京の中心から少し離れて丹波の国亀岡を中心に散策します。やはり丹波亀山と言えば、「明智光秀」の影響が色濃く残っています。その後、「豊臣秀吉」や「徳川家」を経て戦国期の歴史を見る事が出来ます。
京の中心も寺社と違い歴史は比較的新しいものが多いですが、何か心休まる、親しみやすい寺社が多く有ります(神社も、古く延喜式帳に記載されいるいる物も有り、あまり知られていない所も散策しました)山城国をあとにして丹波の国も見所満載です。
最初に参拝したのは「護国山」と号する「臨済宗」の「聖隣寺」です。
このお寺は「夢想国師」の五世法孫である「至円周悟禅師」により「古世地蔵ノ辻」に「栖林寺」として創建されました。天正20年(1592年)、亀山城主「小早川秀秋」が息子の菩提のために毎年寄進した、亀山五ヶ寺の一つです。
その後、現在の地に移転しました。もとは「明智光秀」が「亀山城」を築城するにあたって城の鎮護のために、丹波国分寺の守護神として「千歳町毘沙門」に祀られていた」「木造毘沙門立像」(鎌倉期作)を二の丸に移しましたがその後、城下の守護神としてこのお寺に「毘沙門堂」を建立して祀りました。
境内には「総見院殿一品泰厳大居士」と地蔵に刻まれた「織田信長」供養の五輪塔が有ります。秀吉の養子で「羽柴秀勝」が父の菩提を弔うために建立したものです。
亀岡市東堅町44
(たわごと)
中国の「たわごと」に凝りすぎました。
江戸時代のたわごとです。以前、時代劇の武家屋敷には表札は絶対かけないと記載しました。思うままに、その続きです。時代劇のシーンで、侍が急な雨に合うと、手拭を頭に載せて小走りに雨宿りをする事が有ります。あれは、絶対にウソです。侍は雨くらいで走りません。雨が急に降ると、手拭を刀の鍔元にかけて悠然と雨宿りをしたと言う事です。刀は侍の命より大切な物です。鞘に水が入り錆びないように、刀を守り、自分が濡れるのは二の次です。商人や町人は別ですが。
時代劇のウソはまたにします。
「毛沢東」の肖像画を抱えてデモする風景はもはや、反日では無いです。若者は反政府状態です。あと何年続くか、一党独裁政権が。この事で、天に唾するのは中国人、いや中国国家そのものです。
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