2016年4月25日(月)
「締切過ぎ」状況のもうひとつの弊害は運動不足である。30分の散歩に出るヒマがあったら、一字でも原稿を書けという囁きが聞こえるからだが、もちろん合理的とはいえない。2~3日の突貫工事ならそれでも良いけれど、週の単位になればかえって生産性が落ちる。2~3日でやっつけてしまおうと自分にかけ声かけて籠もるのだが、合理的な判断というよりは後ろめたさの産物で、この間イライラと甘みに手を出したりする、ありがちの悪循環である。
ただ、睡眠不足にはどうにも耐えられないことが分かっているから、この状況下で就寝起床はかえって早くなった。これだけが収穫かな。朝が気持ちよい季節でもある。震災さえなければ、九州も一年で最高の季節だろうに。体を伸ばして眠れることが、有り難く貴重なのだ。
今日からは体を動かそう。
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たまっているブログネタも、順不同で端から片づけよう。これはたぶん4月17日(日)あたりのものだ。キリスト教はもともと禁酒とは無縁である。ただ、深酒は厳に戒めている。
「酒は不遜、強い酒は騒ぎ/酔う者が知恵を得ることはない」(箴言20:1 新共同訳)
ついでながら、同じ箇所の別訳を見ると、
「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする/これに迷わされる者は無知である」(口語訳)
「酒は人をして嘲らせ、濃酒は人をして騒がしむ/これに迷はさるる者は無智なり」(文語訳)
いつものことだが旧約の訳にはバラツキが大きく、新訳ギリシア語とは違った旧訳ヘブル語の難しさが窺われる。
深くない酒に関しては、新訳に下記の通り。
「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度度起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」(テモテへの手紙1 5:23)
少しって、どのくらいかな。何しろOKなのだ、少しなら。
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同じページの下段に、以前傍線を引いた箇所がある。
「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(同 6:6)
大きく頷く。利得がなかったら信心なんかしない。ただしその利得というのは・・・
「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持って行くことができないからです。」(同 6:7)
これが智恵というものだ。しきりに納得しながら、ふと「信心」と「信仰」はどう違うのだろうと考える。
「されど足ることを知りて敬虔を守る者は、大なる利益を得るなり。我らは何をも携へて世に来らず、また何をも携へて世を去ること能はざればなり。」(文語訳)
ここでは「敬虔」、それでは原語を。
Εστιν δε πορισμος μετας η ευσεβεια μετα αθταρκειας. οθδεν γαρ ενσηνεγκαμεν εις τον κοσμον, οτι οθδε εξενεγκειν τι δυναμεθα.
ευσεβεια が問題の言葉で、伝統的に「敬虔 piety」もしくは「信心」と訳される。信徒であると自己紹介すると、次に紹介されるときは大概「石丸先生は敬虔なクリスチャンで」となるので、その都度、含み笑いを禁じ得ない。内心の敬虔を誰が知り得ようか、ほとんど虚辞なんですね。
敬虔とは、かくのごとく信仰の質に関する形容詞である。僕としては信仰そのものが「利得の道」だと言いたいのだが、著者である使徒(実はパウロではない、という説が強いのかな)はそこを微妙に使い分け、信仰も敬虔といえる深さに進むにつれ、大きな利得をもたらすものになる、と言っているようだ。
だとすると、文語訳の「敬虔」を口語訳・新共同訳で「信心」としちゃったのは、改悪ではないかしらん。そういえばフランシスコ会訳、つまりカトリックの兄弟たちはどう訳しているかなと、気になってあたってみた。
「確かに、宗教は足ることを知る人々にとっては大きな利益をもたらします。」
これはびっくりポン、宗教かあ・・・逆方向にひねりましたね。恐れ入りました。