正式には「旧嵯御所大覚寺門跡」と言います。真言宗大覚寺派の本山です。
心経写経の根本道場および華道嵯峨御流の宗家でもあります。
嵯峨天皇の離宮嵯峨院を貞観18年(876年)に天皇の皇女で淳和天皇皇后が寺として第二子恒良親王(恒寂法親王)第一代の住職にして開創しました。
その後、後嵯峨上皇が出家して21代の住持となり、後に、亀山・後宇多上皇が入寺して門跡寺院としての格式をおおいに高めました。
また、ここを大覚寺仙洞御所とした事から南朝の大覚寺統がおこり、北朝の持明院統と皇位をめぐって南北朝統一まで対立しました。
南北朝統一はこのお寺で行われたと言う事です。
大玄関(式台玄関)に有るのは、御籠でわなく輿です、紋は天皇ゆかりの「菊の九曜」とあまり見かけない紋です。
どのような大大名行列といえど、この籠の行列とすれ違う時は、道を譲ったそうです。(格式がひじょうに高かったのです)
やはり、応仁の乱で荒廃しましたが、信長・秀吉の寺領寄進、さらに家康によって千石の朱印地を受けて日本最古の門跡寺院として伽藍を復興しました。
(注)門跡:皇子など住する特定の寺の称。また、その寺の住職。
右京区嵯峨大沢町4
それでしたら死人・・・・・・・また、(笑)
京都人はこの位で生きていたのです。私は位は全く無。