JAHPON LAND( Pucci )

スケートファニチャーやステンドグラス作品などJAHPON.comとして活躍する作家 土屋隆亮(プチ)のメッセージ!

ドラえもんのノドちんこ

2007年05月31日 | Weblog
最初にドラえもんをステンドグラスで作った時、あえて資料を見ずにデザインしました。後に藤子プロとのオフィシャルの仕事になる時に、そのドラえもんのノドちんこが問題になりました。話を聞くとテレビ放送開始時の超初期には確かにノドちんこが描かれていたそうです。「あの黒いU字型の穴に吸い込まれそうで恐い」という苦情により、口の中はベロだけに修正されたそうです。さて、おれのイメージに その黒い穴がしっかり焼き付いていたのは、そこが好きだったからです。小学校低学年の頃放送が始まり、おれは母親に尋ねました「あの口の中にある黒いの何?」母親は「ノドちんこよ、あなたもあるでしょ」みんなのノドちんこを見てまわり、鏡で自分のも確認して大変感激したのです。「ロボットなのにノドちんこまで付いてる!」という驚きと、「黒いものを描いて有るのに無い所を描いてあったなんて!」という驚きです。テレビ放送のオープニング映像なんてドラえもんの口の中にドラえもんが座っていて、そのドラえもんの口の中に又ドラえもんが...とズームされていく!とかサイケデリックでパラレルな世界が満載でしたから、刺激的で夢中でした。絵を描くのが好きで、体の半分が想像のドラえもんの構造図みたいなものや、ひみつ道具の詳細を描いては独自の図鑑本の様なつづりを作ってしまう程です。だからノドちんこはドラえもんの命の様な大切なパーツです!あれが無ければ大きな口のドラ声で歌も歌えないでしょう?飲み込まれそうだなんて狂ってるよ。男も女も誰にでも付いているもので、ぶらぶらと不思議なかわいらしい形、しかも名前もチンコだし最高でしょう。人間にも必要な物かよく解らないのにロボットには絶対に必要無さそうなのが面白くて、ドラえもんとノドちんこは絶対にセットです。ところで当時おれは野比太に憧れていました。表面的には ぐうたらで駄目な子に見えるけど、素敵なあったかい清い男という事は子供ながら見抜いていました。知り合いの母親は「何でもロボットに頼る怠けるマンガだから見るな!」と言って見せてもらえなかったそうで、驚きと残念です。遠い記憶で、写真に写る前には鼻を小さくつまむ癖がありました。野比太の鼻に写りたくてジャイアンの鼻にだけはなりたくなかった...と覚えています。本当に小さめの鼻になれたけど、今思うと大きくても良かったのにと、少し後悔しています。最新のドラえもんには、あの真意が込められているのか?疑問です。無駄でも新たに作らなければ仕事が足りないのか?ものの順序に不審を抱く時代です。

親父とドラえもん

2007年05月30日 | Weblog
1994年革命的なステンドグラスを創りました。キャラクター的な悪魔,クマ,赤ちゃんのデザインです。本格的な建築用の技法で作るので親父に教わりながら作業していたのですが、親父の機嫌はすこぶる悪いのです。親父曰く「こんなマンガをステンドグラスで作るなんて、高級なステンドグラスの品位が落ちる!」と、デザインが気に入らなくて怒っていたのです。そんなギャップが狙いだったので、おれとしては順調な良い反応だと思いニヤニヤしながら作ったのです。次にドクロの立体のランプを創りました。この時の親父の反応も「何でこんな不吉なモチーフを作るんだ!」と不愉快です。母親は「色がハデハデで恐くないねぇ」と認め始めていたので、更に頑固親父は「ドラえもんみたいなもんばっか作って、全くバカバカしい!」と言ったのです。おれも負けず嫌いなので本当にドラえもんをステンドグラスで創ってしまったのです。ステンドグラス独特の味のある青い頭は、親父の何かのスイッチを押した様で、ニヤニヤしながら「なかなかいいじゃないか」と、更に「時代に乗って変わって行かなければ生き残れないな」と、会社の方針自体も新しいイメージを追う様に柔軟に変わったのでした。おれは そうだよそうだよ!と勝った気分で満足でしたが、はっと気付き、柔軟になった親父の方がすごいな!と改めて尊敬し直したのです。やはり親子というのは、いつまで経っても親子なものですが、こんな関係になれるとは子供の時には想像していなかったので、会う時は新鮮でニヤニヤしてしまいます。ある時 実家のローカルなテレビの取材があり、親父が出演して将来の夢を聞かれたのです。「ステンドグラスはキリスト教の教会が多いけど、うちは仏教なので仏壇の阿弥陀様を奉る神殿をステンドグラスで造りたいんです」と答えていました。流石おれの親父です!聞くとジョークだったらしいけど、いつかおれが建ててやろうじゃないか...と、おれの夢にもなってしまっています。ARTとしてのステンドグラスをとことん追求しようと思ったきっかけは、こんな親父とのやりとりのおかげでしたし、今も訳が解らない作品の技術的な相談や製作に何でも協力してくれるので、いつまでも親父にはかないません。とうさん、ありがとう!

ローカル鬼ゴンズ

2007年05月29日 | Weblog
80年代末 ストリートパフォーマンスとアートがおれの中で合致した時、スケートボード界にヒーローが現れました。マークゴンザレス大先生です。独創的なトリックの発明や独特なタッチのドローイング、自由な子供のままの無邪気な発想や ハっとする名台詞は、おれ等キッズ達を笑わせたり感動させたりして人生の楽しみ方を導いてくれました。当時雑誌のインタビューで、絵を描いてくれと言う企業の依頼を断る理由を聞くと「みんな、自分の為に自分で描けばいいんだよっ!」てなことを答えていて、アートに関わりかけていたおれは大感動してしまったのです。ヘリングですらそんな名台詞は残していません。やはり本当の大先生は自らを大先生と自覚しないくらい謙虚な自然体で楽しんでいるんだ!という発見もつくずくでした。誰にも金で手に入らないゴンちゃんは夢の様で極端でしたが 大事な何かを教わりました。やがておれ等も現実を知り、金との折り合いのつけ方も覚えましたが、あの言葉は忘れられません。今では人気が膨らみ過ぎて当時以上に企業からも持ち上げられてしまいますが、ゴンちゃんはあのゴンちゃんのまま人生を楽しんでいる様です。有名になりたい名声欲と純粋に楽しみたい欲との葛藤が、おれの中にも常にありますが、求める有名の規模に個人差があると思います。探偵ナイトスクープという関西TV番組でパラダイスと呼ばれる地方の変わったテーマパークを取材するコーナーが昔から大好きでした。実家の近所にも変態的な彫刻を庭に創り続ける人がいて、田舎だし変人扱いだろうけど、変に気取ってARTしていない謙虚な規模とリアリティが最高の芸術家だと思いました。図々しくアピール出来るハリウッド的なグローバル感覚を植え込まれて憧れて来てしまったけれど、都心で認められた物が絶対にイケてる訳では無い事 つまりトレンドやメディアの言いなりな感覚は薄っぺらく危険で、本来持っている楽しむ感覚を鈍くさせていると焦っているのです。この海外至上主義的な感覚は敗戦国ならではの劣等感も理由だろうけど、そろそろ自分達の百姓の感覚を取戻して自信を持って楽しもうよっていう時期だよね。海外旅行なんてちっとも行きたくないよ。廊下にグローブあるよ。

アンサーアート

2007年05月26日 | Weblog
16歳の時、上京して美大を目指そうと予備校に通い始めました。スケートボードに狂っていたおれは、ストリートパフォーマンス的な自己表現の素晴しさは趣味のモノで、ARTとはまだ繋がっていませんでした。革命は突然起きたのです!予備校の資料本の中に東京芸大卒業制作展の図録があり、退屈にめくっているとド肝を抜く作品の写真があったのです。バリバリの暴走族ヤン車ロケットバイクそのものでした。目から花火が出たみたいに白くなって、特攻服で制作してる作者の夢を見ました。仲間には呆れられ、教授には叱られている妄想まで見えました。その頃ウォーホルやヘリング、デヴィッドバーンに夢中だったおれは、「これこそがARTだ!日本にあった!!」と震えました。現代美術としての構造だけでは無く、偏見なく見て美しいフォルムが正に彫刻です。それからというもの私物的なカスタムと芸術活動が完全に繋がり、どちらかというと美術館よりもストリートに存在する方が意義があるのではないかと思う程、感覚が流動的になりました。それからは勉強や研究に励み、遂に1993年にパルコで発表したカスタム三輪車のシリーズがデビューしました。このような「芸術的な衝動が大衆化して特別な物では無くなる」流れは、おれやウォーホルやヘリングによる成果では無くても自然に誰もが自己表現する時代に進みましたが、ある日 若いアーティストから「昔、作品を見て勇気を貰いました」と嬉しい言葉を発表から5年くらい経って貰いました。これは、あの芸大のヤン車の先輩の衝撃の再現だな...と想い、おれもいつか未だ名も知らぬ先輩を探し出して感謝を伝えたいなと思いました。本当の芸術作品というのは、このように革命になるレベルで創らないといけないな!と改めてつぶやき、がんばります!と特攻服の先輩に胸の中で誓いました。影響を与え合う事って素晴しいはずのコミュニケーションだから、ネタやコピー パクリとは違う、アンサーソングの様に衝動のストーリーやルーツを正直に明かす事もいいよね。言わなくても本質や真意は見えるけど、見ない人が荒すから。

太古からの妖精ダミアン

2007年05月25日 | Weblog
15年程、陸亀と生活を共にしています。名前はダミアン 悪魔の子です。無事に冬眠を終えて今年は特に元気が良く、発情期なのではないかと思います。ダミアンの行動は完全なる天然宇宙です。部屋を自由に歩かせていて、意外にも足が速くて驚かれます。性格も明るく人なつっこくて、ちゃんと顔を見てきます。面白い事に一人で遊ぶのが好きで、同じ遊びを眠くなるまでやっています。今年の流行りは、食器棚をつるっと引っ掻いて滑ってお腹で着地?の繰り返しで、同じ扉でいつもやっています。開いていてもやるので、ただ向こう側に行きたいという主張では無い様なのです。相撲取の鉄砲に近いのかもしれません。他にナイスな遊びはダイブです。はまってる時期には、同じ高台に登ってはズルズルどしん...と延々繰り返していました。毎回、腹が台の角でシーソーになった時のスリル感と、着地した時の表情がたまらなくて、ずっと眺めて楽しめます。ある日、目を離していたら三階のベランダからダイブしてしまう!という危険な事件が起きたのですが、流石ダミアン不思議な事に無事だったのです。おれは半べそでパニックでしたが、ダミアンは懲りずに同じダイビングスポットに行こうとするのです。飛べるのかな?UFO?フェンスでガードしましたが、想像を超える腕力の懸垂で何処でも登ってしまいます。他にも不思議な事は多く、脳波を読み取る様なカンはお互いのテレパシーを感じます。最近強く師事してる中沢新一先生が説く超越性への窓口としてダミアンとの触れ合いはぴったりです。手塚治虫先生は昆虫を通して超越性を引き寄せていた様ですし、理解出来ない意味の解らない世界感を身近に感じている事は、意識的になり過ぎるおれには特にバランスがとれて調子いいです。世の中にはそんなカタチの無い精霊が服を着る様に、殻や甲羅をまとって現れますが、常識や意識、観念などから外れる「狂ってる」なんてゆって認めない、押さえ込まれた精霊たちが無限に存在する筈です。そんな先輩たちを受け入れられる様に人間がなれたなら、我々も解放されて本来の力への帰り道を取戻せるんじゃないかな?オ~マエ~ワ ホ~ント~ニ ワ~ルイ~コダ~~ ダ~~ミア~~~ン

トミーゲレロ病

2007年05月24日 | Weblog
トミーゲレロ病という病気を持っています。今や言わずもがなのクールなギタリストですが、スケートボードの歴史には欠かす事の出来ない存在です。映画ポリスアカデミー4 や、パウエルのビデオ映像に衝撃を受けてスケートボードにのめり込んだ人にとっては神であり、おれにとっては救世主でスケートボードとセットになっているのです。さて、単純にファンなら病気とは呼びません。複雑な愛憎劇の様に崇拝し過ぎて体調も壊す程です。症状が出るのは来日の情報が入った瞬間からで、会えるチャンスの招待状でクラクラになり、食事も摂れずげっそりします。原因は妙な近さです!西海岸カルチャーに関わる知り合いが多いので、来日すれば当然会食したり遊んだりという話を聞いてしまいます。ジェラシーそのものですよね。かといって食事なんて誘われたならそれこそゲレロっちゃいます。(ここで駄洒落にイラっとした人は病気予備軍です)これは分裂症の症状に見られる「大好きで大嫌い」に近く、愛情と殺意が同居してしまう状態だと分析しています。思いが強くなり過ぎると、ジョンレノンやウォーホルを殺めてしまう様な心境に成り有るという危険性を自ら体感してしまったのです。当の本人は普通以上にシンプルな飾らない人で、こんな病人にも気さくに話してくれるナイスガイです。例えるならば「グンゼに月星シューズ」で、そこがまたたまらない魅力なのです。どうしてもおれは、この平成の時代に未だに外人コンプレックスが潜在している ど日本人で、行動や服装に合致しないTSSBツーシャイシャイボーイなのです。体の毛には自信があるけれど、どうやら心臓には一本も生えてない様で、フランクにハイタッチや拳をあわせる挨拶などを、知ってるけどスムーズに振舞えません。拳を出されて慌ててパーで握ってしまった事もある程です。とにもかくにも、危険なので来日しないでほしいと願ってしまいます。こんなに誰かを崇拝してしまった事ってありますか?それもこれもスケートボードの魂のしわざですね。BORN TO SKATE SKATE TO BONE ボードのお棺にボードの墓石でスケートパークに眠りたい。

廻り廻って鼠の嫁入り

2007年05月23日 | Weblog
本当に大事な人には文句や注意を言ってしまいますよね、あれ全部自分の事なんだよね。ヤンキー先生って自分がやって来た事ばっかり注意するでしょ、ドラッグ撲滅運動の活動家が元ジャンキーだとか、刑務所で反省して 反省しすぎて怒りだしちゃうとか。当事者の気持ちが解るから親身になって相談してくれたり、活動が成り立つのは解るけど、「好きな事やっても反省すればいいんだ。」と、キリスト教の簡単な懺悔に似て見えてしまう。「おまえに言われても説得力ないよ!」て言われてもしょうがないよね。活動して少しでも自分と同じ過ちを減らせば、自分の罪が減るのか。問題はやり方なんだよね。本当に活動の効果を出したいなら徹底して自分がしてきた罪は隠すべきだと思います。悪い事した奴が堂々とテレビに出てエラそうな事言っちゃうってことは、完全に開き直ってるよ。経験者の看板は無しだな。本当の反省なら必死で隠すか、恥ずかしくて表に出ない筈。結局、誰もが自分の欠点を他人に見つけてイライラする。この法則を意識しているだけで、他人との接し方が大分柔らかくなれると思うのです。「まわりまわってねずみのよめいり~」背中の自分と戦う、こんな映画が昔ありました。自分のコントロールですら四苦八苦してるのに、他人をコントロールするなんて無理です。それぞれが自分で何とかするしかないわけだけど、「ああ、自分の欠点をさらけ出して注意してくれてる!」という見方で怒られれば、にやにやしながら、ちょっと気を付けようって思えるかもしれません...なーんて上手くは中々いかなくて、感情的になってしまうものが「人間だもの」だもの。さて、こうして論じているこの話自体が、実におれの反省的な話で、ちょっと最近イライラしてしまった自分に向けて書かれていた訳です。ふりだしにもどる。

イメージングボード

2007年05月22日 | Weblog
スケートボードに乗った事はありますか?その時頭に乗ってるイメージが浮かびますよね、そのとうりにやれば出来ます。構造がシンプルで、そんなイメージングの力が即かたちになってしまうのがスケートボードなのです。念力で走っていると大袈裟に言えます。少し具体的に説明します。コンクリートの縁石をトラック(車軸パーツ)でゴリゴリと擦るグラインドという技があります。ウィル(タイヤ)で走っている時とは違い、コンクリートの抵抗を受けているのでボードは止まろうとします。止まらない為にはグラインドのイメージをしながらその姿勢をとらなければなりません。「すすめー!」という足です。もしもイメージしていなかったらコンクリートに乗り上げてしまった事故と同じですよね、酷ければ自分だけ飛ばされます。成功したイメージの体の動きをすれば夢が現実になるのです。初めてスノーボードを体験した夜、滑る感覚が残っていて布団の中に何度も体が滑り込み顔が潜って苦しかった事があります 何が動かしているのか?つるっと足が布団から滑り出てしまう不思議現象です。その逆を辿るのです。成功する体感とイメージのカンがぴったり合わさってゆくと、何でも出来る気分になれます。「やればできるんだ!」の大きな革命が、おれにとってはスケートボードだったのです。達成感は挑戦しなければ絶対に味わえないし何も始まりません。赤ん坊な人間が全ての事に挑戦して生きて来れたのは、この「欲」のおかげです。おれも欲との葛藤をよくしているので欲を悪者に仕立てがちですが、こういう見方をすると「何て偉大なる欲なんだろう!」と賛美してしまいます。チャレンジャー欲に どうしてもアメリカ的な野蛮なイメージがついてしまいます。過剰なその欲はエンターテイメント性が高くて驚きの刺激が楽しいんですが、ど日本人のおれはひやひやして指の隙間から見てしまいます。日本の様に四季の無い砂漠で育ったから、相当暇だったのかな?過酷だったからかな?不可能を可能にして来たこの素晴しい人類のパワーだけど、不可能のままでいいもんもある気がするから、また葛藤してしまうなー。GODをつくった人たちだから宇宙一を目指すんだろうなー?あなをそろしや。

岩山かレンガか

2007年05月19日 | Weblog
ダヴィンチコードや都市伝説で取上げられて認知した人も多いでしょうが、誤解したフリーメイソンが広まってしまった感じがして残念です。今に始まった事では無いのですが、昔から謎やオカルトなイメージから悪い集団として扱われて来ました。その高度な思想の純粋さを初めて知った時、感激して目が潤んでしまった程です。宗教とは別に道徳的な生きる知恵を哲学する会で、男らしい真面目さです。方法として象徴的な記号や絵を使うのですが、精神世界をデザイン化して幾何学的に精神を高めるやり方は 実に文明的です。対して世界に広く点在する毒などを取り入れてトランスするやり方では、自然の力を借りている以上、自然寄りの回答を得るでしょう。人間に生まれてしまった事を諦めずに、何をすべきか自力で考える思考の中の「例え」が優れています。人間が安定して暮らせる社会,都市を城とします、一人一人には何かやらなければならない役目があるはずで、仕事つまり生きる目的を持たなければ、城で生きる以上 社会に迷惑をかける事になります。一人一人はレンガの石に例えられます。まずは、どこの部分のレンガになるかを見つけて、一生かけて自分の体を磨き、役割ピッタリのレンガを作り上げましょう!という哲学です。城は無人で、おそらく魂が住むのでしょう。それでは松本零士先生の999におけるシステムのネジと同じじゃないか?と違和感を感じるかもしれませんが、秩序のある社会無しに人間は暮らせません。奇麗ごとを言う奴はジャングルに帰らなければなりません。あくまで能動的な世界で、その事にまだ気付いていない人は 巨大な岩山の部分に例えられていて、まだ独立した石にすらなれていないという事です。岩山の方がよっぽどシステムのネジに近いじゃないですか?欲を持った人間なら、欲もコントロールしながら秩序を建設しましょう!という真面目さを馬鹿にしてはいけません。本来のフリーメイソンの教えは、その知恵を逆手に取ったコネクション集団では無いのです。文献も少ないですが研究すれば入会しなくても得る物が沢山あります。無の白に向う禅とは対極しますね。それにしても寂聴さんでも欲をコントロール出来てるとは思えないから。人間は到底白くは成れ無いのカモね。

三つ子の魂千まで

2007年05月18日 | Weblog
「三つ子の魂百まで」ということわざ通り、感心するほど人間の心は大きく変身しません。小さかった頃の自分らしいエピソードを思い出すと改めて自分を知ったり、注意すべきポイントを見つけられたり、何より面白いです。これは、おれの小学校初登校の時の出来事です。近所の空き地に集合して3キロ歩いて登校する「集団登校」の地区でした。集合時間ピッタリに空き地に出たおれは、誰もいない事が不安になり「やばい、おいてかれた!」とダッシュで学校へ走り出したのです。いくら走っても自分の班は見つかりません。しばらくして母が自転車で追いかけて来たのです!まだ集合していませんでした。班の友達が集合場所におれが来ないので家に迎えに来たそうです。無事に班と合流したおれの顔は真っ赤だったはずです。不安になるとすぐにテンパり 汗がジャージャー出るおれは、まわりが見えなくなって大抵とんちんかんな行動を始めてしまうのです。迷子かと勘違いして走り出すおれの姿を間近で仲間が見ていたり、未だに同じ事をしてしまいます。地図を見て車を運転している時、曲がるべき大きな道の1本手前の道で早合点して曲がってしまう癖があります。どう考えても細い道に曲がってしまうと みんな大笑いですが、そんな自分は情けなくて笑えません。曲がりそびれた方が正解を知れて安全です。行動が早いという面では褒められますが、とんちんかんな早さは迷惑をかけます。「よく考えて行動しましょう」と常に自分に言い聞かせて、不安にならないように準備をしっかりする事を心掛けている毎日です。人それぞれに眠っているこんな三つ子の魂エピソードを聞くのが、おれは大好きです。人間の寿命がたとえ千年あったとしても、みんなまだまだまだまだ子供です。大人になったからって、成長は体だけで、心は何一つ解決しない事ばっかりだし、まともな大人のふりしてる奴だってよく見れば ほら、みんな子供の顔に見えてくるよ!

美容整形で世界平和

2007年05月17日 | Weblog
中学生の時「それじゃあ社会に出て生きて行けないよ!」と先生に叱られた事を鮮明に覚えています。クラス内のイジメを目の当たりにして解決の為に悩んでいる時、見て見ぬ振りをしろと言う、初めてのはっきり大人を疑う事件でした。「街を歩いていて向こうからヤクザが歩いて来たら道を譲るのよ!」廊下で偉そうに説く女教師に半べそで叫び反論しました。「お前みたいな奴がいるから社会が腐ってんだー!」と熱血。思い返すとお互い極端だったけど、そんな教育ってないよね。宮沢賢治に憧れているんだけど、信念や思いが強すぎて戦争にのめり込む時期が実はあるのです。その後、童話に思いを込めて表現する様になるのですが、実に納得がいきます。先日テレビで爆笑問題の太田君が「戦争になったら、あなたは戦えますか?」と訴えている姿に感動しました。おれも行くよ!時代は平和ボケで自分さえ良ければいいという自分勝手で溢れて、面倒な事や汚い仕事は遠のける。反対するパネラーの女が「戦争はしちゃぁいけないんですぅー」だって。ああこれが世論で社会というものだなぁと、目頭が熱くなりました。戦争の根源を見てしまった気がしたのです。戦いはある意味必要なもので、人間がぶつかり合うのは健康的ですが、卑怯とか野蛮な感覚こそが、ややこしく差別して世界を歪ませていると思ったのです。美容整形のCMで「もう少し鼻が高かったら...」なんて言うのがあって画面に世界平和と書かれているのです。まるで逆の、平和が絶対来ない証明の様なCMで驚きました。ふざけているのかな?全員水着のエビちゃんとかね。メディアは無差別に感覚を歪めてしまう恐ろしい宗教で、表面的な上とか勝ちとか美人イケメン等、純粋に憧れを望むだけで同時に対極する負を差別したことになってしまうとも言えるのではないか?と思います。小学校の文集で好きな言葉の欄に「直進」とガッチリ書いていたイタいおれが、もしも犯罪で報道されたらメチャクチャに言われるんだろうな、反社会的な駄目なウザい奴として。

ネガティブの毒

2007年05月16日 | Weblog
好きな映画を聞いてブレードランナーを挙げる人がいます。おれも好きだけど、サイバーな世界観がカッコ良すぎて誤解を生み易い映画です。人間らしさをメッセージとしていてもあの世界観に魅了されて、サイバーな表面だけがファッション的にコピーされて別の映画が生まれます。その時、もうメッセージには辿り着けないのです。暴力反対メッセージを過剰な暴力で吐きそうなくらいの表現で映画にしたら、暴力に憧れる人も生まれちゃうでしょう。ガンダムも作者が「メカがカッコ良すぎた。」と後悔を告白しています。鉄腕アトムに至っては、完全にテーマに関係なく多くの人が同じ未来を夢見てしまいました。こんな未来をつくってはいけないよ!という未来に。これほど表面の表現に影響され易い人間には、ネガティブな表現というのはショックの様なインパクトがあるから、注目され易いけど危険な毒になり易いと思うのです。よけいなお世話ですが、作品が良い程にそのズレにジレンマを感じてしまうのです。見出された価値としてのウォーホルの作品ですら、おれの分類では残念ながらネガティブ表現に含まれて、誤解を生み続けていると思います。もっとちゃんと作品の真意をとらえようよ!って叫ぶには無理があります。だから誤解させる方も悪いんです。そんな理由でネガティブな表現は危険で好きではありません。毒も楽しめちゃう人類には、エンターテイメントが発展すると、同時に実生活もエキサイティングになっていくのは当全です。漫画みたいに残酷な事件が漫画とは関係無いとは言えないのです。オシャレやたわむれから実際の世界も生まれてしまう事を考えると、ジョークやギャグまでもが恐くなりますが、あらゆる可能性を考慮して発表しなければ、表現は完全に自由ではありません。

ネタとコンセプト

2007年05月15日 | Weblog
大学で学んだ特別な事が3つあります。1つは、優れた芸術には構造がある!という構造主義思想、2つめは、生活にデザインは必要か否か?モノを創る葛藤。そして最後にコンセプトの建て方です。あらゆる物事には必ずコンセプトが存在するでしょう。たとえ言葉になっていなくても人間が物を創る以上考えずには動けません。その時コンセプト文が成り立っているかどうかで大変な失敗を招くのです。まず一番誤解されたコンセプトが「癒し」などの形容詞ですが、これは願望や、目的です。これに対するアプローチの方法や回答がコンセプトに近いのですが、相互の噛み合わせが悪かったり、強引だったりと、作業したい方法が欲として邪魔して結果的に嘘の文になりがちです。こうして考えると純粋に必要な物を必要な方法でつくるのは難しい事で、過去の成功例、スタイルなどの表面だけを「ネタ」としてコピーしてコンセプトの代わりにプレゼンする、順序の狂った薄っぺらい軽い時代になってきています。新しい表現だけが素晴しいとは思いませんが、金だけですか?と疑います。「世界中から便利な形のバックを見つけて来て自分のブランド名で売る。」ファッション業界にもこんな仕組のネタ泥棒会社って人気ですよね。便利な物、良い物は喜ばれるけれど、コンセプトのスジが通っていなければ「食い物にしやがって!」と恨まれるでしょう。全てがポストモダン再構築のみで成り立ってオリジナル不在と叫ばれる時代ですが、このコンセプトから地道に建設されたモノこそが、例え何かに影響を受けて似ていたりサンプリング再構築したとしてもオリジナルだと思います。コンセプトとは、つまり「なにがやりたいのか?」魂に問う このリアリティを無しにして人間は生きられないという悲しい運命なのではないだろうか。人生を終えるまでには見つけたいです。

還元会社

2007年05月12日 | Weblog
会社というのは当然のように拡大を迫られてしまうものだけど、たまに感動する「還元」会社に出会うことがあります。スケートボードを始めた高校生の頃からの老舗スケートショップ CALIFORNIA STREET です。単価が高くて儲かるスノーボードや、近所のインライン、BMXなどに浮気をせず、スケートオンリィのハードコアショップです。そのカリスマ性で通販が充実していて、通販用のカタログがフルカラーで素晴しい本なのです。無駄にカッコつけたカタログではなく、商品写真満載でコラムやニュースも充実した作品!昔スケートを始めた頃はスケートの情報が少なく、まともな雑誌も無かったので雑誌の隅の広告写真を虫めがねで見て模写したり、間違えて表記された商品名が日本中で勘違いされていたり、鎖国時代みたいでしたから。毎月毎月最新の写真が並んでいるので、暇さえあればグラフィックを眺めようと手の届く所にこのカタログが揃っています。おれが誰よりもカタログを読んでるって自信があるぐらいだから、日本中で楽しみにされているでしょう。無料で配られるこの還元こそ愛であり美しい会社の在り方だと思うのです。何のジャンルでも同じですが、特に熱いマニアがいるスケートに関わる商売って、マニアからは厳しく観察されるものです。10年程前チャーリーという会社がREALの板やDCシューズ等を代理店独占しました。売れない太めの板を仕入れない事や、ライバルの近所のショップでもチャーリーのシール付きの板を売る違和感で、当時は困惑しました。でも10年観察して、テレビCMでスケートを広めたり、イベントへのスポンサー参加など、ファッションスケーターが増えた副作用があるけど、拡大してもよく還元してくれたと言えます。まだまだおれたちのスケートボード文化は金にされ続けるだろうけど、こんな過剰なおれたちに「お前等のモンじゃねーよ!」っていう野蛮な金の亡者のポーザーに気をつけて守って行きたいです。これはスケートボードに救われた恩返しで、その愛があるやつは、みんなBROTHERです。あつくるしいです。

HARVEST

2007年05月11日 | Weblog
中古スケートボードを切り抜いて指輪やジュエリーを作るHARVESTという会社があります。一目惚れで友達になった程、魅力的な作品はボードのプライ断面のカラフルさを生かして、工芸的マニアックさで秀逸です。まずド肝を抜かれたポイントは、おれのスケートファニチャーでは元のボードを切る事も穴をあける事も出来なかったのに、彼は潔く切り、指にはまる程滑らかに磨き上げたという事にショックを受けました。「もう一度乗りたくなったらどうしよう」という貧乏性がファニチャーのシステムを作ったので、面白い程対極した愛のかたちです。あまりのショックで頭の中で何度も他の物に例えては、自分を罵倒しました。愛犬の剥製とかね。それだけ嬉しかったんです。色々なカルチャーで、世代の特徴ってあると思います。おれ等が元のイメージをひねる程度で改革した気でいるのに、若くなるにつれて簡単に破壊してくれます。ルーツに捕われる我等第一おたく世代には無い軽やかさが痛快です。ルーツ無しだと感覚的になれるしね。でも軽すぎるのもイライラするから、程があります。今の若いバンドは自由で「次、スカやりまーす」なんて普通だからね。オヤジうぜーだね。とにかく物を大事にする方法はそれぞれでも、その心は見たら解りますね。老舗スケートショップPROLINEの社長のボードには後ろのトラック(車軸部品)の取付穴がいくつもあけてあって、テールが削れて減る度に前に移動させて乗り続けた痕だそうです。かなり短い板になってる!というのが、ビンに詰めた1センチになった鉛筆みたいに感動してしまいます。やっぱりモノの価値というのは、素材でも無ければ稀少度や人気でも無い、想いや時間の様な見えないストーリーに漂っていて、商品ならば、そのもやもやが消えない様に手渡され伝わるといいんだよなあ。にんげんだもの。  HARVESTサイト要チェック→http://www.harvest-re.com