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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「舒明」と「皇極」

2018年05月10日 | 古代史

 「舒明」と「皇極」の「即位」については、一般に「異例」であるとされます。それは両者とも「両親」が「皇子」(天皇の子)ではないと言うことです。
 「舒明」は「押坂彦人大兄皇子」(『古事記』では「忍坂日子人」とも)の子供とされますし、「皇極」は「茅渟王」の子供とされますが、その「茅渟王」は「敏達」の子とされますから、「彦人」の兄弟であることとなります。さらにこの両者の「母」は同名です。
 以下の資料を確認してみます。

「舒明前紀」「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」

「敏達天皇四年(五七五)正月是月条」「立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰難波皇子。其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女。更名櫻井皇女。與糠手姫皇女。更名田村皇女。」

 これらによれば「舒明」の母は「糠手姫皇女」であるとされ、さらに別名が「田村皇女」であることがわかります。ところで、以下の記事では「皇極」の母が「吉備姫王」であり、また「吉備嶋皇祖母命」と称されたことが判ります。

(皇極前紀)「天豐財重日重日此云伊柯之比足姫天皇。渟中倉太珠敷天皇曾孫。押坂彦人大兄皇子孫。茅渟王女也。母曰吉備姫王。」

(天智前紀)「天命開別天皇。息長足日廣額天皇太子也。母曰天豐財重日足姫天皇。天豐財重日足姫天皇四年。譲位於天萬豐日天皇。立天皇爲皇太子。天萬豐日天皇後五年十月崩。明年皇祖母尊即天皇位。」

(斉明前紀)「天豐財重日足姫天皇。初適於橘豐日天皇之孫高向王。而生漢皇子。後適於息長足日廣額天皇。而生二男。一女。二年立爲皇后。見息長足日廣額天皇紀。十三年冬十月。息長足日廣額天皇崩。明年正月。皇后即天皇位。改元四年六月。讓位於天萬豐日天皇。稱天豐財重日足姫天皇。曰皇祖母尊。天萬豐日天皇。後五年十月崩。」

「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午。葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。
丁亥。吉備嶋皇祖母命薨。」

さらに『天智紀』に以下の記事があります。

「天智三年(六六四年)六月。嶋皇祖母命薨。」

 これは通常「舒明」の母である「糠手姫皇女。」のこととされています。確かに『本朝皇胤紹運録』を見ると「糠手姫皇女は嶋皇祖母命と号す」とされています。
 上に見るように「舒明」の母は「嶋姫王」(嶋皇祖母命)とされ、「皇極」の母は「吉備嶋姫王」(吉備嶋皇祖母命)とされているわけですから、この両者を同一人物とみなす考え方もあります。「本居宣長」もその研究の中でこの「嶋皇祖母命」と「吉備嶋皇祖母命」の死去した記事は同一記事であり「重出」であると考えたようです。
 確かに「重出」であると考えられますが、そのことはこの両者が「同一人物」であることをも示唆するものです。それを示すのが『古事記』の記事です。

『古事記下巻』「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 此天皇 娶庶妹豐御食炊屋比賣命 生御子 靜貝王 亦名貝鮹王 次竹田王 亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 又娶伊勢大鹿首之女 小熊子郎女生御子 布斗比賣命 『次寶王 亦名糠代比賣王』【二柱】 又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又娶春日中若子之女 老女子郎女生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】
 此天皇之御子等并十七王之中 『日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮 治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】』 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 又娶庶妹玄王生御子 山代王 次笠縫王【二柱】 并七王【甲辰年四月六日崩】 御陵在川内科長也」

 ここでは「沼名倉太玉敷命」つまり「敏達」の子として「寶王」という存在が書かれていますが、この人物の別名は「糠代比賣王」とされ、おなじ「敏達」の子として書かれている「忍坂日子人太子」が娶った人物として「庶妹」つまり「腹違い」の妹である「田村王」がいるとされますが、この人物の別名がやはり「糠代比賣命」となっています。つまりこのことから「寶王」と「田村王」とが同一人物であることとなります。
 この「寶王」とは皇極の名前である「寶女王」と同じと思われますし、「田村王」は「舒明」の名前である「田村皇子」と同じと思われる事となりますから、この二人は実は同一人物と言うことを『古事記』等各種史料は主張しているようでもあります。
 そう考えた場合、『書紀』の記述には年代に不審があることとなるでしょう。なぜなら『書紀』によれば「皇極」は「茅渟王」の子であり、その「茅渟王」は「彦人太子」の子とされているからです。しかし上に見るように『古事記』では「皇極」は「彦人太子」の「庶妹」であり、また「夫人」であったとされるのですから、「世代」が一つ遡上することとなります。つまり『書紀』は「田村」と「寶」という同一人物を、二人に分けて「縦」に年代差を以て配置していることとなります。
 ただし、これについては別の見方もあると思われます。『日本帝皇年代記』によると以下のように記述されています。

「「癸丑(五九三年)(端正)五 舒明天皇皇極天皇誕生…」

 つまり、「同年」に両者とも生まれていることとなります。このことと両者の母が同一人物である可能性を考え併せると、彼らは実際には「一人」(つまり同一人物)であるという可能性や、「双子」(二卵性双生児)であったと言う可能性が考えられるところです。
 「双生児」全体の内「男女」の二卵性双生児が四割を占めるというデータもあり、双子が生まれた場合、かなりの確率で「男女」の双生児となるらしいことが知られています。その意味では珍しいことではなかったという可能性もあります。
 このことをベースとして考えると、彼等を「同一人物」とみなす見方もあながち不審なものではなくなるのではないでしょうか。

 従来「皇極」の皇位への即位について疑問が持たれていた訳ですが、これが「兄弟相承」という流れがあったと見たときに「舒明」と「皇極」が「兄妹」であるとすると、納得できるものであったものが、さらにこの二人が「双子」であるとすると、「舒明」に皇位即位に対する正統性がもし仮にあったとすると、そのような正統性は「双子」である「皇極」にも間違いなく備わっていたと考えられる事となります。
 彼らがもし双生児であったとすると、彼等の父である「押坂彦人大兄」が理由不明ながら「歴史上」から消えた後「推古」が死去した時点で再び「表舞台」に登場したものではないでしょうか。それは「倭国王」の継承に関わる事由によると思われ、「倭国」において「正統な」後継者が何らかの理由により不在となったために彼等を担ぎ出す勢力が動き出したものと推量します。それが「息長氏」ではなかったでしょうか。
 「彦人太子」の「母」は「息長真手王」の娘であるとされており、その「息長氏」は「阿曇族」や「宗像族」と近縁の海人族であり、本来「筑紫」付近に本拠があったとおもわれますが、近江付近にも陸上がりした根城(拠点)を持っていたと思われます。
 彼らは自分たちの勢力拡大のため、「息長氏」の勢力範囲にあった「彦人太子」の子である「寶」「田村」を皇位継承者にすることを目指したものと見られ、そのために種々の画策を行ったものと見られます。
 
 「彦人大兄」や「嶋姫王」にはかなりの財力があったものであり、「土地」やそこから収穫される「稲」について、「班田農民」に対して貸し付ける「貸稲」を行なっていたと見られ、それらによって得られる利益などをそのまま彼等が「継承」したらしいことが「改新の詔」などの解析から理解されます。
 「改新の詔」を見ると、これらの財産は「倭国王権」への「返還対象」とされた中で大きなウェイトを占めているのが判明しますが、このようなことが「孝徳」つまり「皇極」の実の弟とされる人物によって、しかも「皇極(斉明)」が存命中に可能であったとは思われません。当然強い抵抗や反対が起きると考えられるとともに、心情的にも「改新策」に盛られた内容を実行するなどのことがスムースに行えるはずもないと思われます。そう考えると、これは「斉明」死去以降の出来事であったと考えるべきこととなり、実際の出来事はかなり遅れた時期が想定され、推測すると「藤原副都」への遷都時点付近で出されたものではないかと考えられます。(既に述べたように「改新の詔」と思しきものは「複数回」出されたと考えられます)
 
 ところで、彼等のような、「皇親」としては「傍流」であり、正当な皇位継承権があるとはいえない人物が「天皇位」に即くと言うことは、ある意味「革命」が起きたとも云えます。(無血革命であったかは不明ですが)
 そのような彼等が即位するためには「天命」を受けたという意味の声明が必要であったでしょう。「前王」から継承できなかった「大義名分」を「新たに」「天から」受ける必要があったと言えます。
 「天子」ないしは「皇帝」を称する、あるいは「改暦」を行う等のいわゆる「受命改制」を行なう必要があったと見られますが、『日本帝皇年代記』によれば「舒明」には「田村帝」と号したという記事があります。
 この「帝号」は(『日本帝皇年代記』の中でも)それ以前の天皇等には決してみられない称号ですから、彼が「画期的」な人物であることは確かでしょう。
 そのような事情は、彼等の「側近」として旧権力側にいたと思われる「大伴」「物部」などのサポートがなかったと考えられることとつながっています。
 既に見たように「大伴」「物部」については、「舒明」「皇極」(「斉明」についても)に「仕えた」という記録がありません。それは「舒明」達がこの地に以前から勢力を張っていたわげはないことを示すものです。つまり彼等は「他所から」(言ってみれば)「降臨」した訳であり、そのため「始めて」「飛鳥」に「宮」が築かれたのです。そしてその場所は「倭国王権」の「離宮」的な場所であったと考えられ、「倭国王家」以外には立ち入ることさえできない性質の土地ではなかったかと考えられます。


(この項の作成日 2013/05/24、最終更新 2017/10/15)


「皇極」と「高向王」について

2018年05月10日 | 古代史

 「皇極(斉明)天皇」は「舒明天皇」と「結婚」する前の名前が「寶皇女」であったと言い習わされていますが、それは後年の改称であり、本来は「寶女王」でした。「女王」であれば、男性の「王」と敬称がつく人物達と同様、「近畿王権」の支配の外にある存在であると考えられます。
 そして『書紀』によれば「寶女王」時代に(つまり「舒明天皇」に嫁ぐ前に)「高向王」と結婚しており、「漢皇子」を設けた、と書かれています。
 「斉明紀」の冒頭に以下のように書かれています。

「天豐財重日足姫天皇 初適於橘豐日天皇之孫高向王 而生漢皇子. 後適於息長足日廣額天皇 而生二男一女. 二年 立為皇后 見息長足日廣額天皇紀.」

 ここで「高向王」との間に生まれた子供は「漢皇子」であるとされ、「漢」の字がつくわけですから、両親のどちらかが「渡来系」と考えられるわけですが、可能性としては「高向王」であると思われます。
 この人物に比定できるのは『本朝皇胤紹運録』の「用明」の皇子の中に「高白皇子」がおりその子に「漢皇子」がいるとされ、そこには「母皇極」と書かれていることです。これが「高向王」という存在につながるものと思われます。
 ただし、この「皇統紹運録」の「漢皇子」記事はいわば付け足しのように書かれており、これは『書紀』にそう書かれているので付加したという形跡が濃厚です。

 「坂上氏」など各氏族の系図上にも「漢王族」に連なる「高向王」という人物についての情報があり、「孝徳朝」で「准大臣」に任ぜられ、「敏達天皇」の孫「茅濡王の娘」と結婚した、などと書かれています。
 「皇極」は「舒明天皇」と結婚したとされるぐらいですから、その前に結婚していたという人物もそれほど身分の低い人物とは考えられず、「准大臣」という表現はあながち誇張とも考えられません。

 では実際に存在していたのは誰なのでしょうか。この「高向某」に比定すべき有力な人物は三人います。ひとりは「高向玄理」です。
 彼は「高向漢人玄理」とも「高向黒麻呂」とも書かれますが、明らかに「渡来系」の人物です。もう一人は「高向国忍」です。そして最後に「我姫」に総領として派遣されていた「高向臣」(名前は不詳)です。
 このうち「國忍」については、『続日本紀』に彼の子供とされる「高向朝臣麻呂」の死去した記事があり、それによれば「國忍」は「刑部尚書」であったとされます。

「和銅元年(七〇八年)八月 丁酉。攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。」

 この「刑部尚書」とは現在で言えば「警察」と「検察」「司法」などの権限を併せ持った人物であり、かなり強い権力を持っていたものと考えられます。つまり、「坂上氏系図」に言う「准大臣」という官位にも該当すると考えても不自然ではないことは確かです。
 しかし、彼には年齢の点で問題があるようです。彼の「息子」である「高向麻呂」が亡くなったのが「七〇八年」とされているわけですが、その「麻呂」は「六八一年」には「小錦下」の官位を授けられています。

「(天武)十年(六八一年) 十二月癸巳田中臣鍛師。柿本臣猿。田部連國忍。高向臣麻呂。粟田臣眞人。物部連麻呂。中臣連大嶋。曾禰連韓犬。書直智徳并壹拾人授小錦下位。」

 この時「麻呂」が「三十歳」程度と考えると「国忍」が「刑部尚書」にいる期間にできた子供と考えられ、その当時彼(高向国忍)も三十歳前後と考えると「生年」はちょうど「六二〇年」付近となると思われ、これでは「寶女王」よりもかなり年下となると考えられます。
 「寶女王」は「六三〇年」に「舒明即位」と『書紀』にあり、この時点で既に「舒明」との間に子供がいることになっていますから、推定される年齢からは、それ以前に「高向国忍」との間に子供を作ることは困難であると思われます。
 
 また「玄理」は「遣唐使」として「唐」に派遣されたのが『書紀』では「六〇七年」とされていますが、「帰国」が「六四〇年」となっており、さすがにこの滞在期間は長すぎるものと考えられ、「六三一年」に派遣されたという遣唐使の帰国の船に(「会丞」などと同時に)になぜ同乗しなかったのかその理由が不明となっています。
 いずれにしろかなり長い間「倭国中央」を離れていたと考えられますから、「漢皇子」を設けたとするとかなり若い頃のこととなると考えられます。しかし、「遣唐使団」の中に「学生」として派遣される場合は、当然「唐」で勉学に励む目的で派遣されるわけですから、この場合「長期間」帰国できなくなるのは覚悟する必要があるわけであり、また往還の際に「遭難」するという危険も高く、それらを考慮して「学生」などは「係累」(「妻子」)のいない人物を選ぶのが通例であったと思われます。
 「白雉年間」の遣唐使の内訳などから推察されることですが、まだ「成人」したばかり程度の若者を選んで送り込んでいるようです。(もちろん「遣唐使節」は別ですが)
 これらのことから「高向玄理」が「遣唐使」として派遣された際に、すでに「寶女王」と結婚していてその間に「漢皇子」を設けていたとはやや考えにくいということは言えそうです。

 そうすると可能性があるのは「総領」として「我姫」にいた「高向臣」ではないかと言うことです。この人物については「任命」や「派遣」された時期や年齢などが不詳である訳ですが、「総領」の仕事を補佐していたと考えられる「中臣幡織部連」という人物は、「守屋」に連座して「我姫」に流されたという人物と同一ではないかと考えられます。
 このことに関して「関東」に伝わる「羊大夫」伝承では、「物部守屋」滅亡の際に「羽鳥連ないし服部連」がその「一味」として「流罪」となって東国に来たとされています。またこのような重大事件の際は「本人」はもとよりその子供(特に男の子)も「流罪」になると言う例が多く、この時の「中臣幡織部連」も「父」に連座したという可能性があります。そうすると「五九二年」付近の時点で「少年」であったと考えられ、彼と共同で「我姫」を統治していたという「高向臣」も推定される「寶女王」の年齢とそれほどのギャップはないものと思われます。
 これらのことから考えると蓋然性が高いのは「名前」が不詳の人物である「総領」である「高向臣」がその相手であったのではないかということであり、彼らは「利歌彌多仏利」の改革により「総領」となり、その時点で「寶女王」と結婚し、その後「漢皇子」を設けたと言う事となります。つまり、「漢皇子」の生年としては「利歌彌多仏利」の即位時点と思われる「六一九年」以後であったという可能性が高いと考えられます。

 「総領」であった「高向臣」がその後どうなったのか、『書紀』には一切書かれていませんが、『常陸国風土記』には「七世紀半ば」のこととして、「総領」である「高向臣」が「評分割」などの権力を発揮して存在しているのが分かります。彼は「総領」という立場でしたから、「五位以上」相当の位があったものであり、「准大臣」という言い方も全く的外れではないと思われ、まだこの段階で健在であることが知られます。
 つまり、「我姫」に総領として派遣されていた「高向某」という人物との婚姻関係がもっとも蓋然性が高いものと思料され、彼との間に「倭京」改元時点付近で「漢皇子」を生んだものと見られます。
 彼女はこの後「舒明天皇」と結婚すると言うこととなるわけですが、その辺りの詳細は不明ですが、少なくとも「天智」が彼女の子供であるとすると、「舒明」が「田村皇子」時代に既に生まれていることとなります。
 そう考えると「漢皇子」を生んだ直後に「田村皇子」と結婚したこととなるでしょう。
 そうしなければならなかった理由が存在すると思われますが、それに関連しているのが「舒明」(田村皇子)との関係です。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2014/03/04)


「番匠」と「難波宮」

2018年05月10日 | 古代史

『養老令』には「丁匠」を定めた条文があります。

「賦役令24丁匠赴役条 凡丁匠赴役者。皆具造簿。丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処皆以近及遠。依名分配。作具自備。」

 この『養老令』の注釈書として知られるものに『令集解』があります。これは九世紀前半頃に「惟宗直本」という学者によって書かれた『養老令』の「私撰」の注釈書です。その『令集解』の上の「丁匠」条文に対する解釈が注目されます。そこには以下のように書かれています。

「其外配者、便送配所、謂西方民、便配造難波宮司也。以近及遠、謂先『番役』近国、次中国、次遠国也。」(『賦役令24丁匠赴役条』)

 この文章は、「条文」の後半に書かれている「其外配者」以降について、「(京)外へ配置する場合」は、「配所」に名簿を送るとされているようですが、ここの解釈について引用されている『古記』によればこの「(京)外」の地域とは「西方の民」の地域を指すものであり、「配所」とは「難波宮」を建設するための組織の元であるというのです。

 この『古記』とは『大宝令』の注釈書とされていますから、ここでいう「難波宮」とは「聖武」の「難波宮」ではないことは確かであり、『大宝令』以前のものである事から「七世紀代」のものであるのは間違いないところです。しかし、『書紀』では『孝徳紀』と『天武紀』の双方に「難波宮」記事があり、どちらを指すかは一見不明です。ただし『天武紀』に「律令選定」の記事があることから、これが『大宝令』に関する事であり、そのことから『古記』の記事は『天武紀』の「難波宮」記事について相当すると一般には思われているようです。しかし、これと齟齬する記事を載せるのが『伊豫三島縁起』です。ここには「孝徳天王」の時に「番匠」が始まったという記述があります。

「…卅七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智性給之。…」

 『伊豫三島縁起』は愛媛県越智郡大三島町に現在も所在する「大山祇神社」の創建伝承を伝えるものですが、その内容としての「卅七代孝徳天王位。番匠初。」という記事は『古記』の注釈の内容と重なるものであり、『古記』の内容が『天武紀』のことではないという証言ともいえます。

 「難波宮」記事は『孝徳紀』の方が詳しく、また『天武紀』であるとすると「副都」を造るという記事はあるものの「難波遷都」記事がないという不審もあります。「天武」は終始「飛鳥浄御原宮」に所在していたものであり、「難波」へ遷都した形跡がみられません。
 また「(六八二年)十一年…九月辛卯朔壬辰。勅。自今以後跪禮。匍匐禮並止之。更用難波朝廷之立禮。」(『天武紀』より)という記事も見られ、これは「難波朝廷」の時に採用していた「立禮」を改めて採用するということですから、明らかに「天武朝」以前に「難波朝廷」があったことを意味すると思われるわけであり、「天武朝」と同時代の「宮」として「難波宮」があったわけではないことを強く示唆します。

 また引用された『古記』をみると「西方の民」だけが「番匠」の対象となっているように見えます。この「西方の民」については特に注記等ありませんが、明らかに「西日本」というより「九州」地域を指すものと思われます。そもそも関連する用語として「鎮西」という用語がありますが、この語義については本来「西」を「鎮」するということであり、「西」「西国」というだけで「九州」を指す例の応用であると思われます。『書紀』の「西国」の例を見ると「天武」の時代のものが最古です。(以下の例)

「(天武)五年(六七六年)夏四月戊戌朔辛亥条」「勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。」

 ここ出てくる「西国」は「九州」を指すというのが定説のようです。(「白村江の戦い」などで九州諸国が疲弊したための救済措置と理解されているようです)
 このように「西」あるいは「西国」というのは「九州」を指し、それを「鎮」(「支配」)するという意味で「鎮西」という語が発生したと思われますが、いずれにしても「九州」を支配していたものが「九州内」にいた事を示すものであり、それが「大宰府」や「大宰」に意義が転じたものです。さらにこの「西」に関しては興味深い記事が『日本帝皇年代記』中にあります。

「丁酉(僧要)三 二月大星流 声如雷 東流 西朝無知者沙門僧旻曰此星曰天狗 東方恐有乱乎 果蝦夷叛」(『日本帝皇年代記』上より)

 ここでは「西朝」という表現が使用されており、これは明らかに「近畿天皇家」ではないといえるでしょう。「西」とは上に見たように「九州」を指す用語ですから、「西」の「朝」とは「九州王朝」を端的に指す表現といえるものです。
 この「西朝」という用語は『続日本紀』(『元正紀』)にも出てきますが、これは「平城京」に二つ存在していた「大極殿」に関わる表現と考えられますから、意味合いが異なると言えるでしょう。ただし、洞田氏や古賀氏が言及された「宝亀元年」の「歌垣」記事(以下のもの)に出てくる「にしのみやこ」という表現については、改めて注意が向けられるべきものと思われます。(『古田史学会報』二十六号一九九八年六月)

「宝亀元年(七七〇)三月辛卯【廿八】条」「葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。…」

 ここで問題となった「歌垣」で詠われたという「古詩」は「一音一語」という「初期」の形式の万葉仮名で書かれており、「古詩」という名にふさわしいとも言えます。(『万葉集』にもほとんど見られないものであり、また「不復煩載」とはこのような「一字一音」表記が「煩わしい」という意味ではないでしょうか。書かれてあったものを書き写したと見られ、その作業が煩瑣であるという事と理解できるものです。)
 通常このような表記法は「柿本人麻呂」以前のものであると考えられ、その場合「七世紀」代まで遡上するという可能性もあるわけですが、その場合上の「西朝」とそれほど時代が異ならないという可能性も出てきます。(たとえば『書紀』『古事記』においては全ての歌謡は一字一音で表されており、また借訓がありません)
 但し「難波宮」遺跡から出土した「はるくさ木簡」では「は」の表記として「波」ではなく「皮」が使用されています。さらに「と」「し」の表記も異なります。この歌垣の古詩では「はるくさ木簡」の「刀」に対して「止」、同じく「斯」に対して「志」というように使用字が異なりますが、「と」の表記に「止」を使用しているのは「訓」であり「音」ではありません。(借訓字)一般には「音」で表記している方が古いとされており、「はるくさ木簡」の方が先行していると言えるでしょう。
 「はるくさ木簡」に関していうと「難波宮整地層」のさらに下の層からの出土でしたから(第七層)、「七世紀半ば」をさらに遡上するという可能性があると思われますから、それよりこの「古詩」が新しいとしても「七世紀半ば」程度までの遡上は想定すべきかも知れません。

 ここで「にしのみやこ」を褒めそやしているということから、この古詞は「近畿王権」が「倭国九州王朝」という統一王権の支配下にあった頃に「賛歌」として作成されていたものという可能性も出てくるでしょう。そうであれば時期として「七世紀半ば」と言うことと考え合わせると、「白雉改元」付近を想定すべきものかも知れません。つまり、「にしのみやこ」とは「副都」である「難波宮」から見た「首都」である「筑紫京」を指すと考える事ができると思われます。
 また、この「古詩」自体が「にしのみやこ」に対する「賛歌」ですから「よろずよのみや」という表現についても「願望」ではなくいわば「眼前」の事実を表した表現であると考えられ、古から続く「筑紫」の歴史を端的に表現したものと言えるのではないでしょうか。

 この「丁酉」条の記事中の「僧旻」は「書紀」では「高表仁」の来倭に伴って「唐」から帰国したとされていますが、「高表仁」は「倭国」からの「遣唐使」に対して派遣された「唐」からの「使者」ですから、彼が赴いた先は「倭国」であるのは当然であり、彼と同行した「僧旻」についても「倭国」に到着したものと考えられます。つまり、その「倭国王朝」に対して『帝皇年代記』では「西朝」という呼称がされていることとなりますから、「倭国王朝」は即座に「九州王朝」であったことを示すといえるのではないでしょうか。

 また「番匠」に関して言うとそれが「西方の民」つまり「九州」の民を集めて建築に当たらせるということの意味として、諸々の「技術」の点で「九州」を中心とした「西国」が先進的であったことの反映であることを意味し、「寺院」を初めとする「木造建築」に関する総合的な文化が「九州」を中心に花開いていたことを示すと思われます。しかし同時に用語として使用されている「配所」とは通常「犯罪を犯した人が流される(配流)場所」を示すものであり、これはこの「番匠」という制度そのものが本来「刑罰」の一種であった事を示唆するものであり、「西方の民」つまり「九州」の人々がこの時の「新日本王権」に対して異議を唱え反抗し屈服させられた歴史を示すものではないかと推量されます。
 『獄令』によれば「徒罪」や「流罪」の場合いわゆる「強制労働」が課されており、その内容は本来は「近畿」のものは「京師」で「役」に従事し、諸国は「国内」で「役」に従事すると定められていましたが、この「丁匠」の場合「配所」という用語が使用されているところから判断して元々「流罪」に対する「配流」の地を意味するものであり、この条文中ではそのような人々を集めて「番匠」としたと解されます。

「獄令18犯徒応配居役者条  凡犯徒応配居役者。畿内送京師在外供当処官役其犯流応住居作者。亦准此。婦人配縫作及舂」

 以上のことは「難波宮」が「七世紀半ば」付近で「九州」を中心として「西日本」の人々の「強制労働」の産物として造られたことを意味しているといえますが、別のこととして、この「難波宮」造営時にすでに「律令」(大宝令)が存在していたことを推定させるものであり、それは『続日本紀』の記事には年次移動があるとする当方の立場を補強するものでもあります。


(この項の作成日 2017/05/13、この項の最終更新 2017/05/17)(ホームページ記載記事を転記)


「賀正禮」と「唐令」について

2018年05月10日 | 古代史

 『書紀』の「孝徳朝」時代の記事に「賀正礼」というのが出てきます。

(六四六年)大化二年春正月甲子朔。賀正禮畢。

(六四八年)大化四年春正月壬午朔。賀正焉。是夕。天皇幸于難波碕宮。

(六四九年)大化五年春正月丙午朔。賀正焉。

(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔。車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。

(六五二年)白雉三年春正月己未朔。元日禮訖。車駕幸大郡宮。

 『孝徳紀』以外にも「賀正礼」と思しきものが書かれている例があります。
(以下は『孝徳紀』以外の例)

(六七一年)十年春正月己亥朔庚子(二日)大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣。進於殿前奏賀正事。(これは一日ではありません)

(六七五年)四年春正月丙午朔。大學寮諸學生。陰陽寮。外藥寮。及舎衞女。堕羅女。百濟王善光。新羅仕丁等。捧藥及珍異等物進。

(六七六年)五年春正月庚子朔。羣臣百寮朔拜朝。

(六八九年)三年春正月甲寅朔。天皇朝萬國于前殿。

(六九〇年)四年春正月戊寅朔。物部麿朝臣樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位。公卿百寮羅列。匝拜而拍手焉。
己卯。公卿百寮拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣。奏賀騰極。

(六九一年)五年春正月癸酉朔。賜親王。諸臣。内新王。女王。内命婦等位。

(六九八年)二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。

(七〇一年)大寳元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀。於是備矣。

(七〇二年)二年春正月己巳朔。天皇御大極殿受朝。親王及大納言已上始著礼服。諸王臣已下着朝服。

(七〇四年)慶雲元年春正月丁亥朔。天皇御大極殿受朝。五位已上始座始設榻焉。

 以上のように各時代において「賀正礼」様の儀式が行なわれているように見えますが、明確に「賀正禮」(ないしは「元日禮」)と書かれているのは『孝徳紀』だけです。この「賀正禮(礼)」が「礼制化」されたのが「唐」の「玄宗皇帝」の時代の「開元令」においてであるということから、この『孝徳紀』の記事を否定する(「造作」であるとする)意見があるようですが、以下の理由により当たらないと思われます。

 一般に「倭国」では「唐令」をそのまま継受していない、とされます。つまり「倭国」独自の形に変改して受容しているということです。「唐律」についてはかなりの部分をそのまま継受したとされていますが「唐令」に関しては多くの部分で取り入れなかったり、あるいは改変するなど、倭国独自のものを作り上げているようです。それらは「倭国」の国内事情に合わせたものであり、それはいわゆる「大化前代」までの「倭国」の状況を反映しているとされます。(例えば「増田修氏」の論(※1)をご参照いただくと良いと思います)

 「倭国」も含め周辺諸国は「中国」の歴代王朝と継続的に関係を持っていたわけですから、随時(程度や量の「多少」はあるものの)中国各王朝の制度等を取り入れていたものと見られます。それは当然各国においてある程度その国に応じて改変等されて受容されたものと見るべきであり、「倭国」においても「倭国流」に「咀嚼」して取り入れられていたと推察されます。それらが下敷きとしてあった中で、「七世紀」に入り「隋」その後「唐」と正式な外交関係を持つに至ったわけであり、それらからも重層的に「制度」その他を取り入れることとなったことが『養老令』等に反映していると見られるわけです。
 そのような中で、「新羅」の場合は「服飾制度」を含め「年号」や「律令」なども「唐」のものを導入したというわけですが、それはほぼ完全な「服従」を意味するものであり、それは反対報酬として軍事援助を欲した事の結果でもあります。つまり「麗済同盟」という「新羅」を挟み撃ちにするような「軍事同盟」の圧力に対抗するにはそうするより他はなかったという選択の中でのことと考えられますが、他方「倭国」はそのような圧力を感じることもなく、単に必要なものだけを導入したということと見られ、それはもっぱら統治の際の利便性の追求の結果であり、あるいはそれ以前の制度等との折り合いなどを考慮した上の話であり、「唐」や「隋」に対する「服従」のためなどではなかったものです。つまり、「新羅」とはその「唐令」の継受に当たっての「動機」の違いが大きいと思われます。
 その証拠に「賀正礼」の場合「唐」と同様式になるのはずっと後代であり(平安時代とされる)、「八世紀」時点においては「唐」とは異なる形式で「賀正礼(元日朝賀)」の儀式を行っていました。「唐令」(これは開元令)についての情報を入手したのは「八世紀」に入ってから派遣された「遣唐使」の帰国後のことと考えられますから、それ以前に行われていた諸儀式については「開元令」との関連を想定するのは困難であると思われます。
 そう考えると「七世紀半ば」という時点で行われていた「元日朝賀」が「開元令」から復元された「唐令」に(完全に)則っているとは考えられないこととなります。それまでに「倭国」に流入した「唐」以前の儀式であったり、「倭国」の古来からの伝統に根ざしたものをメインにした儀式を行っていたという想定の方が遥かに蓋然性の高い想定であると思われます。
 そもそも『大宝令』に関する「古記」などの記載からは、その中身として「唐」の『永徽律令』などの影響が考えられています。この『永徽律令』とその「疏」などの成立が「六五三年」とされていますから、『大宝律令』の成立はこれ以降であると推察され、それ以前に行われた「元日朝賀」がそれらに則っていないのは当然といえるのではないでしょうか。

 「元會之儀」そのものは古来からあるものであり、それが「禮」として成立していたかどうかだけの問題と思われます。
 以下の例では「周」から「隋」に「禅譲」された際の儀式の模様が描かれており、そのさまが「如元會儀」と書かれていますから、「周」(北周)の時代には「元會之儀」が行われていたことが判ります。

「隋書卷九 志第四/禮儀四/元會」
 
「周大定元年…二月甲子,椿等乘象輅,備鹵簿,持節,率百官至門下,奉策入次。百官文武,朝服立 于門南,北面。高祖冠遠遊冠,府僚陪列。詔室入白,禮曹導高祖,府僚從,出大門東廂西 向。椿奉策書,?奉璽?,出次,節導而進。高祖揖之,入門而左,椿等入門而右。百官隨入庭中。椿南向,讀冊書畢,進授高祖。高祖北面再拜,辭不奉詔。上柱國李穆進?朝旨,又 與百官勸進,高祖不納。椿等又奉策書進而敦勸,高祖再拜,俯受策,以授高?;受璽,以授 虞慶則。退就東階位。使者與百官,皆北面再拜,?笏,三稱萬?。有司請備法駕,高祖不許,改服紗帽、?袍,入幸臨光殿。就閤?服袞冕,乘小輿,出自西序,『如元會儀。』禮部尚書 以案承符命及祥瑞牒,進東階下。納言跪御前以聞。?史令奉宣詔大赦,改元曰開皇。是 日,命有司奉冊祀于南郊。」

 このように「唐」以前の中国において「元會之儀」という形で「賀正礼」的儀式が行われていたことは確かですから、これらが「倭国」に影響を与えたとしても不思議ではありません。

「白雉改元」の儀式においても「元會儀」と同じように行われたと書かれています。

「(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔条」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。」

「(同年)二月庚午朔甲寅条」「朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。…」

 上で見るように「正月」には「賀正禮」とされていますが、二月には「元會之儀」と書かれており、この二つは同じ儀式のことを意味していると推察されます。その「元會之儀」と同じとされる内容を見てみると「隊丈」(これは「軍隊」の意か)は「朝庭」に配置されているとされ、その後に書かれている「左右大臣。百官」と共に「紫門」の外に展開配置されていたと思われます。
 『隋書』には他にも「南朝」の「梁」の「元會之禮」をモデルにして「隋制」としたらしいことが書かれています。

「梁元會之禮,未明,庭燎設,文物充庭。臺門闢,禁衞皆嚴,有司各從其事。太階東置 白獸樽。羣臣及諸蕃客並集,各從其班而拜。侍中奏中嚴,王公卿尹各執珪璧入拜。侍中 乃奏外?,皇帝服袞冕,乘輿以出。侍中扶左,常侍扶右,?門侍郎一人,執曲直華蓋從。至階,降輿,納?升坐。有司御前施奉珪藉。王公以下,至?階,??劍,升殿,席南奉贄珪璧 畢,下殿,納?佩劍,詣本位。主客即徙珪璧於東廂。帝興,入,徙御坐於西壁下,東向。設 皇太子王公已下位。又奏中嚴,皇帝服通天冠,升御坐。王公上壽禮畢,食。食畢,樂伎 奏。太官進御酒,主書賦?甘,逮二品已上。尚書?騎引計吏,郡國各一人,皆跪受詔。侍中讀五條詔,計吏?應諾訖,令陳便宜者,聽詣白獸樽,以次還坐。宴樂罷,皇帝乘輿以入。 皇太子朝,則遠遊冠服,乘金輅,鹵簿以行。預會則劍履升坐。會訖,先興。」

 (同上)
「隋制,正旦及冬至,文物充庭,皇帝出西房,即御座。皇太子鹵簿至顯陽門外,入賀。復 詣皇后御殿,拜賀訖,還宮。皇太子朝訖,羣官客使入就位,再拜。上公一人,詣西階,解劍, 升賀;降階,帶劍,復位而拜。有司奏諸州表。羣官在位者又拜而出。皇帝入東房,有司 奏行事訖,乃出西房。坐定,羣官入就位,上壽訖,上下?拜。皇帝舉酒,上下舞蹈,三稱萬?。皇太子預會,則設坐於御東南,西向。羣臣上壽畢,入,解劍以升。會訖,先興。」

 「隋」及びその後の「唐」においても「隋」以前の「北周」「北斉」「南朝の梁」など先行する諸王朝の儀式等を総合勘案して作り上げたと考えることが出来るのではないでしょうか。
 この「元會儀」についてはその次第を見ると、「羣臣及諸蕃客並集」という表現からも国の内外から多くの使者などを招いてのものであったと思われ、「賀正禮」と何ら変わらないように見えます。この事からも「白雉改元」の儀式に比喩として使用されている「元會儀」とその直前の正月朔日に行われた「賀正禮」が同じものであることが推測できます。
 そうであればここに見える「賀正禮」が「隋」以前からの「元會儀」に則っていたという推測も十分可能となるものと思われ、「唐令」によるとは断言できないことはもちろん、だから「賀正禮」は行われていなかったというような短絡した結論はもちろん引き出せないこととなるでしょう。

 『養老令』には「唐令」の影響があるのはもちろんですが「唐」以前の「中国王朝」で行われていたものが『養老令』の中に遺存しているものが散見されるとされています。(※2)つまり「唐」以前の「令」が「唐」以前の倭国に伝来していたと見られ、『大宝律令』制定以前の段階で既に「倭国」である程度「令」として機能していたことを示唆するものです。つまり『大宝令』以前に「律令」らしきものがあったと見るべきこととなり、それに基づいた「元會之儀」が「賀正礼」様のものとして存在していたとしても不思議ではないこととなります。

 ところで「伊勢神宮」の「元日朝拝」の儀式もこれに似ています。
 「伊勢神宮」の「元日朝拝行事」においては「止由気宮儀式帳」には「卯の時」(午前六時)に「南門」の外で「禰宜」「内人」「物忌」等が「神宮拝奉」とされていますし、「皇太神宮儀式帳」においても同様に「正月朔日」に「禰宜」「内人」「物忌み」等が「南門」から入って「大神」を「拝奉」するとされます。
 これらの「元日朝拝」の儀式は、後の宮廷儀式である「元日朝賀儀礼」(賀正禮)に見られるように、大極殿に出御した天皇を朝庭に列立した百官が拝賀するというものに対応するものと思われ、一般には「伊勢神宮」の年中行事は「天武」の時代に「浄御原宮」で始められたものがその後伝わったものとされています。
 つまり、中央に祖型を持つものが殆どであるとされ、「元日朝賀」に関するものも「天武朝」時代以降に「伊勢神宮」に伝えられたものとされますが、「伊勢神宮」は「天武朝」には既に存在しているわけですし、それ以前から「日神」として「奉祭」されていたものと考えられます。

(用明前紀)
「詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。」

 ここで「用明」の「皇女」が三十七年という長きに亘って「伊勢神宮」で「日神」に奉仕していたことが記されています。つまり「日神」が「伊勢神宮」の主神である事が明示されているわけですから、「日神」であるならば「正月朔日」の「旦」(初日の出)を遙拝する儀式を行っていなかったはずがなく、「元日朝拝」という儀式は古来から行われていたものと考えて間違いないでしょう。
 つまり、「宮廷儀式」と共通しているのは間違いないものの、「伊勢」と「宮廷」とどちらが「本家」かは即座に判然とはしないのではないでしょうか。一概に「中央」から「伊勢」へと言う矢印が必ず引けるものではないと思われます。

 『推古紀』には「官位十二階」の制定と、その冠位を各人に賜与する儀式が「元日」に行われていること及びその場で「十七条憲法」が発布されていることなどを考えると、この時「元日朝賀」のような儀式が行われていたものと見られ、このことは「元日朝賀」という、「日神」を奉祭している伊勢神宮において重要と考えられる儀式の黎明が、『推古紀』ないしはそれ以前にあることを示しているといえるものではないかと推量されます。これらのことは、「伊勢神宮」の「行事」が全て一概に「天武朝」に起源を求められるものではないという可能性が高いと思われると同時に、「宮廷行事」に先立って「伊勢神宮」の行事が形作られていったという可能性をも示唆するものです。

 ところでこのような「節」の行事を過たず行うためには「暦」が必要です。「伊勢神宮」における行事にも「暦」の使用が前提となっていったものと思料されます。それは「式年遷宮」という行事にも現れています。
 これは「神殿」を二十年に一回作り替える行事ですが、当初は「十九年に一回」という周期であったことが明らかとなっています。この「十九年」という周期は「章」と呼ばれ「太陰暦」つまり月の運行と太陽の運行のずれが収束する年数とされています。その起点は十一月朔であり、この時点で冬至になる日を始まりとして十九年間が一サイクルとなっているのです。
 「式年遷宮」が当初十九年に一回であったとすると、太陰暦に基づいてこの儀式を行っていたこととなりますから、伊勢神宮の祭祀の重要な部分は太陰暦の存在と切り離せないこととなります。


(※1)増田修「『倭国の律令』筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」市民の古代第14集1992年市民の古代研究会編
(※2)曾我部静雄「日中律令論」吉川弘文館
(※3)三宅和郎「古代伊勢神宮の年中行事」慶応大学学術リポジトリ


(この項の作成日 2013/09/08、この項の最終更新 2015/03/23)(ホームページ記載記事を転記)


「難波朝」と「軍制」

2018年05月10日 | 古代史

 『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。
 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。
 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。すなわち、「戸」-「保」-「里」という「戸制」の体系と、「兵士」-「伍」-「隊」という軍の体系とが対応しているという考え方です。
 このことから「一戸一兵士」という「徴兵」の基準があったとされるわけですが、これに対しては『軍防令』の「軍組織」はもっぱら「唐制」によるものであり、それもかなり後代に取り入れたものであるのに対して、「戸制」の制度については「五十戸」制等が「七世紀後半」を示す年次を伴った「木簡」から確認されるなどの点においてかなり先行するとされ、『軍防令』と「戸制」の対応についてはその意味から疑問とする考えもあるようです。

 確かに「唐制」には「府兵制」という制度があり、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」を徴発し、それが五十人で「隊」を成し、さらにそれが四つ集まると「国」となるとされ、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされていたものです。
 「我が国」の『軍防令』についてはこの「唐制」を「模倣」したものであって、上記のように「戸制」との関連づけを認めないという考え(反論)もあるようです。
 しかし、「軍防令」が「唐制」によるものであり、『大宝令』以降に定められたものであるという考え方は、「六五〇年後半」から「六六〇年前半」という時期に、「百済」を巡る戦いに際して「倭国」から大量に「軍」を派遣していること、その時点では「軍制」が存在していると考えざるを得ないことと「矛盾」しているといえます。
 「軍制」等「軍事」(軍隊)に対する何の定めもなかったとすると、「軍」を編成して国外に派遣するなどのことが可能であったとは思われません。このことは「当然」それ以前から「軍制」があったと考える必要があることとなるでしょう。
 そこで注意すべきものは「難波朝」以前に(「評制」施行以前)「八十戸制」から「五十戸制」に変更されている点です。
 
 『隋書俀国伝』で示されているように「倭国」では「六世紀末」の「遣隋使」派遣以前という段階において「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたものと見られます。そこでは、「伊尼翼」という「官職」様のものに「属する」として「八十戸」という戸数が示されています。この「伊尼翼」や「軍尼」というような「官職制度」は現在全く残っておらず、また「八十戸制」についてもこれが「どのような」制度のものなのか、「いつから」「いつまで」続いていたのかという重大な部分が欠落しているのが現状であり、これについては明確な「国内資料」(「金石文」「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっています。
 また「五十戸制」の始源が「隋」「唐」にあると考えられることから、「五十戸制」そのものは「遣隋使」以降であることは明確と思われ、「六世紀末」がその始原の時期の上限として考えられます。
 少なくとも「飛鳥京」から発見された遺跡から「大花下」木簡と共に出土した「白髪部五十戸」木簡からに「己酉年」という表記があり、これは通常「六四九年」と考えられていますが、上の推論から云えば「五八九年」という可能性も考えられるところです。
 
 またこの「戸制」について「改新の詔」の中に「仕丁」の徴発基準として「旧は三十戸」という表記があり、この事から、「五十戸制」以前は「三十戸制」であったと考える向きもあるようです。しかし、『隋書俀国伝』に示された時点(これは実際には「開皇年間と思われることとなったわけですが)という段階での「八十戸制」を疑うことは困難であり、そう考えると「阿毎多利思北孤」の制度改革により「国県制」が施行された段階(六世紀末か)で改定されたと考えるしかなくなるわけですが、この時の「阿毎多利思北孤」は制度改革の多くを「隋制」によっており、その「隋」に「三十戸制」というような「編戸」が存在していなかったと見られることから、この段階でそのような改定を行ったと見ることはできないと思われます。
 また、このように「戸制」が「行政制度」の一環と見れば、より「網」が細かい「三十戸制」が「五十戸制」以前に成立していたとは考えにくいといえます。そのような制度確立には「強力な」王権が必要と考えられ、そのようなものがこの「倭国」に出現したのは「阿毎多利思北孤」及び「利歌彌多仏利」という「初めて」「倭国」を統一したと言えるような「権力者」が現れた時点がふさわしく、この「六世紀末」という段階で「隋」から「五十戸制」を学んで「施行」されたと考えるのが最も合理的と思われます。

 このように「隋」から各種の情報を得ていたわけですが、その「隋」には「評」という制度・官職は存在しておらず、あきらかに「評制」は「隋」からではなく「半島」からの情報に拠ったものと見られます。それは同時に「七世紀初め」という時期からかなり異なる時期の施行である事を示すものと思われます。(相当以前から「評制」は「一部」ではあるものの、国内に施行されていたと考えられる)
 その「評制」については「軍事」的要素が強いとされますが、そうであるなら、その「評制」の軍事的意義が強調されるようになったのは「五十戸制」及び「戸籍制度」が「隋」から導入された以降のことではなかったかと考えられます。
 そもそも、これら「人民」を「兵士」として徴発し、動員するためには「戸籍」の存在が「必須」ですが、「岸俊男氏」の研究(※)によれば、「大宝二年戸籍」による「女子」年齢別人口は「十歳」ごとに人口が増加しているように見え、これは「十年ごと」の改籍の際に一括して追記された可能性があるとされています。
 その中の「生年」で見てみると女子の人口が多いとされるのは「六三一年」から始まり(このことからその十年前にも造籍が行なわれたものと推察できます)以降十年ごとにピークが来ます。
 しかし、これらの「戸籍」に記された「干支」にも「六十年遡上」という可能性が考えられ、女子人口の「ピーク」の最初のものは「五七一年」ではなかったかと考えられ、それは「五六九年」に「吉備」の「白猪」という地区において「丁籍」が確定したらしいことが『書紀』に書かれていることと関連していると思われます。

(五六九年)卅年春正月辛卯朔。詔曰。量置田部其來尚矣。年甫十餘脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者。王辰爾之甥也。檢定白猪田部丁籍。
夏四月。膽津檢閲白猪田部丁者。依詔定籍。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。尋拜田令。爲瑞子之副。瑞子見上。

 ここでは十歳以上について「籍」から脱落している例があるとして、「戸籍」と現実の家族関係を照合して「確定」させる作業が行われた模様です。これを初めとして各地区に「戸籍」が作られていったものと思われ、「筑紫」においても同様に「戸籍」が整備され「班田」の関係で女子についても登録が行われたものと見られ、それらの作業によりデータの上で人口ピークが形成されることとなったと思われます。
 この時点(五七一年)付近では当然「遣隋使」以前ですから、「五十戸制」はまだ導入されておらず「八十戸制」であったものと見られますが、その後「遣隋使」以降「戸制」の制度に「軍事」的意義が付与され、「軍制」と関連させられることとなったと考えられるものであり、「常備軍」の創設が行われたものとみられます。

 「評」の戸数については、『常陸国風土記』に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、それは『隋書俀国伝』から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七百五十~八百」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八百人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」に「折衝府」的意味合いが持たされるようになったということではなかったでしょうか。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して「一戸一兵士」という基準が国内に適用されていたと考えられるものです。
 また、『持統紀』に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。

(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。

 以上のことを想定すると「百済」を巡る戦いへの派遣軍について了解できることがあります。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 当時の軍が「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけですが、この「九千人」の根拠が「評」の戸数と関連していると見ることができそうだからです。
 なぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定があり、そのことからも明確となっていますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないでしょうか。
 つまり、後の『軍防令』では「軍団」は「千人単位」ですが、この「難波朝」時代の「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるものです。

 以上考察したように「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。
 つまり「一隊」が「一里」に対応していると考えられるわけであり、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねません。 
「一里八十戸制」時代は「軍制」の規定が「未整備」であったと見られ、その結果「八十」をかなり上下する里もあったものと見られます。(つまり八十という数字は「平均」に近いものか)
 そのような場合「仕丁」の徴発基準を「八十戸から二人」というように「固定的」に考えると、実際に徴発される「仕丁」の数は「里」ごとに「不均衡」というより「不公平」が出る可能性も考えられます。
 そうならないようにするには「八十戸以下」の場合はどうするか「八十戸を超えたら」どうするかを決めておく必要があるわけであり、もっとも合理的なものは「三十戸」から一人と決めることだったのではないでしょうか。
 こうすると九十戸ある場合は「三人」出せば良いし、「六十戸」から「九十戸」の間は二人、もし「六十戸」以下ならば一人というように「柔軟」な対応(徴発)が可能となると思われます。


(この項の作成日 2012/08/12、最終更新 2015/10/04)(ホームページ記載記事を転記)