2020年5月20日(水)
4つ前の記事、「分断か統合か」で予告した件、恣意的に引かれた境界線がいかに「分断」の基となるかという話で、以下は東京大学法学部1977年度後期、坂本義和先生の「国際政治」の講義で教わったことを、記憶に沿ってなぞってみる。
アフリカ大陸の南西部では、もともと部族・民族が大陸大の同心円をつくって棲み分けていた。海岸沿いに部族A、やや内陸に部族B、さらに内陸には部族C、思いきり単純化するならそのように、諸部族がそれぞれの自然条件に適応しつつ、海岸線に沿う方向へ等高線を描くように広がっていたのである。
そこへやってきたヨーロッパ列強は、こぞって海岸に拠点を設け、それぞれの拠点から内陸方向へ向かって植民を行った。X国とY国とZ国、列強同士は争いを控え、互いの間に境界線を引いて不可侵とし、速さを競いつつ易々と内陸へ侵食していった。部族の分布とは直行する放射状の方向である。
X国、Y国、Z国の引いた境界線は時とともに定着し、そこれが新たな「国境」となった。国境に区切られて国ができ、そこに植民地国家としての x国、y国、z国が育っていった。 アフリカが独立の時代を迎えたとき、実際に独立したのはこれらの国々、すなわちヨーロッパ列強による恣意的な国境線によって括り出された、本来のアフリカの必然性とは無関係な集合としての国家である。
このように成立した x国、y国、z国は、当然ながらそのいずれもが国内に部族A、部族B、部族Cを抱えることになった。アフリカ諸国がどれもこれも部族紛争によって、恒常的に悩まされる根本原因がここにある。アフリカ人の無能や攻撃性のゆえではない、ヨーロッパ列強が恣意的に引いたあらずもがなの境界線が、既成事実としての力を振るい、自然や歴史の条件とかけはなれた「分断」をつくり出した結果である。
実際、ギニア湾に面するアフリカ諸国の国境線を眺めていると、誰の心にも疑問が湧いてくるはずだ。この一帯の国境線は、なぜこんなに不自然でいびつな形をしているのだろうか?その理由は歴史を知らなければ分からないし、歴史を知ればあっさり分かる。
たとえばこの地図について。ガーナは旧イギリス植民地であり英連邦加盟国である。ベナンはフランス領ダホメからダホメ共和国を経て、1975年にベナン人民共和国となった。両者にはさまれたトーゴ(上記ロメが首都)にはドイツ領トーゴラントが存在したが、第一次世界大戦のドイツ敗戦の結果、西3分の1がイギリス、東3分の2がフランスの委任統治領とされた。その東部分にあたるのが現トーゴである。英・独・仏鼎立の産物、国境そのものが何よりの歴史資料というわけだ。
そのように恣意的に引かれた線であっても、後から生まれたものにとっては「既にそこに在ったもの」としての権威を帯び、その権威に照らされながら後の世代が育っていく。痛ましくもあり、逞しくもある。
トーゴには40を越える部族があり、主たる言語としてエウェ語とカビエ語が話されるいっぽう、公用語はフランス語である。
ネット上に、こんな記事があったので貼り付けておく。
「アフリカにトーゴ共和国という小国がある。在留邦人が数人しか居ないので、あまり馴染みのない国だ。しかし、2011年の東日本大震災時、いち早く日本に駆け付けた大統領はトーゴの大統領である。宮城県仙台市を訪れ、復興支援としてチーク材が贈呈されている。」
「アフリカ西部トーゴのニャシンベ大統領が27日、宮城県亘理町を訪問し、東日本大震災の津波被害を受けた沿岸部の復興状況を視察した。2011年の震災直後にも亘理町を訪れており、「町が復興した姿に感銘を受けた」と話した。
ニャシンベ氏は5階建ての温泉施設の屋上から、11年に訪れた荒浜漁港や、かさ上げ道路の内陸側に広がる住宅街を見回した。山田周伸町長から、当時を伝える写真を元に、町民306人が犠牲になったことや、住宅再建が進み、復興事業の約9割が完了したことについて説明を受けた。
ニャシンベ氏は11年6月に首脳会談などで来日した際、希望して亘理町を視察。横浜市で今月28日から開かれるアフリカ開発会議(TICAD)で来日したのを機に「復興状況を見たい」と再訪を熱望していた。」(2019.8.27 産経フォト)
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