このごろ、やっと朝のディボーション(聖書を読んで霊想する時間)と、夜の聖書通読が生活習慣になりました。
朝はだいたい、教会で9時から行われるプレイズタイムでこのディボーションを教会員の方々と一緒にします。
今日の聖書箇所で心に残ったところは、出エジプト9章15節16節の聖書の言葉でした。ちょっとそのまま書かせていただきます。(使っている聖書は「新共同訳」です。)
実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病(えきびょう)で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。
私は、4回自殺未遂をしました。
何でそんな事をしたのか・・・・。
詳しくは、このブログのブックマークの一番目「ウエスレアンホーリネス連合・山形南部教会HP」をクリックして、左の「あかし」の欄をクリックし、一番古い「なんぶきょうかい員さとうしずこさんのあかし」(何故クリスチャンになる決心をしたかを書いたもの)を是非お読みになってください。
私は四回の自殺が未遂に終わり、今所属している山形南部教会に来てまもなくの頃、岡節也牧師にこう言われました。
「シズコさん、あなたは四回自殺を図って命を救われたというのは、あなたにはまだ、この世であなたしか出来ないお役目があるからですよ。それを果たすまでは、神様はあなたを天国には連れて行かれません。だから、今救われたいのちを大事にしてください。あなたはそのままで神様に愛されているのですから」
そう言われても、ピンと来なくて、ぼーっと岡先生の言葉を聞いていた私でした。
けれど、聖書を読んでいて、一箇所、ボロボロと涙が流れた箇所がありました。
それは「新約聖書・ルカによる福音書19章1節から6節です。これも書かせていただきます。同じ新共同訳です。

タイトルは「徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイ」と書いてあります。ちっちゃなおともだちにせつめい

「ちょうぜいにん」と言う人は、ぜいきんをとる人のことなんだって。そして、このザアカイさんのなまえのいみは、にほんごでは「きよい」と言ういみで、ザアカイさんを日本の名まえにしたら「きよしくん」なんだってさ。でもね、ザアカイさんは、ズルをして、きめられたお金よりも、ずっとおおくぜいきんを取ってきらわれていた人だったんだって。
徴税人ザアカイ
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。
この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて(さえぎられて)見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りをし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所へ来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
私は、イエス様がザアカイに「降りてきなさい」と言うところで、ボロボロ涙が流れました。
もし、イエス様が木の上に居て、「上ってきなさい」と言われたら、私はイエス様を信じなかったでしょう。
私はそれまで、一生懸命、馬鹿がつくほど真面目に努力して、頑張って生きてきました。
その結果、自分の努力では、どうしても出来ないことがあることがわかりました。
その時、「燃え尽き症候群」のように、もう、力が生きていく無かった。
「ザアカイ、降りて来なさい」
降りるのにはがんばらなくていい。上るのはもう無理だけど、降りてなら行ける。
そして、イエス様と言う人が「ぜひ『あなたの家に』泊まりたい」と言ってくれる。
嫌われ者で、背の低かった(背の低いのも、実は私と同じです。私は身長153センチ。

)ザアカイは、どんなに嬉しかったかなと思いました。
それが、まるで自分のことのように嬉しくて、涙がつつつつーっと流れました。
何回も岡先生、好美先生によって、初めて南部教会に行った2001年の春から夏にかけて、この聖書箇所を聞き、読みました。そのたびに「降りて来なさい」の言葉のところで、泣きました。
もう一箇所、あまりにも有名で、私が生きている限り、お伝えしたい聖書の箇所を書かせてください。旧約聖書・イザヤ初43章4節です。これは新改約聖書の文章で書きます。
わたしにとってあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。
これはイエス様から、全世界の誰にでもあてた、愛のメッセージです。
ラブレターです。
イエス様があなたを愛するのに、あなたに対する条件が何もないのです。
ただあなた自身そのままで、「あなたは高価で尊い」のです。
「私はあなたを愛している」と、イエス様は言うのです。
無条件の愛。
そんな愛は、体験したことがありませんでした。
そして、一番最初に会ったキリスト教の牧師さん。米沢興譲教会牧師、田中信生先生に、私はこう言われました。
「シズコさん、あなたがね、キリスト教を信じても、家内安全・商売繁盛にはならないよ。キリスト教の神様はご利益宗教の神様じゃないんだ。洗礼を受けても、あなたの人生から、苦しみも悲しみも無くならない。けれども、その意味が変わってくる。あなたの苦しみや悲しみが、イエス様を信じることによって、かけがえの無い宝に変えられるんだよ」と。
こういう宗教だったらウソっぽくない。
この神様だったら、信じたい。
私はそう思いました。
そして私は、2001年の10月6日の誕生日の次の日曜日、7日に洗礼を受けました。
クリスチャンの私の歩みが始まりました。
だから、クリスチャン年齢はまだやっと7才。小学一年生です。

今日の出エジプト記9章15節16節の聖書の言葉のように、四回自殺を図った私を、神様は救わずに死なせることもおできになったでしょう。神様にできないことはないんですもの。
けれど、わたしに・・・・わたしだけにしか出来ないお役目を、神様はわたしにあったから、私は生かされているんだ。それは、私の「父ちゃん」の、イエス様のあったかいご愛をお伝えさせていただくこと、また、父ちゃんは、シズコだけでなくて、全世界の人を、自分の命を捨てるほど愛して、大切になさってるんだよー。あなたはかけがえのない、ただ一人のひとなんだよー。愛されるために生まれてきたんだよー。だから死なないで。生きてください。私もこうして、生きてるよ。そして死ななくても、必ず時が来ると、神様が御国へ・・・天国に招かれる時が来るから。
だから、もし今、このブログを読んでくださってる方で、かつての私のように「自殺したい」と思っている方がいたら、どうぞ、どうぞ、踏みとどまってください。そしてだまされたと思って、聖書をお開きになってください。近くの教会へ行ってみてください。電話でも良いです。電話かけてください。このブログにコメントを下さい。私は自殺を考えている方のために、今、生きることに絶望している方のためにお祈りしてブログを書き終えます。鬱(うつ)になって11年目、まだ癒されていないけれど、シズコはこうして、生きています。そして、生きる事が嬉しい、生きてて良かった。心からそう思います。わたしはわたしにしかできないことをやっていきたいです。それは、もう一度先生になって子供たちと一緒に勉強する事。神様が夫になる男性を与えてくださったら、結婚をして、子供を授かる事。大好きな合唱をずっと続けていく事。特に日本語のゴスペルで、イエス様のことをお伝えする事、など、イエス様に祈っています。どうぞわたしのためにもお祈りください。
わー、久しぶりに長く書いたよー。
もう10時過ぎちゃった。お祈りして寝ます。
神様、わたしの父ちゃん、今日のブログをここまでかけてありがとうございます。このブログを読んでくださった方々全員を祝福してください。もしその中で今人生に絶望し、悩み、かつてのわたしのように自殺を考えている方がおられましたら、どうぞその方にいますぐ神様、あなたが届いてください。自殺される手を止めてください。そして今すぐ「あなたは大切なかけがえのない人。愛されています。そのままでいいから生きていてください」とお話してください。その方に生きる希望をお与えくださいますように。わたしにも今日の疲れを取ってくださいますように。疲れました。ぐっすり眠れるようにしてください。信じます。感謝します。このお祈りを、御名によって祈ります。アーメン。
オヤスミナサイ。