古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持衰」と「瀚海」について

2020年05月24日 | 古代史
 『魏志倭人伝』には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますから、その「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきであり、使者のうちの一人であることは確実です。
 この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。これに関しては古田氏が示した『海賦』の一節が傍証となります。

「『若其負穢臨深』,虚誓愆祈。則有海童邀路,馬銜當蹊。…。」(木華作『海賦』より)

 この冒頭に出てくる「若其負穢臨深」という部分が古田氏により「持衰」のこととされているわけであり、それは卓見と思われますが、ここでは「穢」を「負う」もの(これがすなわち「持衰」)が「深き」に「臨む」とされており、この「深き」とは「海」を表象するものと思われますから、「持衰」が船に乗っていることを示す文章であると思われ、「陳寿」や時代を同じくする「木華」などの常識として「持衰」は船に乗っていると考えられていたことを示します。
 「持衰」は航海の前に「誓い」を立て、それを破らず「祈り」続けることで航海の安全が保てると考えられていたようであり、それが満たされなければ遭難すると考えられていたもののようです。 
 ところでこの「海賦」で示された「海」とは「瀚海」を指すものではなかったでしょうか。
 後の史料にはこの「海賦」をベースにした表現が多く見られますが、そこには「瀚海」という名称が使用されています。

「(隆安)十九年,立國子學,以本官領國子博士。皇太子講孝經,承天與中庶子顏延之同為執經。頃之,遷御史中丞。時索虜侵邊,太祖訪羣臣威戎御遠之略,承天上表曰:
伏見北藩上事,虜犯青、兗,天慈降鑑,矜此黎元,博逮羣策,經綸戎政,臣以愚陋,預聞訪及。竊尋獫狁告難,爰自上古,有周之盛,南仲出車,漢氏方隆,衛、霍宣力。『雖飲馬瀚海』 ,揚旍祁連,事難役繁,天下騷動,委輸負海,貲及舟車。…
其論曰:…然和親事重,當盡廟算,誠非愚短,所能究言。若追蹤『衛、霍瀚海之志』,時事不等,致功亦殊。寇雖習戰來久,又全據燕、趙,跨帶秦、魏,山河之險,終古如一。…」(宋書/列傳第二十四/何承天)

 これを見ると「飲馬瀚海」という表現があり、この「馬」とは『海賦』にいう「馬銜」つまり海に住むという怪物を意味するものと思われますから、『海賦』のいう「海」が「瀚海」を指しているのは明確と思われます。
 また別の史料には「臨瀚海而斬長鯨」という表現も見られます。

「…虞世基字茂世,會稽餘姚人也。…、見王師之有征。登燕山而戮封豕,『臨瀚海而斬長鯨』。望雲亭而載蹕,禮升中而告成。實皇王之神武,信蕩蕩而難名者也。陳主嘉之,賜馬一匹。…」(隋書/列傳第三十二/虞世基)

 これによれば「瀚海」には「長鯨」がいるというわけですが、これも「海童」や「馬銜」と同類であり、いずれも『海賦』やその『海賦』のベースとなっている伝説や神話的な海に関する怪異の情報にその根拠があると思われますが、その「怪異」が現れる「海」というのが「瀚海」であったわけです。
 また後の「百済を救う役」の際に「斉明」の「詔」に以下のような文言が確認できます。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙『翦其鯨鯢。』紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などを意味するものですが、この「鯨鯢」という単語は「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもでてくるもので、「海」や「大河」に住む「大魚」の一種というように考えられていたものです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,『鯨鯢』唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように「海」に棲んでいるという怪異についての情報は古典的なもののようですが、「斉明」がこの戦いにおいてこの語を使用しているのは、そこが「瀚海」だからとも言えるものであり、「新羅」に対して侮蔑的な使用法となっているわけです。

 すでに考察したように「瀚海」とは(「古田氏」が言うような流れの早い海流」を指す用語ではなく)、「広い海」を指す言葉であり、それは「九州本土」から見て「向こう側」の海を指すものであったと思われます。実際にその対象となる海は『倭人伝』の記述からは「対馬」と「壱岐」の間を流れる「対馬海峡東水道」を意味するものであったと思われますが、ここも含め「対馬海峡」を流れる「対馬海流」は流速が早く、外洋の中でも古代の船にとっては「難所」ではなかったかと思われます。このような「難所」を乗り越えるには本来正しい航行技術と航行に耐える構造の船が必要ですが、当時それらは(特に「倭人」には)求めて得られず、必然的に「神」に祈ることが必要であったと思われます。
 「魏」あるいはそれ以前の「後漢」や「半島」との往来に当たってはこの「瀚海」を渡る必要がありましたから、そのような外洋航海の際には「持衰」が乗船することが必須であったものです。
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「持統」の王権の本質

2020年05月10日 | 古代史
 以前拙論「「天朝」と「本朝」 - 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析」(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」)で指摘しましたが「持統」はその「大伴部博麻」へ「詔」の中で「大伴部博麻」の行動について「本朝」に「還向」くために「身を売る」提案後それが実行され、「富杼等」が「天朝」に「通じた」と表現しており、そのことからの帰結として「筑紫國上陽郡」の軍丁である「大伴部博麻」の所属する「本朝」とは「筑紫君」である「薩夜麻」の「朝廷」であること、「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずなので、「本朝」と同様「薩夜麻」の「朝廷」を指す言葉として使用されていると考えられ、その朝廷を「持統」が「天朝」と表現していることになることから、「持統」の朝廷は「薩夜麻」の「朝廷」を「天朝」と仰ぐ「諸国」のひとつであったと推定しました。
(以下「持統」の大伴部博麻への詔」)

 乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。

 この「持統」の「詔」には「王権」の地位についての変遷が隠されていると思われ、「薩夜麻」の「筑紫」の朝廷が「本朝」であった時期以降どこかで、「諸国」である「持統」の王権にその座を譲り渡したことが窺えます。

 「筑紫君」とされる「薩夜麻」は「唐・新羅」連合軍による捕囚の身から解放され帰国していますから、その時点以降「筑紫」の朝廷は復活あるいは(以前から)存続していたと思われますから、「持統」が「諸国」に本拠を持つ王権であるとすると、「持統」即位の実態が列島代表権力の座の移動を示すこととなります。そうならざるを得なかった条件としては「薩夜麻」に子供がいなかったということであろうと思われ、「直系」の後継者が不在であったために「傍系」に後継が移ったものと考えられますが、「持統」が「諸国」の出身であったことが推定できます。

 『書紀』では「天武」の言葉として「自分には成人男子がいない」とされています。(「壬申の乱」の際の言葉)この発言は実態を表していたものと思われ、「後継者」の資格を満たす人物がいなかったことが明らかです。このとき「高市皇子」が「自分がいる」という発言をしていて、この時点以降「高市皇子」つまり同じ「筑紫」に拠点を持つ勢力の「宗像」氏族の地位が高くなったことが窺えます。逆にこのことから「薩夜麻」の主たる母体勢力は「宗像」ではないことが窺え、推測によれば「阿曇」ではなかったかと考えられます。それは「天武」の氏の葬儀に「誄」を奏している「大海宿禰」が「阿曇」氏族であり、彼が「壬生」として「誄」を奏していますが、この役は非常に本人に近い氏族が行うものとされていますから、「天武」と「阿曇」が近いことが窺えるものであり、そのことは「天武」という「影武者」の背後に隠されている「薩夜麻」の本貫が「阿曇」であることを示していると思われます。つまり「筑紫朝廷」とは「阿曇」の朝廷を意味するものであり、その意味で「阿曇比羅夫」という存在が浮かび上がります。彼は「百済を救う役」で「大将軍」として出陣しており、水軍を率いての経験と実力を発揮することが期待されたものと見られますが、また彼が「薩夜麻」の親族であったと考えれば首肯できるものと言えます。
 「阿曇」がその後繁栄しなかったのは『続日本紀』でも『公卿補任』でも高位に昇った「阿曇」氏が皆無であることからも窺えます。この現象は「持統」の王権に禅譲せざるを得なかったことの延長と思われるのです。

 「持統」に王権が移った段階で「遷都」が行われると同時に「国名」変更と「改元」が行われたものと思われます。中国の歴代王朝においても「王朝名」変更は基本的には「遷都」と改元(建元)は必ず伴うものであり、古代の日本においても同様であったと思われ、それは倭国年号における「大化」改元がその時点であろうと思われますが、それに先立ち「庚寅年」に権力の座の移動と改革の趣旨が宣言されたものと思われます。この時点で「改新の詔」が出されたとして不自然ではありません。
 また「遷都」するには「京城」が完成していなければならず、その工程に幾分かの時間が必要ですから、「改新の詔」発布後5年ほど経過した時点で「京城」の中心である「京域」の整備が行われ、この時点で掘立柱の「仮」の「大極殿」が作られ「持統」はそこに入ったものと思われますが(これが「藤原京」の端緒)、同時に「大化」改元が行われたものであり、ここで「日本国」という国名変更が行われたものと推量します。

 日本の律令の手本とされる「唐」の律令の中の祭祀に関する規定である「祇令」には「皇帝」が代わる際の儀式に関係するものがありません。この理由として挙げられているのは「同一王朝内における帝位継承の場合の即位儀礼には「皇帝となるための脱俗の秘儀とかが認められない」からであるとされています。(※)これは「漢代」以降の伝統とされているようです。しかし「養老律令」及びそれに先行する「大宝律令」には「大嘗祭」という「即位儀礼」に準じた祭祀における規定があります。これは「天皇」が代わった後に最初に行われる「新嘗祭」を特に「大嘗祭」として特別視するものですが、それに付随して「秘儀」が行われるものです。このようなものを特に「付加」して「日本」律令を構成しているわけです。
 『書紀』を見ると明確に「大嘗祭」を主宰していると認められるのは「持統」です。それ以前の「天武」の際にも「大嘗祭」に参加した人への「褒美」が与えられた記事がありますが、開催したという記事がありません。
 これ以前には「新嘗祭」記事はありますが「大嘗祭」記事は皆無です。このように「同一王朝内」であれば必要のない儀式を定めているのは、「大嘗祭」というものの本質を露呈していると見られ、(少なくとも)「持統」への権力移動が「同一王朝内の出来事ではなかった」ことを示していると考えられるものであり、また先行する王権である「天武」の王権も(明確には書けなかったものの)、それ以前の王権とは一線を画するものであったことを意味すると思われるのです。

 ところで「新日本王権」は「持統朝廷」の否定をその政策に掲げていたようですから、「別の王権」であり、そのことは彼等の素性として「本朝」つまり「筑紫朝廷」の直接の後裔かあるいは別の「諸国」の王権かということになるでしょう。
 しかし「新日本王権」は「天智」をその「先帝」として戴いており、彼は「近江朝廷」を開いていて、私見では彼もまた「革命王朝」と考えていますから、「本朝」(つまり「筑紫朝廷」)の正当な後継王朝ではなかったこととなり、そのことから「新日本王権」は「持統」とは別の「諸国」の王権であったものと推量します。
 「持統」は「諸国」とはいいながら「本朝」(「筑紫朝廷」)からその権力の座を譲り渡されたという経緯からも「本朝」の主要な支持勢力の一つであり、その意味で「天智」の勢力とは一線を画すものであったと思われます。
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「倭姫」と「筑紫」

2020年05月10日 | 古代史
 「天王寺」の鐘について以前考察しました。そこでは「浄金剛院」と並び「黄鐘調」の音階であることが判明していますが、その「黄鐘調」という音階は「古律」によれば「無常」を表すものであると同時に各種資料には「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていることなど「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたと推察しました。このことから「鐘」の構造は「規格化」されていたと考えられ、その意味で「鐘」の製造は同一工房で同じ鋳型から行われていたという可能性が考えられるとしました。
 「浄金剛院」の鐘(これはその後「妙心寺」に入ったものです)が「黄鐘調」であること及びその「銘」から「筑紫」(糟屋)で作られたことが推定されていますが、さらに「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 「妙心寺」の鐘はその銘(戊申年)から推測して「六九八年」の製作と思われますが、これに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「木型」から鋳造されたとみるべきであり、この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となるでしょう。
 この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事があることからこの「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。
 「薬師寺」は「皇后」が病に倒れたために回復を祈るために「勅願」により建てられたとされていますし、この当時「勅願」ともいえる「寺院」はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上した「大鐘」は「薬師寺」に納められるべきものであったと推量します。
 これらのことから「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」など御願による)にだけ納められたものではなかったかと思われ(「黄鐘調」の鐘が「淮南子」では「音之君」とされるなどしていますから)、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があります。それは「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来の経緯について関係していると思われ、「六世紀の終わり」に倭国を訪れた「隋使」が下賜品として持参した物品の中に「寺院」とそれに関するものも相当量あったものとみられ、その中には「梵鐘」もあったと推定されるからです。(少なくとも「梵鐘」を鋳造する技術も含まれるものと推量します)
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであると思われますが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ(寺院に梵鐘は不可欠ですから)、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、またそれが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 そして「妙心寺」の鐘が元々「壇林寺」にあり、またそれが以前「筑紫尼寺」に納められていたものを移したと推測したわけです。つまり「筑紫尼寺」も「勅願寺」であったと考えられるわけです。

 すでに「妙心寺の鐘」についての検討において「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「筑紫尼寺」の鐘を(全体を移築したという可能性もあります)移して「壇林寺」に設置したと推察したわけですが、この「筑紫尼寺」は「尼寺」という性格から考えてその創建主体は「女性」であったことが推測でき、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期(少し遅れた時期か)に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずです。 「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺です。

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)

 また大宝元年の「太政官處分」中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、そこに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。またその後「橘嘉智子」という「皇后」の座にあるものがその「鐘」を移したという経緯から考えて「筑紫尼寺」を創建した人物も「女性」として最高位にあったであろうと想定できるものであり、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」が最も有力と推量します。

 以上考えると「倭姫」は少なくとも「戊申年」時点付近では「筑紫」に所在していたこととなりそうです。というよりそれ以前から「筑紫」に所在していたと考える方が正しいと思われます。
 以前「壬申の乱」前後「倭京」に「留守司」がいることについて考察しましたが、そこで「倭京」が「倭国」の「都」であること、「倭国王」が健在であり、彼(彼女)の名により「留守司」が置かれ、その間「倭国王」が「都」を離れていることなどが、推察されることとなりました。またそこでは「倭京」と「古京」が同一とされており、遷都前の「古京」に「倭国王」が戻り、改めてそこが「倭京」となったことが推定できます。それに関連しているのが「薩夜麻」の帰国であると思われるものです。
 彼は「筑紫の君」と表現されており、明らかに九州倭国王朝の「王」であったと考えられます。彼が「唐」の後押しにより「捕囚」となっていた「半島」より帰国し再び「倭国王」つまり「倭根子」として君臨することとなったものと思われますから、「倭姫」が彼の元に赴いたのは自然なことであったとみます。
 この時点で「倭根子」の代理としてその座にあった「倭姫」から「薩夜麻」へ座の交代が行われたものと思われ、その意味でも「倭姫」は「筑紫」にそのまま所在していたと思われるわけです。
 そう考えると「筑紫尼寺」は「天智」ではなく「薩耶麻」のための寺であったと考える方が正しく、「薩夜麻」は『書紀』では「天武」と重ねられて描写されていると思われますから、「天武」が亡くなったという「六八六年」は実際には「薩耶麻」の死去した年という可能性があるでしょう。倭姫は彼の供養のために「筑紫尼寺」を建てたと考える方が正しいのではないでしょうか。なぜなら「天智」の供養のためであるなら「鐘」に記された銘が示す「戊申年」ではなく、もっと早い時期に創建されて当然と思われるからです。「観世音寺」からそれほど遅くない時期になぜ建てられなかったのか、「天智」が亡くなっておよそ三十年も経過した後になぜ建てられることとなったのか、そう考えると「天智」のためとして「寺院」を建設したとするより、十年ほど経過しているものの「薩夜麻」のためと考える方がまだしも整合的と思われます。
 
 以上の推論で「倭姫」は「筑紫」に所在していたものであり、「天智」の死後「筑紫」で「殯宮」を営んでいたものと思われ、それが至近にあったとみられる「古京」の実態が「筑紫京」であったことを強く推定させるものです。
 「壬申の乱」の実態は「筑紫君」とされる「薩夜麻」の帰国に端を発する列島代表王権を巡る騒乱であり、この結果「筑紫朝廷」が復活したものであり、『書紀』はそれを「隠蔽」する目的で「天武紀「持統紀」を構成していると考えます。
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「根子」について

2020年05月03日 | 古代史
 『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。
 実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。
 「倭」については元々ある特定地域「小領域」を指す用語であったと思われますが、「権力」が強くなるに随い、その範囲も広くなっていったものと思われ、最終的には「列島」の広い範囲を指す用語として使用されていたと思われます。
 『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。
 (ちなみに「日本」が示す領域は『書紀』の早い段階では「近畿」の一部の小領域を示す意義しかなかったと思われます。それは『旧唐書』において「遣唐使」が「日本旧小国」と表現したことでも明らかです。)

「…於是陰陽始遘合爲夫婦。及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。此云耶麻騰。下皆效此。…」

 ここで「神武紀」の始めの部分で「日本」は「やまと」と読むとされ、以下出てくる「日本」は全て「やまと」と読むようにというわけです。それに対し「倭」の場合は読みが指定されていません。たとえば以下のような例があります。

「…亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。…」

 ここでは「倭」は「わ」という音を表す意義で使用されています。

「…倭文神。此云斯圖梨俄未。…」

 ここでは「音」というより「名称」の読みとして現れます。

「…時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。…」

 ここでは読みが指定されていませんが、上の例からみて、基本としては「わ」の音を表す例から考えて「倭」は「わ」としか読まないと思われ「わこく」と発音すると思われるものです。
 その「倭」は歴代の中国王朝から「列島」を意味する「地域名」として認知されていたわけであり、『書紀』でも同様の意義で使用されていたと見るのが相当でしょう。
 その意味で「倭根子」とは「倭王」の意義以外考えられず、その「倭根子」の使用例が『書紀』に現れる最初の人物が「成務」であるというのは示唆的です。

 「成務」は「稚倭根子」という「称号」を持っていますが、以下のように「国郡」「県邑」に「責任者」をおいたとされ、また山河で区切って「国県」を定めたというようなすでにある領域を分割したり境界線を変更するなどの施策を実行していますが、このような事業は「強い権力」の発露というべきであり、「倭」つまり「列島」を代表する権力者として機能していたことを示すものです。その意味で「倭根子」の称号は実態を表しているというべきでしょう。しかし、にも関わらず「成務」は「三男あるいは四男」とされており、彼のような立場の人物が「王権」を代表することになるとは通常考えにくく(上の者たちが全て死去するなどの事態が発生しない限り)、そうであればこれは同時代「正当な倭王権」の座にあった人物の事績を「剽窃」した可能性が高く、自らの功績として記述したと思われるのです。(『書紀』によると「景行」の長男に「稚足彦」がいるとされ、「成務紀」では「稚足彦」としての事績が書かれているようですが、「四男」と表記されており、これであれば「稚倭根子」であり、何か混乱があるようですが、施策の内容から考えて「倭根子」つまり「倭国王」であったなら首肯できるものです。(ただし「稚」が前置されており、「稚」が当時「幼い」意義があったとすれば「少年王」という名称となりますから「四男」でも不自然ではないかもしれませんが、「少年」がそのような強い権力を持っていたとも思えませんから、後ろ盾となった人物の権威が高かったことを意味するのかもしれません。)

「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。…」(成務紀)

 これ以降の「倭根子」は「孝徳」まで飛ぶこととなります。このことからこの間の「近畿王権」は「倭」の代表権力者として存在していたわけではなかったことが帰結されます。
 ところで「孝徳」は「日本倭根子」という特殊な称号を持っており(『書紀』『続日本紀』中彼が唯一の例)、これは従来の「倭根子」に「日本」が付加された形となっていますが、これは「倭」の領域としてそれまで組み込まれていなかった「東国」を始めて統治下に入れたことを示すものと思われ、より広域を統治する「王」としての「称号」と思われます。
 この推測は「改新の詔」で「始めて万国を修(治)める」という言い方をしていることにつながります。

「(六四五年)大化元年…
八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。…」

 これ以前は支配が(特に東国に)広く及んでいなかったことを推測させますが、この時点以降統治下に入ったとするわけであり、それを意味するのが「日本倭根子」という表記と見られまいす。そのことを貫徹するために「東国」に「国司」を派遣するというわけです。

 その後「根子」称号は『書紀』では見られなくなります。その代わり『続日本紀』で「天智」「持統」「文武」が「倭根子」という称号を奉られていますが、これは「追号」ではないかと思われます。実際にはそのような立場にはいなかった人物が、彼または彼女の後裔の人物によりあたかもその立場にいたかのような扱いを受けることがあり、「天智」「持統」「文武」の場合も同様ではなかったかと思われます。
 また「文武」が「倭根子」とされていることと、「元明」即位以降「持統朝」を「前王権」として否定している姿勢とは共通していると思われます。つまり「文武」も「持統朝」の延長と見ていた節が認められます。
 既に指摘したように『延喜式』の中に「持統朝」の「庚寅年」に出された「詔」を否定する施策が書かれており、これは「持統朝」の施策について基本「否定」する立場の表れと見たわけですが、実際には「持統」の死去以降ではなく「文武」の死去以降行われたものと推測したわけです。このことと「元明」以降が「日本根子」を自称することは直接つながっていると考えられるものです。
 「持統」の場合「大上皇」と「追号」されており、その意味で「倭根子」も同様のものではなかったかと思われるわけです。このあたりは「新日本王権」が「持統」より「禅譲」を承けた形となっていることへの配慮ともいうべきですが、「宣詔」する場合には「日本根子」という称号が一切出てこないことにも留意すべきであり、「倭根子」称号はそのような事情によるものとも言えそうです。
 『続日本紀』を見ると「元明」以降の天皇が「宣詔」する際には「倭根子」称号がかならず使用されており、これはあくまでも「大義名分」として「新日本王権」が歴代の「倭王権」につながる存在であることを宣言することが重要であったものと思われるわけです。
 ちなみに「天武」は「日本根子」と表記されており、このことは「倭根子」に当たる人物が別にいたことを示唆します。「孝徳」同様「日本」が「東国」を意味するとしたとき「日本根子」とは「東国」に中心勢力を持つ王権の意義となり、それは「壬申の乱」で「東国」からの応援で戦いに勝利したことと重なるものです。(「倭根子」が誰であったのかについては別に検討することとします。)
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「難波津」について

2020年04月30日 | 古代史
 『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。
いくつか例を挙げてみます。

山陽道
播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自与等津運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米
長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪卌束。水手三十束。自余准播磨国。

南海道
紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。
土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾杪。水手各漕米八斛。自余准播磨国。

 この「与等津」については詳細不明ながら現在の「淀川」の河口付近にあった「津」と思われ、そこからやはり「水運」で「京」まで運んでいたようです。
ところで「大宰府」については「与等津」ではなく「難波津」に運ぶこととなっていたようです。

大宰府海路。自愽多津漕『難波津』船賃。石別五束。挾杪六十束。水手卌束。自余准播磨国。…

 「南海道」の諸国の中には「与等津」へ運ぶより「難波津」の方が近い国もあったはずであり、また逆に「博多」からであれば「与等津」の方が近いような気もしますが、当時は現実として「大宰府」は「難波津」へ運ぶとされていたのです。
 ところで「難波津」は歴史的に見て非常に重要な港であったと思われます。そもそも「難波」には迎賓館ともいうべき「難波館」が置かれたとされますし、その後「新羅」「唐」などの使者も皆「難波津」に入っています。(以下の例など)

(六三二年)四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干『難波津』。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。

(六四二年)元年
二月丁亥朔…
壬辰。高麗使人泊『難波津』。

(五月)乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前。召翹岐等。令觀射獵。
庚午。百濟國調使船與吉士船。倶泊于『難波津』。盖吉士前奉使於百濟乎。

 また以下では「新羅」に対する威嚇の方法として以下のように「難波津」から「筑紫の海の裏」まで船を並べるとされ、それを新羅人が目にすることを前提としていますから、「筑紫の海の裏」から「難波津」までが「新羅」からの使者の航行ルートであったことが推定できます。

(六五一年)白雉二年…
是歳。新羅貢調使知万沙餐等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自『難波津』至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。
 また「遣唐使」の出発基地としての機能も「難波津」にあったと見られます。

(六五九年)五年
秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自『難波三津之浦』。

 このように「難波」「難波津」は外交の拠点ともいうべき場所であったものと思われ、「外交」が「諸国」つまり「附庸国」ではなく「本国」つまり「宗主国」の専権事項であったことを含んで考えると、上の記事の時代に「難波」に拠点を持っていた「王権」は「倭国王」そのものであったと考えられ、「難波」が「倭王権」の本拠地(直轄地)であったことが知られます。 
 また「西国」に対してもいわば「窓口」としての機能が「難波」にあったものと思われ、「近畿」から見て「西国」が唐や半島の諸国に準ずる立場にいたことが知られます。それを示すのが「壬申の乱」の際の以下の記述です。
 ここでは「倭地」を制圧した後「難波」にやってきた大伴将軍が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収しています。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。
 「難波」には「小郡」と呼ばれる施設があったことが『書紀』に書かれており、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有についてもこの「難波小郡」を設置した権力者に帰するものと判断されますが、それはこれが「倭王権」の直轄地であったとすると整合的です。
 つまり、上の記事からは「難波以西」の諸国にとって「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」があったことが推定出来るわけであり、そして彼等が「上京」する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中とされていますから、彼らがこの「難波」にいた理由として「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものとも考えられます。その場合「鍵」等を所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ますが、このときの彼等は当然「難波津」まで「海路」により来たものと理解するべきでしょう。
 また「無文銀銭」も「難波」から大量に出土しておりここに「鋳銭司」あるいはその上部組織である「大蔵省」があったことが推定され、そのこともここに「王権」の中央組織があったことが推定できます。
 関連するものとして「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、「七人立」の場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」とされています。
 この舞はかなり淵源として古いことが推定でき「倭王権」により征服、統合された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。
 上に見たように「難波津」は「外国」等「西方に存在する」重要な地域との交渉時出発あるいは到着するという目的で使用されていた「港」であったと思われ、この「舞」における場所(地域)として考えられるのは「近畿王権」であったものと推定できます。(該当するのは「河内」か「明日香」だと思われます。)
 また「難波」には古代官道が存在していたと思われますが、それを示唆する記事が以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京「に置かれたという「大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。
 そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は(位置関係から見て)「難波京」を指すものと考えるべきでしょう。つまり「文章中」の「難波」とは「難波津」を意味するものであり「京」とは(いわゆる)「前期難波京」を指すと考えられます。
 これらはいずれも「難波」と「難波津」が当時「王権」にとって最重要地域であったことを示すと同時に、新日本王権に取って代わった後でも同様に重要な地域として残ったものであり、「倭王権」時代の慣例がそのまま残り「王権」として重要な地域である「筑紫」からの受け入れ先として「難波津」が設定されていたのではないかと推察されます。
 その後十世紀に書かれたと考えられている「竹取の翁の物語」の中で、「かぐや姫」に求婚した際に条件として「優曇華の花」を取りに行ってくるように言われた「車持皇子」は「筑紫」に行くと称して「難波」から出港していますが、これも「筑紫」と行き来するための港が「難波」と決まっていたことを推察させるものであり、それは古代から伝統となっていたものではなかったでしょうか。
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