2017年9月21日(木)
> 日本では待機児童の問題もあり仕事の間に子どもを預かる場所というニュアンスが強い保育園ですが、スウェーデンでは保育園は幼児教育の機関と位置づけられていると書いてありました。保育士の倫理綱領を見て、日本の保育士もそういった意識で臨んでいることを実感しました。(勝沼氏)
まったく同じことを私も学んだのです。「忙しい親のための一時預かり」という感覚が抜けていなかったのですが、今日ではまったく違った積極的な意義をもっており、またそれが期待されています。自分自身の関心から少し分節してみれば、
① 子育ては親だけの仕事ではなく、社会全体の課題であること。(「お隣の犬の運命に私は責任がないが、お隣の子どもの運命には責任を分けもっている」)
② 幼児期の愛着形成が成人後の安定した人格やメンタルヘルスの基礎になるという前提(厳密な証明は困難であるものの、正しさはほとんど疑い得ない準・事実)を踏まえ、子育て支援が人づくりの最良の方策となること。
③ 移民・難民の受け入れ拡大に向け、保育の現場が幼児の人権保護の場としての機能を果たすべきこと。
さしあたりこんなことを、保育士さんの倫理綱領から感じ取ったのでした。
①については、例の「共感都市理論」と接続する可能性を夢見ます。グリーフケア(悲しむものとともに悲しむ)だけでなく、子育ての営みを一つの軸にして、「喜ぶものとともに喜」ぶ共同体を構築・維持できないものか。
②については、「スウェーデンでは90年代の不景気に、教育が一番効率のいい投資でありその中でも幼児教育が一番費用対効果が高いとして、保育園の無償化を進めました」との勝沼コメントに直結しますね。「効果」を何で測るかがひとつのポイントでしょうが、成人後のメンタルヘルスの向上にはきっと著効があるはずです。ノーベル賞経済学者のセンが、明治時代の貧しい日本が教育に非常な力を注ぎ、それが国力向上に結実したことを指摘していましたが(ネタ元の新書が手許にない・・・もってったの誰?)、今では日本がこれを学ぶ残念な立場になっているのですね。
③については、先日ある人から指摘されました。国連こどもの権利条約は、「こどもの人権擁護は現にこどもが居住する社会の責任である」との立場を取っているとのこと(私が正しく理解していることを期待します)。移民・難民の受入れに高いハードルを設けてきた日本も早晩変化を余儀なくされるとすれば、保育の場がこどもの人権を守る戦いの最前線になる日が目前に迫っているというのが、この人の主張でした。またしても目からウロコ、でしたね。
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さて、16日の講演でもちだした古いネタの一つが、「産声の奇跡」というものでした。胎児は直接空気を吸ってはおらず(あたりまえですが)、臍帯を通して母胎から酸素をもらっています。これに対応して胎児の心臓の隔壁には大きな穴が空いており、ボタロー管と呼ばれるバイパスも併用して血液が肺をスキップする仕組みになっています。肺組織はすっかり出来上がっているものの、ちょうど膨らます前の風船のように待機しているわけです。こうした胎児循環は分娩過程の終了直前まで維持された後、いよいよ胎児が娩出され外気を吸う瞬間に劇的に変化します ~ 心臓の隔壁の穴がふさがり、ボタロー管が閉じ、血流が肺動脈から肺へ流入して「風船」を押し広げ、赤ん坊が最初の息を吸い、そして吐く、ものの数秒・数十秒間の一大ドラマ完了の合図が「産声」というわけなのです。
この瞬間、赤ん坊はいわば水生動物から陸上動物へ、進化の階梯をジャンプアップするというふうに私は表現したのですが、ちょうど昨夜、放送大学の院生さんから来たメールに面白いことが書かれてありました。母親を介護し、看取った経験を踏まえて修士論文研究を進めている女性が書き手です。
「・・・介護者は、死にゆく人を生の方に引っ張っているのかもしれません。だから疲れるのかも。生を吸い取られる感じがしました。母が心不全から生き返り、水袋のような体がリハビリをして人になっていく過程は四つ足動物が2本足で立ち上がることがどんなに革命的であったかを教えてくれました!」
個体発生は系統発生を繰り返すという金言、それが保育と介護の双方で思い出されていることにいささか感動するのです。
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