかったかと思われますが、それを示すのがこの地域で見られる「高地性集落」ではないかと考えます。
 既に述べたように「二〇〇〇年前」の地震と大津波に先立ち紀元前二五〇年付近でもかなりの規模の地震と津波があったと思われる訳であり、この「津波」発生時点で「銅鐸」が破棄されることとなったと見ているわけですが、それは「荒神信仰」と裏返しであったように思われる訳です。
 「銅鐸」という「祭器」が持っていた「神聖性」が「天変地異」の前に崩れ去ったときそれは「廃棄」されたものであり、改めて「祟り神」としての「荒神」が信仰されるようになったものであり、それは「出雲王権」の弱体化を示すものであったと思われるのです。それに対し「筑紫」の勢力はこの時の地震と津波の影響をそれほど受けなかったものではないでしょうか。それは「荒神社」が「筑紫」に見られないという事に現れているように思われます。「肥後」に僅かにあるようですが、そこより北には見られません。
 この時の大地震が「紀伊半島沖」に震源があったとすると九州島の内部ではそれほどの被害ではなかったという可能性が強いでしょう。(「龍神池」にも津波は侵入していないわけです)
 このように「荒神」に対する信仰が起きていたとすると「荒神社」の近くに「銅鐸」「銅剣」が廃棄されていたのは「偶然」ではないこととなるでしょう。

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