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日航機墜落事故から39年ー語り続けなければならないあの瞬間

2024年08月12日 18時03分38秒 | 事件と事故



日航機墜落事故から38年ー語り続けなければならないあの瞬間(2023年)(河合薫) - エキスパート - Yahoo!ニュース 

8月12日1985年


日航機墜落事故から38年ー語り続けなければならないあの瞬間(2023年)


河合薫健康社会学者(Ph.D.)
8/12(土) 8:47

(写真:Fujifotos/アフロ)
以下のコラムは2016年8月12日に公開したコラムです。


決して忘れてはならない出来事があります。



働くとは何か? 命を守るとはどういうことか? 


「私」の問題として考えていただきたくて、毎年更新しています。


お読みください。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1985年、8月12日18時56分。JAL123便が“御巣鷹の尾根”に墜落したとき、私は大学生だった。その後、ANAに入社したわけだが、「JALに追いつけ追い越せ!」という時代に、ANAのCA(客室乗務員)、キャプテン、コーパイ(副操縦士)さん、FE(フライトエンジニア)さん、整備さん……、たくさんの先輩たちから、123便のクルーが最後の最後まで、どうにかしてお客さんたちの命を守ろうと必死だった、と聞かされた。


 アノ飛行機の中で、CAたちはひたすら懸命に自らのミッションを全うすべくお客さんと向き合っていたと、幾度となく聞かされたのだ。


機長(墜落32分前)「まずい、何か爆発したぞ」


機長(墜落6分前)「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」


副操縦士「コントロールがいっぱいです」


 これは数年前、公開されたコックピットで格闘する機長たちの声。JAL123便の高濱雅己機長(当時49歳)と佐々木副操縦士(当時39歳)だ。


 まだボイスレコーダーは公開されていなかった時代に(私が空を飛んでいた頃)、どうやって先輩たちが乗務していたクルーたちの勇姿を知り得たのか定かではない。先輩たちの中には同級生がクルーの一人だった方や、親戚が亡くなったという方もいたが、なぜ、知っていたのか。 ひょっとしたら業界だけに知らされた、なんらかの情報があったのかもしれないし、ただただ自分たちと同じように空を飛ぶ人たちを、先輩たちは信じていただけかもしれない。


 いずれにせよ、「CAの最大の任務は、お客様の大切な命を守る保安要員」と何度も何度も先輩から言われ、FEさんにはたくさんのマニュアルの入った大きなパイロットケースを持たされ「重たいだろ? これが僕たちが人命を預かっているという仕事の重さ」だと教えられ、整備さんには「小さなことでも声に出して確認しながら整備しなきゃダメなんだ」と聞いた。


 どんなにすばらしい技術でも、どんなに安全な仕組みでも、最後は人。


 どんな悲惨で不幸な事故も、そこにいる人が助けられる命がある――。


そんな一人の人間としての心の持ちようを、「大切なお客さんの命を守る」というミッションを、自分たちがそこに存在する意味を、先輩たちからトコトン刷り込まれた。


 そんなある日、“事件”が起こる。


 離陸直前に、機体が激しい衝撃音とともに大きく揺れた。「間もなく離陸いたします」というチーフパーサーのアナウンスから数十秒後、滑走路を走り出した機内を、どよめきが襲ったのだ。


 なのに、私は何もできなかった。


本来であれば、「お腹に力を入れて! 頭を抱えて! 足を大きく開いて! Stay calm.  落ち着いてください!」


と、自分もそのポーズをとりながら大声で呼びかけなくてはならない。が、私は声を出せなかった。


目の前でお客さんたちが悲鳴を上げ、不安な顔で私たちの方を見ているのに、まるで金縛りにあったように身体が硬直し、何もできなかったのである。


 幸いけが人も出ず、点検後、無事出発することができたが、先輩にこっぴどく怒られたことは、今も鮮明に記憶している。


【飛行機に乗務する意味】


「保安要員である”ことが分かっていれば、なりふり構わず大声を出せたはず。あなたにはそれが分かっていない。どんなサービスをしても、保安要員であることを忘れたら、飛んでいる意味はない!」


そう、怒鳴られた。


先輩たちに何度もCAがそこにいる意味を教わったはずなのに。日常のフライトで大半を占めるサービスにばかり気がいき、一番大切なことを私は忘れていたのだ。


ただそれがきっかけとなり、皮膚の表面で漂っていた“ミッション”が、骨の髄までしみ込んだ。なんせ辞めて20年以上たつ今でも、緊急時の衝撃防止姿勢や脱出用のスライドを滑り降りるときの確認事項が即座に言えてしまうのだ。


「お腹に力を入れて! 頭を抱えて! 足を大きく開いて! Stay calm.  落ち着いてください!」と。「スライドが膨らんでいます。接地しています。急な傾斜ではありません!」ーー。


 今、コレが咄嗟に言えることが、何かの役に立つとは到底思えない。だが、今の今まで言えるくらい刷り込まれて、“ミッション”は初めて意味を持つ。自分と一体化させないとダメというのが、私の信条になった。


 ミッションは一般的には、使命、あるいは任務、と訳されることが多いが、私はミッションを、


「自分は何者で、なぜ、そこにいるのか? といった自己のアイデンティティで、危機を乗り越えるための“正義” であり、個人が働く上で欠かせないモノ」と解釈している。


想定外の危機に遭遇しても、骨の髄までミッションがしみ込んでいれば、「自分のなすべきことは何か? 自分にできることはどういうことか?」と、自らの正義に従い、危機に対峙できる。


危機の恐怖の雨に立ち尽くし、ただただびしょ濡れになるのではなく、やるべきことに徹することで、最高の選択が可能になる。たとえそれが万事を解決せずとも納得できる行動が取れるはずだ。


一方、本来のミッションが忘れられてしまうと、効率性だけが重視され、自分の存在意義を自ら壊し、本来やるべきことがないがしろにされがちである。


ミッションなくして、お客さんを満足させることなどできないし、自分自身の職務満足感も満たされない。“いい仕事”をするためにも、いい人生にするためにも、ミッションは必要なのだ。


【ミッションを貫いた乗務員たち】


 日航ジャンボ機墜落事故で亡くなった高濱機長のお嬢さんである、洋子さんは日本航空で働く客室乗務員だ。


 ご自身も遺族という立場。と同時に、墜落したジャンボ機の機長の娘であることから、事故当初から想像を絶する苦悩の日々が続いたそうだ。


 「519人を殺しておいて、のうのうと生きているな」――。バッシングを容赦なく浴びせられた。


そんな世間のまなざしに変化が起きたのは、ボイスレコーダーが公開されてからだった。


キャプテンたちの必死な、最後の最後まであきらめず、最後の一瞬までお客さんの命を守るために踏ん張っていた“声”が公開され、やっと、ホントにやっと父親が最後までミッションを全うしていたことを受け入れてもらえたのだ。


 「『本当に最後までがんばってくれたんだね』『ありがとう』という言葉を、ご遺族から頂いた時には、本当に胸からこみ上げるものがありました。涙が出る思いでした。父は残された私たち家族を、ボイスレコーダーの音声という形で守ってくれたと感じました」


 「私にとっては8月12日は、また安全を守っていかなければと再認識する、そういう一日かなと思います。父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、新たにそう自分に言い聞かせています」(洋子さん談)


 機長が守り続けたモノ――。それはお客さんの命であり、家族であり、機長の正義だった。


 ついつい責任追及を恐れるあまり、自らのミッションから目を背けてしまうようなことが、現実にはある。見て見ぬふり、気付かないふり……、そんなことをしてしまうことだってある。


 だが、自らの正義を信じ、自分たちを信じ、腹の底からマジメにミッションを徹底的に貫く。その覚悟ある行動が、ときに勘違いされたり、ときに受け入れられなかったりすることがあるかもしれない。でも、最後は必ず、分かってもらえるのではあるまいか。高濱機長がそうだったように……。123便のクルーがそうだったように、だ。


 どんなすばらしい技術も、どんな安全な仕組みがあっても、最後は人――。


 その“人”になれるかどうかは、ミッションで決まるのだ。


記事に関する報告


河合薫












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今日もまた猛暑日です

2024年08月12日 17時07分56秒 | 日々の出来事
強い陽射しですね。




8/11/2024
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「想像を絶する衝撃で、人間の頭や首が引きちぎられ…」520人死亡の“凄惨な飛行機事故”生存者4人が奇跡的に助かったワケ

2024年08月12日 15時07分15秒 | 事件と事故




「想像を絶する衝撃で、人間の頭や首が引きちぎられ…」520人死亡の“凄惨な飛行機事故”生存者4人が奇跡的に助かったワケ

7/20(土) 17:12配信2024




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文春オンライン
焼け焦げた JAL のマークの入った主翼が痛々しい=1985年8月13日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根(写真提供・産経新聞)


〈「バラバラの遺体は手足がなく、頭蓋骨が潰れ…」520人が死亡した“最悪の飛行機事故”はなぜ起きてしまったのか?〉 から続く


【衝撃写真】「人間の頭や首が引きちぎられ…」520人が死亡した“凄惨な飛行機事故”の墜落現場を写真で見る


 約40年前に発生した、日本の民間航空史上最悪の事故「日航ジャンボ機墜落事故」。1985年8月12日午後6時56分過ぎ、日航123便は乗客乗員524人を乗せ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。520人が死亡し、助かったのは女性4人だけだった。


 墜落事故当時、日航の技術担当の取締役だったのが、松尾芳郎氏だ。松尾氏は事故原因とその背景について知る第1人者で、墜落事故後、群馬県警の厳しい取り調べを受け、業務上過失致死傷容疑で書類送検されている(結果は不起訴)。


 松尾氏は、群馬県警の取り調べの内容やその実態、墜落事故の関係資料をファイルにまとめていた。そのファイルを引き継いだのが、ジャーナリスト・木村良一氏だ。


 ここでは、木村氏が、松尾氏のファイルをもとに取材を重ね、事故の真相に迫った書籍『 日航・松尾ファイル-日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか- 』(徳間書店)より一部を抜粋。生存者の4人は、事故後にどのような証言をしていたのだろうか?(全2回の1回目/ 前編 を読む)


◆◆◆


生存者の落合さんと職員との「1問1答」
 8月16日の夕方、日航アシスタント・パーサーの落合由美(生存者のひとり)は報道陣のインタビューにも応じている。ただし、落合本人が直接答えたのではなく、報道陣に代わって入院先の多野総合病院(現・公立藤岡総合病院)の職員が質問してそれに落合が回答したものだった。報道各社に公開された、落合と職員との「1問1答」の録音内容のなかから主なものを拾ってみよう。


――いまの体調や気分はどうですか?


「気分はいいです。ただ腰がちょっと痛い」


――異常が起きたときに機内で絶叫や悲鳴はありましたか?


「はい、ありました。子供たちは『お母さん』と言ってましたし、パニックでしたので『キャー』という悲鳴ばかりです」


――急降下のとき、飛ばされたり、手荷物が吹き飛んだりしましたか?


「衝突防止姿勢で自分の足首をつかんで頭を両ひざの間に入れていましたから。下を向いていたので、周りの状況はよく分からないんですけど、みんなその格好でいたようです」


――墜落したとき、どんな気持ちでしたか?


「助からなければいけないと思いましたけど、体が動かなくてどうしていいか分からないという状態でした」


――なぜ助かったと思いますか?


「分かりません」


――墜落後、眠り込むまでどんな気持ちでしたか?


「口の中に砂が入ってくるので息苦しくなるから、自分の顔をちょっとでもそういうことのない方向に動かすのに精一杯でした。あとはノドがかわいて。ヘリコプターの音がしてずっと手を振っていたのですけど。気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、と思いました」


――翌朝、救急隊員に起こされたときの気持ちはどうでしたか?


「『大丈夫だぞ』というふうに叫んで下さったんですけど、もう体が痛くて本当にこのままどうなるんだろうか、まだはっきり自分では分からない状態でした」



「励ました直後に血を吐いた」父・母・妹を失った12歳の生存者の証言
 さらに事故から1週間後の8月19日には4人の生存者のうちの1人で、12歳の中学1年生の川上慶子=島根県簸川郡大社町(現・出雲市)=のインタビューも入院先の国立高崎病院(現・高崎総合医療センター)の看護婦長を通じて行われた。


 落合由美のインタビューと違ってテレビカメラが病室内に入って映像を撮った。川上は生存者のなかで症状が一番軽く、時折笑顔を見せながら話していたが、それでも左前腕を骨折し、右前腕の筋肉も切断して神経が麻痺していた。右腕には痛々しく添え板があてられていた。


 川上の座席は機体最後部の60Dだった。いっしょに乗っていた父(41)と母(39)、それに小学1年生の妹の咲子ちゃん(7)を失っている。見舞いの親類に「墜落直後は父と咲子が生きていた。咲子に『帰ったら私と兄とおばあちゃんの4人で仲良く暮らそうね』と励ましたその直後に血を吐いた」と語ったことなどがすでに報じられていた。


「『バリッ』といって穴があいた」
――「バーン」という音がしたとき、飛行機のなかで何が起こったの?


「左後ろの壁、上の天井の方が『バリッ』といって穴があいた。いっしょに白い煙みたいなものが前から入ってきた」


――そのとき何か考えましたか?


「怖かった。何も考えなかった」


――シートベルトはしていたの?


「したままだった」


――落ちて最初に気付いたときの様子は?


「真っ暗で何も見えなかった」


――お父さん、お母さん、妹の咲子ちゃんのことは覚えている?


「咲子とお父さんは大丈夫だったみたい。お母さんは最初から声が聞こえなかった」


――明るくなって見たのはなに?


「木とか太陽が差し込んできた。それに、寝転がったみたいになっていたから、目の前にネジのような大きなものが見えた」


――ほかに何も見えなかった?


「隣に何かタオルみたいなものが見えて、お父さんが冷たくなっていた。左手が届いたので触ったの」


――助けられたときは何を思った?


「お父さんたち、大丈夫だったかなあとか」


――ヘリコプターでつり上げられるときの気持ちは?


「出されるときね。妹の咲子がベルトで縛られているところが見えたから『大丈夫かな』と思った」




「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」
 落合由美、川上慶子に続いて長女とともに助かった34歳の主婦、吉崎博子(兵庫県芦屋市)は8月21日午後、事故の様子を実兄の質問に答える形で語り、その録音テープが報道陣に公開された。吉崎は夫(38)、長男(9)、長女の美紀子(8)、次女(6)の4人といっしょに東京の実家からの帰りに事故に遭い、夫、長男、次女を失った。座席は54Fで、美紀子が54Dだった。


 パニック状態の機内で夫が「眼鏡をかけたままではケガをする」と心配してくれたことや、墜落後に美紀子に「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と励まされたことなどが親類への取材によってすでに報じられていた。吉崎博子は多野総合病院に入院した後、都内の東京慈恵会医科大学附属病院に転院している。公開された録音テープの内容は次の通りだ。


吉崎さんが語る、墜落前後の様子
――機内の様子は?


「私は眠っていたが、ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが出てきた」


――乗客の様子は?


「酸素を吸うので精一杯だった。(酸素マスクの)数は十分だったと思うけど、我先に取り合っていた」


――子供の様子は?


「ゆかり(次女、死亡)は気分が悪く、マスクをしながら『あげそう』と言った。ゴミ袋をあてると、少しもどして真っ青で気を失った」


――墜落のときの気持ちは?


「ジェットコースターに乗ったような感じだった」


――ぐるぐる回ったりした?


「回ったりはしない。景色が次々、変わっていった。充芳(長男、死亡)はしっかりマスクをあてていた。お父さんが『子供がいるからしっかりしろ。うろたえるな』と言ってた」


――墜落の様子は?


「何回かに分けて落ちて行った。これが結構長かった。耳鳴りがしてよく聞こえなかったが、機内では赤ちゃんの泣き声がした」


――機内の放送は?


「『救命胴衣をして頭を両足の中に入れて』と放送があったが、美紀(長女の美紀子、生存)は救命胴衣を着けられなかった」


――墜落のとき、何を考えたか?


「絶対に無事に着くと思った。どこかが故障したぐらいに思った。スチュワーデスは『大丈夫、大丈夫ですから』と言っていた。不時着する覚悟でいた」


――落ちたときの様子は?


「美紀の声だけが聞こえた。それも夢かもしれない。眼鏡をはずしていたので見えなかった」


――いまの気持ちは?


「元気になりましたから、がんばって生きます」




4名とも墜落激突時に発生した強度の衝撃によって…
 以上が生存者4人の証言である。計524人(乗客509人、乗員15人)中、助かったのはわずかこの4人だけだった。0.76%の生存確率である。墜落事故から2年後の1987年6月19日に公表された運輸省航空事故調査委員会の事故調査報告書のなかにある「生存者の受傷の状況」の項目(24ページ)にはこう記されている。


〈生存者は乗客4名(全員女性)のみであり、いずれも機体後部の座席列番号54から60、左側及び中央部の座席に着席していた〉


 日航123便(JA8119号機)は最初に1本カラマツ(仮称)とU字溝(同)に接触して機体に残っていた垂直尾翼や水平尾翼、エンジンなどを落とした後、機首と右主翼を下に向けた状態で機首から山肌に墜落した。機体後部は墜落の衝撃で分離し、スゲノ沢第3支流側の斜面を滑り落ちた。


〈4名とも墜落激突時に発生した強度の衝撃によって部位の相違はみられるが骨折が認められ、程度の差はあるが外傷性ショックに陥っており、全治2箇月から6箇月の重傷であった〉


4名はなぜ助かったのか
 4人が奇跡的に助かった理由について調査報告書は「乗客・乗組員の死傷についての解析」の項目(121~122ページ)のなかで、〈4名とも後部胴体の後方に着座しており、数10G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等がたまたま衝撃を和らげる状況であったために、また、床、座席、ギャレイ等の胴体内部の飛散物との衝突という災害を受けることが少なかったこともあって、奇跡的に生還し得たものと考えられる〉と分析している。


生存者さえ体重の数10倍で圧迫された
 一般的に航空機が墜落するとき、機首から山などに激突するか、あるいは尾部から落下するかなど墜落時の機体の姿勢によって搭乗者の受ける衝撃は違ってくるし、山の木々がクッションとなって衝撃が和らいで助かるケースも過去にはある。だが、「数10G程度の衝撃」はかなりの力である。


 このGとは衝撃加速度(衝突時に加わる力)のことである。Gが加わる方向には前方、下方、側方、上方とあり、さらにジェットコースターやエレベーターで下降するときに体が浮くように感じるときのマイナスGもある。もちろん、同じGでもその継続時間によって衝撃度は変わってくる。数10Gの衝撃とは、簡単に言えば、私たちが生活している地上の重力が1Gだからこれの数10倍、つまり自分の体重の数10倍もの重石がのしかかってくる圧迫である。


 旅客機の離陸時のGは1.2Gほどで小さいが、筆者が産経新聞記者時代に防衛庁(当時)記者クラブに所属していたときの経験談を述べると、航空自衛隊のプロペラ練習機T3(縦列複座の単発レシプロ機、富士重工製)に搭乗してゆっくりループ(円を描く宙返り)飛行をすると、3Gはかかった。一瞬だが、3Gでも体が動かなくなったから数10Gとなると、やはりかなりの衝撃度である。


 もちろん、T3の操縦は教官が行った。「6 飛行機の夢」でも説明したが、レシプロとはレシプロ・エンジン(ピストン・エンジン)の略で、レシプロ機は自動車のエンジンと同じようにピストンの往復運動を回転運動に変え、それによってプロペラを回して推力を得る。


即死した乗客乗員
 事故調査報告書によると、機体の前部胴体は墜落時に原型をとどめないまで大破し、その中にいた乗客乗員は数100Gもの衝撃を受けて即死した。後部胴体の前方座席の搭乗者も100Gを超す衝撃を受け、即死に近い状態だった。数100Gや100Gというと、人間の体は頭や首、胴体、手足がバラバラに引きちぎられてしまうような想像を絶する衝撃度である。火災も発生していたから即死後に焼けて炭化した遺体も多かった。


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【閲覧注意】 日航機123便墜落事故――遺体搬入現場の極限状態

2024年08月12日 11時03分30秒 | 事件と事故
日航機123便墜落事故――遺体搬入現場の極限状態




あの8月12日から37年……。

 乗員乗客524人中520人の命が奪われた日本航空123便の墜落。単独飛行機事故では世界最多の死者となった。夏休みで帰省する家族が多く乗った羽田発伊丹空港行きは、群馬県・御巣鷹山(おすたかやま)の尾根で発見される。 著者の飯塚訓(いいじま・さとし、当時48歳)は遺体確認捜査の責任者として、127日間にわたりその悲劇の真っただ中にいた。すべてのご遺体を遺族のもとへ。その一心で団結した医師や看護師、警察官たち。だがそこには誰も味わったことのない極限状況があった──。


 いまなお読み継がれる『新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』。いつの世も数字だけでは伝えきれない、悲嘆、怒り、そして号泣が止まらない記録を特別掲載する。 第2回目は、ご遺体がつぎつぎ搬入された検屍場で、ベテランの者たちでさえ涙の止まらぬような光景に立ちすくんだ。遺族の確認も始まり、完全遺体でさえ取り違えてしまう現実が待っていた……。

*掲載記事に登場する人物の肩書・年齢は当時のものです。




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 【写真】御巣鷹山の日航機123便―“身元確認班長”に任命された男性の記録

遺体搬入開始

Photo by GettyImages

 唐松、熊笹の密生する平均斜度30度の斜面約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、現場に仮設されたヘリポートから、自衛隊ヘリによって、直線で約45キロメートル離れた藤岡市立第一小学校の臨時へリポートまで搬送。白バイまたはパトカーの先導する霊柩車で、市民体育館に搬送された。


  刑事たちに「極楽袋」とも呼ばれる死体収納袋や毛布に包まれた収容遺体はそのまま棺に納められ、正面玄関から搬入された。棺は、受付の長机の上に一時安置され、検視総括係の受付担当が完全遺体と離断遺体に区分した。そして遺体区分別に検視番号を付した。したがって検視総括係には警部補、巡査部長クラスのベテラン刑事が配置された。 


 遺体の区分については、遺体の収容開始前に、検証班、検視班、身元確認班の各班長による打ちあわせ会議を行っている。  完全遺体――五体が完全に揃っている場合のほか、上下顎部等の一部が残存している死体または死体の一部(頭部の一部分でも胴体=心臓部=と首で繋がっている死体)  離断遺体――頭部、顔面、または下顎部等の一部がすべて離断している死体および死体の一部(頭部と胴体部が完全に離れている死体)  と区別し、検視、確認の各班にその徹底を図った。 

 午前10時ごろ、最初の遺体が制服の警察官4人によって運びこまれる。

  「遺体搬入!」  

検視班長の大声が響く。一瞬館内のざわめきがやんだ。待機所にびっしりと控えている医師、看護婦らの緊張した顔が白い棺に向けられる。

  1人の医師が椅子を立ち、棺に向かい両手を合わせる。 

 ほかの医師、看護婦、警察官らもこれにならって椅子を立った。

  次々と搬入される棺はたちまち検屍フロアに通じるスペースにいっぱいになる。  

検視総括係の受付担当が完全遺体と離断遺体に区分し、遺体区分別に検視番号を付した。 

 検視番号1の検屍が始まったのは、午前11時ごろであった。 

 検屍は検視官以下警察官5~6名、医師2名、看護婦2~3名、それに歯のある遺体には歯科医師2名が加わった。 

 また、身元確認班員を2名ずつ付けて検屍の段階から身体特徴、着衣、所持品、指紋、血液型、歯型の採取の有無等、遺体からの資料を記録させる「担当遺体方式」をとった。

  したがって、9~13名が1組となって検屍作業を行うことになる。  

異常な経過で死亡したり、犯罪に関係するような状態で死亡するなど、明らかに自然死以外の場合に警察官が行うのが「検視」である。したがって、警察組織体制的には「検視」とし、この事故での死体見分の場合は、死亡の原因が明らかであり、また離断、炭化等死体の状態からして「検屍」と表現することにした。

写真担当者の涙


遺体の性別、死体の特徴、残存歯牙の記録等の「特徴票」を貼付した。 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』より

 検屍場はたちまちにして、凄惨な場と化した。2階観覧席の左右に配置した12基の照明灯が22ヵ所の検屍場を煌々(こうこう)と照らす中で、200人近くの警察官と150名を越す医師、歯科医師、看護婦たちがあわただしく動きまわる。  

検屍開始にあたって測定した外気温は35度を超えていた。 

 棺の中から、死体収納袋や毛布に包まれた遺体が警察官の手で取りだされ、ビニールシートの上に丁重に安置される。 

 「礼!」検視官の号令により、検視グループ一同が手を合わせ、一礼して検屍が開始される。 

 「何だこれは……」  

毛布の中から取りだした塊を見て、検視官がつぶやく。

  塊様のものを少しずつ伸ばしたり、土を落としたりしていくうちに、頭髪、胸部の皮膚、耳、鼻、乳首2つ、右上顎骨、下顎骨の一部、上下数本の歯が現れてきた。 

 少女の身体は中央部で180度ねじれてひきちぎれ、腰椎も真っ二つに切断され、腹部の皮膚で上下がやっとつながっている。 

 なかば焦げた左上肢、その中ほどに臓腑の塊が付着している。塊の中から舌と数本の歯と頭蓋骨の骨片が出てきた。  

それらを丹念に広げてゆくと、ちょうど折りたたんだ紙細工のお面のように、顔面の皮膚が焦げもせずに現れた。

  2歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく、半分が欠損している。それなのに、かわいい腰部にはおむつがきちっとあてがわれている。 

 「こういうの弱いよなあ」 

 検視官がひとりごとのようにつぶやき、幼児の遺体を見つめている。それまでバ

 「おい、写真どうした」  

検視官が座ったままの姿勢で、顔を右にねじまげ、脚立の上の警察官を見あげた。 

 「焦点が合わないんです」

  写真担当の若い巡査が、カメラを両手でもったまま泣きべそをかいている。 

 検視官も医師も首に巻いた汗止めのタオルや上腕部を使って、汗と一緒になった涙をしきりに拭っていた。 

 「うちの子と同じくらいだなあ」と、呟く身元確認班員の目からも涙が線を引いてこぼれ落ち、遺体の欠損部位や身体特徴を記録する乗客調査表に染みをつくる。  

検屍にかけては県警随一の久保警視も、

「子どもの検屍だけは苦手だ。できることなら他の者にやらせて自分は避けたい」という。  

「これは仕事なんだ」と割り切れない、と。 

 2人の看護婦は座ったまま両肘を両足の大腿部に付け、両てのひらで顔を覆うようにして動かない。声を上げて泣きだしたい感情を必死にこらえているのか、両肩だけがピクッピクッと震えている。 

 検屍と身元確認作業の初日、動員された看護婦は109人である。地元の藤岡、多野医師会所属の看護婦がもっとも多く48人で、日赤群馬県支部は独自の判断で31人を動員した。

  原町赤十字病院看護部長、山中千代子(現足利赤十字病院看護部長)も、医師、看護婦2人とともに、正午ごろ体育館に入った。目に入った光景に一瞬声もなく棒立ちとなる。

  1つのシーツを囲んで警察官がいる。医師、看護婦がいる。1つのフロアで10人前後の人がうごめいている。ときどき検視官の大声があちこちのフロアから発せられる。この世のものとは思われない、異様としかいいようのない光景がそこに展開されていた。

  シーツの中央に横たわっているのはさまざまな形態の遺体である。 

 遺体を洗う。拭く。縫合する。写真を撮る。記録する。それぞれの分担作業である。  

看護部長の山中はこれまで数えきれないほどの外科手術にスタッフとして加わってきた。しかし、そこには、必死に生きようとする患者と、生かしたい、助けたいとする医師、看護婦たちの生命に対する限りない執着があった。 

 「看護婦さん! こっちお願いしますよ」 

 検屍の警察官の大声に、はっと我にかえって呼ばれた班の遺体の傍らにしゃがみこんだ。他の看護婦2人にも他の検屍フロアから、待ってたとばかりに声がかかる。 

 遺体はどれも泥と油、血液などにまみれている。

  杉や唐松の葉、小枝なども絡みついているので、遺体の清拭が最初の作業である。  

3つのバケツの水は、何度も汲みかえられた。体育館南側外の水道との間を何十回行ったり来たりしたか。髪の泥を落とし、顔や身体、指の1本1本までていねいに拭いた。

  そっと拭いても、切断面の皮や肉片がどうしても剥げ落ちる。泥や油、血液に肉片までも混じったバケツの水を、体育館脇の側溝にしかたなく捨てる。ほとんどが看護婦の仕事となった。


極度の悲しみが充満



『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』より

 藤岡市民体育館は、本当に愛している人を一瞬にして失ったという極度の悲しみで充満している。もっとも大事な人を奪い去られたという激しい怒りと荒廃があった。 

検屍、身元確認作業を悲壮な表情でつづける警察官、医師、看護婦ら、500人を越す集団のざわめきが地鳴りのように床を這う。 

 時折、遺族の発する「キャー」という絹を引きさくような悲鳴、「ウォー」と吼えるような号泣、「馬鹿野郎! 何だその態度は」……心の中がパニック状態になり、頭が混乱した男の怒声が館内の喧騒をつんざいて走る。

  検屍が終わってすぐに遺族と対面し、確認、引き渡しになる遺体は最初のうちの数十体にすぎなかった。 

 520人という数字も大変だが、実際に回収される遺体は数千体にもなっている。 

 約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、搭乗者の座席位置により、  1)機体後方の乗客は、墜落地点から北斜面を約240メートル下ったスゲノ沢付近  2)機体中央の乗客は、北斜面  3)機体前方の乗客及び操縦士などコックピット乗務員は、南斜面  と大きく3つに分布されていた。

  生存者4名が発見された位置はいずれも1)のスゲノ沢付近で、機体の最後方部に搭乗していた。この付近からは約200体がまとまって収容されたが、完全遺体は160ともっとも多かった。

  離断遺体のもっとも多かったのは北西斜面で、700体以上が3つの地点にほぼまとまって飛散していた。  

また、南斜面を中心に収容された遺体はエンジン部に近く、機体が垂直に尾根に激突していることから、骨や肉が身体から押しだされ皮だけになったり、真っ黒に炭化してバラバラになったりしていた。 

 中には1週間もたっていないのに白骨化しているのもある。 

 それに加えて、連日の猛暑のため、遺体に蛆が湧き、腐敗の進行も早いため、数日後からの回収遺体は原形をとどめていないものが多く、確認作業は困難を極めた。 

 遺体の付近に着衣や所持品があれば遺体と一緒の収納袋に入れた。遺体にからまるようにあるスカートなども一緒に収納した。 

 現場では同一場所の人(とくに離断や炭化遺体)と物(衣類、所持品、携帯品)を同じ収納袋で収容するしか方法がないであろう。

  検屍の場で矛盾、相違点のあるものはでき得る限りふるい分けられるが、大量遺体を次次とその日のうちに検屍しなければならないので、とても精査してはいられない。 

 したがって、身元確認の場では、慎

重の上にも慎重を期した。1本の腕を間違えれば必ず複数が合わなくなる。  男物の上着にくるまれた首のない炭化遺体が女性であったり、スカートの模様が特徴的であり、家族は「絶対に間違いない」と主張したが、別人であったというケースもある。 

 だから、上着は腕を通しているなど、着ているという状態が確かであること。ズボンや下着は足を通すなど、はいている状態を確認した遺体でなければ信じないことにした。 

 棺の中に炭化して判別できなくなった足が3本入っていたり、右手が2本入っていたのもある。大きさが明らかに違う左右の足もある。性別の違う離断遺体、部分遺体が一緒に棺に納まっていることも当然のごとくあった。

  これを識別して別の棺に収納するから「移棺」として、「リ断〇番の〇〇」というふうに、棺の数と番号が増えていった。 

 頭部顔面に損傷のない完全遺体でも遺族が間違ったことがあった。家族から聴取した特徴票の身長と明らかに違うので、血液型の判定を待ったらやはり違っていた。

  家族は「母親が間違いないといっているのになぜ渡してくれないのか」と強い口調で何度も私に迫った。 

 ガスの発生でふくらみはじめた遺体が棺の中に横になっていると、家族でも見間違うことが往々にしてある。

  2000人は優に越すであろう遺族とその関係者らは、1遺体ごとにつけられた担当の日航職員とともに、未確認遺体が安置してある3つの体育館をかけずりまわり、棺の蓋に貼ってある遺体の特徴、その部位、検屍による歯科カルテ、ビニール袋に入れて貼付してある着衣、所持品を食い入るように見てまわる。  

これはと思う棺は警察官に蓋を開けさせ、遺体の特徴から「この目で」「この手で」愛するわが子、わが夫を探しだそうとする執念の姿がいたるところで見られた。  

「うちのお父さん、右の足首に大きな傷があるんです。早く見つけてください」 

 「この手、うちの娘に似てるんです。ね、私の手にそっくりでしょう、お願いです、血液型を早く出してください」 

 「おまわりさん、魚の目のある足はありませんか」 

 「この髪の毛、この写真と似ていませんか。この人の顔はどこにあるんでしょうか」 

 「夫は右腕に手術の痕があるんですけど」  

「妻はリューマチなんです。手の甲にはこぶができています。足の指は皆重なっているんです。見ればすぐにわかります」 

 遺族や関係者の依頼で確認班員は片っ端から棺の蓋を開けてまわる。班員には検屍の時からの担当遺体もあった。腰を伸ばす間もなく棺の中に首を突っこむ班員のどの顔も疲労でどす黒く、汗まみれだ。

家族からの切ない苦情

Photo by GettyImages

 遺族からの苦情、抗議も2日目になってさらに多くなった。私は3つの体育館から呼びだしを受けては伝令と車で走りまわった。伝令を3人に増やしたがそれでも足りなかった。 

 「確認されたのになぜ早く引き渡してくれないのか。もう2時間も待たされている」 

 「疲れているのに、何時間も調書を取られた。まるでこっちが悪いことでもしているようではないか」



  「親兄弟が間違いないといってるのになぜ早く確認してくれない。こんなところからは一刻も早く家へ連れて帰りたいんです」というのが多かった。

  確かにこれらの苦情にはうなずけることもままあったが、丁重に説明してどうにか納得していただいた。



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国民の約85%が“戦後生まれ”

2024年08月12日 09時05分38秒 | 歴史的なできごと

国民の約85%が“戦後生まれ” 「8月ジャーナリズム」と揶揄も…戦争番組の存在意義


今年も迎えた終戦記念日、8月15日。1941年、日本軍の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争は、アメリカ軍により東京大空襲、広島・長崎への原子爆弾投下などを受け、多くの市民が被害に遭った。

【映像】1945年8月15日に流れた昭和天皇による「玉音放送」(※音声あり)50秒ごろ~

  年々、戦争体験者の高齢化が進み、さらには新型コロナの感染拡大の影響などで、実体験を直接聞く機会が得られづらくなっている今、メディアは戦争をどのように伝えるべきなのだろうか。太平洋戦争終結から76年、ニュース番組『ABEMA Prime』では「8月ジャーナリズム」について議論を行った。
 

 ■ ノンフィクションライター・石戸諭氏「8月にやるから儲かる話じゃない」

    
 メディアでは、原爆投下の日や終戦記念日に合わせるように、毎年8月に戦争や平和の報道が集中している。「8月ジャーナリズム」と揶揄され、批判の声もある中、17日に『ニュースの未来』(光文社新書)を上梓するノンフィクションライターの石戸諭氏は「映画『この世界の片隅に』は、直接的には原爆の話をひとつも描いていない」と、太平洋戦争を新たな視点から捉えた作品名を挙げた。

「映画『この世界の片隅に』では、広島の呉に18歳で嫁いだ主人公・すずという子が遠くから広島に落ちた原爆を見ている。この描き方は、非常に新しかった。最終的にテーマを“家族のあり方”に設定し、見る人の間口を広げて、戦争を考えさせる切り口になっている。沖縄の戦後を描いた『宝島』も直木賞を受賞し、非常によく売れた作品だ。こういった作品に世間の関心がないわけではない。(戦争をテーマにした作品に)どうやって触れたらいいのか分からない人たちに刺さる作品群はある。8月ジャーナリズムと揶揄されてしまうのは、その工夫がメディア側に足りていないと思う

  その上で「8月にやるから儲かるという話ではない」と述べ、「言葉を補うと、8月にやるから最低限のPVが取れるぐらいの感覚だ。だが、他の月にメディアで扱おうとすると、よほど仕掛けを工夫しない限りは難しい。それが現実なので『8月にチャレンジしやすくなるなら、チャレンジをしたほうがいい』が僕の考え方だ。8月にやるから儲かるとは全く思わない」と8月に戦争報道を行うことの意味を語る。


以下はリンクで


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