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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊勢神宮」と「大嘗祭」

2018年05月10日 | 古代史

 『延喜式』などに描かれる「大嘗祭」についても、このような形式の「即位」に関連する儀式というものが確立されたのが「伊勢王」の時代ではないかと考えられます。
 「天孫降臨神話」が造られたのが「利歌彌多仏利」の次代の「倭国王」、つまり「伊勢王」の時代と考えられるわけであり、そうであるなら「大嘗祭」も「伊勢王」の時代に確立したものと考えることができます。
 「大嘗祭」では、その中で「真床覆衾」と呼ばれる「衣装」に包まれますが、これは「天孫降臨神話」の中で「瓊瓊杵命」がくるまれる「衣」を言い、「産着」のようなものであったと考えられます。それを示すように「大嘗祭」では、これに包まれる儀式の前に「沐浴」しますが、この「沐浴」は「小斎御湯」という「湯」につかる儀式であり、「水」ではありません。これは「伊弉諾」が「小戸の阿波岐原」でおこなったような「沐浴」とは違うわけです。
 先述したように、「瓊瓊杵尊」は「応神」を通して「阿毎多利思北孤」の「投影」と考えられますから、「大嘗祭」に再現されるのは「天孫降臨神話」のようでいて、実は「阿毎多利思北孤」の降臨の状況の再現と考えられるものです。
 「瓊瓊杵尊」も「応神天皇」も最初に「説話」に登場した時は、共に「赤ん坊」でした。つまり、ここで「沐浴」するのは「産湯」をイメージしていると考えられるものです。
 他にも「寿詞」を奏する役目として「吉野の国栖(くず)」が登場しますが、彼らは「仁徳」(応神の子供)の時代以降毎年朝貢するようになったものであり、それほど「皇室」と関係が「深遠」である、というわけではありません。そのような彼らが「大嘗祭」という「重要」な儀式に登場するのは、「仁徳」との関係以外考えられないわけです。(「国栖」という謡曲では「大海人皇子」に味方したという事が書かれているようです)

 またこの「大嘗祭」はその年に収穫された「新穀」を「神」に捧げると共に「神」と共に「食す」ことにより神と一体になる儀式であるわけですが、「大嘗祭」儀式の中では天皇が自ら「神」へ食事を献ずる儀式があり「神餞行立」(しんせんぎょうりゅう)と呼ばれていて、ここではご飯を「十度」盛って「ひらで」(「葉」を模した器)「十枚」に盛りつけるとされています。このことから「奉仕」する「神」は「十体」おられると解釈されますが、この内の「主神」については「伊勢大神」であると考えられています。(もっとも、明確に「神」の名が儀式中に出てくるわけではありません)
 これが正しいとすると「伊勢大神」は「ウカノヒコ」であったと考えられますから、彼が「食物」を司る神と考えられていることと「整合」する事となります。
 これと関連していると考えられるのが、『天武紀』の以下の記事です。

「(天武)十年(六八一年)五月己巳朔己卯(十一日)祭皇祖御魂。」

 ここに書かれた「五月十一日」というのは「二十四節季」の一つである「芒種」であり、「種まき」や「田植え」をすべき時期とされています。このような時点で「皇祖」の「御魂」を祭っているのは、その「皇祖」が「食」や「稲」に深く関係する「神」とされていたからと考えられ、上で見た「保食神」や「宇迦之御魂神」がそれに当たるものと考えられます。
 ここに書かれた「皇祖」の「御魂」を「祭る」儀式そのものが「大嘗祭」の「先蹤」を成すものであったという可能性があると考えられます。(ただし、この「皇祖」については「利歌彌多仏利」という可能性よりも、彼の「先皇」と思われる「阿毎多利思北孤」を指して言っていると考えられます。(彼は、「改新の詔」の直後に出された「御名部献上」に関する「詔」で「皇祖大兄」とされている「押坂彦人大兄」と同一人物と推定しています)

 『延喜式』には「祈年祭」についても記載がありますが、そこで「寿詞」を捧げる「神」は併せて「八神」であり、これは「大嘗祭」の「斎殿」の座を設けられている「八神」と同じと考えられます。そして、「大嘗祭」はこれに加え「伊勢大神」などを加え「十神」としていると考えられますが、「本来型」は「祈年祭」と同様「八神」であったものと推定されます。
 「大嘗祭」という「新形式」の儀式を創出する際に「伊勢大神」を加え、数字を整えて「十」神としたものでしょう。
 そして「悠紀」(ゆき)「主基」(すき)に選定される諸国に「筑紫」等「西国」が入らないことからも、この儀式が「近畿」ないし「東国」向けのものであると推察され、「近畿」及び「東国」を直接統治することとした「伊勢王」がそれら諸国に対して「倭国」王権への「服従儀礼」として設けたものと考えられるものです。
 また「古詞」を奏上するとして「三野」「但馬」「出雲」の各国から「語部」が徴発され、この「大嘗祭」の儀式に登場しますが、この中に「三野」があることに注目されます。なぜなら「三野」は「遣隋使」によってもたらされた制度である「戸籍」の変更に応じなかった地域であり、「利歌彌多仏利」段階ではまだ「倭国王権」の統治領域に正式に組み込まれていたとは言えなかったものと推定されています。しかし、その後「官道整備」に伴い「評制」が施行される頃には特に「王権」肝いりの地域となっていたと見られ、この「古詞」奏上に名を連ねているのは、その時点における「諸国」内の力関係の変化を示すものと考えられますから、「古代」より「伝統」と「格式」があり、「古詞」の奏上に適任と思われる「出雲」が「四名」しか「語部」を出していないことと併せ、「利歌彌多仏利」の時代からやや下った時代相であることを感じさせるものであり、「伊勢王」時点における「大嘗祭」の儀式の確立を想定して自然であるといえます。

 このように「伊勢神宮」は「天照大神」以前に「ウカノヒコ(宇迦之御魂神)」を祀っていたと考えられますが、それが後に「天照大神」に「切替え」られることとなったものであり、その時期は「八世紀」の「新日本国王朝」になってからのことと考えられ、『書紀』編纂事業と「軌を一にする」ものと推量されます。
 つまり「八世紀」に入ってからの「文武朝」、あるいはそれに続く「元明」「元正」の時代のことかと考えられ、その時点で「伊勢神宮」の祭神を「従来」の「ウカノヒコ(宇迦之御魂神)」から「天照大神」へ変更したのではないかと考えられるものです。(「ウカノヒコの神」の名前は現在でも「宇賀神」という「姓」で残っているようです)

 「伊勢神宮」には「斎宮」という制度がありました。これは「皇女」、つまり「天皇」の「子供」の「女の子」の一人を「伊勢神宮」に派遣し、「神」に仕える役目を担わせるものです。しかし、「実際」に「斎宮」として「皇女」を遣わすようになったのは「天武」が最初と考えられています。
 そして、それは「壬申の乱」において勝利を祈願した代償であるとする説話があり、これは「伊勢神宮」のその時点での祭神が男性である(あった)証明ではないかと考えられます。また、「天武」の時期は実際には「唐」から帰国した「薩夜麻」の時期であり、「伊勢神宮」を国家祭祀とした「伊勢王」の死去後「伊勢神宮」ではその「伊勢王」も奉祭の対象となっていた可能性があると思われます。

 このように「天武」の時代の「伊勢神宮」の祭神が「男性」であったものが、「女性神」である「天照大神」になったのは、「持統朝」に書かれた原『日本紀』を「八世紀」に入ってから「潤色」「改変」した時のことと考えられます。『書紀』の「神代紀」の冒頭で書かれている事は「天照大神」の「孫」(皇孫)である「瓊瓊杵」が「神勅」により「列島支配」を始めた、というものであり、これは「持統天皇」と「文武天皇」、「天照大神」と「瓊瓊杵」という双方が共に「祖母と孫」の関係にあるもの同士をアナロジーとしてリンクしている書き方となっているのです。
 つまり、「文武」が支配者であるのは「持統」によって保証されている、と言うわけであり、それはちょうど「天照大神」と「皇孫」「ニニギ」の関係と一緒である、と言うわけです。

 このようにして「八世紀」に入ってからの「日本国王朝」は、自らの「倭国王」としての大義名分をこの時点で「創出」したのです。
 このような事情から、「伊勢神宮」の祭神を特定の「男神」(男性の倭国王)から、「天照」に変え、以前の信仰対象であった人物と神様については「消去」する事としたのだと思われます。


(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2012/05/22)


「鞠智城」と「難波京」

2018年05月10日 | 古代史

 「倭国王権」は「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
 この「詔」でも「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
 「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「副都」制の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということが条件として完備されて初めて「副都」として機能すると思われ、「首都」が「筑紫」であった時代において、「難波」に「副都」を設けることができるようになったのも、「古代山陽道」の整備がかなり進捗するという条件があって初めて可能であったと思われます。(私見ではその時期としては「六世紀末」を想定しているわけです)

 ところで、「(前期)難波宮」というより「難波京」は「上町台地」のほぼ最標高地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「京」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものといえます。
 「飛鳥京」や「藤原京」、後の「平城京」などの「京」はほぼ「平地」といえる場所に造られたものであり、それらとは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし、「近江京」とは近似した性格が認められるでしょう)
 このような「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるのは、この「難波京」の「性格」として「山城」的な部分があったのではないかということを推測させるものです。
 「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、それはその様なことを基本的には行わない「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なってはいるものの、「肥後」の「鞠智城」とは少なからず共通するものを感じます。
 その「鞠智城」は現在の「熊本県菊池川上流地域」に存在していたと考えられる「山城」ですが『書紀』には現れません。『続日本紀』において「繕治」記事だけが存在しています。

「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」(文武二年(六九八)五月甲申廿五条)

 しかし、関係する記事はこれだけであり、その「築城」の時期などは不明となっていますが、ここに「大野城」「基肄城」と並べられていることから、これらの「二城」の築城時期と同じという可能性も指摘されています。
 実際にその後の各地の「国府」の遺跡を見ると複数回の建て替えなど修繕の跡が見て取れますが、その期間としておおよそ五十年というものが検出されています。これは『養老令』(「営繕令」など)の「細則」に「修繕」に要する期間というのが決まっていてそれに基づいたということが推定され、「大野城」については「城門」に使われていたとされる出土した木材の「年輪年代測定」の結果から「六四八年」の伐採であることが確定していますから、その約五十年後に「修治」が行われたとすると『続日本紀』の記述と一致し、それは「鞠智城」についても同様であったことが推定できます。
 
 この「鞠智城」については、『書紀』に記述がなく、長い間その場所さえ明確にはなっていませんでしたが、近年詳細な調査が施され、新事実が次々と明らかになってきています。
 そこでは、その築造時期においても、形式としても「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされていますが、他方それらに比べると大きな違いも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっており、またそれに伴い「水門」が見られない、などの相違点が確認されています。
 また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であると考えられますが、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。そのことは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。
 そして、これらの点は「難波京」に通じるものと思われ、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると考えることができそうです。
 
 「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では、その所在する場所を起点として「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう)
 それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。つまり、「難波京」は「発展型山城」とでも言うべき状態となっており、「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。その意味でこの「副都」「難波京」は、「筑紫宮殿」周辺の「条坊制」をモデルとしつつ、「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったという点で「本邦初」であったと思われます。
 「筑紫」においては「山城」そのものは周辺施設として存在しているのであり、「条坊制」はあくまでも「宮殿」を中心としたものであったのに対して(※)、「難波京」においては「周辺施設」であったはずの「山城」を中心とした形で「京」が形成されたこととなるわけです。
 これらのことは「鞠智城」と「難波京」の施行時期に余り「時間差」がなかったことを想定させるものです。

 その「難波京」の築造時期として注目すべきなのは「はるくさ木簡」や「戊申木簡」さらに「井戸」の木枠の年代測定の結果などでしょう。これらは非常に重要な「第一次資料」であり、これを軽視すべきではありません。
 「和歌」を万葉仮名で書いた大型木簡である「はるくさ木簡」は「前期難波宮」の最下層の埋土から出土したもので、この層は「前期難波宮」の造営に関わる「埋め立て」のさらに「以前」のものと考えられており、であれば少なくとも「七世紀半ば」よりも「古い」と考えなければなりません。
 この「木簡」は「難波宮南西地点」の「下部整地層」(第七層)から発見されたとされています。(「前期難波宮」の地層は上から「第一層」(大阪夏の陣以降の層)、「第二層」-「第四層」(三期にわたる豊臣氏による整地層)、「第五層」(中世の作土層)、「第六層」(前期難波宮造営時の整地層)、「第七層」(それ以前に谷を埋めた層)と解析されており、この「はるくさ木簡」は「第七層」からの出土と報告されています。)
 ただし、既に見たようにこの地層解析については当初のものであり、その後見解が変更された模様です。それによれば「第六層」と「第七層」は(若干の停止時期を挟むものの)ほぼ同時とされることとなった模様ですが、当初の見解によれば明らかに「第七層」と「第六層」とでは出土土器の編年が異なるとされていましたから、それが覆るに足る証拠が必要と思われますが、詳細は文化庁への報告に書かれているらしいものの、一般には公開されていません。(直接「大坂文化財研究所」に当時在籍されていた「積山氏」からお聞きしました)それが明示されていないのは遺憾と言うべきです。(層毎の土器数とその各々の編年分布が提示されるべきでしょう。)
 あくまでも当初見解に従うとすると、「難波宮造営」以前の時期が「はるくさ木簡」の年次と考えられ、上の推定から考えると「六世紀最終末」ぐらいまで遡上する可能性もあり得ます。
 同様に「前期難波宮」遺構から発見されたものとして「戊申」と記された木簡があります。この「戊申」は通常「六四八年」を意味すると思われておりますが、この「木簡」が発見された「層位」は「難波宮」時点とされ、「前期難波宮」で使用された物品(木簡や土器など)を「廃棄した」場所という性格があるとされています。つまり、この「戊申木簡」は「はるくさ木簡」よりも「新しい」と判断されるものですから、「はるくさ木簡」の年代としてはこの「戊申」という「六四八年」をかなり遡上するという可能性が非常に高いのではないかと思料されます。
 また「狭山池」の堤が構築された年次が「六一六年」と年輪年代測定されていること、さらに最近「難波京」北方の「柵」の遺跡から出土した木材について「酸素同位対比」の測定による年代の推定という新しい手法を適用した結果、伐採は「七世紀前半」ということが明らかになりました。
 これらのことから「難波宮」の造成開始時期は従来の常識から大きく遡上する事は避けがたいと思われます。(ただしその層の下から「七世紀後半」に編年される土器が出ているとされます。その土器に対する検討をしなければなりませんが、編年基準があいまいであり、判断をいったん保留します。)
 また「難波宮」周辺の「細工谷遺跡」で出土した柱穴の解析からは「斜め柱」の存在が推定されていますが。それは「大野城」などと同様の「斜面」に対して「版築」を施す際に必要であったことが推定されており、その意味でも「山城」との共通性が考えられています。

 この「難波」副都造営の動機としては「倭国」の全体的支配を目的としていたと考えるのが相当と思われ、それまでの「筑紫」周辺から大きく飛躍を目論んだものと思料します。
 この「難波京」が「鞠智城」と共通した構造や意義であることを考えると、当然「軍事施設」の側面の意義が強いと思われ、「東国」(近畿含む)への統治強化の前線基地として機能するべく設置・造営されたと見るべきでしょう。
 そもそも冒頭にも述べたように「官道」の整備の進捗は即座に地方諸国への軍事力の展開を可能にするものですから、この「難波宮」がその中核となる施設であるのは自明であると思われます。これを単なる「山城」とせず「副都」という政治的施設としたのは、「首都」である「筑紫」の「バックアップ」的位置づけと考えられ、その意味で「難波京」自身が「山城的」防衛機能を内蔵しているという部分が「強み」であり、「狙い」であったと考えられます。

 ところで、上で試みた検討により、「難波宮」の設計思想は「鞠智城」と同根であると考えられる訳ですが、その「鞠智城」について見てみると、これは「難波宮」と同様基本的には「軍事施設」であり、「首都」である「筑紫」に一旦急あれば背後の「政治的拠点」たり得る構造を新しく内包した点が他の山城に「優越」している点であり、また「距離」も「難波」ほど遠距離ではなく、短時間の移動が可能ですから、ここに拠点を移しつつ反撃と避難を講じる時間を稼ぐというような事を可能にするためのものではなかったかと推測されます。
 それは「鞠智城」に関する調査により、その内部には「朝堂院形式」の「掘立柱」建物の存在や、「大宰府政庁第Ⅰ期」の「掘立柱建物」と遜色ない「柱」の太さの建物の存在が確認されており、当初の想定よりもはるかに大規模であることが判明していることからも言えることです。
 更にこの「鞠智城」付近には「古代官道」が通っていたことが確認されており、この場所が交通の要衝であったことも明らかになっています。(基本的に「山城」あるいは「神籠石遺跡」には官道が接続されていたと見られ、官道の軍事的側面が明らかです)

 この当時の「倭国王権」は「筑紫都城」を防衛するための施設として、その「至近」に「山城」と「水城」を築造したものですが、それと同時に「複都制」を施行し、対外勢力に対する統治強化(それは「征服行動」も含む)を目的とした行動に出ることとし、しかも「海外」(新羅など)からの攻撃により「筑紫」が危険と判断されれば、「副都」から列島支配を継続することが可能になるように手段を講じていたものと思われます。ただし、「半島」などから「奇襲」などを受けた時に「倭国王」が「筑紫京」に滞在していた場合、「難波」まで逃げる時間もないわけであり、「筑紫」からそう遠くないが、追っ手を遮断できる「天然の要害」を挟んでいてかなり安全と思われる場所に、「王権」の仮の受け皿として「山城」と「都」の機能を併せ持つ、「簡易」ではあるものの「京」的施設として「鞠智城」を構築したのではないでしょうか。つまり、「倭国王権」としては二重のバックアップを試みていたものと思料するものです。

 この「鞠智城」は従来からその存在意義が不明であるとされ、他の山城など同様「唐」「新羅」等の海外勢力に対するものなのか、「対隼人」などの「南九州」勢力との対応に重点が置かれているのかが曖昧でした。
 つまり、この「鞠智城」の設置の主体を「近畿王権」と考えるとその「建設」の意義が非常にわかりにくくなるのです。
 「海外勢力」からの脅威を考えると、「筑紫」とその近傍を「ガード」するのは当然有り得る話ですが、「肥後」の地という相当程度離れた場所にこのような「新型山城」が造られるための条件というものが従来の考えでは見えにくかったものです。つまり、「近畿」を中心として考えると、「唐」「新羅」などに対する防衛施設としては「大宰府」から距離が離れすぎているようにも見えるわけです。
 しかし、設置の主体が「九州倭国王朝」であり、「首都」が「筑紫」にあったという立場に立つと、その「後背地」とも言うべき「肥後」に「後方支援基地」と「より南方」からの侵入に対する防衛線としての機能を持った施設が造られたとするのは何ら不自然ではないこととなるでしょう。
 この「肥後」という地域と「筑紫」とは以前から友好的関係にあったと考えられ、「筑紫」に対する第一の支援勢力が「肥後」であったと考えられます。
 重要なことはこの「鞠智城」の至近の地から「五世紀」代に「阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)」が切り出され、これが近畿において「横穴式石室」が造られるようになった時に使われた「材料」となったということです。
 近畿の「前方後円墳」に関してはその建設において「他の地域」(「九州」「吉備」「瀬戸内」等)の影響により造られており、「測量技術」や「土木技術」などあるいは「宗教的観念」などについて近畿に起源があったとは考えられない、と言われています。つまり、「墓制」の基本的要素のほぼ全てが近畿以外の地域からの「持ち込み」でありまた「伝搬」とされ、近畿のオリジナルなものではないとされています。
 一般に「墓制」というものが容易に変化しないものであるのは当然であり、新しい形式の古墳などが発生する、と言う事は「征服」「改宗」などの他からの「政治的」な圧力があったものと考えなければならないことを示していますが、「前方後円墳」の発生に関するメカニズムについても同様のものがあったことを想定させるものです。
 その「前方後円墳」の主要な構成物である「石室」や「石棺」に「肥後」の「石材」が使用されている訳ですから、これもまた「伝搬」であり「持ち込み」と考えるよりありません。つまり「主体」は「近畿」以外の別の場所にあったものであり、この「阿蘇熔結凝灰岩」の場合「肥後」がその「思想」の中心であると考えられるものです。
 このことはこの「肥後」という場所・地域が「倭の五王」以来の「倭国王権」の伝統を保持した「由緒ある」地域であったことを示すと考えられ、また「権威」と「力」の象徴たる地域であったことを示すものです。その様な場所に「鞠智城」という「筑紫王権」の「緊急避難場所」といえるものが造られていたということも、この場所が元々「倭国王権」に縁とゆかりの深い場所であったことを示すものと考えれば、自然なことといえるでしょう。


(この項の作成日 2012/06/12、最終更新 2017/08/20)(ホームページ記載記事を転記)


「伊勢」と「倭姫」

2018年05月10日 | 古代史

 「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
 この「日葉酢媛命」は、その死に際して「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」
「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「古田氏」も指摘していますように「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。
 これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードは整合していると考えられます。


 また『皇太神宮雑記帳』には「倭姫」が多くの「忌詞」を定めたという記述があります。

「…仏《乎》中子《止》云、経《乎》志目加弥《止》云、塔《乎》阿良々支(友?)《止》云、法師《乎》髪長《止》云、優婆塞《乎》角波須《止》云、寺《乎》瓦葺《止》云、斎食《乎》片食《止》云死《乎》奈保利物《止》云墓《乎》土村《止》云病《乎》慰《止》云如是一切物名忌道定給《支》亦祓法定給《支》」

 この中に記される「忌詞」には「寺」の他明らかに「仏教」に関するものが現れており、このことは彼女の時代に既に仏教が存在し、しかも「寺院」も既に建てられていたということを示すものと考えられ、実年代についても「六世紀半ば」以降であることが推察できます。(このことは「瓦」が崇峻年間に初めて倭国に伝えられたという書紀の記述が真実を伝えていないことを示すものでもあります)
 これらのことから、この「垂仁紀」の「埴輪」のエピソードも、視点を「筑紫」周辺に移動すると整合する内容であり、この事からその「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に存在していたという可能性が高いと思料します。しかも、『万葉集』に現れる「淡海」では「鯨」が採れるとされています。

「万葉集巻二 一五三番歌」
「<太>后御歌一首 鯨魚取  淡海乃海乎  奥放而  榜来船  邊附而  榜来船  奥津加伊  痛勿波祢曽  邊津加伊  痛莫波祢曽  若草乃  嬬之  念鳥立」

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ]邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波袮曾 邊津加伊 痛莫波袮曾 若草乃嬬之 念鳥立
(意味) 鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ

 古田史学の会の前代表である水野氏の論でもこの点についてはすでに問題として指摘されていますが、明らかに「湖」である「琵琶湖」では鯨は捕れません。
 ところで、これは「天智」の「后」(大后)と考えられる人物(これがまた「倭姫」です)が、「天智」の「殯」に際して詠ったとされる「淡海」についての歌であるとされます。 
 ここでいう「大后」とは「倭国王」の皇后にあたる人物であると考えられ、これは実際には「利歌彌多仏利」の「正夫人」を指す名称ではないでしょうか。
 「利歌彌多仏利」も「薩夜麻」も共に「淡海」に「拠点」を設けたものであり、また「天智」は「近畿」の「琵琶湖」付近に「淡海」を「移植」したとも考えられるものです。これらに共通しているのは「海」であり「海人族」との関係です。「伊勢の海」を我がものにするためには「海人族」を味方につけなければなりません。
 「利歌彌多仏利」は「親新羅勢力」との対決に「海人族」(宗像氏族か)の力を利用したものであり、「薩夜麻」は「百済を救う役」という一大決戦に「阿曇」「阿部」という海人族の勢力を利用したと考えられ、ともに海人族との関係を強化していたことが推定されています。
 そして、「利歌彌多仏利」と「薩夜麻」は「筑紫」の「淡海」、「天智」は「琵琶湖」の「淡海」であり、双方とも海人族の一大勢力である「安曇氏」の勢力下と考えられる点が共通しているのが注目されます。

(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2014/09/19)(ホームページ記載記事を転記)