散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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compassion 再発見

2017-09-27 20:46:44 | 日記

2017年9月27日(水)

 一泊研修会の事前準備、今回は準備スタッフが全員の本音を聴取し、忌憚のないところが多数出てきていた。それを包まず話し合いましょうという当日の趣旨なので、悪くすると空中分解する懸念があったが結果は逆に良い方に転んだ。確かな予測があったわけではないけれど、何とかなるだろうとさほど悩みもしなかったのには、それなりの理由があった。

 一日目の仕込み作業で諸々の基本事項を確認する中に、例によって同情~共感の一連の概念について整理しようとして、思わぬ混乱出来。皆の力を借りて混乱を抜け出すプロセスで、思いがけず多くのことを教わった。

 empathy(英語の造語)、compassion(もともとラテン語)、sympathy(もともとギリシア語)と遡る、その先にもう一つヘブル語の古層を想定することができる。いずれにせよ、古層へ遡る/降っていくにつれて身体との関わりが強くなり、新しい概念ほど身体との乖離が目立ってくるとY牧師の指摘。

 ついでに新約聖書のギリシア語で「憐れむ」にあたる言葉を見てみると、一つは「キリエ・エレイソン」のフレーズで知られる ελεεω だが、もう一つ σπλαγχνιζομαι という動詞があり、これは語源的に「腸(はらわた)」とつながっている。「煮えくりかえるような」「ちぎれるような」と日本語にもある通り断腸の慟哭とでもいったもので、鮮烈な表現であるだけに用例が少ない。これなども強い身体性を備えた言葉であり、イエスはしばしばこのような腹からの憐れみに突き動かされつつ、癒しと宣教にあたった。

 なるほどそうかと感心していたら、休憩の際にFさんが σπλαγχνιζομαι の用例について、記憶を頼りにいくつかの箇所を指摘された。準備なしに想起できるのは、日頃よほど本気で読み込んでいる証拠である。

 そのFさんから compassion の位置づけについて質問あり、訊かれて欠けに気がついた。年来 sympathy と empathy については考えるところがあったが、compassion については sympathy(希)の羅語版というぐらいでさほど注意を払っていなかった。しかし両者には微妙なニュアンスの違いがある。あるいは微妙にニュアンスを違えて使うことに意義がありそうだ。何といっても compassion は com-passion なんだから、 passion(苦難・受難)を共にするという意味をこめることができるだろう。そこで「共苦」という訳語が案出されることにもなる。

 それで思い出したが、「共感都市論」と訳される Kellhear の著書とアイデアは原語で "Compassionate Cities" であったはず。となると、共に目ざすゴールは compassion にこそあるとも言えそうである。あらためて整理すれば、

 sympathy 同情

 compassion 同情、共苦、共感(一般的な意味での)

 empathy 共感(共感的理解などと言う時の、心理学用語としての)

 こういうラインアップになるのかな。

 もう一つ、「還暦のホラ話」と自ら称してF牧師が大いに幻を語られた。これぞ研修会の醍醐味、何たって「幻なき民は滅ぶ」のだからね。この度の幻の標題は「魂のケアの共同体」というのである。ケアも共同体も英語の頭文字は c で、今回よくせき c がブームである。

 薄曇りの葉山で compassion と community を再発見し、帰ったらねぎらいのお菓子が届いていた。これはもうプロの技である。

 

 Ω


韻のことなど

2017-09-27 11:02:34 | 日記

2017年9月27日(水)

 いったん戻って、先に転記した『雑詩』のこと。脚韻が素朴でたいへん見やすい。

   人生無根蒂 飄如陌上塵

   分散逐風轉 此已非常身

   落地爲兄弟 何必骨肉親

   得歡當作樂 斗酒聚比鄰

   盛年不重來 一日難再晨

   及時當勉勵 歳月不待人

 塵・身・親・鄰・晨・人で、日本語の音読みから容易に逆推できる。絶句や律詩のようなスキップルールもなく、そのあたりが「雑詩」たる所以でもあろうか。四声についてはどうなのだろうかと気になって調べると・・・

   塵(Chén)身(Shēn)親(Qīn)鄰(Lín)晨(Chén)人(Rén

 身と親は一声、他の4つは二声のようだから、そこまで揃えずとも良いのかな。そもそも -en と -in が混じってるのはどうなのかなど、生兵法が早速躓いている。

 「韻」は日本語ではあまり注目されないところで、アメリカ時代に学齢前の簡単な知的能力チェックを受けた長男が、他のことは全て花丸なのに rhyme (押韻)だけクエスチョンを付けられた。家庭で教えたり遊んだりしないから当然のことで、長男は何を聞かれてるのか意味が分からなかったらしい。逆に英語圏の子どもたちは教える(教わる)までもなくいつの間にか rhyme のセンスを身につけている。ビートルズの歌詞だって至るところ押韻だらけだ。("And I've been working like a dog./I should be sleeping like a log." dog と log 〜 「ア・ハードデイズ・ナイト」"She asked me to stay and she told me to sit anywhere, so I looked around and I noticed there wasn't a chair." any-where と chair 〜 「ノルウェーの森」)たぶん、英語だけではないのだろう。ドイツ語などは活用語尾の煩雑な規則性のおかげで逆に脚韻が踏みやすく、ズルいなと感じたものだった。活用語尾を大胆に切り捨てた英語ゆえ、逆に押韻のセンスが磨かれたということもあるだろうか。

 日本語の場合、文学の表看板や教科書では韻についてあまり語られないが、日本語が押韻に馴染まないかというと、そんなことは断じてない。「優しい yasashii」と「悲しい kanashii」、「怒る ikaru」と「叱る shikaru」、「葉っぱ happa」と「ラッパ rappa」と「河童 kappa」、同じ要領で母音による押韻の例なら無尽蔵に作り出せる。母音が5つだけに限られるうえ、母音の出現頻度が高いから、母音の語呂合わせには絶好の言語のはずなのだ。現に詩人は大いに活用しており、サブカルチャーの担い手らも然り。この手の遊びを、子どもたちにうんとやらせたら良いのではないか。河童が葉っぱを傘にしてラッパを吹いてると思えば、それだけで鳥獣戯画の一場面ができるあがる。

 頭韻は、これもあるよ、僕も使ったと威張っておこう。

 「明け烏勝ちて帰れと子らに啼く」 〜 「カラス」「勝ちて」「子ら」、語頭K音の連続に力を込めたのである。

Ω


ここはここ

2017-09-27 09:58:01 | 日記

2017年9月26日(火)

 

 

 葉山町湘南国際村の某施設にて、CMCC夏の一泊研修会開催。宿から西向きの展望である。

 視野前方の急坂に沿って風が吹き上げ、時折これに乗ってトンビが目の高さに舞い上がってくる。晴れた日には相模湾越しに、横たう伊豆半島とその向こうの富士山が遠望できる仕掛けだが、残念ながら二日とも薄曇りで想像の目をこらすほかはない。

 研修会は場の力に支えられ、とても実りあるものになった。この件あらためて。

Ω