
日航機123便墜落事故――遺体搬入現場の極限状態

あの8月12日から37年……。
乗員乗客524人中520人の命が奪われた日本航空123便の墜落。単独飛行機事故では世界最多の死者となった。夏休みで帰省する家族が多く乗った羽田発伊丹空港行きは、群馬県・御巣鷹山(おすたかやま)の尾根で発見される。 著者の飯塚訓(いいじま・さとし、当時48歳)は遺体確認捜査の責任者として、127日間にわたりその悲劇の真っただ中にいた。すべてのご遺体を遺族のもとへ。その一心で団結した医師や看護師、警察官たち。だがそこには誰も味わったことのない極限状況があった──。
いまなお読み継がれる『新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』。いつの世も数字だけでは伝えきれない、悲嘆、怒り、そして号泣が止まらない記録を特別掲載する。 第2回目は、ご遺体がつぎつぎ搬入された検屍場で、ベテランの者たちでさえ涙の止まらぬような光景に立ちすくんだ。遺族の確認も始まり、完全遺体でさえ取り違えてしまう現実が待っていた……。
*掲載記事に登場する人物の肩書・年齢は当時のものです。

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【写真】御巣鷹山の日航機123便―“身元確認班長”に任命された男性の記録
遺体搬入開始
Photo by GettyImages
唐松、熊笹の密生する平均斜度30度の斜面約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、現場に仮設されたヘリポートから、自衛隊ヘリによって、直線で約45キロメートル離れた藤岡市立第一小学校の臨時へリポートまで搬送。白バイまたはパトカーの先導する霊柩車で、市民体育館に搬送された。
刑事たちに「極楽袋」とも呼ばれる死体収納袋や毛布に包まれた収容遺体はそのまま棺に納められ、正面玄関から搬入された。棺は、受付の長机の上に一時安置され、検視総括係の受付担当が完全遺体と離断遺体に区分した。そして遺体区分別に検視番号を付した。したがって検視総括係には警部補、巡査部長クラスのベテラン刑事が配置された。
遺体の区分については、遺体の収容開始前に、検証班、検視班、身元確認班の各班長による打ちあわせ会議を行っている。 完全遺体――五体が完全に揃っている場合のほか、上下顎部等の一部が残存している死体または死体の一部(頭部の一部分でも胴体=心臓部=と首で繋がっている死体) 離断遺体――頭部、顔面、または下顎部等の一部がすべて離断している死体および死体の一部(頭部と胴体部が完全に離れている死体) と区別し、検視、確認の各班にその徹底を図った。
午前10時ごろ、最初の遺体が制服の警察官4人によって運びこまれる。
「遺体搬入!」
検視班長の大声が響く。一瞬館内のざわめきがやんだ。待機所にびっしりと控えている医師、看護婦らの緊張した顔が白い棺に向けられる。
1人の医師が椅子を立ち、棺に向かい両手を合わせる。
ほかの医師、看護婦、警察官らもこれにならって椅子を立った。
次々と搬入される棺はたちまち検屍フロアに通じるスペースにいっぱいになる。
検視総括係の受付担当が完全遺体と離断遺体に区分し、遺体区分別に検視番号を付した。
検視番号1の検屍が始まったのは、午前11時ごろであった。
検屍は検視官以下警察官5~6名、医師2名、看護婦2~3名、それに歯のある遺体には歯科医師2名が加わった。
また、身元確認班員を2名ずつ付けて検屍の段階から身体特徴、着衣、所持品、指紋、血液型、歯型の採取の有無等、遺体からの資料を記録させる「担当遺体方式」をとった。
したがって、9~13名が1組となって検屍作業を行うことになる。
異常な経過で死亡したり、犯罪に関係するような状態で死亡するなど、明らかに自然死以外の場合に警察官が行うのが「検視」である。したがって、警察組織体制的には「検視」とし、この事故での死体見分の場合は、死亡の原因が明らかであり、また離断、炭化等死体の状態からして「検屍」と表現することにした。
写真担当者の涙
遺体の性別、死体の特徴、残存歯牙の記録等の「特徴票」を貼付した。 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』より
検屍場はたちまちにして、凄惨な場と化した。2階観覧席の左右に配置した12基の照明灯が22ヵ所の検屍場を煌々(こうこう)と照らす中で、200人近くの警察官と150名を越す医師、歯科医師、看護婦たちがあわただしく動きまわる。
検屍開始にあたって測定した外気温は35度を超えていた。
棺の中から、死体収納袋や毛布に包まれた遺体が警察官の手で取りだされ、ビニールシートの上に丁重に安置される。
「礼!」検視官の号令により、検視グループ一同が手を合わせ、一礼して検屍が開始される。
「何だこれは……」
毛布の中から取りだした塊を見て、検視官がつぶやく。
塊様のものを少しずつ伸ばしたり、土を落としたりしていくうちに、頭髪、胸部の皮膚、耳、鼻、乳首2つ、右上顎骨、下顎骨の一部、上下数本の歯が現れてきた。
少女の身体は中央部で180度ねじれてひきちぎれ、腰椎も真っ二つに切断され、腹部の皮膚で上下がやっとつながっている。
なかば焦げた左上肢、その中ほどに臓腑の塊が付着している。塊の中から舌と数本の歯と頭蓋骨の骨片が出てきた。
それらを丹念に広げてゆくと、ちょうど折りたたんだ紙細工のお面のように、顔面の皮膚が焦げもせずに現れた。
2歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく、半分が欠損している。それなのに、かわいい腰部にはおむつがきちっとあてがわれている。
「こういうの弱いよなあ」
検視官がひとりごとのようにつぶやき、幼児の遺体を見つめている。それまでバ
「おい、写真どうした」
検視官が座ったままの姿勢で、顔を右にねじまげ、脚立の上の警察官を見あげた。
「焦点が合わないんです」
写真担当の若い巡査が、カメラを両手でもったまま泣きべそをかいている。
検視官も医師も首に巻いた汗止めのタオルや上腕部を使って、汗と一緒になった涙をしきりに拭っていた。
「うちの子と同じくらいだなあ」と、呟く身元確認班員の目からも涙が線を引いてこぼれ落ち、遺体の欠損部位や身体特徴を記録する乗客調査表に染みをつくる。
検屍にかけては県警随一の久保警視も、
「子どもの検屍だけは苦手だ。できることなら他の者にやらせて自分は避けたい」という。
「これは仕事なんだ」と割り切れない、と。
2人の看護婦は座ったまま両肘を両足の大腿部に付け、両てのひらで顔を覆うようにして動かない。声を上げて泣きだしたい感情を必死にこらえているのか、両肩だけがピクッピクッと震えている。
検屍と身元確認作業の初日、動員された看護婦は109人である。地元の藤岡、多野医師会所属の看護婦がもっとも多く48人で、日赤群馬県支部は独自の判断で31人を動員した。
原町赤十字病院看護部長、山中千代子(現足利赤十字病院看護部長)も、医師、看護婦2人とともに、正午ごろ体育館に入った。目に入った光景に一瞬声もなく棒立ちとなる。
1つのシーツを囲んで警察官がいる。医師、看護婦がいる。1つのフロアで10人前後の人がうごめいている。ときどき検視官の大声があちこちのフロアから発せられる。この世のものとは思われない、異様としかいいようのない光景がそこに展開されていた。
シーツの中央に横たわっているのはさまざまな形態の遺体である。
遺体を洗う。拭く。縫合する。写真を撮る。記録する。それぞれの分担作業である。
看護部長の山中はこれまで数えきれないほどの外科手術にスタッフとして加わってきた。しかし、そこには、必死に生きようとする患者と、生かしたい、助けたいとする医師、看護婦たちの生命に対する限りない執着があった。
「看護婦さん! こっちお願いしますよ」
検屍の警察官の大声に、はっと我にかえって呼ばれた班の遺体の傍らにしゃがみこんだ。他の看護婦2人にも他の検屍フロアから、待ってたとばかりに声がかかる。
遺体はどれも泥と油、血液などにまみれている。
杉や唐松の葉、小枝なども絡みついているので、遺体の清拭が最初の作業である。
3つのバケツの水は、何度も汲みかえられた。体育館南側外の水道との間を何十回行ったり来たりしたか。髪の泥を落とし、顔や身体、指の1本1本までていねいに拭いた。
そっと拭いても、切断面の皮や肉片がどうしても剥げ落ちる。泥や油、血液に肉片までも混じったバケツの水を、体育館脇の側溝にしかたなく捨てる。ほとんどが看護婦の仕事となった。
極度の悲しみが充満
『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』より
藤岡市民体育館は、本当に愛している人を一瞬にして失ったという極度の悲しみで充満している。もっとも大事な人を奪い去られたという激しい怒りと荒廃があった。
検屍、身元確認作業を悲壮な表情でつづける警察官、医師、看護婦ら、500人を越す集団のざわめきが地鳴りのように床を這う。
時折、遺族の発する「キャー」という絹を引きさくような悲鳴、「ウォー」と吼えるような号泣、「馬鹿野郎! 何だその態度は」……心の中がパニック状態になり、頭が混乱した男の怒声が館内の喧騒をつんざいて走る。
検屍が終わってすぐに遺族と対面し、確認、引き渡しになる遺体は最初のうちの数十体にすぎなかった。
520人という数字も大変だが、実際に回収される遺体は数千体にもなっている。
約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、搭乗者の座席位置により、 1)機体後方の乗客は、墜落地点から北斜面を約240メートル下ったスゲノ沢付近 2)機体中央の乗客は、北斜面 3)機体前方の乗客及び操縦士などコックピット乗務員は、南斜面 と大きく3つに分布されていた。
生存者4名が発見された位置はいずれも1)のスゲノ沢付近で、機体の最後方部に搭乗していた。この付近からは約200体がまとまって収容されたが、完全遺体は160ともっとも多かった。
離断遺体のもっとも多かったのは北西斜面で、700体以上が3つの地点にほぼまとまって飛散していた。
また、南斜面を中心に収容された遺体はエンジン部に近く、機体が垂直に尾根に激突していることから、骨や肉が身体から押しだされ皮だけになったり、真っ黒に炭化してバラバラになったりしていた。
中には1週間もたっていないのに白骨化しているのもある。
それに加えて、連日の猛暑のため、遺体に蛆が湧き、腐敗の進行も早いため、数日後からの回収遺体は原形をとどめていないものが多く、確認作業は困難を極めた。
遺体の付近に着衣や所持品があれば遺体と一緒の収納袋に入れた。遺体にからまるようにあるスカートなども一緒に収納した。
現場では同一場所の人(とくに離断や炭化遺体)と物(衣類、所持品、携帯品)を同じ収納袋で収容するしか方法がないであろう。
検屍の場で矛盾、相違点のあるものはでき得る限りふるい分けられるが、大量遺体を次次とその日のうちに検屍しなければならないので、とても精査してはいられない。
したがって、身元確認の場では、慎
重の上にも慎重を期した。1本の腕を間違えれば必ず複数が合わなくなる。 男物の上着にくるまれた首のない炭化遺体が女性であったり、スカートの模様が特徴的であり、家族は「絶対に間違いない」と主張したが、別人であったというケースもある。
だから、上着は腕を通しているなど、着ているという状態が確かであること。ズボンや下着は足を通すなど、はいている状態を確認した遺体でなければ信じないことにした。
棺の中に炭化して判別できなくなった足が3本入っていたり、右手が2本入っていたのもある。大きさが明らかに違う左右の足もある。性別の違う離断遺体、部分遺体が一緒に棺に納まっていることも当然のごとくあった。
これを識別して別の棺に収納するから「移棺」として、「リ断〇番の〇〇」というふうに、棺の数と番号が増えていった。
頭部顔面に損傷のない完全遺体でも遺族が間違ったことがあった。家族から聴取した特徴票の身長と明らかに違うので、血液型の判定を待ったらやはり違っていた。
家族は「母親が間違いないといっているのになぜ渡してくれないのか」と強い口調で何度も私に迫った。
ガスの発生でふくらみはじめた遺体が棺の中に横になっていると、家族でも見間違うことが往々にしてある。
2000人は優に越すであろう遺族とその関係者らは、1遺体ごとにつけられた担当の日航職員とともに、未確認遺体が安置してある3つの体育館をかけずりまわり、棺の蓋に貼ってある遺体の特徴、その部位、検屍による歯科カルテ、ビニール袋に入れて貼付してある着衣、所持品を食い入るように見てまわる。
これはと思う棺は警察官に蓋を開けさせ、遺体の特徴から「この目で」「この手で」愛するわが子、わが夫を探しだそうとする執念の姿がいたるところで見られた。
「うちのお父さん、右の足首に大きな傷があるんです。早く見つけてください」
「この手、うちの娘に似てるんです。ね、私の手にそっくりでしょう、お願いです、血液型を早く出してください」
「おまわりさん、魚の目のある足はありませんか」
「この髪の毛、この写真と似ていませんか。この人の顔はどこにあるんでしょうか」
「夫は右腕に手術の痕があるんですけど」
「妻はリューマチなんです。手の甲にはこぶができています。足の指は皆重なっているんです。見ればすぐにわかります」
遺族や関係者の依頼で確認班員は片っ端から棺の蓋を開けてまわる。班員には検屍の時からの担当遺体もあった。腰を伸ばす間もなく棺の中に首を突っこむ班員のどの顔も疲労でどす黒く、汗まみれだ。
家族からの切ない苦情
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遺族からの苦情、抗議も2日目になってさらに多くなった。私は3つの体育館から呼びだしを受けては伝令と車で走りまわった。伝令を3人に増やしたがそれでも足りなかった。
「確認されたのになぜ早く引き渡してくれないのか。もう2時間も待たされている」
「疲れているのに、何時間も調書を取られた。まるでこっちが悪いことでもしているようではないか」
「親兄弟が間違いないといってるのになぜ早く確認してくれない。こんなところからは一刻も早く家へ連れて帰りたいんです」というのが多かった。
確かにこれらの苦情にはうなずけることもままあったが、丁重に説明してどうにか納得していただいた。
