古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「列伝」と「起居注」

2021年06月17日 | 古代史
 以前の投稿を再度(再再度?)提示します。

 『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、その皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる「皇帝」に直接関わる記録です。
 「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点で宮廷の秘府に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、漏れているようです。
 また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。たとえば「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されており、「起居注」以外の資料を相互に対照していることなどから「推測」されていることです。(※1)

「(大業雑記十巻)唐著作郎杜寶撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史未尽実録。故為此以書。以彌縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)

 また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德?奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜?數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。…」(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。(『隋書』の『経籍志』中にも確かに「雑史」の部の最末に「隋書六十卷未成。祕書監王劭撰。」とあり、『隋書』の編纂者はこの「王劭」の書いたものを承知していたらしいことが窺えます。)

 「王劭」については以下に見るように「隋」の「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰し、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧され、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
 「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職しています。

「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為?史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四 王劭』より)

「煬帝嗣位,漢王諒作亂,帝不忍加誅。劭上書曰:「臣聞黃帝滅炎,蓋云母弟,周公誅管,信亦天倫。叔向戮叔魚,仲尼謂之遺直,石碏殺石厚,丘明以為大義。此皆經籍明文,帝王常法。今陛下置此逆賊,度越前聖,含弘寬大,未有以謝天下。謹案賊諒毒被生民者也。是知古者同德則同姓,異德則異姓,故黃帝有二十五子,其得姓者十有四人,唯青陽、夷鼓,與黃帝同為姬姓。諒既自絕,請改其氏。」劭以此求媚,帝依違不從。遷祕書少監,數載,卒官。 」(同上)

 このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成していたというわけではないことがわかります。
 実際に下記のように彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されているわけですから、あくまでも「王劭」は「開皇」「仁寿」という文帝治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。

「…劭在著作,將二十年,專典國史,撰隋書八十卷。…」(同上)

 つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。(「高祖」文帝の「一代記」という性格があった思われます)
 その後「唐」の「高祖」(李淵)により「武徳年間」に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのはここでも「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。

 さらに『旧唐書』(「令狐德棻 伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐德棻 」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。

「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德?奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻 』より)

 ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。しかし、同様の記述は「魏徴伝」(『旧唐書』)にも書かれています。

「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。?以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徴』より)

 ここでも「典章紛雜」と表されていたものがその後「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、この時点でも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問と思われます。
 少なくとも「経籍志」の中に「大業起居注」が漏れていることから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
 また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。

「太宗問侍臣:「隋《大業起居註》,今有在者否?」公對曰:「在者極少。」太宗曰:「起居註既無,何因今得成史。」公對曰:「隋家舊史,遺落甚多。比其撰?,皆是采訪,或是其子孫自通家傳參校,三人所傳者,従二人為實。」又問:「隋代誰作起居舍人?」公對曰:「『崔祖濬』『杜之松』『蔡允恭』『虞南』等臣毎見、『虞南』説『祖濬』作舎人時大欲記録但隋主意不在此毎須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具。」 (王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)

 つまり太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。
 結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われる訳ですが、そもそも「太宗」がこのような質問をしたという時点で「太宗」自身が『隋書』の編纂の内情に疑いを持っていたことを示すものといえるでしょう。)

 似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』の場合はさらに惨憺たるものであり、数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性には重大な疑義が呈されています。
 これも『隋書』同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかったものであり、「大業年間」記事はあってもわずかなものであったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのようなものが本来「起居注」にしか記録されるはずのない性格のものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審としかいいようがありません。

 これに関しての研究(※2)では「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされています。しかし、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、「大業年間」記事があったとするならそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。
 また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は「大業起居注」を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
 そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。元々「起居注」は皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる「言動の記録」は存在していなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に欠かれたものなのでしょうか。

 「使者」を「倭国」に派遣したのは「煬帝」ではないのではないかという「疑い」は後の「元寇」の際に「招慰」のため派遣された「趙良弼」の発言からもうかがえます。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
 
 つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。これを見ると「煬帝」の派遣が書かれていません。「趙良弼」の発言の背景は『隋書』の「大業三年記事」に対応していますから、「煬帝」が派遣したという『隋書』の記事内容に対して実際には「文帝」つまり「楊堅」の時ではなかったかと考える余地が生まれることとなるものです。

(※1)中村裕一『大業雑記の研究』(汲古書院二〇〇五年)
(※2)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 2008』、2008年3月)

上に見るような投稿を以前行っていました。

「列伝」は「諸国」に関する情報が含まれますが、その情報は「使者」の往還によって得られたものです。その使者は時に「鴻臚寺」だけではなく「皇帝」の面前に引率されることがありました。そのような場合「皇帝の言動」は「起居注」にだけ記録されたはずですから、「列伝」を構成するためには「起居注」の存在が必須であったこととなります。しかし「大業年間」の「起居注」がないとなればその時代の「列伝」の記録が不正確なのは当然と思われるわけです。「魏徴」がどれほど有能であり、優秀な歴史家であったとしても存在していない史料から史書を構成することはできないはずですから。
この点に目を向けての議論が必要と考えていますが、いかがでしょうか。



(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2017/11/12)

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瓦編年(3)

2021年04月04日 | 古代史
 「九州」では「四一八年」の仏教伝来以降「倭の五王」の時代の後半(「済」「興」「武」のころ)はすでに仏教文化がかなり浸透し、「鬼道」につながる「古神道」勢力もかなり根強かったとはいえ、仏教に対する理解もかなり深くなって来つつある時期であったと考えられます。それを示すように前述したような「九州年号」に関連する事実(「法師」の出現や「万葉仮名」の完成など)も現れ、遅くとも「六世紀」の初め頃には「寺院」なども「九州」では作られていたのではないかと考えられます。
 もっとも「九州」における「古代寺院」というものは、ほぼ「未確認」であるわけですが、それには一つ「理由」があるようです。それは「古代瓦」の「編年」の問題です。
 すでに「瓦」の編年についても疑問が出されています。(※1)

 従来の「瓦」についての考え方は「『中央』の寺院が、当代における社会的実力からも、現実に残る遺構・遺物の上からも、さらには対応する文献史料の上からも、年代決定の基準とならざるをえない。」(「九州古瓦図録」九州歴史資料館)というわけであり、まず「中央」ありきなわけです。「中央」を「近畿」というように「アプリオリ」に決めてから、それに合うように「考古学的状況」を「理解」するという作業で「年代」を決めているわけであって、「非学問的」であることを自ら「暴露」しています。こういう「逆立ち」した方法論で「真実」は決して決められませんし、判明するものではありません。
 考古学とか古代学とは「過去」の「日本」がどのようなものであったかを、遺跡や文献などから「頭の中に」再現する作業であり、それにより「決定されるべきもの」の一つが「当時の政治中心」はどこであったか、と言う事です。このような重大なことを決定するのに「予断」や「先入観」があってはいけないのはいうまでもありません。
 そういう意味でいうと、「古代の瓦」の系統は「一本の線上」にあるものではなく、「複数」の系統が考えられるべきものであり、かつその「発信源」としても「複数」あったと見なければならないと思われます。

 「瓦」の分類から考えると、「古いタイプ」と従来考えられている「単弁軒丸瓦」は「明日香」タイプであり、「後期型」とされる「複弁蓮華文軒丸瓦」は「九州型」なのではないかという疑問が提唱されています。(大越氏の論)そして調査・研究の結果「九州」の「六世紀後半」の「古墳」から、「複弁蓮華文」が「型」から「押し出された」「馬具」などが出現していたのです。
 また『書紀』に「その場所がわからない」とされた「長安寺」と考えられる「朝倉寺」の遺跡から「複弁蓮華文軒丸瓦」が発掘されています。この寺の創建年代は「六世紀」半ばと考えられ、「近畿」に仏教が伝来して余り時間が経っていない時期と考えられ、この寺の創建に「近畿王権」が全く関わっていないことは明確です。
 他にも多数の「廃寺」がありますが、「中央」との関係に束縛され、「六世紀前半」と明確に創建が確認された「寺院」というものの存在は現段階では確認されていません。 
 また「古墳」から発見されることがある「銅鋺」(「仏」や「僧」に奉仕する斎(とき)の道具として使用されるもの)についても、出土場所と年代について、「初期」の「銅鋺」の分布が「九州」に濃密であり、年代も「五世紀後半」と推定されるものがある事が確認されています。)

 これらの事実に対して、従来の「見解」は「寺院」の「発生」は(中央であるところの)「近畿」が先行し、これが「九州」など各地に伝搬していく、と言うものなのです。このような理解・解釈が確認される「事実」と大きく食い違い、「矛盾」となるのは明らかです。
 実際には「寺院」に関する「全て」(建築技術や設計思想など)について「筑紫」(九州)が先行すると考えられるものであり、「国内」の「寺院」の「淵源」も「九州」にあると考えるべきでしょう。では「筑紫」(九州)にそのような「寺院」建築の「証拠」があるのでしょうか。

 たとえば『書紀』には『推古紀』の記事として「全国に寺が四十六ある」と書かれています。しかし『書紀』にその寺の名称が書かれているのは「二十三」箇所であり、全体の半分だけです。内訳は「明日香十七」、「摂津三」、「山城一」、「近江二」となっていて、圧倒的に「明日香」の寺しか名前が出て来ておらず「九州」の寺院は(あったとしても)全く名前が出ていないのです。しかし、「九州」にも寺院は(当然)あったわけであり、名前の書かれていない残りの寺院のうち、かなりの数が「九州」の寺院であった可能性が高いと考えられます。
 現在「九州」では「廃寺」や「寺院址」が数多く確認されています。しかし、これらの寺院が「いつ」「廃寺」となったのかは『書紀』はもちろん『続日本紀』にも「全く」記載されていません。しかし、現実に「廃寺」や「寺院址」があるわけですから、「いつか」の時点ではこの地上に「寺院」として存在していたものと考えられるわけです。

 「九州倭国王朝」に関係すると考えられる「寺院」については「八世紀」に入ってから「露骨」な「締め付け」がありました。
 たとえば、「川原寺」という寺院がありました。この寺は「天智天皇」が彼の母親とされる「斉明天皇」を弔うために元は「川原宮」だったと考えられている場所を「寺」に改造したもの、と考えられていますが、(現在も「白瑪瑙石の礎石」が残っており、大変珍しいものです)しかし「八世紀」に入ると「藤原京」から「平城京」に遷都することなった際には「大安寺」、「元興寺」(この「元興寺」は「法隆寺」ではなく現在の「飛鳥寺」の直接の前身寺院と思われる)、「薬師寺」等は新都に移築(移転)されることとなりましたが、「川原寺」は移築されず、その地に残されました。
 さらに、天平勝宝元年(七四九)「聖武天皇」は施物墾田を諸寺に施入しましたが、「法隆寺」、「川原寺」、「四天王寺」は「貧弱な」量の施入に過ぎませんでした。
 加えて、同じ年の七月、「諸寺墾田地限」が定められましたが、やはり「川原寺」、「法隆寺」、「四天王寺」、「平城薬師寺」などが非常に少ない面積しか墾田することを許されなかった事実があり、これらの寺院が低い扱いであるのは、これらの寺院が「九州倭国王朝」に非常に関係の深い事が関係していると考えられ、「新日本国」政権の恣意的な処置と考えられるものです。
 「近畿」における「九州系」寺院でさえ、この扱いであったわけであり、「九州」の「当地」の寺院に対しては「寺封の停止」などより「厳しい」扱いとなったものと推察されます。このように「収入」が断たれた「寺院」は「廃寺」となるしかないわけであり、「九州」に「由緒」などが不明の「廃寺」の多い理由もこのようなものだったと考えられるものです。

 これら各種の事実が指し示すことは、仏教文化そのものが「近畿」からの「伝搬」として考えるという従来の立場は「破綻」していると言わざるをえないということです。
 これらの考え方の根底にあるのは「五世紀以降」の「日本列島の『盟主』は『近畿』の王権である」という一種の「テーゼ」であり、それは「無証明」で使用されています。
 つまり「倭の五王」以降の「近畿」の巨大古墳について、これがその古墳の大きさに見合う巨大権力の存在証明というように考えているわけですが、「前方後円墳」の「淵源」から考えても、「九州」にその権威」の根源があったことは明白であり、決して「近畿王権」の権力が「何に依拠することもなく」存在していたのではないのです。
 そう考えるとこの「五世紀」という「倭の五王」の段階においても「九州」に「権力」の中心があったことは確実であり、「古墳文化」の衰退と「仏教文化」の受容と発展という歴史の歯車の回転において「九州」の果たした役割が非常に大きいことに留意する必要があります。
 「仏教文化」の受容は即座に「古墳」に代表される倭国の古典的文化との決別ですから、これが真っ先に行われた地域こそが「倭国」の中央たる地域であると理解できます。それは「西日本」であり、「九州」なのです。

 また既に述べたように「元興寺」(及び丈六仏像)の創立については「高麗大興王」によって助成されたとされているわけですが、これが私見では「隋」の「高祖」を意味するものではないかと考えるわけですが、そのように「隋」から助成を受けて建てられたと考えると、当然その建築技術や瓦なども「隋」の影響を強く受けていることが推定できます。そのことは「単弁軒丸瓦」など「南朝」系統の技術が多く見られる「飛鳥寺」(つまり「法興寺」)がこの「元興寺」ではないことを強く示唆するものです。
 すでに「飛鳥寺」に関わる全てについては「百済」の影響によるものであり、実際にそれに携わった人員なども全て「百済」(特に「泗〔さんずい+比〕都城に存在していた「定林寺」)の影響を受けているのは確実とされています。その「百済」の仏教建築や瓦製造技術などは「南朝」(特に「梁」)からの伝来が想定されていますから、「魏(北魏)」に始まる「北朝」とは全く異なる系統であることが推察されます。(※)
 また『書紀』などに言うようにこれが「高麗」からの助成であったとすると、建築その他に「高麗」の技法等が使用された可能性があることとなりますが、たとえば「瓦」では「連蕾文」様式という「高麗」を代表する形式のものが見られて当然と思われるわけであるのに対して、それが確認できる寺院は「飛鳥寺」だけではなく国内には一切見あたりません。
 もし「隋」の影響を受けたとすると、「瓦」の文様などは当時「北朝」で主流であった「複弁蓮華文」が見られなければならないこととなりますが、私見では「元興寺」は「法隆寺」と同一寺院と考えられ、その「法隆寺」の創建瓦として「複弁蓮華文」軒丸瓦が確認される事は、「法隆寺」こそが「元興寺」であり、「隋」の助成を受けて創建された寺院であると考えられることの証左といえるものではないでしょうか。つまり、倭国の仏教は「隋」の影響により一大隆盛期を迎えたこととなると考えられるわけです。(「大興」の「興」の字を共有しているのも偶然ではないのかもしれません)

 またこの「法隆寺」の「複弁蓮華文」と「同笵」の瓦が全く確認されていないことも実は重要であると思われます。なぜなら「隋」皇帝から「倭国王」への下賜品としての「元興寺」であるとするとその瓦は「元興寺」専用のものであったという可能性が高く、そうであれば「同笵瓦」は存在しないこととなるのは当然と言えます。そのため文様を「真似」した、あるいは「コピー」した「法隆寺型」の「瓦」が出現するわけであり、その存在そのものが「法隆寺」の瓦の「独占性」を証していると言えます。その「同型瓦」の存在分布が西日本に限られていることもまたその中心である「法隆寺」の原位置を徴証するものであり、「九州島」の中にそれが求められるべきことを推定させるものでもあります。(大量の瓦が隋から運搬されたと見るのは無理があると思いますから、技術者が来て当地で粘土から製造したものと思われます)


(※1)大越邦生「コスモスとヒマワリ ~古代瓦の編年的尺度批判」-古田武彦と古代史を研究する会- 94号 2004年1月
(※2)李炳鎬『百済仏教寺院の特性形成と周辺国家に与えた影響 ―瓦当・塑像伽藍配置を中心にー』早稲田大学学術リポジトリより


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2015/03/11)
旧ホームページから加筆して転載
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瓦編年について(2)

2021年04月04日 | 古代史
 いわゆる「瓦編年」では①「大宰府政庁に使用されている瓦(「老司Ⅱ式」と「鴻廬館式」)については「『藤原京式』瓦に後出する」とされます。②また「観世音寺創建瓦」である「老司Ⅰ式」は「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」に対して「十~十五年『早期』と見られる」と考えられているようであり、③更にこれらは「薬師寺創建瓦」に対しては「かなり後出する」とされているようです。しかもこれらは「同じ形式」に部類されるものであり、相互に深い関係があるとされています。
 つまり「薬師寺」-「藤原京」-「観世音寺」-「大宰府政庁」という時系列が従来想定されているわけであり、それぞれ「『書紀』との同定から」判断して「薬師寺」が「六八〇年頃」、「藤原宮」が「六九五年」ごろとされていますから、「観世音寺」は八世紀に入ってすぐの頃、大宰府はそれからやや遅れた「七一〇年代」という推定がされることとなるわけです。

 例えば森郁夫氏の想定によると(※)「老司式軒平瓦は、偏行唐草文の特徴から本薬師寺式ではなく藤原宮式の系統に属す」と見て、「老司式の制作年代が本薬師寺に先行ないし並行することはありえ」ないとされ、「藤原宮造営時に偏行唐草文が採用された後に老司式が製作された」と結論づけています。
 この想定は言い換えると「本薬師寺」が最初にできた後、「老司式」と「藤原宮式」瓦が続けてできた事を示唆するものでもあります。
 しかし、「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」は「筑紫宮殿」が「再整備」され「礎石造り」となった際に使用された瓦であり、「筑紫」を大地震が襲った直後から宮殿整備が行われ「六八〇年代半ば」には完成したと考えられることから、「瓦」についても同様の時期が想定できます。
 またこれ以前(推定では六七〇年頃)に「観世音寺」が創建され、「老司Ⅰ式」という「瓦」で屋根が葺かれる事となったと考えられますから、上の「森想定」は既に破綻しているといえるでしょう。
 ただし、観世音寺の瓦について言うと「老司一式」瓦には更に大きく二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。それは「創建」の年次と「進捗」を促す「元明」の詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり「老司一式」により屋根が葺かれている「観世音寺」は「薬師寺」に続いて創建されたと考えられ、その後「藤原宮」と「太宰府政庁」に「藤原宮式」と「鴻臚館式」という異なるタイプの瓦が葺かれ、さらにその後停止していた「観世音寺」の造営が再度始められ「老司二式」の瓦が乗せられるということとなったという推移が想定できます。このことは「本薬師寺」の創建の年次の想定に関わってくるものです。

 「薬師寺」の創建年代に関しては、「藤原京」の「下層条坊」よりも「薬師寺」が建てられたのが遅れるのは確かとなっていますが、この事からすぐには「薬師寺」の「創建年代」については云云できません。それは「薬師寺」についても「移築」の可能性があると考えられるからです。
 そもそも「薬師寺」の創建に関わる事象として「皇后の病気」が挙げられていますが、正木氏の研究によっても「寺院」を創建するなどの契機となった「天皇」などの発病はそのまま死に至るケースばかりであり、「治癒」「回復」したという事例がありません。その意味では「薬師寺」の創建説話は不審といえるでしょう。

 また、通常「塔」は「卒塔婆」の表象とされ、「釈迦」の「墓」そのものを示すとされますから、「東西」二塔あるのはその意味からは「不自然」であることとなります。
 このような「卒塔婆」の表象といえる「塔」が二つあるというのは「釈迦」に擬されるほどの人物が二人いたと云うことの反映といえ、この二つの塔の存在は、「法隆寺」の光背銘から「釈迦」に擬されたと思われる「上宮法皇」とその「太子」ではないかと考えられます。それは各々「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」を意味するものと思われますから、この二人に対する「畏敬」の念を表すとすると理解できるのではないでしょうか。
 そうであれば「本薬師寺」の創建は彼らの活動時期とそれほど違わないという推定が可能と思われ、「九州年号」の中の「命長」という年号の存在、そして、その年号が使用されている「善光寺文書」の「書状」の中で「延命」を願うかのような文章の存在などを考えると、「六四〇年代」に「厩戸勝鬘」(彼は女性であり、「利歌彌多仏利」の皇后であったと推定されます)が「利歌彌多仏利」に対する「延命」を祈願して創建されたと考えるべきものと思われます。つまり、「本薬師寺」は「法隆寺」などと同様「移築」であったという可能性が高いと思料するものです。そう考えた場合「創建」つまり「皇后不豫」記事は「六四〇年代」の事となると思われますが、それは上の想定と整合するといえるでしょう。
 確かにこの年次の創建であれば「大宰府」「藤原京」等の瓦に対して「かなり早期」の瓦という考えも当然のこととなります。

 また「藤原宮」の瓦については既に考察したように「藤原京下層条坊」の存在に注意すべきです。
 この「下層条坊」は「第一次藤原京」ともいうべきものであり、それは「日本国」の都として作られたものと思われますが、その時点では「瓦葺き」ではなかったと思われます。この時期の「日本」の伝統的「宮域」の建築様式はまだ「板葺き」であったものと思われ、またこの時点ではまだ「筑紫都城」(太宰府)も整備が進んでいなかったと思われますが、「六七八年」に筑紫を襲った「大地震」により「筑紫都城」は相当程度破壊されたのではないかと考えられ、整備が必要となったものと推量します。現実に遺跡を調査すると「断層」や「液状化」の跡が明瞭に残っており、建物への影響はかなり深刻なものがあったと考えられます。『風土記』によれば「豊後」においてもかなりの被害があったことが推定されています。(以下の記事)

「五馬山在郡南
昔者 此山有土蜘蛛 名曰五馬媛 因曰五馬山 飛鳥浄御原宮御宇天皇御世 戊寅年 大有地震 山崗裂崩 此山一峡崩落 慍湯泉 処々而出 湯気熾熱 炊飯早熟 但一処之湯 其穴似井 口径丈余 無知深浅 水色如紺 常不流聞人之声 驚慍騰埿 一丈余許 今謂慍湯 是也」(『豊後国風土記』)

 このような大規模な地震であったため「筑紫都城」も「整備」が行われることとなった段階で「瓦葺き」建物へと形式が発展したものではないでしょうか。そう考えた場合「第二次藤原京」と「筑紫都城」とがほぼ同時期に整備されていたこととなりますが、それは共に「礎石建物」で「瓦葺き」という共通な形式を採用しているのも当然であることを意味するものです。ただし、「瓦」の形式は「藤原宮式」と「鴻臚館式」とで異なるわけですが、「本宮」と「別宮」とで「瓦」の種類を変えていたという可能性があると思われ、用途と重要度で別形式の瓦を使用するという配慮があったものと考えられるでしょう。

 この「第二次藤原京」とでも言うべき時期は「六八〇年代半ば」と思われます。従来の「瓦編年」で言うと「老司式」などは「藤原宮」の瓦より「遅れる」とされていましたが、近年「老司式」瓦をもっと遡らせる研究が増えてきたようです。この「藤原宮」瓦と「老司式」瓦では、「通説」では「藤原宮」から「大宰府政庁」へという流れでしか論じられていませんでしたが、最近の研究では「老司Ⅰ式」「Ⅱ式」とも「藤原宮」に先行するものという考え方も出てきており、少なくとも「藤原宮」と「大宰府政庁」がほぼ同時に造られたとする「研究」も現れてきています。またこの考え方は「瓦」の製造技法の変遷とも関係していると思われます。

 「瓦」は「粘土」を整形して焼成し作るわけですが、その「整形」の技法には「紐巻付け技法」と「板付け技法」があるとされ、端的に言って「単弁瓦」に対して「板付け技法」、「複弁瓦」に対して「紐巻付け技法」が適用されていると思われ、さらにそれは別の言い方をすると「南朝」形式と「北朝」形式とに分類できます。
 「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「複弁蓮華文瓦」であり、また「粘土板紐巻付け技法」であるとされています。それに対し「単弁蓮華文瓦」は「百済」から伝来したものですが、本来は「南朝」の形式であり、「板付け技法」で作られていると考えられています。
 「列島」における「瓦」が「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場すると言うことと、「百済」からの仏教と寺院の建設が先行すること、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは事実としての歴史的な流れであり、これに沿って考える必要があります。
 そう考えると、「複弁蓮華文瓦」の登場は即座に「紐付け技法」の登場となるわけですが、上に見たようにまず「本薬師寺」に「複弁蓮華紋瓦」が現れ、その後「観世音寺」「藤原宮」「太宰府政庁」と連なるというわけですが、これらの研究には「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」が脱落しています。
 「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」はその特徴が独特であり、他に類がないものです。そのため「法隆寺式」と呼称されています。また「同笵瓦」(同じ鋳型から造られたもの)も確認されておらず、「同型瓦」しかなく、それは「西日本」に偏って分布しているのです。
 
 既に述べたように「法隆寺」は「元々」「元興寺」であったものであり、それは「隋」から直輸入とでも云うべき形で伝来し創建されたものと見られます。
 この「元興寺」の創建は倭国王の勅願寺であったと同時に「隋皇帝」からの直々の下賜によるものではなかったかと考えられ、そのためその「笵」は他の寺院には提供されず、「元興寺」だけで使用されたものと見られます。(七弦琴などと同様の現象に思われます)他の寺院では「同型」のものを「模して」作るしかなかったものと推量されます。
 その後「元興寺」に使用された形式と建設技法が「倭国王権」と関係の深い地域に広がったものであり、それは地域で云うと「近畿」(特に「飛鳥」)と「筑紫」「肥後」という場所であり、そこで「紐付け技法」とそれを駆使した「複弁蓮華紋瓦」が製造されることとなったものと見られます。
 またその分布は「隋」の文化が「どこに」もたらされたのか、「遣隋使」はどこから発せられたのかを如実に示しているといえるでしょう。
 「遣隋使」が「近畿」から派遣されたなら「筑紫」はともかく「肥後」にそれが現れる理由が全く不明となるでしょう。逆に言うと「遣隋使」は「筑紫」ないしは「肥後」から派遣されたと考えると整合すると言えます。そう考えれば「老司式」と「鴻廬館式」が「藤原宮式」に先行すると考えて当然と言えるでしょう。

 既に指摘したように従来の「瓦」編年については「近畿」の寺院が「基準」となっていることは現在多くの「瓦」研究者の(あるいは多くの考古学者の)念頭に染みついてしまっているものです。
 しかし、「藤原京」の宮域下層から「溝」が発見され、そこからは「藤原古段階」という「奈良盆地外」(淡路産)の瓦窯で製造された瓦が発見されています。この「藤原京古段階」の瓦はもっぱら「回廊」などに葺かれたとされていますが、その回廊の完成は「七〇二年」以降ではなかったかと推定されており、「観世音寺」の工事進捗を促す「元明の詔」が出された年次との関係が指摘されています。それはこの「回廊」に使用された瓦と「観世音寺」の瓦(老司Ⅰ式)の「後期タイプ」とは同一様式(兄弟関係)とする見解も現れてきていることからもいえることです。

 「観世音寺」はその創建について「六六〇年代後半」を推定させる史料が複数確認されているものの、その直後「薩夜麻」が帰国した時点で、建設が止められたものと思われます。つまり、この段階では全体完成にはほど遠かったと見られ、「金堂」等の全ての建物に「瓦」を載せるまで工事が進捗していなかった可能性が高いと思われます。そして、そのまま長期間に亘り工事が中断あるいは放棄されていたと見られるものです。それが「七世紀末」から「八世紀」にかけ、工事が再開されたものであり、そう考えると「藤原京回廊」と「観世音寺」の工事再開がほぼ同時であるのは不自然ではありません。
 しかし、上に述べたように「老司」式瓦は「筑紫」の瓦窯で焼かれたものであり、それが「筑紫」の技術に拠っているのは当然です。この技術が遅れて「近畿」あるいはその周辺の地域の瓦窯に伝わり、それが「藤原宮」に使用される事となったと考えるべきでしょう。

 また「観世音寺」の工事再開に伴って使用された瓦である「老司Ⅰ式『後期』型」は「老司Ⅱ式」の影響から造られたとする主張もあり、そうであれば「観世音寺」の工事再開の前に「大宰府政庁Ⅱ期」が造られたこととなります。その場合「必然的に」「藤原宮大極殿」の完成以前に「大宰府政庁」はできていたこととならざるを得ません。
 従来の考え方でも「老司Ⅰ式」と「老司Ⅱ式」の間は「十~十五年」程度の時間差が考えられており、そのことから「太宰府政庁」が瓦葺きとなったのは「六八〇~六九〇年」付近と推定されます。(有力な年次としては「六八五年前後」でしょうか)
 「地域」を異にすることによる「時間差」を考慮すると、「藤原宮大極殿」のかなり以前に「大宰府政庁第Ⅱ期」が造られたことを想定するべき事となり、「六八〇年代」であるとしても不自然ではなくなります。つまり、一部で言われ始めているように「藤原宮式」瓦に「先行」して「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」瓦が製造された可能性があるのです。

 ところで「本薬師寺」の瓦の中には「藤原京古段階」の「瓦」の「笵」を利用しているものがある事が判明しています。つまり、「薬師寺」の完成以前に「藤原京古瓦」が焼かれていることが推定できます。「本薬師寺」の完成については「門前」の「幡」を挿すための「木枠」の年代測定が行われ「六八八年」という結果が出されています。
 つまり、明らかにこの「瓦」はそれ以前には焼かれ、屋根の上に乗せられたものであり、それと「藤原京古瓦」とがほぼ同一時期であることが推定されるものであり、これは「第二次藤原京」の完成時期に大きなヒントを与えるものであると考えられます。
(この年代推定は先に述べた「移築」と若干矛盾するかのようですが、そう即断はできません。なぜなら「移築」では「全ての部材」が運ばれる訳ではなく、破損などで新材に取り替えられる例がかなり多いからです。この場合、「幡」を指すための「木枠」は下方が地中にあったものであり、「腐食」などで再利用できなかったという可能性は高いと思われます。)

※森郁夫「老司式軒瓦の系譜」『大宰府古文化論叢』下巻 吉川弘文館(一九八三年)

(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)
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瓦編年について(1)

2021年04月04日 | 古代史
 「瓦編年」について以前書いた記事を再録します。

「老司式」、「鴻臚館式」という瓦は「複弁蓮華紋」を基本として共通しているものです。この「複弁蓮華紋」という様式は「近畿」では「七世紀」の第二四半期に初めて確認されるものであり、この時期を「下限」として考えられています。(つまり時代としてはそれより遡らないと言うことです)しかし、このように認定する理由は、この「複弁」様式が「近畿」でそれまで見られない、というただそれだけの理由からなのです。
 つまり「近畿」にないものは「新しい」ものであるという、「テーゼ」とも言うべきものに支配された論理なのです。しかし、そのような「論理」に科学的正当性はありません。

 実際には、この「複弁蓮華紋」は「漢代」以降、中国北半部で多く使用されたものであり、それはそのまま「北魏」から「隋」へと受け継がれていきます。(「北魏」の「平城京」からは多くの「複弁蓮華文」式の瓦が出土しています。)
 これに対し「単弁蓮華紋」の系統は「中国」南半部で多く見られ、「南朝系統」とも考えられます。「半島」では基本的に「南朝」系統が優勢であり、「単弁蓮華紋」が全盛となります。
 『書紀』に「百済」から「瓦博士」を招いたという記事が『推古紀』にあり、そのことは「飛鳥寺」「四天王寺」「若草伽藍」などが「百済」形式の「瓦」を(しかも「同笵瓦」として)使用していることでも判ります。
 これら「四天王寺式」と言われる各寺院に共通している、南に「堂」、北に「塔」という直線的配置は「高句麗」の系統を引く様式と一般には言われていますが、「高句麗」の瓦は「蓮華文」ではなく「蓮蕾文」という様式が主たるものであり、これは独自形式となっています。この「高句麗」の瓦に近似したものは国内からほとんど確認されていません。

 これに対し「複弁蓮華紋」が「近畿」に現れるのは上に見たように「七世紀」第二四半期と考えられているわけであり、このことから、従来の理解では「倭国内」では「単弁蓮華紋」が先行し「複弁蓮華紋」が遅れる、と考えられていたわけです。しかも「単弁」から「複弁」へ「変化」したとされており、あたかも同一系統の上の事と見なされていますが、それは全く認識が錯乱しています。
 上で見たように「単弁」系瓦と「複弁」系瓦はその出自が違います。「単弁」が「複弁」に変化するというわけではありません。この二つの系統は「単に」「弁」の形状が異なるだけではなく、寸法、重量、厚み、整形の技法など全てが異なっており、全く別の「技術」とその「技術」を携えた「人間」(技術者)の存在を考えなければなりません。
 「七世紀」第二四半期にそれらの存在が「近畿」に現れる理由については、従来は「遣唐使」という存在を想定しているわけですが、そう考えるには時期が遅すぎます。
 『隋書俀国伝』の記述からも「遣唐使」の前に「遣隋使」という存在が確実にあったわけであり、彼らによって「隋」の文化や制度などが「倭国」に導入されたと考えて当然である訳ですが、さらに『隋書俀国伝』の新たな解析により「六世紀末」の「隋」成立直後というかなり早い段階で「隋」から制度・文化などの導入があったと見られることとなりました。その中では仏教に関するもの(「元興寺」の建設など)がその主たるものであったと考えられることとなったものです。この時に「隋」から「瓦」に関する技術も伝えられたとするのはそれほど無理なことではないでしょう。
 
 「倭国」は「隋」との外交手段として仏教を重視することとなったわけですが、それは明らかに「隋」の高祖「文帝」が仏教へ強く傾倒していたことが原因していると見られ、それはそもそも「文帝」から「訓令」を受けた事がベースとしてあったものと思われますが、それを「好機」と捉えた「阿毎多利思北孤」により「仏教推進」、「寺院建立」などが政策として行われることとなったものと思われます。
 つまり「百済」からの文化に遅れて「隋」からの仏教文化も流入したこととなると思われるわけですが、それが「七世紀第二四半期」に現れるというのはいかにも「遅すぎる」と言えるでしょう。このことは「遣隋使」が持ち帰った文化制度が一旦「近畿」(大和)以外の場所で、咀嚼された後に改めて「近畿」へ伝来したと見るべきことを示します。
 つまり「六世紀末」から「七世紀初め」という時期に「隋」から「瓦」を含めた「仏教文化」がもたらされたことは確実であり、それが「近畿」にその時代のものとしてみられないと云うことは、「近畿」に「隋」の制度等がその時期には伝来しなかったことを示すものです。そして、それは当然「九州」に一旦伝来したと見るべきです。
 また、その「近畿」への伝来は「倭国」の「難波遷都」という事業との関連が考えられるところです。そう考えると「藤原宮式」よりも「太宰府政庁」の「鴻臚館式」や「観世音寺」の「老司式」の方が遅れるとは考えにくいこととなります。従来の研究では「老司式」瓦は「本薬師寺」出土の「瓦」に「遅れる」とされており、「本薬師寺」が『書紀』に「六八〇年創建」とされていることを根拠に、「観世音寺」「筑紫宮殿」の完成を七世紀末から八世紀初頭にかけてのものと位置づけているわけです。 
 しかし、「隋」からの影響が「遣隋使」によりもたらされたと考えると、その「伝搬」の中心域においては「ダイナミック」な変化があって然るべきと思われます。つまり、それまでの「単弁瓦」に代わって「復弁瓦」が導入されたわけであり、これにより「単弁瓦」が「一斉」に「駆逐」され、「ガラリ」と「復弁瓦」に代わって然るべきですが、実際には「近畿」では「複弁」形式に「主流」が早くに変化すると言うことはありませんでした。
 たとえば、上に挙げた「本薬師寺」には「単弁蓮華文」と「複弁蓮華文」が並行して使用されています。この段階でまだ「隋」の形式「以外」のものもある比率で存在しているわけですが、その時点(六八〇年)よりもその創建が先行すると考えられる「観世音寺」には「単弁形式」(百済形式)の瓦は全く使用されていません。この事は「中枢域」というのが「近畿」ではなく、「複弁瓦」の「発信源」が「近畿」ではなかったということを示すものです。

 また「瓦」の一種である「鬼瓦」についても「鬼面紋鬼瓦」が国内で初めて使用されたのも「大宰府政庁」とされています。
 この「鬼面紋鬼瓦」は「北魏」に始まり「隋」・「唐」へと続くものですが、それが最初に「大宰府政庁」で使用され、遅れて「平城京」に使用されるのです。それまでの近畿では「獣面紋鬼瓦」しか確認されておらず、これは「半島」各国にあるものであり、特に「新羅」の影響が感じられるものですが、「隋」・「唐」の影響を感じさせるものではありません。
 これらのことは「北魏」など「北朝」側から仏教文化全般(「寺院」やそれに付随する全て)が「六世紀末」付近までにすでに「九州」に伝搬していたということを示唆するものであり、「九州」内で発見される「複弁蓮華紋」瓦は「開皇年間」に行われた「遣隋使」による交流の成果と推測され、「近畿」への「単弁蓮華紋」に僅かに遅れて「九州」へ流入したと言うことを想定すべきではないかと思料されます。
 「近畿」はそれ以降「七世紀第二四半期」に至ってようやく「複弁蓮華文」の発現を見るわけですから、「北朝」からの仏教に関わる技術についての蓄積は、「近畿」に対して「筑紫」がかなり先行していたといえるでしょう。

 また「法隆寺」(元興寺)の創建「瓦」は「複弁蓮華紋瓦」でありまた「粘土紐巻付け」方式であったと見られ、「老司式」「鴻臚館式」「藤原宮式」「薬師寺式」などの諸寺院の瓦と異なる形式のものであることが知られています。これについては『書紀』の記事と「部材」に対する年輪年代測定法の結果から「六七〇年代」以降の「再建」と理解されていますが、「心柱」の伐採年代に良く現れているように当初の創建時期はかなりそれらを遡上するという可能性が考えられ、そうであれば「元興寺」として「隋」からの直接の影響を受けて創建されたのは遅くとも「七世紀初め」と考えられることとなって、いわば「ミッシングリンク」が今「法隆寺」として「近畿」にあることとなるでしょう。
 この「元興寺」を「嚆矢」として「国内」に「複弁蓮華紋瓦」が(それも一斉に)同じ「粘土紐巻付け」という技法によって作られるようになるのです。このように「仏教文化」が広く「九州」を中心として流入していたと考えると「寺院」に関する事物全体が他地域よりも「九州」が先行していたと考えても不思議はないものと思われます。
 従来の「瓦編年」は『書紀』の「藤原京」についての記述を根拠として編年しており、それは「須恵器」などの土器についても同じことがいえるわけですが、『書紀』の編年自体に問題があるとするならこれらの編年には全く信がおけないこととなるでしょう。
 フラットな目で見れば「粘土紐巻付け」という方法で作られた「複弁蓮華紋瓦」は「遅くても」「七世紀初め」にはこの列島に現れていたと見るべきこととなります。その嚆矢となったのは後に「法隆寺」となった「元興寺」であり、その後この寺院を基準として各地に寺院が造られていくようになったものと思われ、七世紀半ばにはこの「瓦」が標準として作られまた使われるようになったものと思われます。

(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/26)
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「蝦夷」と「朔旦冬至」

2021年03月28日 | 古代史
 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、このときの「使者」が「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
 そうであれば『新唐書』に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。

 また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明ですが。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。
 「魏晋朝」においては「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたとされており、これを視野に入れて「顕慶礼」でも「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使は「冬至の祭典」に列席するために渡唐したとみられるわけですが、その十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたと見られることとなります。そのように期間が空いているのはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維蠲」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之〈忄+壽〉再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/冣澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。

(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする『新唐書』の記事配列に反することとなりますが、『新唐書』の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)

 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。
 「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
 「蝦夷」が統治範囲に入ったと云うことをアピールする意味があったとすると、「日本」への改元にも「東国」への領域拡大という政治的変化が反映しているという可能性があるでしょう。それは上の『仏祖統紀』の記載にも現れています。

(再掲)「蝦夷 。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也。」

 この文章は周辺各地域の国情などを記した巻にあるわけですが、そこでは「蝦夷」についての記事でありながら「日本」という国号変更について記されており、そのことは「変更理由」として「蝦夷」との間に関係(の変化)があった事を示唆しており、蝦夷の地域を版図に編入したという自負の現れを示している事が推察されます。

 またこのような「六四〇年」の「朔旦冬至」を「倭国王権」が意識していたであろうことは「舒明天皇」の「百済大宮」の完成が「六四〇年十月」であったとされていることでもわかります。

「(六三九年)十一年…秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。」

「(六四〇年)十二年…冬十月…是月。徙於百濟宮。」

 もちろんこれは「十一月一日朔日」に「新宮」で「冬至」の儀式を行うためのものであったと思われ、「新宮」の完成はそれに間に合わす意味があったものと思われます。(新宮の南郊で行うものであったか)

以上旧ホームページより加筆して転載
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