散日拾遺

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キチイの克己、ヴロンスキーの苦心

2020-05-24 16:48:42 | 読書メモ
2020年5月25日(月)

 電車内は小説を読み進める格好の空間・時間であったところ、stay home でこの時間がほとんどゼロになってしまい、そのため『アンナ・カレーニナ』が先へ進まない。読みたければ、読むための時間をことさら設けないといけない ~ 新型コロナが私的な生活にもたらした小変化の一つである。

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 初めのうちは、キチイも、すべての肺病患者に対してと同様、彼に対して感じた嫌悪を克服しようと努めたことや、どんな話をしようかと話題を考えるのに苦心したことなども思い起こした。
(上 P.554)

 病気とそれを病む者に対する嫌悪は、今に始まったわけではないし精神疾患に限ったものでもない。あれほど忌み嫌われたハンセン病が実際には感染力の弱いものであり、はるかに感染性の強い結核の患者が生活空間内に存在し続けたという皮肉も思い出される。結核の有病率はかなり高いもので、多くの家庭が患者を抱えていた。
 文学にあらわれた結核患者の総覧をつくったら、どんなものになるだろうか。『魔の山』のハンス・カストルプ、『罪と罰』に登場するカチェリーナ・イワノブナ(=ソーニャの母)、本朝では幸田文の「弟」などがまず思い出される。子規の『病牀六尺』は別格として。
 他家や遠くのことばかり見回していたが、父方の祖父の弟がこの病気で早世していたことを最近知った。温厚な人柄で関西の学校に学んだが、二十歳そこそこの若さで病魔に屈したという。「肺病」は誰にとっても他人事ではなかった。

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 「許してください、不意にやってきたりして。でも、僕はあなたにお目にかからないでは、一日だって過ごせないんです」
 彼は例によってフランス語でいった。それは、ふたりにとってたまらないほど冷たい響きをもつロシア語のあなたという言葉と、これまた危険なおまえという呼びかけを避けるためであった。
(上 P.459)

 ヨーロッパ諸語における敬称と親称の使い分けは、多くの名場面を演出してきた。今日ではどこでも親称の使用範囲が大いに拡張されているが、かつては夫婦・恋人など別して親しい関係に厳密に限られ、逆に親称を用いることがそのような近しさの証明となった事情が背景にある。
 ロシア語にもフランス語にもこの別がある。それを踏まえて二つの言語にまたがる「使い分け」を駆使して見せた点で、最高の用例として推すべき一場面である。当時のロシア貴族が外国語とりわけフランス語を自在に用いたことは、諸家の作品から知られる通り。

 ところで、「敬称と親称の使い分け」というのはいかにも好みのネタであるのに、書いたつもりでこれまでブログで扱ってこなかった(らしい)のには、少々訳がある。

(続く)
Ω

久々のリアル礼拝から

2020-05-24 10:20:53 | 聖書と教会
2020年5月25日(日)

 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。
 「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 (マタイ19:13-15)

 よく知られた箇所で、マルコとルカに並行記事がある。ルカでは「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た」(ルカ18:15)とあり、子供たち(παιδια)が乳飲み子(βρεφη)に拡張されている。βρεφος は文脈次第では胎児までも含む言葉だという。

 「叱った」と訳されている επιτιμαω は、「値踏みする」の原意から転じて
 ① 非難する/叱責する
 ② 勧告する/諫める
 権威の序列に照らせば ①は上から下へ、②は水平ないし(文脈によっては)下から上へ、両義的な対照である。

 マタイ福音書の用例を見ると、①の系列として
 「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(8:26)
 「イエスがお叱りになると悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。」(17:18)
 「群衆は(二人の盲人を)叱りつけて黙らせようとした」(20:31)

 ②の系列としては何と言っても
 「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(16:22)

 以下はどうだろう。
 「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」(12:15-16)
 権威の方向としては上から下へだが、叱責ではなく噛んで含める教諭である。上述の①、②が現に行われている行為の中止や変更を迫るのに対して、予めの禁止である点でもユニークな用例だ。

 以上を勘案すれば、弟子たちがこの人々を「叱った」のが①の趣旨であることは疑いない。それにしても、何をなぜ「叱った」のか。

 13節冒頭は「そのとき」と始まる。直前の3~12節は「離縁」をめぐる教義問答で、例によってファリサイ派が律法解釈をめぐる難題をイエスに吹っかけ、これに対してイエスが律法の真意を説き明かす流れだから、「そのとき」とはそのように「律法に関する重要な議論が交わされていたとき」と言い換えられる。
 「おとなが大事な話をしているのだから、こどもの出る幕ではない、そのように弟子達は叱ったのですね」とM師。
 
 旧約の共同体において、母親は子らの心身を育むのに対して、父親は子らを共同体のメンバーたらしむべく宗教教育を授けることを責務とした。子らは5歳からそのような教育を受け、段階を踏んで15歳でこれを完了する。「バル・ミツワー(בר מצוה, Bar Mitzvah) 」はユダヤの成人式などと呼ばれるが、この語そのものは「律法の子」を意味しており、そのことからも彼らの共同体における「成人」の意義が知られる。(この儀式自体は、カトリックの堅信礼が刺激となって、比較的後代に盛んになったらしい。)
 イエスの許に連れてこられた子供たちは「律法未満」の存在であり、共同体メンバーとしては員数外である。だから弟子たちは蚊帳の外に止めようとし、それを逆にイエスが制した。「叱る」弟子たちをさらに「戒め」たのであるが、ここでも律法の相対化というイエスのライフワークが確かな一歩を進めている。
 律法未満の存在とは、罪の現実に囚われたわれわれ自身に他ならない。その未熟なわれわれが、律法において人と成ることを経ぬまま、直接主の許に慕い寄ることを許される。それが福音であり、だからこそ主は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と断言された。(マルコ10:15、ルカ18:17、マタイはなぜこの重要な言葉を省いたか。

 説教の中で灰谷健次郎への言及があり、さらに下記の言葉が紹介された。

 「神を教えない教育は、悪魔をつくることである」 (トルストイ)

 これで段取りよく、トルストイに戻っていける。それにしても、マスクをかけて讃美歌を歌うのはしんどいな・・・

Ω
 【付記】
 「神なき知育は、知恵ある悪魔をつくる」(小原國芳)について、下記参照
https://www.tamagawa.jp/social/useful/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-76.html