いつだって大変な時代 (講談社現代新書) | |
堀井憲一郎 | |
講談社 |
『いつだって大変な時代』を読む。
「コイツひねくれてるなあ」と苦笑しつつ読む。
堀井さんの著作は初読。1958年生まれというからわたしより1歳下。完璧バリバリの同年代だ。だから、というわけでもないだろうが、いちいちごもっともと同意しつつ読んだ。
この場合、わたしが言うところの「ひねくれてる」というのは褒め言葉のニュアンスが大きい。「正論(だとわたしが感じる)=ひねくれてる」ということは、ママあることだ。というかしょっちゅうある。
「ひねくれてる」か「正論」か。「ただのひねくれ」か「ひねくれてるけど正論」か。本文から、ごくごくかいつまんでいくつかのセンテンスを引いてみる(ホントはもっとおもしろいのがたくさんあるんです)。
「科学の発達によって我々は最先端の世界を生きている」というのは、大いなる妄想である可能性があるということだ。1000年後、「科学、という考えにとらわれ、我々は長いあいだ、非常に間違った生活をしていました」と教えられてないともかぎらない。というか、たぶんそうなるんじゃないか。(No.424)
まだ、われわれは「未来はよくなっていくのではないか」といううっすらとした期待を抱いている。人間であるのだから、どの時代であれ、この先よくなっていく、と信じて生きていくのは、元気のもとになるからいいのであるが、社会全体が信じているのはどうだろう。(No.768)
生活は便利になる。でもそれはべつに人類が発展しているわけではない。そもそも、便利にさえなってないものも出てきて、あまりにいっぱい出てくるものだから判断できなくなって、ひたすら便利という言葉と引き替えに、消費生活を送るばかりである。(No.829)
ただ、発展してるつもりで停滞している社会は、きちんと没落する。歴史を見るかぎりはそうである。循環する社会は、最初から循環してるという意識を強く持っている。そこでは若者には発言権はありませんな。若者の機嫌を取るような商品も発売されない。そういう点で、いまの日本は、危うく脆い地平に立っている。(No.1006)
機械文明的な便利さと、細かく刻んだ情報をたやすく手に入れられるという部分において、われわれはとても進んだ世界に生きているように錯覚してしまう。しかし、落ち着いて考えると、べつにふつうの世界にしか住んでいない、ということがわかる。
べつにわれわれは選ばれてはいない。
ということは、とくに大変な時代に生きてるわけでもなければ、すごく素晴らしい世界に生きているわけでもない。(No.2072)
「いまは大変な時代だ」と考える力は、どうも、社会を前に進める力になっているようなのだ。だから私はそこに参加していないのだろう。
日常生活は、ふつう、自分やその周辺のことだけで手一杯になってしまう。でも、社会とつながっていたくない、と言うわけにはいかず、自分も社会の一員だということを示そうとするとき、手っ取り早いのが「いまは大変な時代ですね」という言葉なのだ。日常を維持して、毎日を過ごしていくためには、いまは大変な時代だ、と考えていたほうがラクなのである。それは生きて行く活力としてとても必要なものなのだ。
ただ、それを「じっくりとものを考えるとき」にスライドしないほうがいい、という話でもある。(No.2175)
如何だろうか。
わたしは好きである。
堀井憲一郎、もういくつか読んでみたい。
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