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日航機墜落事故から39年 わずか9歳で逝った 息子が生きた証から命の大切さを訴える

2024年08月13日 22時06分55秒 | 事件と事故

日航機墜落事故から39年 わずか9歳で逝った 息子が生きた証から命の大切さを訴える | Watch (msn.com) 





日航機墜落事故から39年 わずか9歳で逝った 息子が生きた証から命の大切さを訴える


日航機の墜落事故から12日で39年です。何年経っても息子を失った悲しみが癒えないなか、命の大切さを伝え続ける母親の姿がありました。 美谷島邦子さん(77) 「来たよ。汚れちゃっているね。まずお掃除からだな」 やさしい口調で亡き息子に話し掛けるのは、美谷島邦子さん。 

1985年8月12日、美谷島さんの息子・健さんらを乗せた日本航空123便が、群馬県上野村にある御巣鷹の尾根に墜落しました。 乗客乗員520人が死亡し、多くの人が愛する家族との別れを強いられました。 9歳の健さんにとって初めての一人旅でした。

 美谷島さん 「(羽田まで送りに行き)家に帰ったら123便の機影が消えたって。玄関を飛び出して『健ちゃん健ちゃん』って叫びながら」 すぐに現地へ向かった美谷島さん。なかなか健さんと会えないまま迎えた6日目、やっと対面できたのはわずかな胴体と右手だけでした。 

美谷島さん 「これは絶対、健ちゃんの手というのは、小さなイボがあって、爪をかむような癖もあったので…」 美谷島さんはその手を握りしめ何度も何度も謝ったそうです。 美谷島さん 「なんで飛行機に乗せちゃった、1人で、しかもね、9歳の子って。もう自分に対する後悔、それしかなかった。ごめんねって」

 事故から39年。今でも、写真や遺品を見る時には覚悟がいると言います。 美谷島さん 「9歳だった健が赤ちゃんの時から戻るので、その時間がやっぱり辛い。だから(遺品を)出せないの。本当は、こんなにこんなに大切な子だから、もう一回振り返ればいいけど」 やっと人前で健さんのことを話せるようになったという美谷島さん。9年前から自らの経験を織り交ぜ「命の授業」を行っています。 

美谷島さん 「彼が生きた9年間を私は何かで発信したり何かで伝えたりというのを、健が一番喜ぶだろうなと」 少しでも聞いた人の心に残り、命につながることを願いつつ、主に子どもたちに伝えていきたいということです。



https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%8B%E3%82%8939%E5%B9%B4-%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%8B9%E6%AD%B3%E3%81%A7%E9%80%9D%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%81%AF%E5%AD%90%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E8%A8%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%87%E3%81%95%E3%82%92%E8%A8%B4%E3%81%88%E3%82%8B/vi-AA1oyhnv?ocid=msedgdhp&pc=NMTS&cvid=4854e04e7e6a482b9da277ee9e955b2d&ei=16




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「初の女性大統領」を強調しないハリス氏、理由は「ヒラリー氏」にあった

2024年08月13日 20時05分52秒 | 国際情勢のことなど


「初の女性大統領」を強調しないハリス氏、理由は「ヒラリー氏」にあった (msn.com) 




米国のカマラ・ハリス副大統領 [写真 カマラ・ハリス フェースブック]
米民主党大統領候補のハリス副大統領がトランプ前大統領に敗れたヒラリー・クリントン元国務長官から教訓を得て「初の女性大統領」という点を強調していないという分析があった。


政治サイト「ザ・ヒル」が5日(現地時間)に報じた内容によると、ハリス副大統領はヒラリー氏とは違い「女性」という自身のアイデンティティを浮き彫りにしていない。


ヒラリー氏は2016年の大統領選挙当時「私は彼女と一緒だ」を選挙スローガンにするなど、自身が当選すれば初の女性大統領が誕生するという歴史的な意味を強調した。

しかし2016年の選挙の敗因を分析した民主党は「有権者が自身を代弁する候補を望む大衆迎合主義の流れが強かった時期にこうした戦略は間違っていた」と評価した。


ハリス氏が当選すれば、初の女性、初のインド系黒人大統領となる。しかしヒラリー氏の事例を「反面教師」にして歴史的な意味に言及せず、その代わりトランプ氏を過去回帰勢力、自身を未来のための候補として浮き彫りにしていると、ザ・ヒルは伝えた。


◆上品なヒラリー氏…ハリス氏は「我慢しない」


ハリス氏と民主党はトランプ前大統領との泥沼戦を避けないという点でも、2016年のヒラリー氏、民主党とは違う。


2016年の大統領選挙当時、民主党はトランプ氏が低劣な行動をしても対抗するのではなく、道徳的な優位を維持することが重要だという立場だった。


当時、民主党はトランプ氏が勝利するとは予想していなかった。世論調査の結果も同じだった。半面、現在のハリス氏と民主党は手段を問わずトランプ氏を攻撃している。今回の選挙をトランプ氏の司法リスクに照準を合わせる「検事対犯罪者」の選挙構図にしているのだ。


こうした戦略の変化はハリス氏に良い結果をもたらすのだろうか。


政治評論家はひとまずハリス氏はヒラリー氏に比べて選挙期間が短くて有利だと分析している。


ヒラリー氏は2016年の民主党予備選挙でバーニー・サンダース上院議員と激しく争い、傷ついた状態で大統領候補になった。


しかしハリス氏は候補を辞退したバイデン大統領が後継者に選び、選挙日が100日も残っていない状況で競争よりも統合が重要だと考えた民主党が支持を集め、容易に大統領候補になった。


またヒラリー氏が大統領夫人、上院議員、国務長官を務め、数十年間にわたり注目を集めたことで共和党の攻撃を受けたのに対し、ハリス氏は相対的に知られている内容が多くない


トランプ氏を支持しない共和党戦略家ファシオ氏は「圧縮された日程はハリス氏にかなり有利」とし「いろいろと考える時間がない分、それだけ敏捷になるはず」と分析した。また「知られていない候補と誰も好まない候補の間から選ぶ場合、私はいつも知られていない候補を選ぶ」と話した。









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JALはなぜボーイング社を訴えられなかったのか…「日航ジャンボ機墜落事故」を闇に葬った中曾根政権の圧力

2024年08月13日 15時06分19秒 | 事件と事故


JALはなぜボーイング社を訴えられなかったのか…「日航ジャンボ機墜落事故」を闇に葬った中曾根政権の圧力 (msn.com) 






「ボーイング社の修理ミス」が事故の原因
© PRESIDENT Online

1985年8月12日に発生した日航機123便墜落事故から、今年は40年目を迎える。ボーイング社による修理ミスが原因だったが、同社が訴追されることはなかった。元産経新聞論説委員の木村良一さんは「捜査当局は修理ミスを見逃したとして日本航空社員を書類送検した。しかし40年がたち、新たな証言が出てきた」という。新著『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)より一部をお届けする――。
「日航が修理ミスを見逃した」新聞・テレビが批判
ボーイング社の修理ミスによって墜落事故が起きたことが明らかになると、新聞、テレビなどの報道は「日航がボーイング社の修理ミスを見逃し、見落とした」「修理ミスは日航の領収検査や定期点検で発見できたはず」と日本航空を批判し、責め立てた。


世論もその方向になびいた。群馬県警や検察庁も同様な観点から捜査に力を入れ、業務上過失致死傷罪という日航の刑事責任を立件しようと動いた。


墜落事故から4カ月後の1985年12月7日に発足した遺族による「8・12連絡会」も、翌年の4月から8月にかけて5回、日航とボーイング社、運輸省の幹部ら計12人の告訴・告発を行うなど活発な活動を繰り返していた。


もちろん、航空会社には乗客を安全に目的地まで運ぶ運航責務がある。航空法などもそう規定している。


「ボーイング社の修理ミス」が事故の原因
だが、しかし、日航ジャンボ機墜落事故は航空機メーカーであるボーイング社の犯した修理ミスに起因する。日航がパイロットの操縦ミスや天候判断の誤り、整備不良から起こした事故ではない。


しりもち事故の修理に当たり、日航はボーイング社を高く信頼し、損傷した機体の修理をすべて任せるという委託契約を結んだ。日航は立ち会いの領収検査の際に整備士や検査員に「作業エリアに近寄り過ぎてボーイングのAOGチームの邪魔をしてはならない」という指示まで出していた。



日航はボーイング社を特別扱いした。

整備部門には「ボーイングは神様だ」と高く評価する声まであった。それだけボーイング社を信用し、頼りにしていたわけだった。


しかし、厳しい見方をすれば日航の妄信だった。


修理ミスさえなければ、JA8119号機は正常な機体に整備されて日航の手もとに戻り、その後、不具合(調子や状態の良くないこと)や故障が見つかったとしてもさらなる整備・修理によって安全飛行を重ねることができるはずだった。


航空機は地上に降りるまで、あるいは次の定期点検まで、安全運航が可能なように設計されている。これがフェイル・セーフ(多重安全構造)とリダンダンシー(冗長性、余剰安全装備)による安全性の担保である。


しかし、後部圧力隔壁の修理で中継ぎ板を2枚に切断し、それぞれ接続部に差し込んでリベットで留めるという強度を軽視したボーイング社の作業によって隔壁のフェイル・セーフもハイドロ・システム(油圧装置)のリダンダンシーも役に立たなくなった。


結果的に安全運航を無視したことになる。


ボーイング社とアメリカ政府にものを言うべきだった
日航や運輸省、事故調、群馬県警、検察庁、それに日本政府はもっとボーイング社とアメリカ政府に対し、ものを言うべきだったのではないか。


墜落事故から3カ月後の11月初旬のことである。


木枯らしが吹き始めていた。大手町など東京駅周辺のビジネス街でも、街路樹の黄色く染まったイチョウの葉がビルの谷間の路面に落ち、赤や茶に紅葉した他の落ち葉といっしょに強い風に吹かれて高く舞っていた。


日差しが雲に隠れると、寒かった。近くのビルの飲食店街まで昼休みで食事に出た帰りなのだろう。


上着の襟を立てたサラリーマンやカーディガンを羽織ったOLの姿が多く見られた。


この日、東京駅前の東京ビルヂング(旧丸ビル)の日本航空本社で行われた役員会議の後、松尾芳郎(事故当時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者)は社長室に立ち寄り、社長の高木養根(たかぎやすもと)に面会している。



「ボーイングを訴えましょう」
役員室や社長室は最上階の8階にあった。眼下で街路樹が木枯らしに揺れているのが、窓越しに見える。


向こうの灰色のビルの屋上では、いくつもの落ち葉が小さな竜巻に飲まれたかのようにグルグルと回っていた。


お茶を運んできた女性秘書が出ていった。社長室にいるのは松尾と高木の2人だけだった。最初、松尾は高木の大きな机の前に立って話していたが、高木にソファーに座るよう勧められ、そこに腰を下ろした。


応接セットのテーブルの上には2つの湯呑み茶碗のほか、ガラスの灰皿と煙草を入れた木製のケースが載っていた。


松尾は日航の自分の事故調査で新たに判明したことを報告した後、少し大きな声で「ボーイングを訴えましょう」と進言した。思い切った発言だった。


ボーイング社に非があることは十分に理解していた
しかし……、松尾のその進言を聞いた高木は黙ってうなずくだけだった。聞き置くといった感じだった。


うなずいた後、高木は煙草に火を点けて一度煙を深く吸い込み、そして紫煙をくゆらせながら天井をじっと見ていた。


松尾は後になって「もう少し強くお願いすべきだった。担当の専務や上の役員たちにも具申すべきだったかもしれない」と反省したが、松尾の進言を否定せずに聞き置いた高木は、松尾と同じ思いを持っていたのだろう。


松尾を信頼して墜落事故の原因調査を任せた高木だ。


これまでの松尾の報告からボーイング社に非があることは十分に理解していたはずである。


高木には自分の信じる道を貫こうとする強い信念があった。寡黙だが、しっかりとした考えの持ち主で日航社内での評価は高かった。


戦後日本の航空業界のなかで半官半民の日航を世界的な航空会社に育て上げてきた1人だ。歴代の日航社長のなかで初めて社内から社長に就いた人物である。


学生時代には治安維持法違反の罪に問われ、自ら京都帝国大学文学部哲学科を中退し、東京帝国大学法学部に入学し直すという苦労もしている。


松尾はそんな高木を尊敬していた。だから進言まで行ったのである。


「日本とアメリカは運命共同体である」中曽根政権が成立していた
聞き置くだけの高木だったが、墜落事故の起きた年の12月18日に社長を辞した後も8月12日になると、御巣鷹の尾根への慰霊登山を繰り返していた。


墜落事故当時、1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終結から40年がたっていても、まだ日本はアメリカに完敗したという敗戦色が消えず、日米関係はアメリカ優位の状態が続いていた。


そんななか、政界で頭角を現し、勢いを増していた中曽根康弘が政権を握る。


1982(昭和57)年11月27日に第1次中曽根内閣を成立させると、中曽根はアメリカとの関係を重視し、日米関係を揺るぎないものにしようと考えて翌年すぐに渡米、日米首脳会談(1983年1月18日、19日)で「日本とアメリカは運命共同体である」と強調し、強固な日米関係を作り上げていく。


史上初めての「ロン・ヤス関係」
このときの渡米で中曽根は大統領のロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日〜2004年6月5日、享年93歳)と会食をする。


レーガンが「私をロンと呼んでくれ。あなたをヤスと呼びたい」と語り、それ以来、2人は「ロン」「ヤス」とファースト・ネームから取ったニックネームで呼び合うことになる。


首脳同士がニックネームで呼び合うなど日米の歴史のなかで初めてのことだった。


映画俳優を経てカリフォルニア州知事から第40代大統領に選ばれたレーガンは、大統領を1981年1月20日から1989年1月20日まで8年間、務めている。


「ロン・ヤス関係」は、良好な日米関係を象徴していた。


たとえば、レーガンは夫人の元女優、ナンシー(1921年7月6日〜2016年3月6日、享年94歳)をともなって1983年11月9日から12日にかけて国賓として日本を訪れている。この来日で奥多摩に近い中曽根の別荘「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロン・ヤス会談(11月11日)が開かれ、その席で中曽根はお茶を点ててレーガンとナンシーの2人をもてなした。


ボーイング社を提訴すれば日米関係にひびが入る
「ロン・ヤス関係」が出来上がった後、1985(昭和60)年8月12日に日航ジャンボ機墜落事故が起きる。


日本航空がアメリカを代表する企業であるボーイング社を提訴すれば、中曽根政権が築いた日米関係に大きなひびが入る。


中曽根はレーガンと強く結び付いていた。そんな中曽根政権下でボーイング社を相手に訴訟を起こすことなど到底不可能なことだった。


結局、日航はボーイング社を提訴することはなかった。


高木はアメリカとの外交上、日本が不利益にならないように中曽根政権から求められていたのかもしれない。


あるいは高木自身が日本の将来をおもんばかったのかもしれない。


墜落事故から2日後の8月14日午後、高木は首相官邸に中曽根を訪ね、事故の謝罪と辞任の意向を伝えている。


そして12月18日に社長を辞任し、相談役に退いた。


「日航の民営化」を推し進めていた
中曽根政権は一連の行政改革のなかで、日航の民営化を推し進めていた。墜落事故が起きる1カ月前の7月には、総務庁の初代事務次官、山地進(1925年5月12日〜2005年5月27日、享年80歳)を常勤顧問に送り込んでいた。


日航では8月12日の墜落事故当日、日航123便(JA8119号機)が御巣鷹の尾根に墜落する数時間前に経営会議が開かれ、社長の高木をはじめとする役員たちが完全民営化の方針を決定している。


事故後の12月18日に高木が社長を退くと、中曽根は自分が気に入っていた鐘紡(カネボウ)社長の伊藤淳二を社長に推した。


しかし、人事が混乱するなどうまくいかず、伊藤を会長に据え、社長には山地を起用した。この伊藤・山地体制で日航は1987(昭和62)年11月に完全に民営化される。


中曽根は日航社内で人望のあった、初の生え抜き社長の高木を墜落事故の責任を取らせる形で辞任させ、高木に従う役員も辞めさせるなど日航という半官半民の会社をうまく掌握しながら完全民営化を推し進め、それを成し遂げた。


---------- 木村 良一(きむら・りょういち) 元産経新聞論説委員・編集委員 1956年10月18日生まれ。慶應義塾大学卒。慶大新聞研究所修了。ジャーナリスト・作家。日本医学ジャーナリスト協会理事。日本記者クラブ会員。日本臓器移植ネットワーク倫理委員会委員。三田文学会会員。元産経新聞論説委員・編集委員。元慶大非常勤講師。産経新聞社には1983年に入社。社会部記者として警視庁、運輸省、国税庁、厚生省を担当し、主にリクルート事件、金丸脱税事件、薬害エイズ事件、脳死移植問題、感染症問題を取材した。航空事故の取材は運輸省記者クラブ詰め時代(89年~91年)に経験し、日航ジャンボ機墜落事故の刑事処理(不起訴処分)などを取材した。社会部次長(デスク)、編集委員などを経て社説やコラムを書く論説委員を10年間担当し、18年10月に退社してフリーとなる。02年7月にファルマシア医学記事賞を、06年9月にファイザー医学記事賞を受賞している。著書に『移植医療を築いた二人の男』(02年、産経新聞社)、『臓器漂流』(08年、ポプラ社)、『パンデミック・フルー襲来』(09年、扶桑社新書)、『新型コロナウイルス』(20年、扶桑社)などがある







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「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは?

2024年08月13日 13時05分48秒 | 事件と事故


「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは? (msn.com) 


「日航ジャンボ機墜落事故」が起きた翌日(1985年8月13日)の現場の様子(写真:Haruyoshi Yamaguchi/アフロ)
© 東洋経済オンライン



8/13/2024

520人の命を奪った航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」は、1985年8月12 日に起きました。事件や事故が起きた直後と時が過ぎた後では、その見え方が違ってきます。新たな証言や関連資料が出てきたり、時間の経過がそれまでの社会通念や固定観念などを拭い去ることがあるからです。

本稿は元日航取締役(技術担当)の松尾芳郎氏への、2020年以降の取材をベースとした木村良一氏の著書『日航・松尾ファイル -日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』より一部抜粋・再構成のうえ、事故が起きた原因への数々の疑問を提示します。

当時の技術部長による手記
航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」のあるファイルを手に入れた。入手のいきさつは後で説明するが、「手に入れた」というよりも「託された」のだと思っている。もちろん、このファイルが外部に出るのは初めてのことである。


【写真を見る】事故後に展示された日航123便の後部圧力隔壁


ファイルは1985(昭和60)年8月12日の墜落事故の発生時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者の松尾芳郎によって書かれ、まとめ上げられた。松尾は事故当時54歳だった。

墜落事故の機体(型式B‐747SR‐100、国籍・登録記号JA8119)が7年前に大阪国際空港(伊丹空港)で起こした「しりもち事故」のときには松尾は技術部長という要職にあり、後部圧力隔壁の修復を含めた機体の修理をアメリカの航空機メーカー、ボーイング社に「すべて任せるべきだ」と進言した人物である。後にこの圧力隔壁の修理ミスが墜落事故の原因に結び付くことになる。



ファイルには松尾が警察と検察に受けた事情聴取の内容が克明に記されている。松尾は群馬県警察特別捜査本部の取り調べが終わると、取り調べの内容やその様子をノートに書き上げ、その日のうちに宿泊先の前橋市内のホテルからファクシミリで東京・丸の内の日本航空の本社に送った。いまと違いパソコンや携帯電話はなく、ファックス、固定電話、郵便が伝達手段だった時代である。


日航ジャンボ機墜落事故の取材でも、新聞社やテレビ局は墜落現場の山中から原稿や写真、映像、音声を送るのにかなり苦労した。無線機を使って送稿、送信しようとしても電波の届きが悪かった。中継の電送車やヘリコプターを配置したが、それでも思うようには送れなかった。


ファイルには墜落事故に関する日航の資料はもちろんのこと、墜落事故に対する松尾自身の意見や考え方、見解も書かれている。日航の内部文書であると同時に松尾の個人的資料でもある。ファイルの大半は松尾の手書きである。


日航123便の後部圧力隔壁(写真は2006年4月19日撮影、書中ではモノクロで掲載:産経新聞社提供)

© 東洋経済オンライン
松尾は慶應義塾大学工学部機械工学科を卒業して1954(昭和29)年4月に日航整備会社(1963年に日本航空に吸収合併される)に入社し、入社の翌年にはアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校工学部に留学し、復職後は一貫して技術・整備畑を歩んだ日航生え抜きの航空技術者(航空エンジニア)である。


1930(昭和5)年9月30日生まれだから卒寿の90歳を軽く超えている。だが、そんな高齢とはとても思えない活躍ぶりで、IT(情報技術)の知識を駆使して運営するWebサイト(TOKYO EXPRESS)に自らの航空論文を掲載し、時間を見つけては好きなゴルフに打ち込む日々を送っている。


松尾に対する本格的な取材は2022年の春から始めた。新型コロナウイルス感染症が流行を繰り返すなかで、通常だったら高齢の松尾に対する取材は難しいだろう。だが、幸いなことに松尾はパソコンを使う能力にも長けていた。ファイルを繰り返し読みながら、メールで何度もやり取りすることができた。筆者は基本的にメールでの取材は避けているが、今回はメールという現代のツールがとても役に立った。


日航123便の後部胴体の一部(写真は2006年4月19日撮影、書中ではモノクロで掲載:産経新聞社提供)




警察や検察による苛烈な取り調べ
ファイルを読み込むと、任意の事情聴取にもかかわらず、警察や検察が松尾の刑事責任を厳しく追及する様子がよく伝わってくる。群馬県警の取り調べでは「お前」「あんた」と呼ばれ、まるで殺人事件の容疑者のように何度も怒鳴られ、日航の刑事責任を容認するよう強要された。群馬県警の取調官に刑事責任があることを認める供述調書を強引に取られそうになったこともあった。


松尾に対する群馬県警の取り調べは、事故原因を特定した運輸省(現・国土交通省)航空事故調査委員会の事故調査報告書が公表された4カ月後の1987(昭和62)年10月29日から始まった。ファイルにはたとえば、こんなくだりがある。


関連するビデオ: Wi-Fi整備「待つ人へその場の空気を」 日航機墜落事故から39年 (日テレNEWS NNN)
現在の時刻 0:11
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〈「警察をなめるな」「俺の言うことがわからないのか」「こんなことでは逮捕勾留しての取り調べもあり得る」〉(1987年11月25日付)
〈「お前は諸規定を自分の都合の良いように説明している」「この調子で警察の言うことを理解しない態度を続けると取り調べはかなり長くなるぞ」「技術部としての責任を認めるべきだ」〉(同年12月9日付)
〈相手(群馬県警)側は時間切れをチラつかせて回答を急がせ、自分たちの意図する方向に調書を作ろうとする態度が見える。まったく油断できない〉(1988年4月27日付)

人権を無視した取り調べ、事情聴取である。松尾に対する事情聴取が始まる前の1987年3月には、群馬県警の取り調べを受けていた元運輸省職員が自殺している。群馬県警の事情聴取は聴取相手を自殺に追い込むほど過酷なものだった。それでも松尾は自分や日航に過失のないことを群馬県警の取調官に繰り返し説明し、決して自らの主張を曲げなかった。


日航、運輸省、ボーイング社の関係者とともに業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検されたが、結果は全員が不起訴で終わっている。群馬県警の取り調べがいかに理不尽だったかがよくわかる。


それにしてもどうして群馬県警はここまで刑事立件にこだわり、やっきになったのか。検察(検察は前橋地検と東京地検の合同捜査)の事情聴取も甘くはなく、厳しいものだった。


修理ミスを認めたボーイング社
警察や検察が松尾の取り調べを始める前にボーイング社は「事故の原因は自社の修理ミスにある」と認めた。ところが、警察と検察は「日航が修理中及び修理終了直後の領収検査で修理ミスを見逃した」「その後の定期検査でも修理ミスによって発生する亀裂(クラック)を見落とした」と判断し、非情な取り調べを続けた。なぜだろうか。捜査の土台となった航空事故調査委員会の調査は的確だったのか。ファイルを読んで感じる大きな疑問である。


1978(昭和53)年6月2日のしりもち事故の後、日本航空はJA8119号機に仮の修理を施し、大阪・伊丹空港から東京・羽田空港に飛ばした。圧力隔壁などが壊れていたので与圧せずに通常より低い高度で飛んだ。



羽田空港に着陸すると、機体を日航のハンガー(格納庫)に運び込み、ボーイング社の修理チームを待った。この空輸には当時、整備本部の技術部長だった松尾もコックピット(操縦室)のオブザーバー・シート(補助席)に座って同乗している。


松尾の進言によって日航はボーイング社の航空技術を信頼し、機体の修理をすべて任せた。ボーイング社の航空技術は世界最高の水準にあると言われていたし、機体はボーイング社が製造したものだった。日航が修理を委託するのは当然だった。


初歩的で単純な修理ミス
しかし、ボーイング社は後部圧力隔壁の修理で、1枚の中継ぎ板を2枚に切断して上部半分と下部半分の接続部の一部にそれぞれ差し込み、結果的にリベットが1列打ちと同じ状態となり、隔壁の強度が落ちた。初歩的で単純なミスだった。


何度も飛行を繰り返す間に金属疲労から多数の亀裂が生じ、隔壁は7年後の飛行で破れた。それが1985(昭和60)年8月12 日に起きた、520人の命を奪った航空史上最悪の日航ジャンボ機墜落事故である。


墜落事故の概要をもう少し説明してみよう。乗客乗員524人を乗せた日航123便(JA8119号機)は、羽田空港を離陸して12分後に「ドーン」という異常音とともに客室内の与圧空気が圧力隔壁の裂け目から一気に吹き出した。


旅客機は地上とほぼ同じ気圧を保って飛行するために客室内は与圧されている。つまり、航空機は風船のように膨らんだ状態で飛ぶ。客室と機体尾部の非与圧空間とを仕切っているのが、大きなお椀の形をした後部圧力隔壁(直径4.56メートル、深さ1.39メートル)だ。


圧力隔壁の裂け目から機体尾部の非与圧空間に吹き出した与圧空気は、上部の垂直尾翼を吹き飛ばすとともに機体をコントロールする4系統すべての油圧装置(ハイドロリック・システム)を破壊した。


機体は操縦不能となった。ドーンという異常音で始まる隔壁の破断から機体尾部の破壊まで1秒もかかっていない。破断、破壊は瞬間的に起きていた。それだけ与圧空気の力は強く、すさまじかった。


コックピットの機長や副操縦士たちは何が起きたかわからず、32分間、機体を激しく上下左右に揺さぶられながら迷走飛行を強いられた末、午後6時56分過ぎ、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。


なぜ世界最高の高度な技術を持つボーイング社の修理チームが初歩的な修理ミスを犯したのだろうか。圧力隔壁の修理はしりもち事故で壊れた下半分を新品と交換して既存の上半分に接合するもので、ボーイング社の修理チームにとっては簡単な作業だった。板金加工並みの単純な仕事である。


羽田空港の作業現場でアメリカ連邦航空局(Federal Aviation Administration=FAA)の認定資格を持つ、ボーイング社の技術者(エンジニア)が作業員(メカニック)に出した作業指示・記録書(Field Rework Record=FRR)は間違ってはいなかった。だが、作業員は指示通りに修理をしなかった。なぜ指示通りに作業をしなかったのだろうか。


修理ミスを犯した背景の説明はなし
日本航空はボーイング社を信頼して契約を結んで修理を依頼した。ボーイング社にとって日航は顧客である。日航は大切なお得意さまだ。それにもかかわらず、日航は裏切られた。もちろん日航に安全運航上の義務や責任はあるが、日航・松尾ファイルを読み進むと、ジャンボ機墜落事故の責任は全面的にボーイング社にあることがわかってくる。


日航は本当に加害者なのか。被害者ではないのか。どうして日航はボーイング社に対し、訴訟を起こさなかったのだろうか。


ボーイング社はジャンボ機墜落事故の1カ月後にしりもち事故の修理ミスが事故原因であることを認めた。JA8119号機だけの固有の問題にとどめたかったからだろう。ただし、修理ミスが事故原因だと認めてもボーイング社はその修理ミスがどうして起きたかについて背景を含めこの40年近く、何も明らかにしていない。


問題の修理ミスは修理作業の過程でどのように起きたのだろうか。後部圧力隔壁の上半分と下半分をつなぎ合わせる際、接合面の一部分が不足して1枚の中継ぎ板を使う指示が出された。だが、作業員はこの中継ぎ板を2つに切り分けて使用した。そのために強度不足が生じた。なぜそんな作業をしたのか。ボーイング社は当然、修理ミスが起きた原因を究明・検証したと思うが、どうしてその内容をつぶさに日本側に伝えなかったのか。


ボーイング社だけではない。アメリカの司法当局も日本の警察や検察の国際捜査共助の求めに応じなかった。元首相の田中角栄を逮捕したロッキード事件のときには、アメリカは日本の求めに応じて嘱託尋問まで行った。それなのになぜ、日航ジャンボ機墜落事故では日本側の捜査共助の要請を断ったのだろうか。政治・外交レベルでの日本とアメリカの関係はどのようなものだったのかも考える必要がある。


ここまでざっと考えただけでも疑問が次々と湧いてくる。







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しゃぶしゃぶ温野菜」の食べ放題サブスク>月額1万1000円(税込)月20日間通った女性を直撃

2024年08月13日 12時05分42秒 | 食のこと

しゃぶしゃぶ温野菜」の食べ放題サブスク、月20日間通った女性を直撃

 

サブスクリプションサービス、通称「サブスク」。定額料金を支払うことで、一定期間お得なサービスが受けられるというもの。徐々に世間で定着しつつあるが、特に話題となるのは飲食店のサブスク。「牛角」をはじめ、なかには人気すぎて販売終了したものも
 
社会人にとって日々の飲食代はバカにならないものだが、サブスクをうまく活用すれば、ライフスタイルそのものを変えてしまうほどの魅力を秘めている。今回はサブスクを駆使する人たちに話を聞いた。 
 
「しゃぶしゃぶ温野菜」に1か月で20日間通った女性会社員の声


画像は、とまロマさん(@gyutanchang)のTwitterより

「しゃぶしゃぶ温野菜」のサブスクは、月額1万1000円(税込)で肉や野菜、おつまみやデザートを好きなだけ食べられるサービス。反響が大きすぎたのか、今年3月で終了となる。

「私も使ってみたかった!」という呟きがSNSには溢れていた。では、実際に「しゃぶしゃぶ温野菜」のサブスクがどんなものだったのか。体験者に聞いてみた。 「私は連続で6日間、合計およそ20日通いました」  

 こう話すのは20代女性会社員のとまロマさん(@gyutanchang)。平日の仕事帰りを中心に、土日は家から温野菜に通ったという。 

温野菜サブスクもほぼ毎日通って2週目にもなると店員さんに完全に顔を覚えられている感がある


予約名で「アッ」顔をだして「アッ」て感じ ウッス
おひとり様でサブスクで女子ってサブスク使用者の中でも割合低そうだしなぁ

— とまロマ (@gyutanchang) January 21, 2020

「普段買わない野菜も少量ずつ食べられるところが気に入っています。私は一人暮らしなので、少量ずつ買うと高くて。なのに、野菜を残してとっておいてもうまく使えずに腐らせてしまうんですよね」 

 温野菜のサブスクでは、肉、野菜、おつまみなど合わせて60種類以上の食材が選べるうえ、豆乳だしや火鍋など、普段家庭では食べないようなだしの味を選ぶことができる。具材とだしの組み合わせ次第では、食べ方は何通りにもなり、自分の好きな食べ方を見つけるのも楽しそうだ。 

しゃぶしゃぶ温野菜田町三田口店、本日もお世話になりました

お寿司はこの3つが美味しくてヘビロテしております

 pic.twitter.com/JNxOIEWulv

— とまロマ (@gyutanchang) January 26, 2020

 とまロマさんの場合、まず最初に注文するのは洒落ネギ、人参、大根。その日の気分次第で、舞茸、玉子、トマト、チーズなどを追加するそうだ。  

「サッとしゃぶしゃぶした洒落ねぎを豚カルビで巻いて食べたり、甘い人参をすきしゃぶだしに入れて、卵にからめて食べたりするのが好きです。豆乳だしにはごまだれか塩コショウが合うなと思いました。締めには卵雑炊ご飯半分を和牛だしか極みだしで食べるのが最高ですね」

  想像するだけでよだれが出てしまいそうだ。とはいえ、20日間も通って飽きないのか? 「思ったほどは飽きなかったです。でも、本当は1日空けて、週に2、3度くらいが理想なのかも」  

週に数回であれば、野菜を美味しく食べられて健康的な気もする。反響が大きいのにも納得はするが、あとは、お得かどうかが知りたい。

 「お得です。というか、お得すぎたのでなくなっちゃったんだと思います(笑)」 

 3月で終了していなければ続けていたかも、と語るとまロマさん。復活することを切に願っている。
 
 
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