散日拾遺

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「凡てのこと」あらため「いつでもどこでも」

2020-05-07 11:48:49 | 日記
2020年5月4日(月)に戻って

 祖父の遺品と思われる日めくりカレンダーが壁に掛かっているのを、幼児特有の早さで呑みこみ覚えてしまったのが、「凡てのこと感謝せよ」である。普通に考えれば「凡てのこと感謝せよ」の意味にとれるが、それなら新型コロナ肺炎も「思し召し」と感謝すべきなのか、そこから先どっちに曲がっても幸せになれそうにない。
 εν παντι の訳に関わる問題で、英仏独語訳はいずれもこれを「いかなる状況においても」感謝せよ、と読む。新型コロナ肺炎に封じ込められた現状「においても」であって、この災難そのもの「を」ではない。
 この方が正しいもののはずだと直感は告げるが、その裏づけを取るには、ευχαρισω (感謝する)という動詞が感謝の対象を表わすのに、 εν + 名詞 の形をとるかどうかが参考になるだろう。どうなんでしょうね。
 『新約聖書略解』(日本基督教団出版局)を見たら、「いかなる状況のなかでも感謝しなさい」とあっさり書き下してあった(P.588)。だとしたら、聖書本文の訳をそれにあわせた方がいいのではないかしらん。
 「どんなことにも」とあるところ、「どんな時にも」あるいは「どんな時でも」としたほうが、ギリシア語原文に照らしてしっくりする。「常に」「たえず」「どんな時にも」と、時間軸に沿った三段跳びである。
 あるいは、
 「常に喜べ、絶えず祈れ、いつでもどこでも感謝を忘るな。」
 ちょっと俗かな。全体の文語調と「いつでもどこでも」のくだけた感じがミスマッチなのだ。当座はそこに目をつぶり、これをさしあたりの対案とする。


***
 いずれにせよ、この状況自体は何ともありがたくない。生業の危機に曝されている人々を思えば、自分は非常に楽をしている部類に違いなく、他人様と比べて不平を言うつもりは毛頭ない。ただ一つ残念なのは、本来なら5月2日(土)の飛行機で帰省しているはずだったことだ。
 父が満93歳になり、毎月帰省することを年頭の目標に掲げた。三月までは実行したが、四月でコケた。往生際悪くギリギリまで様子見していたのは、わが家は東京の人々が想像もできないような田舎にあり、着いてしまえば訪れる人は新聞・宅配・郵便配達ぐらい、2mまで人に接近する方が難しい土地である。空港で飛行機を降り次第タクシーで家に直行すれば、郷里に迷惑を持ち帰る恐れはまずなかろう等々。
 迷った末に断念したのは、一つには当の父に直接感染させたら洒落にならないからだが、もう一つは父自身の言葉である。
 「やめとけ、何を言われるやら分かりゃせん。」

 週一回かよっているデイサービス施設や、松山の教会からの文書などを見ると、東京・大阪などの汚染地域からウィルスが持ち込まれることへの懸念、というより恐怖がありありと伝わってくる。当該地域から来た人と接触した場合は、デイサービスも教会出席も2週間は自粛してくれとあり、これは現今の常識に照らして無理もないところ。
 ただ、言葉通り2週間の自粛で済むのなら、なお損得弾いて帰省を検討する余地があったけれども、風評は2週間を超え75日は続くものとすれば、長期にわたって父の生活に深刻な影響を及ぼしかねない。
 「連休中に、東京から息子さんが帰っとった」
 そう口伝えに、噂が広まることの恐ろしさである。
 教会関係の会議をやはりZOOMで行った際、三重の牧師さんのコメント。
 「数字が示す現状ははるかに安全であっても、不安とか恐怖とかいったものは東京と全く同様に、あるいは増幅して伝わっています。」
 そういうことなのだ。病原体は増幅しつつ伝染するのが恐ろしいが、増幅力も伝染力も病原体よりはるかに強いのが「情報」であり、そして「不安」である。やっかいなことにウイルスが変異を遂げるのと同様、「情報」も時とともに尾ひれが付いて変質し、それに伴って毒性はしばしば増強を遂げていく。

 なので父がしっかりしているのを幸い、連休はしっかり引きこもって過ごした。引きこもることに異存はなく、どうせなら美しい初夏の田舎で引きこもりたかったのだけれど。web 会議というものに生理的な反発があったが、今度ばかりは致し方なく我を折った。大学院の指導や各レベルのゼミに連日精を出し、こんなに働いたGWは久しぶりである。だいたいこういったもので、電話・FAX・電子メールから web会議システムに至るまで、通信技術の進歩は必ず労働強化をもたらしてきた。
 土曜日の午前は、北側の部屋で次男が中学国語、西側の部屋で自分が修論ゼミ、家のあっちとこっちで二世代が ZOOM で授業を行うという、昨年までは想像もしなかった風景。2020年のコロナ騒動が、文化史の歯車を確実に一目盛り、回し進めつつある。休憩時にドアの前を通ると、太宰をテーマにした生徒とのやりとりが漏れて聞こえた。こんな授業をやってたのか、案外おもしろそうじゃん。
 その間も父は畑の世話に日々余念なく、土曜日には欠かさず甘夏柑・八朔・レモンによく育った蕗の箱詰めを届けてくれる。物流を支えている宅配システムにファインプレイ賞を進呈したい。蕗の調理は一手間かかるが、この時期に欠かすことのできない食卓の名バイプレーヤーである。 


いつも喜び、たえず祈り、どんな時にも感謝忘れず。

 今はすっきり腑に落ちた。
Ω