霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

赤間関街道北浦道筋(長門粟野⇒長門二見)阿川ルート

2011年01月23日 | 赤間関街道
2011年1月23日(日)

昨夜は滝部温泉でゆっくりとしたのだが、宿に到着してまず温泉に浸かり、夕食後にまた浸かり、寝る前にも浸かり、そして朝起きてまた浸かりと、温泉を満喫したのであった。お陰で足腰の疲れも無く、快適な目覚めをもたらしてくれたのは、とてもありがたいことだ。
宿からは再度マイカーで長門粟野へ向かい、今日は阿川ルートを歩いてみることにした。昨日と同じく、長門粟野駅前に車を置き、今日は一路西進する。

駅から歩き始めて僅か5分足らずの道沿いで、何やら田圃の中に動物がチョロチョロしているのが見える。よく見ると、猿の親子連れが田圃で稲の櫱(孫生・ひこばえ)を食べているようなのだ。
昨日は粟野峠で鹿の親子連れに出会ったが、今日は猿だ。鹿の親子連れはオイラの視線を感じるとサッと逃げ出したが、この猿達はオイラをチラリと一瞥しただけで逃げようともせず、無心に櫱を啄んでいた。
人間を舐めているのか、それとも空腹の方が優先しているのかは分からないが、そんなに腹の足しになりそうにもない櫱でも食べなければいけない程の食糧事情が、あるのだろうかネェ。



粟野川を過ぎてから、国道191号はここから少し山側に入るが、街道は山陰本線に沿って海側を往く。モータリゼーションの時代になるまではこの海側の道が旧国道だったようで、山陰本線の踏切を渡ってからは少し山中に入る。
やがて再度国道と合流し、阿川の海岸が見えてくる手前辺りから、街道は左の旧道へ入る。

途中に「阿川毛利氏館跡」と書かれた案内板があったので立ち寄ってみたが、写真のような石碑が建っているだけで、何の説明も書かれていなかったので、謂われも何も分からないのはちょっと不親切だなぁ。
因みに阿川毛利家は、毛利元就次男の吉川元春の次男毛利元氏を始祖とする家系で、江戸時代には毛利家に六家あった「一門」と呼ばれる家老の内の一つだったらしい。
また、七代目当主の毛利広漢(ひろくに)は、阿川の領内に郷校「時修館」を創設して、多いに学問を奨励したらしい、………てなことぐらいはせめて案内板には書いて欲しいなぁ~



阿川地区のほぼ中心部にある阿川八幡宮は、左奥の参道へ進むと、鬱蒼とした「イヌマキ巨樹群」(県指定天然記念物)が迎えてくれる。



阿川小学校を右に見て更に国道を西進するが、途中から旧道らしき道が国道の左に見えるので辿ってみるのだが、いずれも途中で行き止まりになって引き返すはめになった。
そうこうする内にもう肥中に入り、国道左手の誓念寺裏へ回ると、往時の石畳がまだ残っている。これから暫くは旧街道の趣が色濃く残る道筋で、これまた立派な道祖神が旅人を安心させてくれる。



肥中から特牛までの間は肥中街道と赤間関街道は重複しており、特牛で肥中街道と分かれて南下すると、右手に響灘を眺めながら和久地区に入る。
その先の右手が土井ヶ浜海水浴場で、夏場には海水浴客で賑わうのだが、今の時期はチョー閑散としており、かといって、冬場の大波を好むような根性のあるサーファーがいる訳でもない。

神玉小学校を過ぎ、波原交差点先の小川を渡ったところで国道から分かれて左折し、山沿いの街道を通って矢玉地区を目指す。更に矢玉から津波敷(つばしき)を経て二見へ抜けるのに、街道は杖坂峠を越えて行く。
ところが津波敷で道が分からなくなり、畑で農作業中のお爺さんに聞いたところ、『杖坂峠はナ、ここ最近人が通っちゃぁおらんから、やめた方がエエ』と言われ、この爺さん杖坂峠の通行監視をしている訳でもなかろうに…とも思ったが、まそこは、年寄りの言うことを素直に聞くオイラは、津波敷の海岸へ戻って国道を二見まで行くことにしたのだ。……エライッ!



そして昨日と同じくゴールの長門二見駅に到着し、JRでまたまた長門粟野駅まで行ってマイカーに乗り換えて帰宅した。今日は約6時間余り歩行の40,179歩だった。


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