散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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パウロに何があった?

2016-04-25 09:18:08 | 日記

2016年4月25日(月)

 ついでに聖書をめぐってもうひとつ。

「わたしは自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしている。」(ロマ書 7:15)

 これは言うまでもなく「善」と「悪」に関することと考えられており、事実パウロ自身がそのようにリフレーズする。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(同 7:19)

 そうなのだが、そうなのだろうか?

***

 先週ある人と会う機会があり、その人の日頃の葛藤を聞かせてもらいながら、これらの句をずっと思い浮かべていた。この人の葛藤は、自らが不品行と信ずる具体的なことに関わっている。ただ、そのことは世間一般には必ずしも非難されることではなく、特に最近の風潮では人の嗜好の問題として是認される流れにあるものだ。だからこの人が自身を責めるのは世間標準に圧されてのことではなく、もっぱら自身の信念によるものなのである。僕にはこの人がある種の尊敬すべき人、もっぱら内面的な要請に従って自分を律すべく英雄的に闘う人に見えた。

 パウロは善悪について語っているが、自己の不従順を嘆くその深く真率な調子からは、どうもそれ以上のことが思われてならない。例の、彼が不遜にならないよう彼の肉体に与えられた「とげ」なるもの(σκολοψ コリントⅡ 12:7)と関係あるかどうかわからないが、何かひどく生々しく彼の肉体に食い入った何かについて、使徒は語っているのではないか。

 僕自身、思い当たる数多くのことがあり、とりわけ最近手を焼いている小さな「とげ」のことがある。パウロがただ頭でっかちの神学者でないことははっきりしている。むしろ自分の体を戦場として、熾烈な戦いを戦い続けた闘士だった。クレッチマーの類型を連想し、なぜかクレッチマー自身は「てんかん気質/闘士型」に不当に低い評価しか与えなかったことを思いだす。パウロは小柄な体格だったようだが、その魂の型はまぎれもなく闘士のそれであり、自ずと病跡学の方向も定まっていく。

 それにしても、何があったんだろう?


運動不足と深酒の害 / 信心?敬虔?それとも・・・

2016-04-25 06:06:38 | 日記

2016年4月25日(月)

 「締切過ぎ」状況のもうひとつの弊害は運動不足である。30分の散歩に出るヒマがあったら、一字でも原稿を書けという囁きが聞こえるからだが、もちろん合理的とはいえない。2~3日の突貫工事ならそれでも良いけれど、週の単位になればかえって生産性が落ちる。2~3日でやっつけてしまおうと自分にかけ声かけて籠もるのだが、合理的な判断というよりは後ろめたさの産物で、この間イライラと甘みに手を出したりする、ありがちの悪循環である。

 ただ、睡眠不足にはどうにも耐えられないことが分かっているから、この状況下で就寝起床はかえって早くなった。これだけが収穫かな。朝が気持ちよい季節でもある。震災さえなければ、九州も一年で最高の季節だろうに。体を伸ばして眠れることが、有り難く貴重なのだ。

 今日からは体を動かそう。

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 たまっているブログネタも、順不同で端から片づけよう。これはたぶん4月17日(日)あたりのものだ。キリスト教はもともと禁酒とは無縁である。ただ、深酒は厳に戒めている。

「酒は不遜、強い酒は騒ぎ/酔う者が知恵を得ることはない」(箴言20:1 新共同訳)

ついでながら、同じ箇所の別訳を見ると、

「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする/これに迷わされる者は無知である」(口語訳)

「酒は人をして嘲らせ、濃酒は人をして騒がしむ/これに迷はさるる者は無智なり」(文語訳)

いつものことだが旧約の訳にはバラツキが大きく、新訳ギリシア語とは違った旧訳ヘブル語の難しさが窺われる。

 深くない酒に関しては、新訳に下記の通り。

「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度度起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」(テモテへの手紙1 5:23)

 少しって、どのくらいかな。何しろOKなのだ、少しなら。

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 同じページの下段に、以前傍線を引いた箇所がある。

「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(同 6:6)

 大きく頷く。利得がなかったら信心なんかしない。ただしその利得というのは・・・

「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持って行くことができないからです。」(同 6:7)

 これが智恵というものだ。しきりに納得しながら、ふと「信心」と「信仰」はどう違うのだろうと考える。

「されど足ることを知りて敬虔を守る者は、大なる利益を得るなり。我らは何をも携へて世に来らず、また何をも携へて世を去ること能はざればなり。」(文語訳)

 ここでは「敬虔」、それでは原語を。

Εστιν δε πορισμος μετας η ευσεβεια μετα αθταρκειας.  οθδεν γαρ ενσηνεγκαμεν εις τον κοσμον, οτι οθδε εξενεγκειν τι δυναμεθα.

 ευσεβεια が問題の言葉で、伝統的に「敬虔 piety」もしくは「信心」と訳される。信徒であると自己紹介すると、次に紹介されるときは大概「石丸先生は敬虔なクリスチャンで」となるので、その都度、含み笑いを禁じ得ない。内心の敬虔を誰が知り得ようか、ほとんど虚辞なんですね。

 敬虔とは、かくのごとく信仰の質に関する形容詞である。僕としては信仰そのものが「利得の道」だと言いたいのだが、著者である使徒(実はパウロではない、という説が強いのかな)はそこを微妙に使い分け、信仰も敬虔といえる深さに進むにつれ、大きな利得をもたらすものになる、と言っているようだ。

 だとすると、文語訳の「敬虔」を口語訳・新共同訳で「信心」としちゃったのは、改悪ではないかしらん。そういえばフランシスコ会訳、つまりカトリックの兄弟たちはどう訳しているかなと、気になってあたってみた。

「確かに、宗教は足ることを知る人々にとっては大きな利益をもたらします。」

 これはびっくりポン、宗教かあ・・・逆方向にひねりましたね。恐れ入りました。