散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ここはどこ?

2017-09-26 06:24:11 | 日記

2017年9月26日(火)

 なぜか浅い眠り、夢は五臓の疲れとか。これと「小僧の使い」をひっかけた落語があった。コメント2件に強く同感。漢文を教えなくなる件については、私かねがね日本の文部行政の中核に某国の工作員グループがいるのではないかと疑っていました。日本人の質を時間と共に着実に低下させる施策を、次々繰り出す手際が見事なほどなので。

 それはさておき窓からの眺め、私はどこにいるでしょう?

Ω


朝の雑録 ~ 専門職と時の無情と陶淵明

2017-09-25 06:45:58 | 日記

2017年9月25日(月)

 道なんぞを歩いているときに、ふと警句めいた言葉が頭に浮かぶということがある。例の三上(さんじょう)の機微に連なるものと洒落ておく。

 「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃ち馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)なり」(欧陽脩「帰田録」)

 馬上を途上とでも言い換えればね。詩人は欧・陽脩ではなく欧陽・脩だというのは、今でも欧陽(オーヤン)という中国姓があることから数年前に知ったのだが、欧陽菲菲という台湾出身の名歌手にもう少し注意を払っていれば、とっくの昔に分かってたはずだった・・・さっそく逸れたよ。

 何を思いついたかというと、二つあって。

 その一: 専門職の象徴的機能

 専門職というものはその専門性が求められるから職として存在するようになる、ここまでは分かりきった理屈だが、背景にはその社会で何が起きており、人々が何に価値を置くかを象徴的に表す意味がある・・・書いてみたらあたりまえ過ぎてバカみたいだ。このところ「保育」がマイブームで、保育士という資格と職種について思ったのである。倫理綱領三箇条はかなり強いインパクトを個人的にもらった。

 その二: 自ら老いずして子の成長を見ることはできない

 これまたあたりまえだが、考えてみれば厳しいことである。化学反応における共役関係みたいなもので、自分の老化と後生の成長(あるいは先達のさらなる老化)は常に必ず連動して起きる。この夏、中島みゆきの『慕情』を聞いた。「甘えてはいけない/時に情けはない」という箇所が最初は意味がとれず、二度目にわかって背筋が寒くなった。「歳月人を待たず」の強烈なバリエである。

 ところで、「歳月人を待たず」がこれまた陶淵明に由来すること、3分前に初めて知った。知らないことばっかりだ。これ、暗誦しようかな。

***

 『雑詩』 陶潜

人生無根蒂 (人生は根蒂無く)

飄如陌上塵 (飄として陌上の塵の如し)

分散逐風轉 (分散し風を追って転じ)

此已非常身 (此れ已に常の身に非ず)

落地爲兄弟 (地に落ちて兄弟と為る)

何必骨肉親 (何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん)

得歡當作樂 (歓を得ては当に楽しみを作すべし)

斗酒聚比鄰 (斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む)

盛年不重來 (盛年 重ねて来たらず)

一日難再晨 (一日 再び晨(あした)なり難し)

及時當勉勵 (時に及んで当に勉励すべし)

歳月不待人 (歳月 人を待たず)

Ω

 


チェーホフの描く愛すべき人々

2017-09-24 22:28:06 | 日記

2017年9月24日(日)

 「お前の神、おれの神、やかましく言うの、金持ちだけね、貧乏人そんなことどうでもいいよ」

 「このおかみさんは「どの学生さんにもおっかさんがある」からと言って学生たちをたいそう可愛がってくれた。」

 こんな気もちが人々の間に浸透したら、どんなに暮らしやすい世の中になるだろう!

 いずれもチェーホフの短編に現れるフレーズで、折にふれて思い出しては温かい気もちになる。チェーホフの描く人物にはひとりひとり存在感があり、繰り返し思い出すうちに実在の知人・友人のように思われる対象が幾人もある。

 以前にも(何度か)触れた新潮文庫中の一冊、『退屈な話』『グーセフ』『決闘』『黒衣の僧』の4篇を集めた小笠原豊樹訳の逸品。残念ながら現在は絶版である。

***

 一同が場所のまわりをうろうろしたり乗りこんだりしている間、ケルバライは道ばたに立ち、両手を胸にあてて深々とお辞儀をしては、白い歯を見せるのだった。旦那方は風景を楽しみ、お茶を飲むために来たと思っていたので、なぜみんなが馬車に乗りこむのか、わけが分からなかったのである。一同の沈黙のうちに馬車の列は動き出し、居酒屋のそばには補祭一人だけが残った。

 「店に入るね、お茶飲むね」と、補祭はケルバライに言った。「私たべたいね」

 ケルバライはロシア語を上手に喋るのだが、補祭は、片言のロシア語のほうがダッタン人には通じやすいだろうと思ったのだった。

 「卵焼くね、チーズくれるね・・・」

 「どうぞ、どうぞ、お坊さま」と、ケルバライはお辞儀をしながら言った。「なんでも差し上げるね、チーズあるよ、葡萄酒あるよ、好きなもの食べるよろしね」

 「ダッタン語で、神さまは?」と、店に入りながら補祭は尋ねた。

 「あんたの神様、私の神様、同じね」と、質問の意味が分からずにケルバライは言った。「だれの神様も同じ、人間違うだけね。ある人ロシア人、ある人トルコ人、ある人イギリス人、いろんな人いるが、神様一つね」

 「なるほど、もしすべての民族が唯一の神を拝むのなら、きみたち回教徒がキリスト教徒を永遠の敵と見るのはなぜだ」

 「なぜ見るか」と、ケルバライは両手を胸にあてて言った。「あんた坊さま、私回教徒、あんた食べたい言うね、私差し上げるね・・・お前の神、おれの神、やかましく言うの、金持ちだけね、貧乏人そんなことどうでもいいよ、どうぞ、食べなさい」

『決闘』P.268-9

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 十時十五分前になると、講義をするために愛すべき悪童どもの所へ行かなければならない。私は着替えをすませ、もう三十年も前からよく知っている街路、私には思い出の深い街路を歩いて行く。まず薬局のある灰色の大きな建物。ここは昔小さな建物が立っていて、その中にビヤホールがあった。そのビヤホールで私は学位論文の構想を練り、ワーリャに最初の恋文を書いたのだった。≪Historia morbi≫(病歴)という文字の刷り込んである紙に鉛筆で書いたのである。次に食料品店。昔ここの主人はユダヤ人で、つけで私に煙草を売ってくれたが、その後、太ったおかみさんが店番をするようになり、このおかみさんは「どの学生さんにもおっかさんがある」からと言って学生たちをたいそう可愛がってくれた。現在は赤毛の商人が座っているが、これは何事にも無関心な男で、銅の湯沸(サモワール)からじかに茶を飲んでいる。

『退屈な話』 P.15-6

Ω


身代わり観音と感謝する力

2017-09-23 09:26:40 | 日記

2017年9月23日(土)

 初診の患者さんの荷物にお守りがぶら下がっていたので、どこのものかと訊くと「弘明寺」だという。8世紀の行基に遡るとされる古刹で、本尊はその時代に彫られた十一面観世音菩薩だが、京浜急行電鉄が設立百周年を記念して2001年に奉納したという身代わり地蔵菩薩がすっかり有名になっている。

 「身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすって祈願すると、その箇所を癒してくれる」との謂われは、全国に数多い「身代わり地蔵」「とげ抜き地蔵」の系譜である。つい最近知ったことに、小石川・源覚寺の「こんにゃく閻魔」も同系統の謂われを担っている。

 「源覚寺の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。それにはこんな言い伝えがあります。

 宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。満願の日に、老婆の目は治りました。以来、大王の右目は盲目となりました。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えつづけたということです。

 このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。」

(http://www.genkakuji.or.jp/intro.html)

 僕は桜美林時代に、身代わり地蔵の心理構造について「共感呪術」という観点からエッセイを書いたことがある。それで思い出したが、こんにゃく閻魔と身代わり地蔵には微妙だが見逃せない違いがあり、身代わり地蔵では癒しを求める祈願者自身が、「タオルやハンカチでお地蔵様をさする」という行為が介在するところが重要なのだ。これはいわば、患部に自分の手を当てる作業(手当て!)を、患部をいったんお地蔵様に投影した上で行っているに等しく、外在化された自己治療ともいえる。理屈はさておき、癒しを求めるひたむきな気もちが貴いと感じられる。お地蔵様をさする時には治療者と病者の逆転すら起きており、そこで喚起されるお地蔵様への憐れみの心こそが、この信心の最大の御利益と言えるのではないか。

 こうした場合、宗旨が違うからナンセンスとは考えることができない。むしろ、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉こそが思い出される(マタイによる福音書 8:13)。イエスはこのことを、異邦人であり支配者ローマの軍人である百人隊長に対して告げたのだ。

 「身代わり地蔵さんが、うつ病も治してくださるといいですね」

 そう言わないわけにはいかない道理である。

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 3つ前のブログで提示した架空の症例(30歳男性)のようなケースにおいて、不遇な生い立ちによって損なわれているのが外的条件にとどまらないことに注意を要する。虐待ないし放置されて育った人々の場合に最もつらいのは、「援助を提示されてもそれを受けとって活用することができない」ということだ。おとなや社会から守られたり励まされたりした体験がないために、今さら何かを提示されてもそれを信頼できず、それに期待することもできないのである。

 メラニー・クラインの『羨望と感謝』は彼女らしい晦渋な文章で消化するのにホネが折れるが、『感謝』が中心テーマに据えられていることの意義は深く了解される。感謝する能力こそ、病気の予後、それ以上に人生の予後を決定的に左右するカギなのだ。こんにゃく閻魔の縁起に現れる老婆の幸いをつくづく思う。この老婆は感謝する能力を豊かに与えられていた。身代わり地蔵の治療効果も、このことと深く関わるに違いない。

Ω


あることないこと/散らす/均霑化 ~ 最近のコトバ体験から

2017-09-22 07:56:04 | 日記

2017年9月22日(金)

 「さわり」だの「知恵熱」だの、本来は誤った日本語の用例が多数派になりつつあることが新聞・TVのネタになっていたが、これだけ報道されること自体が修正圧力になるのではないかと面白く見ている。「情けは人のためならず」は歴史的に有名な例のように記憶するが、今調査したら正答率はどのぐらいになるだろうか。チョー若い読者のために解説すれば、「情けをかければ、いずれ自分も報われる時がある」という本来の意味が、「甘やかすと相手のためにならない」という意味に誤解されているとの報告があって、ある年の話題になったのである。同情や親切に消極的な「最近の」世相を反映するものとしてずいぶん引き合いに出されたものだ。ぐるっと回って今は案外知られている、なんてこともないのだろうか。以上は前振りで。

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 「保育に欠ける」という言葉を恥ずかしながら僕はまったく知らず、M保健師が怒りをこめて教えてくれた。児童福祉法39条で使われた文言で、保育士試験のための情報サイトにこんなふうにまとめてある。

旧: 保育所は、「日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児または幼児を保育することを目的とする施設」であり、「特に必要があるときは、日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその他の児童を保育することができる」

新: 保育所は、「保育を必要とする乳児・幼児を日々保護者の下から通わせて保育を行うことを目的とする施設(利用定員が20人以上であるものに限り、幼保連携型認定こども園を除く。)であり、「特に必要があるときは、保育を必要とするその他の児童を日々保護者の下から通わせて保育することができる」

 児童福祉法が改正され2015年4月1日から新法が施行されたというのがポイントで、M保健師は旧法の下で二人のお子さんを保育所に通わせた経験から語ったのだ。「保育に欠ける」という要件をめぐり、役所と押し問答もしたらしい。気にならない人には「ん?」ぐらいの話からもしれないが、普通に読めばずいぶんな表現である。「配慮に欠ける」「思いやりに欠ける」「良識に欠ける」「保育に欠ける」・・・ん?

 どんな沿革があってこういう表現になったのか知らないが、おおかた児童福祉法制定時の社会通念を反映したものではあるのだろう。昭和22年といえば戦後の混乱期で、夥しい数の戦災孤児が存在した時代である。当時とは保育をとりまく環境も違えば、日本語のあり方も変わったが、法律の文言は据え置かれてここまで来た。法律用語はそんなものさと言ってすましていいものか、インターネット上には一部の不心得なユーザーに対する非難の文脈で、「保育に欠けるという自覚がない」といった表現も見られている。こうした投稿者はある意味で言葉を適切に使っており、言葉の威力が敵対的な構図をいっそう尖鋭にする。

 「保育を必要とする」が現行法の表現である。

***

 先日のこと、ある患者さんのことで職場の人事担当者と電話で連絡をとり、本人の了解を得てかなり詳しく情報提供した。「事情が事情なので、あることないことすっかりお伝えしました」と口走り、あれ?と思うより早く電話の向こうが笑い出した。

 「先生、そら困ります、あることあることでしょ?」

 相手はコテコテの大阪弁で、間髪入れず突っ込むのも彼の地の流儀である。僕はこれ、嫌いじゃないのね。御賢察通り、「あらいざらい」というつもりが「あることないこと」に化けたのだ。それとも無意識の錯誤で、「ないこと」も盛っちゃったのかな・・・

 ついでに、ここ一、二ヶ月のコトバ体験から。

【教唆】

 職場で回ってきた文書の末尾に、「追加の御説明などありましたら、よろしく御教唆ください」とあってギョッとした。

 教唆とは「おだててそそのかすこと」で、法律用語なら「犯罪を行おうと思うように他人に仕向けること」を意味する。(岩波国語辞典)「教唆扇動」などと使うわけだ。

 書いた人は単純に指が間違えたか、「教示」と「示唆」から何となく造語してしまったか、どちらかであろう。「指摘しないと御本人の恥になりますが」「いやいや、大人の対応でお願いします」と温厚な先輩に諭され、見なかったことにした。

【散らす】

 「書は若い頃にずいぶんやったので、80の手習いで再開してみたいのですが、教えてくださる方が近所にはなくて」

 「きちんと教わるのでなくとも、まずは御自身で楽しみに筆をおとりになってみたら?」

 「はあ、それでは少し、和歌でも散らしてみましょうかしら」

 何と雅なこと、和歌を「散らす」という言葉に目を見張った。書道で一般に使われる表現かどうか分からないが、「あたくしの先生は、こういう時には『散らす』という言葉を使っていらしたのです。決して『書く』とはおっしゃいませんでした。」

 掃き清められた石庭に、紅葉がはらはらと散って散らばる風景が目に浮かぶ。書き散らすのと散らすのと、喚起されるイメージがまるで違う不思議がある。

【均てん化】

 院生さんが報告の中でしきりに「均てん化」の語を使うので、どういう意味か、漢字はどういう字を当てるのかと訊ねると、「ネタ元は役所の文書なんですが、そこにこう書いてありましたので」と頭をかいている。ダメでしょ、自分で調べないと。

 そういう僕も知らなかったのでさっそく引いてみると・・・

 均霑化

 霑は「うるおう、うるおす」の意、従って均霑とは慈雨が万民を潤すごとく、平等に利益を得る/与えることとある。素晴らしい言葉ではないか。しかし霑を平仮名表記してしまったら、この素晴らしさは伝わらない。「キンテン化」と「均霑化」は同じではない。役所ももったいないことをするもので、少々難しい言葉でも役所が使っているとなれば、すぐ皆が意味を知るだろうに。

 漢字で書けるものは、できるだけ漢字で書くのが後生への親切というものである。韓国の苦い経験に学ばざるべからず。

Ω