たねまきびより ~いとえのバイオダイナミック農場日記~

小さな1つぶのたねから
ぐんぐん伸びていくその姿
ずっとながめていたくなる

脱都会!いとえ、英国の農場へ行く!

6月 バイオダイナミックについて

2011年07月10日 | 振り返り

◆Biodynamic Farmingのこと◆

~無農薬・無化学肥料~

「バイオダイナミック」ってなに??よく聞かれる。

「天体農法かな?」と私は答えている。

1924年にルドルフシュタイナーが農民に対して行った「農業講座」が「バイオダイナミック」のはじまり。

化学肥料や、農薬などを使わないので、「オーガニック」とも近いようだが、基本的な思考の中心が「地球と天体とのつながり」や「地球=生物」にあるのが特徴といえる。しかし、、、、、ここに来て1ヶ月。まだまだ「バイオダイナミック」を語るには勉強不足すぎるので、オーガニック(無農薬・無化学肥料)栽培を中心にいとえの考えたことをふりかえってみる。

 

 なぜ、化学的なものをつかわないのか?(いとえ自身、一般生産農家を否定するつもりは全くないのを最初に述べておきたい。農家経営の経験もなければ、経営を学んだこともないので、生産性や、経営効率の話は避けて話をすすめていくことに目をつむっていただきたい。)

 「オーガニック??なにがいいの?高いし、不揃いだし、ムシくっついてるし」そんな声をよくよく耳にする。

今一度考えてみたいこと「食べ物ってなんだろう?」ってこと。

わたしはサプリメントだけでは生きていけない。たとえそれが「栄養バランスばっちり☆」とうたっていても、パッケージの裏側を見たときに化学的なカタカナがいっぱい並んでいるのを見たら、わたしはそれがヒトの身体に良いものだとはどうしても思えない。

 

ヒトが1日365gの野菜をバランスよく食べてビタミンや食物繊維を摂るのはちょっと大変。

だから、サプリメントに頼ってみる。色んな栄養素をずっとサプリメントでの摂取に頼っていたら、どうなるんでしょう。咀嚼することもなく、内蔵が活発に活動することもなく、あっというまに身体に吸収されていく。身体の機能の低下に繋がったりしないのだろうか。っていとえは思う。

 この話を、ヒト=植物、サプリメント=化学肥料と考えてみてほしい。

植物に必要なだけの堆肥をバランスよく与えるのはちょっと大変。だから、化学肥料に頼ってみる。素早く植物に吸収されて効果覿面!

 現代社会では植物もヒトもみんな化学記号で表す事ができるようになっている(3kbの脳みそにはよくわからないけれど)。だから、きっと植物もヒトも動物も全部その化学記号が満たされれば良いことになってしまうのだと思う。

1例として「味覚」。「美味しい」と脳が感じる物質が発見されて、それが常用されているということ。これって、やっぱり不自然なことだと思う。

このままでは私たちは将来、液体のみの栄養摂取でロボットに生かされる生命体になりかねない。

 植物界ではすでにそれが起きている。液肥と人工灯のみで植物が栽培されている。

日光を求めて背丈をのばす草姿。早朝、輝く朝露。それらが見られない人工栽培からは、私は「植物のもつ力」はいっさい感じる事ができない。

 

 生命がこの世に誕生してからこれまで、生命の循環は生命によってのみ繰り返されてきたはず。私たちが生命を維持するための栄養源も生命によってつくられたものであるのが本来あるべき姿なのではないのだろうか。ということ。この点を強く主張し、この「生命」を天体規模で考え、農業講座を農民にしたのがルドルフ・シュタイナーであり、この考えに基づく農業が”BIODYNAMIC FARMING”なのだ。

 

 ここまで、「オーガニックバンザイ!!」的な内容で書いてきたが、いとえにはやはりまだよくわからない。

「健康とはなにか?」ということ。

健康的なものを摂取する事は身体に良い。しかし、我々は病気になったら「薬」を飲む。手っ取り早く効果が現れるのはやはり化学的な成分で作られた薬。果たしてそれは「健康」に対する「悪」なのか。

そして、最も疑問な事。「健康マニア」「健康フリーク」の人たちが食品の裏側を見て「あぁ、これはダメ」「こんなの身体に悪い」と食事の度にストレスを感じているのを目にすること。その度に私は健康的なものを食べて、身体には良いかもしれないけど、ストレスばかりで精神的によくないんじゃないかしら、、、。ということ。

そして、もう一つ。宅配オーガニック野菜の訪問営業をしていたときに思っていた事。オーガニックはやっぱり高く、高価な野菜を購入するには余裕が必要で、裕福な人たちは都心の無機質な高層マンションに住んでいて、自然とかけ離れた生活をしているということ。

 

 

ん~~~~。

 

まとまりません。

 

また来月。


6月  タネについて

2011年07月10日 | 振り返り

◆タネの生産◆

~分別~

この村に初めて訪れたのは3年前。

WWOOFをしながらUKを1年間旅していたときに、とあるファームがこの村を紹介してくれたのがきっかけ。

この村には数多くファームがある中で、たまたまこのシードワークショップの配属になった。

ここの名前は他のファーム滞在中にタネ袋を見て知っていたのでSTORMYHALLに滞在できると知って驚き&嬉しかった。

Stormy Hall seeds。英国初のDEMETER(バイオダイナミック農法による栽培の認定)のタネの生産者であり、オーガニックのタネでもUKでは第一人者。

WWOOFの旅をしている時に、滞在先のファームで種まきをすると、StormyHallのタネは異常に発芽率が高い。

なぜだろう。って思っていた。

Biodynamic農法と関係があるのか、StormyHallのボスがマジシャンなのか、、、、。

とにもかくにも不思議で、不思議でしかたなかった。


Stormy Hall Seeds は51種の野菜、184品種、30種のハーブ、52種の花、計266種類のタネを販売しており、内250種類はDEMETER、16種類はオーガニック(2011カタログによる)。

そのうち、Stormy Hall Seedsで栽培、採種している品種は64種類。

その他のタネは英国内、ドイツ、オランダ、オーストリア、スイスから仕入れ、改めて発芽率をテストした上でパッキング&販売している。

今回ここに1年間滞在できることになり、色々探りたいと思っているが、植物の盛んに生長するこの季節(7月上旬現在)、まだあまりタネのことにはあまり携わることができていない。

携わったことといえば、カボチャのタネの分別や、タネの袋詰め程度。

http://blog.goo.ne.jp/itoe_field/e/863a40993edfaf55bebd22e1853eeb08 

カボチャのタネの分別は機械でフルイにかけて、大小のゴミや、タネを取り除く。

そのあとは、目で確認しながら手で分別していく。

他のタネ会社はどうなっているんだろう。

大手の種苗会社が一つ一つタネを手で分別しているとは到底思えない。

やはり、人の手が1番なのだろうか。そこに差が出るのか、そうではないのか、、、、。

 

まだ1ヶ月ではなにもわからない。

これからの季節に期待

 

 

次の日記ではバイオダイナミック農業について振り返りたいと思いますが、、、、

勉強不足なので短くなるかと、、、orz

 


6月 障害について

2011年07月10日 | 振り返り

◆ 障害 ◆

~みんな障害を持っている~

障害(大辞林抜粋):身体の器官が何らかの原因によって十分な機能を果たさないこと。またそのような状態。 個人の特質としての機能障害、そのために生ずる制約としての能力低下、その社会的結果である社会的不利を包括する概念。


 この村のVillager(障害を持った方々をこの村ではそう呼んでいる)は、みんな大人で、障害も人それぞれ(身体的障害のみの人はいない)。

どの人がVillagerなのか、判らない場合も往々にしてある。

ボランティアの若者だと思いきや、Villagerだったり、Villagerだと思いきや、ボランティアワーカーだったり。

いとえはこの村の一部のことしかわからない。だから、わからないことはVillagerに聞くことも多い。英語も教えてもらっている。

パニックを起こしてしまったVillagerのことをうまくなだめられずにいるときに、他のVillagerが上手になだめてくれることもある。

ボランティアワーカーの中には片腕のない子も居る。その子にVillagerが手をかすこともある。

いとえは、今まで感じてきた『「障害者」「障害」』に大きく「?」をいだくようになった。

 

 一緒に除草をしながら、会話をしているとVillagerによっては、冗談まじりに会話をしたり、農業について語ってくれたり、この村について教えてくれたり、英語がヘタな人(私)への気づかい、失敗した人への気づかいなどなど、気配りもすばらしい。

現代社会のスピードやルールを彼らに求める事は確かに難しいが、この現代社会のスピードやルールが無かった場合、彼らは「障害者」として名前をつけられ“区別”されていたのだろうか。



 この村では、決してVillager達に過保護に接しない。

若干「冷たくない?」と感じることすらあるほどに。

でも、出来る限りのことは自分で出来るようにするための配慮なのだ

この村に来たばかりのVillagerは、この「自立生活」になれるのに時間がかかる場合もある。

「障害者」その言葉を自分の子供に与えられた親が、つい子供に「過保護」になってしまうのはよくわかる。

いとえの中の「優しく接しなきゃ」も「≒ 過保護」だったことに気づかされた。

彼らは彼ら自身でできることも多いのだ。

トラクターを運転したり、各ワークショップで機械を扱っている。

「過保護」に育てられ、「甘える」ことになれてしまうと、できることもできなくなるという。


「いとえ、これやって」「いとえ、これ助けて」と言われてもその人を見極めて返答しなければならない。

基本的に頼まれごとに「NO」と言わない性分のいとえにはなかなか慣れないことなのだが、

「え?自分でできるでしょ?ためしてごらん?」と言わなければならない相手もいるのだ。

 

 

 


 私自身も感情のコントロールができなくなることがある。

他者に対する依存度が高く、失ったときには情緒不安定になることもある。これっていわゆる「依存症」。自分自身を上手にコントロールできない「壁」=「障害」となっている。

表現したい英単語も文法もみつからなくて、会話にならないこともある。これは、言葉や文化の「壁」=「障害」なのだと。



 この村で生まれ育ちながら、Villagerを見下したような表現をする人が中にはいる。

彼らを守るための「区別(援助)」は必要だと思う。しかし、彼らを見下すような「区別(差別)」はあってはならないものだとより強く感じている。

そんなここの生活を1ヶ月を終えての私。

 

次の日記では、タネの生産(seed worshop)についての振り返り。 


6月のコミュニティーライフ

2011年07月10日 | 振り返り

◆コミュニティーライフ◆

~100人100色と、棒っきれ~

 

美しいノースヨーク国立公園内にあるBotton Village(以下Botton)。

一つの谷の中に約45のお家があり、300人を超える人が住んで村になっている。

住人は110人以上がLearning Difficultiesの方々(直訳すると学習障害。この村ではVillagerと呼ばれている)、各家に住むハウスペアレンツ50人超、それとワーカー(世界各国から集まるボランティア含)、Eurythmyの生徒やBiodynamicのトレーニーたち。

 

この村の中には仕事場がいくつかあり、Eurythmyの生徒以外は皆この村の中で働いている。

・製本

・木工

・人形作り

・機織り

・キャンドル製造

・ガラス細工

・製パン

・乳製品製造

・食品加工

・タネの生産

・複数のファーム(牛、羊、鶏)

・複数のガーデン

・ケアハウス

・各家でのハウスワーク

・カフェ

・本屋

・土産屋

 

それぞれで与えられた場所で働く。

大半の人たちが午前と午後で働く場所が違う。

 

この村での生活は基本的に個人的な収入はない。

 

週末遊びに行きたい。おやつ買いたい。お茶したい。服買いたい。

そういった普通の欲求は満たされる程度のお金は、上限はあるが申請すればもらえるシステムになっている。

 

みんな平等。

 

3食の食事も基本的にはお家で皆で揃って食べる。

←とある日曜日の夕食。

このコミュニティーライフを送りながら、感じている事。

・「平等とはなにか」

・「時間の共有&感情表現」

 

まず「平等とはなにか」

こんなたとえ話がある。

賞金1億があり、10人で何かを競う。

順位が出たとき、どう賞金を分配するのが平等か。

1 上位3位までに差額をつけて分配する

2 参加者全員に均等に分配する

3 1~10まで順に差額をつけて分配する

4 1位だけに全額を与える

とある先進国では「4」を良しとし、世の経済に競争を与え、経済成長をもたらした。

同時に貧富の差も広がる。それが良いとも悪いともいとえにはわからない。

でも、この村は確実に「2」である。

基本的に労働時間は決まっているが、それ以上に働いても、それ以下でも、

その時間内にどれだけハードに働いても、ヌボ~っとしていても、みんな同じ食事をとり、みんな同じ条件で生活に必要な金額を受け取る。

これが、平等なのか。

とある仲間に「おかしくない?」となげかけられ、このたとえ話を思い出し、考え始めてしまった。

みんな同じ。これってよいこと?それとも成長につながらない非効率なこと??

やはり、いとえにはわからない。

「みんなおなじ分配でそれでよい。個人の能力に差はある。それぞれがそれぞれの程度で頑張ればそれでよい。頑張れないのも能力のうち。」

そう思う人が納得して生活できる環境なのかもしれない。

「頑張ったら頑張った分だけ自分に利益が欲しい。」

そう思う人にはこのコミュニティーは難しいのかもしれない。

 

一つの単語に向き合うにしても、正解とか不正解とかないんだろうな。

100人100色。

 

つぎに「時間の共有、感情表現」

24時間365日、谷の中のに一つの村でのコミュニティーライフ。

朝から晩まで、誰かが必ず周囲に居る。

個人の部屋はあるにしても、隣から独り言や歌声、話し声が聞こえてくる。

我々は普段の社会生活を送る際、どう感情をコントロールしているのか。

会社での自分。友人の隣での自分。恋人の隣での自分。家庭での自分。自室での自分。

意識するにせよ無意識にせよ、それぞれは大概にして違うはずだといとえは思っている。

それが1面のみになってしまった場合。それはもろく、倒れやすいものになってしまう気がする。

イメージとしては、こう。

会社での自分が1枚の板。友人との自分が1枚の板。恋人と。家庭。自室。ここでは5つにしぼってみるけど、この5枚の板で5角柱ないし、5角錐を描く感じ。

それぞれに見えない面を持って、組み合わさって、やっと立ってる。

でも、家庭での自分も、友人との自分も、仕事上での自分も全て全て筒抜けで、常に誰かの存在がすぐ横にある場合。それって1枚板な気がする。

1枚の、たったの1面で、そこに何かが押しかかってきた場合、倒れやすくなる。

それをつっぱねるために、感情が攻撃的になる。そして、それが1面のみだから、それが全面。

やはり、人間、逃げ場が必要だと。1本の棒でもかまわない。その1枚板を後ろから支えてあげれるものがあれば違うのではないかと。

自身に余裕があってこそ、柔和な感情表現は可能であって、自身が必死に立とうとしているときは、どうしても荒立たしい表現になってしまう。

それが人ってもんなのだと。

身近な人が、倒れそうでトゲトゲ。前から向かうと、私が怪我をしそなので、後ろの棒っきれになるように、方向転換をしようと思っている。

 

 

そんなことを考えている、コミュニティーライフの1ヶ月後のいとえ。

次の日記では、障害者について考えた事を振り返ります。