散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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1960年代前半の東急沿線

2020-05-23 16:48:42 | 日記
2020年5月23日(土)

  地域の広報紙が、古い写真を掘り出してきた。古いといっても1960年代だが、1940年代と60年代を区別できない世代が既に世の主流である。こうして時は流れていくわけだ。




 わが家が移り住んだのは昭和48年だが、駅の作りはほぼこれと同じだった。線路に向かって南北から地下に潜り込んでいく構造が懐かしい。今では電車が地下に潜り、改札は地上階にある。線路が地表から消えた分、駅前は広くなった理屈だが、実際にはロータリーがさほど広々した感じを与えない。空が広かった分、昔の写真の方が寛いで見える。
 中央右寄りの大木は、ひょっとして今も健在のあの樹だろうか。


 

 こちらは駅舎を新しくするだけで、そっくり現在に連続しそうだ。地形の関係からか、当時から高架であったのが連続性の一因と思われる。



 最も変わって見えるのはここだ。違いの理由はいろいろあろうが、高架の有無はやはり大きい。立体交差工事に着手したのが昭和34年11月、高架化されたのが昭和36年9月と Wikiの「都立大学駅」にあるから、撮影されたのはちょうど工事進捗中の時期ということになる。写真左奥に足場らしきものが見えるのは、これに関係しているか。昭和39年の東京五輪を境に東京の景観が一変する、その一部でもあり序曲でもあるような一葉である。
 誰かの小説に、都立大学駅周辺の様子を懐かしく描き込んだものがあった。題名に「恋」の字が含まれた、サスペンス仕立てのものだったように記憶するが、珍しくタイトルも著者も思い出せない。

Ω

ギニア湾岸諸国の国境線とトーゴ共和国ニャシンベ大統領のこと

2020-05-21 09:58:26 | 日記
2020年5月20日(水)
 4つ前の記事、「分断か統合か」で予告した件、恣意的に引かれた境界線がいかに「分断」の基となるかという話で、以下は東京大学法学部1977年度後期、坂本義和先生の「国際政治」の講義で教わったことを、記憶に沿ってなぞってみる。

 アフリカ大陸の南西部では、もともと部族・民族が大陸大の同心円をつくって棲み分けていた。海岸沿いに部族A、やや内陸に部族B、さらに内陸には部族C、思いきり単純化するならそのように、諸部族がそれぞれの自然条件に適応しつつ、海岸線に沿う方向へ等高線を描くように広がっていたのである。
 そこへやってきたヨーロッパ列強は、こぞって海岸に拠点を設け、それぞれの拠点から内陸方向へ向かって植民を行った。X国とY国とZ国、列強同士は争いを控え、互いの間に境界線を引いて不可侵とし、速さを競いつつ易々と内陸へ侵食していった。部族の分布とは直行する放射状の方向である。
 X国、Y国、Z国の引いた境界線は時とともに定着し、そこれが新たな「国境」となった。国境に区切られて国ができ、そこに植民地国家としての x国、y国、z国が育っていった。 アフリカが独立の時代を迎えたとき、実際に独立したのはこれらの国々、すなわちヨーロッパ列強による恣意的な国境線によって括り出された、本来のアフリカの必然性とは無関係な集合としての国家である。
 このように成立した x国、y国、z国は、当然ながらそのいずれもが国内に部族A、部族B、部族Cを抱えることになった。アフリカ諸国がどれもこれも部族紛争によって、恒常的に悩まされる根本原因がここにある。アフリカ人の無能や攻撃性のゆえではない、ヨーロッパ列強が恣意的に引いたあらずもがなの境界線が、既成事実としての力を振るい、自然や歴史の条件とかけはなれた「分断」をつくり出した結果である。

 実際、ギニア湾に面するアフリカ諸国の国境線を眺めていると、誰の心にも疑問が湧いてくるはずだ。この一帯の国境線は、なぜこんなに不自然でいびつな形をしているのだろうか?その理由は歴史を知らなければ分からないし、歴史を知ればあっさり分かる。


 たとえばこの地図について。ガーナは旧イギリス植民地であり英連邦加盟国である。ベナンはフランス領ダホメからダホメ共和国を経て、1975年にベナン人民共和国となった。両者にはさまれたトーゴ(上記ロメが首都)にはドイツ領トーゴラントが存在したが、第一次世界大戦のドイツ敗戦の結果、西3分の1がイギリス、東3分の2がフランスの委任統治領とされた。その東部分にあたるのが現トーゴである。英・独・仏鼎立の産物、国境そのものが何よりの歴史資料というわけだ。
 そのように恣意的に引かれた線であっても、後から生まれたものにとっては「既にそこに在ったもの」としての権威を帯び、その権威に照らされながら後の世代が育っていく。痛ましくもあり、逞しくもある。

 トーゴには40を越える部族があり、主たる言語としてエウェ語とカビエ語が話されるいっぽう、公用語はフランス語である。
 ネット上に、こんな記事があったので貼り付けておく。

 「アフリカにトーゴ共和国という小国がある。在留邦人が数人しか居ないので、あまり馴染みのない国だ。しかし、2011年の東日本大震災時、いち早く日本に駆け付けた大統領はトーゴの大統領である。宮城県仙台市を訪れ、復興支援としてチーク材が贈呈されている。」

 「アフリカ西部トーゴのニャシンベ大統領が27日、宮城県亘理町を訪問し、東日本大震災の津波被害を受けた沿岸部の復興状況を視察した。2011年の震災直後にも亘理町を訪れており、「町が復興した姿に感銘を受けた」と話した。
 ニャシンベ氏は5階建ての温泉施設の屋上から、11年に訪れた荒浜漁港や、かさ上げ道路の内陸側に広がる住宅街を見回した。山田周伸町長から、当時を伝える写真を元に、町民306人が犠牲になったことや、住宅再建が進み、復興事業の約9割が完了したことについて説明を受けた。
 ニャシンベ氏は11年6月に首脳会談などで来日した際、希望して亘理町を視察。横浜市で今月28日から開かれるアフリカ開発会議(TICAD)で来日したのを機に「復興状況を見たい」と再訪を熱望していた。」(2019.8.27 産経フォト)

Ω


 

コメント御礼

2020-05-21 08:38:40 | 日記
2020年5月21日(木)

 被爆二世さんより:

 私も最近の世界情勢、日本政府の動きを見ていると戦争の傷跡の風化に危機感を強く感じます。長崎市内で育った被爆2世として、コメントいたします。

 長崎では、毎年8月9日は夏休みの登校日で平和教育の日です。原爆投下時刻にはサイレンが街に鳴り響き、市内全体で死没者に黙祷を捧げ、平和を祈ります。
 歌手の福山雅治さんもインタビューで語られましたが、長崎市内で育った50代の私たちの周りは、被爆2世だらけでした。親や親戚、近所の人にあたりまえに被爆体験があったのです。
 厚生労働省によると被爆者数は80年度末の37万2264人をピークに減少し、13年度末に20万人を下回りました。平均年齢は17年度末時点と比べて0.59歳高い82.65歳となりました。
 私は幼い頃から、一晩中うなされる母を見てきました。それがPTSDという名の精神疾患であることを初めて理解したのは、精神医学を勉強した40歳頃でした。幼い私は苦しむ母を見て母を助けなければいけないと強く思いました。そうした体験から我慢を覚え、人を助けたいと願ってカウンセラーになったのだと思います。

 東北の大震災の時に九州からボランティアに駆けつけた時のこと。
 津波の後と原爆の跡の瓦礫の山の風景が重なり、ひどく苦しくなりました。原爆が被爆2世の私の心の傷になっていることも理解しました。こうして書いていても涙が出ます。
 戦争の苦しい体験から学ばなければいけないことが、私たちにはあります。

Ω

はい?

2020-05-19 21:46:45 | 日記
2020年5月19日(火)


 事実ですか?

 文中に「県民の気持ちも大事にしないといけない」という某氏の言葉が引用されているが、これではそれが長崎県民だけの気持ちであって、日本国民一般には共有されていないように読める。仮にそれが風化の現実であるとしても、風化を進める方向に政府が舵を切るという話はない。
 しかし現実には、「県民の気持ち」でも持ち出さないことには話にならない、「日本の国是に反する」ではどだい通じないってことですか。まったく、エラい人たちがエラい地位についたものだ。

Ω